「大日本教育会・帝国教育会の群像」を連日更新。理由は、ノってきたので(笑)。とくに核心をついた研究ができているわけではありませんが、研究というのはこういうノっているときが一番楽しいです。なお、少し補足説明をすると、この「教育史研究と邦楽作曲の生活」は生活のためのブログですが、「群像」は研究のためのブログです。「教育史研究と~」でも研究について書きますが、これは、研究が私の生活のなかでとても重要な行為だからです。
さて、今日までの三日間で、大日本教育会結成時の幹部組織に占める「学習院系」とでもいうべき1グループの記事を書き終えました。3名とも、略伝・自伝が見あたらないので調べるのにちょっと苦労しました。例えば同じ小学校教育に携わっていても、華族の子どもを相手にするのと、一般民衆(さらに言えば上流・中流・下層の生活レベルの家庭)の子どもを相手にするのとでは訳が違うだろうなぁと容易に想像がつきます。また、教育現場である学習院・小学校と文部行政・東京府行政機関では、構成員の間で培われる教育観もそれぞれ違うだろうなぁとも思います。
幹部組織の構成は団体の問題意識や意志決定に大きな影響を与えるので、私にとっては非常に重要な研究対象です。そこで、基礎研究(考えるきっかけを作る研究)として、ちょっと当時の幹部組織を分類してみたいと思います。なお、大日本教育会結成時(明治16年9月9日時点)の幹部組織は、辻新次、中川元、大束重善、丹所啓行、武居保、日下部三之介、生駒恭人、佐野安、並河尚鑑、庵地保、西村貞、長倉雄平の12名で構成されていました。
まず出身前身団体(東京教育会・東京教育協会・東京教育学会・外部)で分類してみましょう。まず、会長には、文部省の高級官僚であり、結成直前に入会した辻を戴いています。副会長には、前身団体の東京教育学会長である中川(文部省官僚でもありますが)でした。そして、実質的な運営を行う幹事には、東京教育会系の大束・丹所・日下部・武居と、東京教育協会系の生駒・佐野・並河、東京教育学会系の庵地・西村、でした(この分類法では長倉の位置は不明です)。なお、東京教育会・東京教育協会・東京教育学会の活動の全容が知られているわけではないので、まだ幹事構成の分類をするのはちょっと無茶な分類です。
次に、所属機関で分類してもわかりやすいかもしれません。まず、辻・中川・西村を擁する文部省系は、等位順に辻(会長)→中川(副会長)→西村(幹事)に並んでいるようです。そして、残りの幹事には、丹所・武居・日下部を擁する小学校系、および佐野・並河を擁する学習院系、大束・庵地・長倉を擁する東京府学務課系、生駒(一人だけで派閥もないですが、言ってみれば学習院系に近い東京師範学校系?)が、それぞれポストを占めています。なお、小学校系・学習院系・学務課系・東京師範系の幹事9名は、文部省系の支配下に収まっているようにも見えますが、西村も同じ幹事であることにも注意しなくてはならないと思います。しかも、実際のところ、西村は一般会員として会務に協力することを求めて幹事就任を辞退しており、結局は辻が副会長、中川が幹事となっています。このように文部省系の勢力は、大日本教育会が実際に活動し始めた時には、若干権力を弱めていました。
もうこれでいいのかもしれませんが、もういくつか分類を試してみましょう。まだ群像ファイルにまとめていない人もいるのでだいぶ勇み足ですが、当時までに各人が歩んできた主な経歴で分類してみたいと思います。まず、辻・中川・西村を擁する文部省官僚系ですが、これは今までの分類と変わりません。そして、小学校教員経験者をまとめて小学校教員系という枠を作りますと、大束・丹所・武居・日下部・生駒・佐野・並河の7名という大勢力となります(細かく分類すれば、東京府小学校教員系は大束・丹所・武居・日下部、学習院系は生駒・佐野・並河)。残りは東京府学務課員系で、庵地(長倉も?)となります。
次に、最終出身校およびその関係者で見ても面白いかもしれません。まず大勢力の官立東京師範学校卒業生・関係者は、卒業生の大束・丹所・武居・生駒・佐野・並河の6名で、とくに生駒は現役の職員です。次に、大学南校卒業生・関係者は、卒業生の中川・西村、中退者の庵地、教職員の辻となります。他府県教員養成機関修了生は、日下部となります(長倉はまだ不明)。
以上、4つの分類を試してみました。それぞれがいつも同じグループとは限らないので、おそらく実態としてはこれらの仲間意識が複雑に絡み合い、時には静かに摩擦しあっていたのではないかと想像します(「派」で分類したいところですが、まだ派閥争いがあったかどうかわかりませんので「系」で分類しました)。今回の分類に挑戦してみてわかったことは、以下の3つです。
1つ目には、所属機関別の分類の上ではそれぞれの勢力が拮抗していたことです。つまり、数の上では文部省や東京教育協会派が組織を牛耳っていたとは言えないので、幹部構成で大日本教育会結成時には「大日本教育会=文部省」や「東京教育協会本位の合併(拙著「東京教育学会の研究」参照)による力関係のまま大日本教育会結成へ移行」といった結論は導けないと思われるのです。
2つ目には、小学校教員現職者または経験者が多いことです。つまり、実践に関わっている(いた)者が組織運営の大部分を担っており、大日本教育会の組織に実践的な問題意識(?)が存在した可能性が高いということです。数の上だけで考えると、文部省よりも小学校教員の抱いていた課題の方が重要だったかもしれない、などという妄想もできます。(事実を誤認する可能性もあるので、数だけで考えてはいけないとも言えますが)
3つ目には、所属機関・分野または出身・関係校の範囲が狭いところに固まっていたことです。つまり、文部行政・東京府教育行政・教員養成・小学校教育・華族初等教育の5種類、または文部行政と東京府教育関係者、および官立東京師範と大学南校の2種類というように、幹部人材は、広いとはちょっと言えない分野・経歴にから輩出されていたので、大日本教育会の目指していた「教育」や「全国」の内容に偏りがある可能性が高いということです。
気まぐれに幹部組織の構成を分類してみましたが、意外に興味深い仮説が出てきました。
さて、今日までの三日間で、大日本教育会結成時の幹部組織に占める「学習院系」とでもいうべき1グループの記事を書き終えました。3名とも、略伝・自伝が見あたらないので調べるのにちょっと苦労しました。例えば同じ小学校教育に携わっていても、華族の子どもを相手にするのと、一般民衆(さらに言えば上流・中流・下層の生活レベルの家庭)の子どもを相手にするのとでは訳が違うだろうなぁと容易に想像がつきます。また、教育現場である学習院・小学校と文部行政・東京府行政機関では、構成員の間で培われる教育観もそれぞれ違うだろうなぁとも思います。
幹部組織の構成は団体の問題意識や意志決定に大きな影響を与えるので、私にとっては非常に重要な研究対象です。そこで、基礎研究(考えるきっかけを作る研究)として、ちょっと当時の幹部組織を分類してみたいと思います。なお、大日本教育会結成時(明治16年9月9日時点)の幹部組織は、辻新次、中川元、大束重善、丹所啓行、武居保、日下部三之介、生駒恭人、佐野安、並河尚鑑、庵地保、西村貞、長倉雄平の12名で構成されていました。
まず出身前身団体(東京教育会・東京教育協会・東京教育学会・外部)で分類してみましょう。まず、会長には、文部省の高級官僚であり、結成直前に入会した辻を戴いています。副会長には、前身団体の東京教育学会長である中川(文部省官僚でもありますが)でした。そして、実質的な運営を行う幹事には、東京教育会系の大束・丹所・日下部・武居と、東京教育協会系の生駒・佐野・並河、東京教育学会系の庵地・西村、でした(この分類法では長倉の位置は不明です)。なお、東京教育会・東京教育協会・東京教育学会の活動の全容が知られているわけではないので、まだ幹事構成の分類をするのはちょっと無茶な分類です。
次に、所属機関で分類してもわかりやすいかもしれません。まず、辻・中川・西村を擁する文部省系は、等位順に辻(会長)→中川(副会長)→西村(幹事)に並んでいるようです。そして、残りの幹事には、丹所・武居・日下部を擁する小学校系、および佐野・並河を擁する学習院系、大束・庵地・長倉を擁する東京府学務課系、生駒(一人だけで派閥もないですが、言ってみれば学習院系に近い東京師範学校系?)が、それぞれポストを占めています。なお、小学校系・学習院系・学務課系・東京師範系の幹事9名は、文部省系の支配下に収まっているようにも見えますが、西村も同じ幹事であることにも注意しなくてはならないと思います。しかも、実際のところ、西村は一般会員として会務に協力することを求めて幹事就任を辞退しており、結局は辻が副会長、中川が幹事となっています。このように文部省系の勢力は、大日本教育会が実際に活動し始めた時には、若干権力を弱めていました。
もうこれでいいのかもしれませんが、もういくつか分類を試してみましょう。まだ群像ファイルにまとめていない人もいるのでだいぶ勇み足ですが、当時までに各人が歩んできた主な経歴で分類してみたいと思います。まず、辻・中川・西村を擁する文部省官僚系ですが、これは今までの分類と変わりません。そして、小学校教員経験者をまとめて小学校教員系という枠を作りますと、大束・丹所・武居・日下部・生駒・佐野・並河の7名という大勢力となります(細かく分類すれば、東京府小学校教員系は大束・丹所・武居・日下部、学習院系は生駒・佐野・並河)。残りは東京府学務課員系で、庵地(長倉も?)となります。
次に、最終出身校およびその関係者で見ても面白いかもしれません。まず大勢力の官立東京師範学校卒業生・関係者は、卒業生の大束・丹所・武居・生駒・佐野・並河の6名で、とくに生駒は現役の職員です。次に、大学南校卒業生・関係者は、卒業生の中川・西村、中退者の庵地、教職員の辻となります。他府県教員養成機関修了生は、日下部となります(長倉はまだ不明)。
以上、4つの分類を試してみました。それぞれがいつも同じグループとは限らないので、おそらく実態としてはこれらの仲間意識が複雑に絡み合い、時には静かに摩擦しあっていたのではないかと想像します(「派」で分類したいところですが、まだ派閥争いがあったかどうかわかりませんので「系」で分類しました)。今回の分類に挑戦してみてわかったことは、以下の3つです。
1つ目には、所属機関別の分類の上ではそれぞれの勢力が拮抗していたことです。つまり、数の上では文部省や東京教育協会派が組織を牛耳っていたとは言えないので、幹部構成で大日本教育会結成時には「大日本教育会=文部省」や「東京教育協会本位の合併(拙著「東京教育学会の研究」参照)による力関係のまま大日本教育会結成へ移行」といった結論は導けないと思われるのです。
2つ目には、小学校教員現職者または経験者が多いことです。つまり、実践に関わっている(いた)者が組織運営の大部分を担っており、大日本教育会の組織に実践的な問題意識(?)が存在した可能性が高いということです。数の上だけで考えると、文部省よりも小学校教員の抱いていた課題の方が重要だったかもしれない、などという妄想もできます。(事実を誤認する可能性もあるので、数だけで考えてはいけないとも言えますが)
3つ目には、所属機関・分野または出身・関係校の範囲が狭いところに固まっていたことです。つまり、文部行政・東京府教育行政・教員養成・小学校教育・華族初等教育の5種類、または文部行政と東京府教育関係者、および官立東京師範と大学南校の2種類というように、幹部人材は、広いとはちょっと言えない分野・経歴にから輩出されていたので、大日本教育会の目指していた「教育」や「全国」の内容に偏りがある可能性が高いということです。
気まぐれに幹部組織の構成を分類してみましたが、意外に興味深い仮説が出てきました。