教育史研究と邦楽作曲の生活

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『小学校教師の歩み』その2―国家統制からの自由

2008年03月04日 19時11分29秒 | 教育研究メモ
 今日は、中内・川合編『小学校教師の歩み』(日本の教師1、明治図書、1969年)の整理の続きです。

 中野光「特権の座と教育改造の先導者―師範付小と有名私学の教師たち」(第Ⅱ章)は、公立小学校教員の立場に対して「特殊なもの」とされた、師範学校附属小学校教員と有名私学教員を位置づける論文です。基本的には、どちらも教育研究に従事する小学校教員として特殊な立場に位置したと捉えられています。
 師範附小は、明治6(1873)年以来、教授法の伝習学校として創設されます。明治10(1878)年以降には小学校のモデルスクールとしての役割を期待され、明治24(1891)年以降には小学校教育方法の研究校・実験校としての役割を課せられました。このような彼らの役割は、初等普通教育の内容・方法に対する国家統制の強化される中では、いっそう特権的なものでした。このような役割を担う師範附小教員は、①師範学校生とに教授法を教える力量、②地方の教員に模範授業を見せ、指導する力量、③教授法改良のための研究の力量、を必要としました。例えば加藤常吉の「教様(おしえよう)」の研究は、教育内容や方法の国家統制が強まるにつれて、所与の教材によって教授の効率をあげ、訓育的効果を確かなものにする、という発想から行われるものでした。附小教員たちは、教育政策や社会的・政治的動向と自分の実践とを切り離し、教育研究の課題を「教壇上」に限定していく教師像を作り上げていったとされています。彼らは、明治末~大正期の児童本位の教育改造の動向にも敏感に反応し、理論・実践の研究を進めていきますが、上述のような研究内容上の限界があった上に、身分上、大正末期以降に文部省や自治体からの干渉や弾圧に対しては屈するしかありませんでした。その点、明治末~大正期に創設された私立新学校(日本済美学校・成蹊実務学校・帝国小学校・成城小学校など)の教員たちは、より「自由」に研究を進めましたが、その教育理念を具体的に支持する社会階層は限られており、デモクラシーの退潮とともに方針転換を余儀なくされました。
 神田修「視学官・視学―教師を規制した教育行政」(第Ⅲ章)は、視学官や地方視学たちの立場を、公立小学校教員の日常接触しながら「特殊なもの」として位置づける論文です。とくに、視学が地方における内務行政に取り込まれる過程で、国民と教員から切り離されていく点を問題視しています。
 視学制度は、行政監督のひとつの形式である一方で、視察や教育の監督を行うために、単なる行政官ではなく教員経験者などの教育の専門家によって運用されるべき特別な制度でもあります。ここでは、文部省の「視学官」と地方自治体の「視学官(第三課長兼務)」「視学(府県単位に設置)」「郡視学(郡に1人)」が規定された、明治32(1899)年の地方官官制の制定をもって、戦前日本の視学制度が成立したと捉えられています。これ以前の視学は、指導的・先進的な教員による一般的教員に対する啓蒙的指導を行う職でしたが、これ以降の視学は一般行政組織内の官僚として国家の教育事務の監督官へと転換しました。視学制度(とくに地方のそれ)は、明治末から大正にかけて内務行政組織の中へ組み込まれてゆくにつれて、教育内容・方法への指導助言の機能を果たせなくなり、ついには社会・労働問題に対する思想統制や体制保守のイデオロギー注入の一部を担うものへとなっていったといいます。
 海老原治喜「国家の教師から国民の教師へ」(第Ⅳ章)は、反体制的な教育実践・運動を行った教員や教員関係団体に焦点をあて、自由民権運動、明治30年代の社会主義、明治末期以降の自然・文芸主義、大正中期以降の反戦・無産主義、昭和期の戦時体制における、「天皇制国家を原点から批判しうる思想」を明らかにしようという論文です。石戸谷氏の『日本教員史研究』にも見られる明治以来の反体制的教員像を、より現代的(1969年時点)かつ反体制的な問題意識から明確化したもの、と読みました。明治以降の天皇制を専制体制と見るべきか、なぜ資本家・雇用者たちを「国民」に含まないのか、社会主義・文芸主義・無産主義の影響のみによって小学校教員は主体性を確立させたのかどうか、国際的情勢を鑑みて明治期に天皇制国家を原点から批判する思想を求めることに意味があるかどうかなど、予備知識がないために疑問の残る論文でした。

 ともかく、『小学校教師の歩み』(日本の教師1)の内容をまとめると、以上のようになるかなと思います。各論文とも内容はバラバラですが、少なくとも共通しているのは、国家の統制を強く受けていた戦前日本の小学校教員が、そこから脱却できる可能性はあったかどうかを探ろうとする問題意識だったと思います。
 同著を含む叢書「日本の教師」が編まれ始めた昭和44(1969)年は、高度経済成長のピーク期であり、学習指導要領の改訂が始まった時期にあたります(昭和43(1968)年小学校改訂告示~昭和45(1970)年高等学校改訂告示)。この時期の学習指導要領改訂は、高度な科学技術教育を推進して国家の伸張を目指し、教育内容の「現代化」を進めたものでした。また、1960年代という時期は、教員組合運動が、「教師は労働者である」(日教組「教師の倫理綱領」)という運動論理を様々な立場から批判される中、新しい運動論理を模索し、「教職の専門職性」にその論理を求めつつあった時期でもありました。これらの背景をあわせて考えると、叢書「日本の教師」は、教員組合運動の延長線上において、学校教員が国家統制から自由を得る可能性を探ろうとする共同研究であったように思います。
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