教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

「親学」について、など4主題。

2007年05月04日 20時19分34秒 | 教育研究メモ
 今日は、速読トレをしてから『教育学研究』の読書。今日は山口美和「『<親>になる』ことへの物語論的アプローチ―NICU入院児の親の語りを手がかりに」(日本教育学会編『教育学研究』第74巻第1号、2007年、28~39頁)を読む。NICU(新生児集中治療室)への入院経験のある児の両親に対するインタビューを資料として、「<親>になる」とはどういうことか、という問題を論じた論文です。ここでの鉤括弧付きの<親>とは、子を産むことによって自動的になる「生物学的な親」ではなく、なんらかの関係性(<子>との直接的対面関係、家族・社会等における役割関係など、「第三の局面」はうまく説明できません…)を基軸として成立する「社会的存在としての親」のことを言います。従来の親子関係の研究は、親子間に愛着関係が成立することを自明とし、子へ愛着を持てない親を問題視し、愛着形成の失敗の原因を探ることを中心的な問題としてきたといいます。しかし、これでは、親が出産や育児開始にあたって、とまどい苦しみながら<親>になっていく過程を捉えることは難しい。山口氏はこの点を問題とし、研究を進めました。
 正直に言うと、私にはこの論文の本論部分の内容はよくわかりませんでした。ですが、NICUへ入院しなくてはならないような子をもつ親が、子に愛着を持つことは自明ではない、ということは伝わりました。それも一般論ではなく、事実によって実証されているというところに、私はこの論文の意味を見ました。子に重大な問題がなくとも、子に愛着を持てない親が社会問題となる中、親子関係に愛着を前提にする考え方を自明視しないことは、問題解決のために重要なことだと思います。
 最近、「親学」が必要だ、という政治的な言説がありますが、こういう問題を踏まえて発せられた言説でしょうか。私は、このまま行けば、「親学」は一方的な道徳論の単なる押しつけになりそうな気がしてなりません。少なくとも、<親>になる過程で生じる親のとまどいや苦しみを前提として構成しなくては、有効なものにはならないでしょう。

 なにやら昨日から大学内から外部のページにつながらない。昨晩、他講座の人が訪ねてきて「ネットが外部に繋がらないのですが、何か連絡ありました?」と聞いてきました。私はとくに連絡を受けていなかったので、わからないと答えました。明日になったら直ってるだろうと思っていたので、特に気にも留めませんでした。しかし、今日もつながらない。学内のページにはつながるのに… こりゃおかしいなぁと思い、とりあえず注意して調べてみると、この5月からネットワーク設定をいじらなくてはいけなかったらしいのです。説明には「家庭等でネットワークに接続する場合…」と書いてあったので、学内の端末は関係ないや、と早とちりしていました。指示に従ってちょっと設定を変えると、すぐに外部につながるようになりましたよ。気づかなかった私がいけないのか、早とちりするような表現で説明する管理側がいけないのか。
 まあいいや。
 速読トレ→『教育学研究』読書を終えた後、昨日に続いて「教育原理」の研究。私が想起する「教育原理」とは、戦後の教育職員免許法施行規則に規定された教職科目のこと。なので、教育職員免許法の制定過程を、先行研究などを読んで勉強しておりました。法令の羅列でなければ、戦後の教育史も面白いですね~
 その後、「今、教育会とは何か」というテーマで、都道府県レベルの教育会のHPを調査。団体名称、戦前の教育会との関係、目的、事業、組織形態をチェックして表にまとめました。調べて思ったのは、「案外、戦後の教育会も活発に活動しているなぁ」という感想と、「都道府県レベルの教育会は単なる上部組織であり、実質的な活動をしているのは郡市町村レベルの教育会である都道府県もありそうだ」ということ。まぁ、「今、教育会とは何か」というテーマに沿って言えば、あまりにも多様すぎて説明困難であることもわかりました(苦笑)。なお、本調査には、大学院生タカキさんのブログ・鵜の目「タカの目」の、2006.11.26の記事を活用させてもらいました。便利でした。ありがとうございましたm(_ _)m
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 政策形成過程における意図の変化 | トップ | 月曜からがんばりましょう »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

教育研究メモ」カテゴリの最新記事