教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

明治期大日本教育会の教員講習事業の拡充

2014年08月11日 23時39分10秒 | 教育会史研究

 お盆前に少しでも研究進めておきたいので、がんばってます。お盆前にゼミ生指導について気にかかることがありましたが、お盆明けないとどうにもならないのでいったん置いておきます。

 さて、このブログも放置気味なので、何か(あまり時間をかけないで書ける)話題はないかなと思案しておりましたところ、1年半くらい拙稿紹介をしていないことに気づきました。まあ、テキスト出版と学位論文執筆に追われていてそれどころではなかったのですが。PDF公開のない論文も多いので、論文構成を示すのも意味があるかなと思いまして、ちゃちゃっと紹介します。

 昨年度はほとんど論文を活字化できませんでした。唯一活字化したのは、中国四国教育学会編『教育学研究紀要』(CD-ROM版)第59巻(2013年、533~538頁)に掲載された「明治期大日本教育会の教員講習事業の拡充―年間を通した学力向上機会の提供」です。論文構成は以下の通り。

 はじめに
1.「講義」から「学術講習会」へ
2.明治27~29年の夏期講習会の実態
 (1)夏期講習会の定着
 (2)夏期講習会後の自主学習の手引き
3.学校教員対象の各種講義の開講
 おわりに

 本論文の目的は、明治期大日本教育会の教員講習の拡充過程を検討して、小学校教員に学力向上の機会がいかに提供されたかを明らかにすることです。私の論文を読んだことがある人はおなじみですが、明治29(1896)年に大日本教育会が帝国教育会に改組されました。その改組の際、「学術講義会」という事業が主要事業化されています(主要事業化された新事業はほかにもありますが)。これは、明治24(1891)年から毎年8月に開いていた夏期講習会を含む事業なのですが、なぜ「講習」でなく「講義」と名付けたか、従来だれも調べたことはありませんでした。また、大日本教育会における「講習」という言葉に注目してみると、なかなか興味深い意味があったことがわかったのですが、これも誰も調べたことのないことでした。そのあたりを明らかにした論文です。
 明治27(1894)年に始まった大日本教育会の学術講義は、社会教育的事業というより、明らかに教員講習事業でした。これが年間を通して開講されました。これにより、それまで8月限定だった教員講習が、年間を通して開かれるようになったわけです。また、夏期講習会と合わせてその講義内容を見ると、さまざまな学問分野を専門的に取り上げています。また、課外講義にも気になる事実を発見しました。明治20年代の教員講習に関する先行研究では、ヘルバルト主義教授法の普及に関する意味が強調されてきましたが、どうもそれだけではない事実が明らかになりました。
 本論文は、中央教育会研究として重要な論文になりましたが、教員講習そのものが、日本教員史研究(というより日本教員養成史研究か)のなかで最近注目されてきた新しい研究対象ですので、そういう意味でも大事だと思っています。
 なお、この論文ではきちんと言及できませんでしたが、帝国教育会では「夏期講習会」を主要事業化したのは明治40(1907)年のことです。この意味については、できれば今度の学会で発表しようと思っています(すでにまとめ済み)。明らかにできたのは、字義的な意味変容ではなく、事業展開上の事情と講習対象者としての小学校教員の位置づけの変化とですが。

 本論文は、今では学位論文の一部になっていますが、そこそこ手を入れましたので同じ文章ではありません。

コメント
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