教育史研究と邦楽作曲の生活

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「教育情報回路」概念の検討(7)―情報回路の確立(1890年代半ば~1900年代)

2015年02月20日 23時55分55秒 | 教育会史研究

 さて、教育会史試論の続き。1890年代半ばから1900年代の話です。最近の私は、この時期の教育会を中心にずっと研究していました。今はとくに1900年代に注目しています。
 下記について出典を示す場合は以下のように表記してください。
  ↓
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日。
または
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日(「教育史研究と邦楽作曲の生活」http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2015年2月13~23日)。


 3.「教育情報回路」概念による教育会史試論

(3)組織改革による教育情報回路の確立 (1890年代半ば~1900年代)
 教育会とくに道府県教育会は、明治26(1893)年10月の文部省訓令第11号を受けて、組織的に大きく動揺した。また、明治20年代半ば以降、市町村学事会や郡小学校長会に教員たちが積極的に動員され、郡市教育会も活動不振に陥っていく35)。明治33(1900)年前後には、激変する時代に対応しようとしない旧世代の先輩教員たちに対して、師範卒の青年教員たちが激変する時代に対応して自己改良する教師像を掲げて、郡教育会の改革を要求するような地域もあった36)。このような組織的動揺からの脱却を目指し、道府県教育会は、道府県内の教育情報を調達・集積・循環させて教育輿論形成へ活用するために、よりきめ細やかで充実した情報回路を構築するような抜本的な組織改革に取り組んでいく。明治30年代から40年代にかけて、道府県教育会は、有志個人会員の集合体から郡市教育会の連合体へと組織を転換させ、かつ公設会議が担っていた教育諮問機能を吸収統合し37)、地域における地位を確立していく。教育会の法人化もこの頃から始まっており38)、財産の蓄積や責任体制の明確化などによって、教育会の組織運営や社会的位置が次第に安定してきたように思われる。
 この時期には、全国連合教育会や道府県連合教育会が定期的に開催された。これらの連合会議は、全国規模・地方規模での教育情報回路の充実を図る一つの指標として重要であろう。文部省は、全国連合教育会へ諮問することで、文部行政のいだく問題へ教員を方向づけるとともに、施策立案のための参考資料として教員から個別具体的方策を収集した39)。それは、教育会を文部政策決定過程へ参加させることにより、中央教育行政体制における小学校教育に関する諮問機関の欠如を補完することでもあった40)。また、教育会は、帝国議会・地方議会・行政当局へ、しばしば会内部や連合で形成した教育輿論を建議として提出し、圧力団体・利益団体的役割を演ずることも多くなった。つまり、教育会の情報回路は、行政や議会の教育政策過程へ接続するようになり、とくに文部省や地方教育行政当局とは互恵関係を形成しながら接続するようになっていく。
 また、明治20年代以降、道府県教育会は、会議開催による断続的な関係だけでなく、他府県教育会との雑誌交換・寄贈関係をも徐々に構築し、全国各地の教育会が継続的に情報を発信・受信し合う複雑な情報回路を形成していた41)。この頃、教育会は、台湾など植民地にも統治機関主導で結成され42)、情報回路に加わっていったと思われる。
 明治20年代半ば以降、教育会は、事業の多様化を進めている。この時期の事業の多様化についての研究はまだ十分とは思われないが、次にいくつか挙げておこう。
 第1には、教員養成(講習)事業が恒常化した。これは、教員免許検定制度の整備(とくに明治24(1891)年制定の小学校教員検定等ニ関スル規則)の影響が大きいと思われる。教育会の教員養成事業に関する研究は、師範学校の教員養成に対して「もう一つ」の教員養成と呼ばれ、近年の教員養成史研究の傾向をも受けて関心が高まっている43)。地方教育会の事業は小学校教員養成事業であったが、大日本教育会・帝国教育会の教員養成事業は中等教員養成をも視野に入れている。とくに、明治33(1900)年の中等教員講習所開設以降は、明らかに中等教員養成に取り組むようになった44)。教育会において、教員養成へ恒常的に人材と情報とを活用する回路が、この時期以降に確立していったといえる。
 第2に、教育に関する共同研究・調査活動が活発化した。地方教育会では、教材開発にかかわる多くの共同研究が組織された。時事的問題に対応するために会員から自主的に組織されたものもあったが、教育行政の諮問に対して答申するために共同研究を組織することも多かった。研究と運動との関係にも変化が現れた。明治23(1890)年以降、国家教育社の結成によって中央教育会の研究・運動機能が分化したが、明治29(1896)年には帝国教育会の結成により再統合された45)。そして、明治30年代以降、帝国教育会では、研究調査活動が中央の各種教育運動(学制改革運動・国字改良運動など)と連結して展開し、そこで検討された案件を全国連合教育会や全国小学校教員会議へ提案するようになった46)。教育会は、共同研究調査を組織することによって、人材と情報とを集積・操作し、新たな輿論とそれにもとづく教育会の立場を形成して、独自に教育運動へ参加するようになったともいえる。この時期、教育会の情報回路は、研究調査活動を通して、教育政策過程や外部の教育運動と連結して機能した。
 第3に、社会(通俗)教育事業が本格化した。教育会の社会教育事業は、社会教育史研究としてしばしば取り上げられてきたが、教育会史研究として取り上げられることはまだ少ない。図書館(書籍館)の設置運営や、各種展覧会・博覧会の開催、学術・通俗講演会などは、教育情報回路に関する重要な論点となるだろう。例えば、この時期の社会教育事業が、私立教育会結成以来行われてきた集会等の地域住民への啓蒙活動といかにつながり、いかに異なるのか。まだまだ明らかにすべきことは残されているが、地域住民との接続ルートとしての社会教育事業が、教育会の情報回路において、従来以上に存在感を持つようになったことは確かであろう。
 第4に、移民養成事業の開始である47)。移民養成事業が、全国的に類似の事例はあるのか、一部の地域の特殊事例なのかも明らかになっていない。たとえば、後の教育会が満蒙開拓へ積極的に関与したことと、この時期の教育会が移民養成事業をしていたこととの関係など、まだまだ検討の余地があるように思われる。
 その他、災害復旧の援助や教育倶楽部など、この時期に開始・本格化した事業は他にもある。この時期の教育会史研究は、まだ研究途上と思われる。

35)清水禎文「明治期群馬県における教育会の展開」梶山編『近代日本教育会史研究』、107~141頁。
36)白石崇人「明治30年代初頭の鳥取県倉吉における教員集団の組織化過程―地方小学校教員集団の質的変容に関する一実態」中国四国教育学会編『教育学研究ジャーナル』第9号、2011年、31~40頁。
37)山谷幸司「明治期石川県における教育会の組織化過程」梶山雅史編『続・近代日本教育会史研究』、61~107頁。
38)教育会の法人化については、まだ研究が十分ではないが、大迫章史「地方教育会の法人化について」(教育情報回路研究会第7回全体研究会、2008年5月18日資料)がある。
39)千田栄美「一九〇九年文部省の全国連合教育会諮問―日露戦後天皇制教育の一断面」梶山編『近代日本教育会史研究』、327~375頁。
40)白石崇人「大日本教育会よび帝国教育会に対する文部省諮問」梶山編『近代日本教育会史研究』、303~326頁。
41)白石崇人「明治期における道府県教育会雑誌の交換・寄贈―教育会共同体の実態に関する一考察」『広島の教育史学』第3号、広島大学教育学部日本東洋教育史研究室、2012年、27~47頁。
42)陳虹彣「日本植民地統治下の台湾教育会に関する歴史的研究」梶山編『近代日本教育会史研究』、377~405頁。
43)笠間賢二「宮城県教育会の教員養成事業」梶山編『近代日本教育会史研究』、143~166頁。大迫章史「広島県私立教育会による教員養成事業」梶山編『近代日本教育会史研究』、167~195頁。笠間賢二「近代日本における「もう一つ」の教員養成―地方教育会による教員養成講習会の研究」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、251~281頁。関連して釜田史『秋田県小学校教員養成史研究序説―小学校教員検定試験制度を中心に』学文社、2012年。これらの流れの出発点には、梶山雅史「京都府教育会の教員養成事業」(本山幸彦編『京都府会と教育政策』日本図書センター、1990年、437~498頁。
44)白石崇人「明治30年代帝国教育会の中等教員養成事業―中等教員講習所に焦点をあてて」教育史学会第56回大会コロキウム、2012年9月23日資料。
45)山本和行「国家教育社の活動とその変遷―一八九〇年代における中央教育団体の結成と挫折」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、133~167頁。
46)白石崇人「明治三十年代前半の帝国教育会における研究活動の展開―学制調査部と国字改良部に注目して」中国四国教育学会編『教育学研究紀要』第50巻、2004年、42~47頁。白石崇人「明治32年・帝国教育会学制調査部の「国民学校」案―明治30年代における初等教育重視の学制改革案の原型」中国四国教育学会編『教育学研究紀要』(CD-ROM版)第53巻、2007年、46~51頁。国字改良運動と帝国教育会との関係については、山本正秀や長志珠絵の研究が詳しい。
47)大迫章史「広島県私立教育会による移民補習教育」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、169~195頁。

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