教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

明治中期における教育学の制度化

2011年03月30日 20時36分50秒 | 日本教育学史

 現実から逃避するように、昔書いたお蔵入り研究データを「はしご」しておりました。忙しい時に掃除をしたくなるような感じです(笑)。
 かつてどんな問題意識で研究していたか、久しぶりに思い出しました。今から見ればまだまだ未熟なのですが、このままお蔵入りにしておくには惜しい未公開原稿が出てきたので、何回かに分けて公開しようと思います。
 現在、新しい記事を書く気力もないですんで、ちょうどよいかと…。

 かつて、私は日本教育史研究会の『往来』で、「日本教育学史研究には研究体制史の視点が必要だ」とぶち上げました(白石崇人「日本教育学史研究の展望―教育学研究体制史研究の推進」『日本教育史往来』No.163、日本教育史研究会、2006年8月、1~3頁)。そこまではよかったのですが、その後の諸事情により、ど直球の成果はまとめられないままに、今にいたっております(「研究論文業績一覧」の論文番号9・11・12のように関連する論文はあります。これらの論文の意義を説明するための論説だったので、致命的な問題はないつもりですが)。あれだけ言ったのに情けないこったなぁ、と長年モヤモヤしていました。
 このたび公開しようと思う文章は、『往来』の文章を書いた頃の問題意識を直接反映した形で「まとめかけた」ものです。実は最近、日本教育学史研究が、少しずつ旬なテーマになってきているような気がします(HK大のS氏など←出身講座の後輩)。今回公開しようと思っている文章は、かつてかなり力を入れてまとめかけていたので、こんな形で公開するのはもったいないなぁ、とは正直思うのですが、そう言いながら4年も立ってしまいました。放っておくといつのまにか旬が過ぎそうですし、現在の研究の流れにささやかにでも乗っかりたくて(笑)。そもそも、研究論文ほどの水準には達していないし、この問題意識で質を高めてまとめる余裕は今の私にはなく、ちゃんとしたものにしようと思うと5年~10年はかかりそうです。なにより、専門の教育会史・教員史研究を中途半端なままに、本気でとりかかるわけにはいきません。もったいないけど、お蔵入りよりは今の流れの何かの役にたつかなと思いまして。
 自己満足の難しい話がしばらく続きますが、なにとぞご海容のほどを。日本教育学史研究をやってみようかという研究者や、これから教育学を学ぼうと思っている学生に、ほんのちょっとでも参考になれば、幸甚の極み。

 今回公開の「はじめに」は、とっても「青い」文章ですね(笑)。本命は以後公開の本文ということで。なお、「教育研究活動」については、2008.7.15の記事を参照すると、私の言いたいことが少しわかるかも。


白石崇人「明治中期における教育学の制度化」、2007年1月19日稿(未公開)。

はじめに
 本稿では、明治中期における教育学の制度化状態を明らかにすることを目的とする。本稿における明治中期とは、明治15(1882)年~30(1900)年の時期を中心とし明治10年代半ばから明治30年代半ばまでの時期を指す。この時期は、明治15年の伊沢修二『教育学』出版に見られるように、日本の教育学が「学」としての自覚に目覚め、明治20年以降のヘルバルト主義教育学を受容・展開させる時期である。なお、この時期の前後には、啓蒙主義的教育学などのように、西洋の教育学の受容を始めた日本の教育学の最初期にあたる明治前期と、樋口勘治郎によるヘルバルト主義の批判や社会学的教育学などのように、教育学の内容が多様化する明治後期を想定している。
 社会制度としての教育学を形成する行為形式には、教育学説の深化・精密化を目指す教育学研究と、実際的な教育問題の解決を目指す教育研究の二種類がある。教育学は純理論的な学問ではなく実践的・実際的な学問であり、後者の教育研究を不可欠の行為とする。ただ、教育研究を行うには、理論(教育学)と実際(教育実践等)の接続関係をいかに形成するか、より具体的には、教育学者と教育実践家(学校教員、または教育行政官や教育運動家)との共同研究をいかに組織するか、という問題がある。さらにこの問題の根本には、そもそも教育学者と教育実践家は共同研究を組織できるのか、という問題がある。両者は互いに独立した歴史と自律性を有する職業であり、互いの意見に拘束される必然はない。また、現代日本において、教育学者の行う研究と教育実践家が行う研究を同列で語ることができるかと問うた時、できる、と答えられる者は少数だろう。これでは共同研究を組織したとしても、問題を表面的・形式的に解決する結果しか生み出すまい[生み出せないだろう、か?]。
 教育学者と教育実践家との間にある「壁」を取り払うことなしに、有効性ある教育研究は望めない。そして、その「壁」を形成する最大の要因は、職業としての教育学者のあり方であり、その職業的基盤としての教育学のあり方ではないか、と筆者は考える。日本における教育学者と教育実践家の間の「壁」を取り払うすべを模索するには、まずなぜ教育学者と教育実践家とは違う存在として認識されるに至るのかを明らかにしなくてはならない。そのためには、教育学者と教育実践家との関わり方に注目しながら、日本における教育学の制度化過程を明らかにする必要がある。筆者のこれまでの研究によると、実は、明治中期の大日本教育会および帝国教育会における教育研究活動では、教育学者とおぼしき者たちと教育実践家との共同研究を見出すことができる[「研究論文業績一覧」論文番号12参照]。なぜ、彼らは共同研究を組織できたのか。まず、教育学者たちは、明治中期において如何なる状況にあったのかを明らかにする必要がある。日本教育学史の先行研究は、学説・思想研究中心であった。しかし、筆者が注目するのは、教育学説・思想の発達状況ではなく、制度としての教育学・教育学者の社会的位置である。そのため本稿は、他の学問史研究の成果や教育学史の先行研究を参照しながら、明治中期において教育学はどの程度制度化されていたか明らかにする。
 以上の問題意識と課題設定により、本稿は次のように論述する。まず、明治中期における教育学の制度化過程を位置づけるため、明治中期における諸学問の制度化過程を明らかにする。次に、明治中期における教育学の内容的状況を概観するため、同時期の教育学説の到達点を明らかにする。次に、明治中期における教育学教育の状況を明らかにする。[略]

<論文構成>
Ⅰ.明治中期における学問の制度化
 1.学問の制度化
 2.科学の制度化
  (1)科学の体制化へ至る過程
  (2)明治中期における科学教育・研究の制度化
 3.人文・社会系諸学の制度化
  (1)人文・社会系諸学の制度化
  (2)明治中期における歴史学の制度化と「日本」
  (3)明治中期における社会学の組織化
Ⅱ.明治中期における教育学の制度化
 1.教育学説の発達
  [(1)自然科学的教育学(明治維新前後から明治20年代まで)]
  [(2)社会科学的教育学(明治30年代から大正・昭和前期まで)]
 2.教育学教育の整備
  [(1)師範学校における教育学教育の制度]
  [(2)師範学校における教育学教育の内容]
  [(3)帝国大学における教育学教育]
  [(4)「文検」における教育科]       [後略]

 (以上、2007年1月19日稿、[ ]は2011年3月30日附記)

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