教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

1 明治中期における学問の制度化

2011年03月31日 23時55分55秒 | 日本教育学史

 2010年度も今日でおしまい。早すぎる…

 さて、昨日から始めました未公開稿の公開の続きです。この原稿を見ていると、この原稿は、2005年度~2006年度の時期に苦しみながら積み上げた学習成果を集大成したものだなぁ、としみじみ感じています。昔からこのブログをごらんになっていた方には(どれくらいいるんでしょうね)、あぁ、こいつ、こんなんやってたな、と思われるんでしょうか。
 ちなみに、こういった学習成果が最大限に活かされたのが、「研究論文業績一覧」の9番と11番の論文です。こういう学習・研究をしていたからこそ、科学史学会の『科学史研究』に論文を掲載できたんだと思います(11番の論文のこと)。なお、『科学史研究』の存在は、高等工業学校の研究をされていたすぐ上の先輩からうかがって知りました。

 なお、本文を何かで利用される時は以下のように書かれるのがよいのではないかと。↓

引用・参考文献の表記(例):
 白石崇人「1 明治中期における学問の制度化」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2011.3.31(2007.1.19稿)。
または、
 白石崇人「明治中期における教育学の制度化」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2011.3.30~4.8(2007.1.19稿)。


白石崇人「明治中期における教育学の制度化」(未公開稿)より

Ⅰ.明治中期における学問の制度化

1.学問の制度化

 社会的現象として学問の歴史を研究した者に、中山茂がいる。中山は、学問を「その文字を誌す者と読む者との間のコミュニケーション(伝達)の場においてはじめて成り立つもの」および「伝達できる知識」とし、学問の歴史を「先行者の仕事に魅せられた後続者が、先行者の仕事を選択し、拒否し、また発展させる不断の行為の連続」と捉えようとした。中山は、唯物史観科学史のように学問と一般社会とを直接対応させることを批判し、学問と一般社会との間には、両者を仲介する形で「制度」(または「研究体制」「体制」)が存在することを指摘した。科学の制度scientific institutionsの研究は、中山の師であるクーン(T.S.Kuhn)において、科学を一般社会に位置づける外的科学史External historyの一領域に過ぎなかった。しかし、中山茂は、学問を社会の中で認識することを目指して、学問の制度を学問史(科学史)の重要領域に引き上げた。中山によれば、通常の場合の学問史は、パラダイム発生→支持集団形成→経典化(教科書化)→講壇化(専門的職業集団の再生産)の順に進むとされている。
 学問の制度(研究体制)には、例えば研究者集団・大学・学会・研究所・教科書などがあり、学説・思想の形式を再生産して学問の発達を促進・抑制する機能がある。制度化institutionalizationとは、一般的に、ある社会における相互作用の場面で、互いの行動様式が確立する過程であるが、「学問の制度化」という場合、異なる文脈において様々な意味で用いられてきた。関連する先行研究を整理した橋本鉱市は、「学問の制度化」を「ある知的領域-科学(学問)分野が、役割の明確化と専門職業化を経た科学者集団(教授)によって一定の機関(大学・研究所)において持続的に教育・研究され、それを通してその知識体系を習得した人材が普段[不断]に再生産される制度が確立するプロセス」としている。
 橋本は、帝国大学における各学部の分析をするためこのように定義したが、本稿では、帝国大学や研究所に限らない制度化過程を分析するため、領域を科学に、機関を大学・研究所に限ることは避けたい。それは、第一に、本稿では、「科学」のような学問だけでなく、「学」としての枠組みを未だ持たないものも対象としたいからである。教育学は、西欧諸国では未だに「学」として認められない傾向があるのである。また第二に、本稿が対象とする明治中期においては、諸学問はいまだ制度化の過程にあり、とくに専門的学者・大学・研究所といった諸制度は確立していないからである。ただ、制度化が展開される[する?]一定の主体と空間は不可欠である。したがって、本稿で用いる「学問の制度化」の意味は、橋本の定義を若干修正し、「ある知的領域(学問)が、役割の明確化と専門職業化を達成しつつある集団によって、一定の機関において持続的に教育・研究される制度が確立するプロセス」とする。

2.科学の制度化

(1)科学の体制化へ至る過程
 本節では、明治中期における科学の制度化過程を考察する。ここではまず、日本における科学の制度化過程を考察する視点を設定する。なお、本稿で単に「科学」というときは、自然科学を指すものとする。
 廣重徹は、日本における科学の制度化過程を明らかにする意味を次のように述べた。明治日本において系統的に移植された科学は、西欧において17世紀頃から質的に変貌しつつあった科学であり、教科書化され制度化された科学であった。この時期は世界的に科学の制度化が進む時期であり、日本における科学教育・研究・利用のための制度の移植は、世界的な科学の制度化過程そのものの一部である。しかも、日本における「科学の体制化」の歴史、すなわち「国家・産業・科学の三位一体」の形をとる科学の体制的構造の形成過程は、第一次大戦で芽生え、第二次大戦で決定的になり、世界的な動向と並行して行われた。そのため、日本における科学の制度化は、「欧米には進んだ科学があり、日本がそれをどこまで消化し、世界的水準に近づいたか」という観点から史実の選択と評価を行う「追いつき史観」では捉えられない。その際に必要な視点は、西欧科学の文脈における科学的概念や発見が日本・アジアにも見出せるかどうかという西欧中心的視点ではなく、日本における科学の構造や既存の社会と文化のなかでの位置づけと意味を問う視点である。また、非西欧国の日本における科学の制度化を研究することは、西欧における科学の制度化に対する異質性を明らかにし、近代科学の特質・限界を示唆することができる。その意味で、日本における科学の制度化過程の研究は、科学を発達させるだけではなく、科学・技術を制御し、その本来的な制約を克服していく現代的課題に応える研究であるとした。
 日本における科学の制度化過程は、西欧におけるそれと並行して行われ、第一次大戦以後の国家・産業・科学の癒着[三位一体化]による科学の体制化に結実するとされている。

[中略 ※後日upします]

 以上、制度化の視点からの先行研究を有する自然科学・社会科学(法学・政治学・経済学)・歴史学・社会学を事例として、それぞれの制度化過程を検討し、明治中期における学問の制度化の特徴を明らかにした。その結果に従い、明治中期における学問の制度化の特徴を整理すると、大きく次の3つの特徴を指摘できる。第1に、明治前期から引き続く国内における教育制度の整備が、帝国大学を中心に一応確立したことである。第2に、専門教育を受けた学者が、同様の関心を持つ人々と協力して、学協会を組織化し始めたことである。第3に、学協会の成立・発展過程に関連して、西欧の学説を直接移植するだけに止まらず、自国の実際的な諸問題に対して自覚的立場に立つ学説が現れてきたことである。

 (以上、2007年1月19日稿。[ ]は2011年3月31日附記)

<参考文献>
①中山茂『歴史としての学問』中央公論社、1974年。
②T・クーン(我孫子誠也・佐野正博訳)『科学革命における本質的緊張』みすず書房、1998年(Thomas S. Kuhn, The Essential Tension; Selected Studies in Scientific Tradition and Change, The University of Chicago Press, Chicago and London, 1977)。
③橋本鉱市「わが国における学問の制度化過程-医学部教授集団のプロソポグラフィー」大学史研究会編『大学史研究』第11号、1995年。
④廣重徹『科学の社会史-近代日本の科学体制』中央公論社、1973年(岩波現代文庫、上下巻、岩波書店、2002年)。

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