教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

『中・高教師のあゆみ』その1―中等教員の多様性の源流

2008年03月31日 18時34分13秒 | 教育研究メモ
 先日崖っぷち論文を修正中だと言っていましたが、昨日ようやく完成させ、編集委員会へ送りました。論文送付後、「今までの私」にケリをつけたように感じました。これからは「新しい私」を作っていく時期かな、と感じています。
 さて、長らくほったらかしていましたが、先行研究のまとめをしたいと思います。今回の本は、中内敏夫・川合章編『中・高教師のあゆみ』日本の教師2、明治図書、1970年。何人も執筆者がいて、1日ではまとめきれないので、何回か(たぶん2回か3回)にわけてまとめようと思います。

 中内・川合編『中・高教師のあゆみ』は、小学校(義務教育学校)教員と中等学校教員の誕生構造と行動様式の違いに注目し、小学校教員と別に中学校・高等女学校・実業学校教員を対象としたものです。同著の内容は、戦前における典型的な中等教員像と、戦後における高校教員の物語を示しているので、題目の「中・高教師」とは「中学校教師と高校教師」もしくは「中等学校教師と高校教師」のことかと思われます。同著は、中等教員史研究の少なかった1970年当時、先駆的な研究でした。明治図書版「日本の教師」シリーズ第1巻の『小学校教師の歩み』と同じく、論者ごとに問題設定や論旨などが異なるので、論者ごとに整理していこうと思います。
 稲垣友美「藩校・私塾の教師たち」(Ⅰ章)は、明治5(1872)年学制以前の藩校・郷校・私塾教師と、学制以後の中学校教員や私立学校教師を対象としたものです。明治以降の中学校が多く藩校などを前身としたこと、またはそれらの中等学校の教師や生徒が多く私塾などで学んだことから、中等教員の前史として藩校・私塾の教師たちに着目していると読みました。これらの藩校・私塾の教師像は、所属施設の目的(藩士育成・国士育成など)、内容程度(専門教育程度・寺子屋程度など)、内容領域(漢学・国学(皇学)・洋学)によってまったく異なっていました。明治に入って中学校が設置されていきますが、中等教育程度の教育機関は、公立よりむしろ私立によって設立されていきます。中等教員の前史にみられる教師像の多様性は、明治10年代ころまで、私学や私塾において保存されていきました。
 寺昌男「中等学校の整備と中等教員の養成」(Ⅱ章)は、明治後期(日清戦後~明治末年)における中等教育の法制整備・量的拡大を背景とした、中等教員養成制度の歴史を叙述するものです。明治前期までの中等教育の特徴は、小学校教育政策の「コロラリー(系)的な位置づけ」にもとづく変則の私立学校中心で行われたところにありました。これに対し、明治後期の中等教育の特徴は、上級学校への進学準備教育機関としての位置づけにもとづく正則の公立中学校中心で行われたことにあります。中学校教員養成について、教員免許状所持原則と高等師範学校を正統的機関とする方式は、明治19(1886)年の諸学校通則・尋常師範学校尋常中学校及高等女学校免許規則によって成立しましたが、その後、指定学校卒業生が無試験検定により中等教員資格を得る「指定学校方式」(明治19年~)や、許可学校で特定学科目の履修者に無試験で中等教員資格の検定を受けることのできる「許可学校方式」(明治32(1899)年~)、官立臨時教員養成所の設置による養成方式(明治35(1902)年~)が導入されていきます。その結果、明治後期の最も深刻な中等教員問題であった有資格教員の不足は徐々に改善されていきます。明治30年代を通じて50~60%程度だった有資格中学校教員は、明治40年にようやく72%に達しました。明治後期の中等教員は、実際上、様々な高等教育機関(指定学校・許可学校・臨時教員養成所設置学校ともに高等教育機関)によって養成供給され、その教師像を多様にし、独特の教養主義的な生活感覚や知識観を有していました。なお、寺論文では、そのほか、私立学校における中等教員無試験検定の許可方式の位置や、中等学校の学校紛擾問題における管理者層(漢学的教養をもつ層)・教師層(不完全な実学教育を受けた層)・生徒層(整備された実学教育を受けた層)の各文化の位置について、論じられています。
 稲垣・寺論文の論旨をまとめると、明治期中等教員の多様性の要因を、前史と養成・免許認定制度の多様性から説明しようとしたもの、と思われます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする