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今日も調子悪し。雪は、一番手前に見える壁の上のやつがきれいに無くなっているくらいで、日の当たる道路は解けているものの、全体的にまだ残っている感じ。昨日の写真と見比べてもらえば、もっと面白いかと。車に5cmぐらい積もっていて、払いのけるのに一苦労でした。でも、雪が降った後は空気もきれいになった感じがして、少しうれしいです。
今日は、稲垣忠彦『増補版 明治教授理論史研究』(評論社、1995年(初版1966年)の第二章「教授実践をめぐる制度的規制および条件」を読みました。本章は、明治十年代前半の教授実践と不可分の関連をもつ、教授内容・学級学校の実態・教師像の分析を目的にしたものです。第一節「『小学校教則綱領』の分析」、第二節「学級・学校の実態」、第三節「教師に関する政策」で構成されています。
第一節では、明治5年学制以後の教則(教科・教育内容)の性格とそれによる教授実践に対する規制の変化の概略と、明治14年「小学校教則綱領」の成立背景と内容の性格を明らかにしてます。小学校教則綱領は、教科において「道徳」(修身と歴史)と「実用」(3R's)という二軸的構造を有し、とくに「実用」軸の教科では「開発主義」の目的や方法的考慮をみとめることができるとしています。第二節では、明治十年代前半における一学校あたりの学級数等の実態と東京師範学校等における教授法研究とのギャップと、合級教授法研究の要請とを因果付けています。第三節では、明治14年「小学校教員心得」における体制の求めた教師像の性格と、明治16年以降の教師再教育の体制化を指摘しています。小学校教員心得は、知育・体育に対する徳育の重視が特徴的に見られ、その延長として教師の品行が重視されたことが指摘されました。ともかく、第一章で認められた政府における政府側の教授実践への認識の転換が、制度上にも認められることを明らかにし、第三章で東京師範学校における開発主義教授法研究と政府における教授実践の定型化の連続性へとつなげた章といえるでしょう。この章を読んで、明治14年前後、教育政策上において、教員は教授実践の担い手(その代わり規制をはめられたが)であると確定したと理解しました。
一番興味を持ったのは、明治16年8月の教員講習所に関する文部省達の指摘です。本文中ではあまり考察されてはいないのですが、なにしろこの月に、文部省幹部の辻新次を加えて、東京教育学会内部で大日本教育会結成の会議が開かれていたのです。大日本教育会は教育関係者(教員を含む)の団結を企図し、文部省古参の官僚・辻新次がリーダーとなって結成されました。今のところ、確実に関連性を実証できそうな材料は持ち合わせていない(たぶん見つけるのは難しい)のですが、文部省の教員政策と大日本教育会結成、関連ありそうであまり関連づけられていないんですよね。私の博士論文で考えている構想にも重要な示唆を与える仮説なので、今後とも考えていきたいなと思います。
今日は、稲垣忠彦『増補版 明治教授理論史研究』(評論社、1995年(初版1966年)の第二章「教授実践をめぐる制度的規制および条件」を読みました。本章は、明治十年代前半の教授実践と不可分の関連をもつ、教授内容・学級学校の実態・教師像の分析を目的にしたものです。第一節「『小学校教則綱領』の分析」、第二節「学級・学校の実態」、第三節「教師に関する政策」で構成されています。
第一節では、明治5年学制以後の教則(教科・教育内容)の性格とそれによる教授実践に対する規制の変化の概略と、明治14年「小学校教則綱領」の成立背景と内容の性格を明らかにしてます。小学校教則綱領は、教科において「道徳」(修身と歴史)と「実用」(3R's)という二軸的構造を有し、とくに「実用」軸の教科では「開発主義」の目的や方法的考慮をみとめることができるとしています。第二節では、明治十年代前半における一学校あたりの学級数等の実態と東京師範学校等における教授法研究とのギャップと、合級教授法研究の要請とを因果付けています。第三節では、明治14年「小学校教員心得」における体制の求めた教師像の性格と、明治16年以降の教師再教育の体制化を指摘しています。小学校教員心得は、知育・体育に対する徳育の重視が特徴的に見られ、その延長として教師の品行が重視されたことが指摘されました。ともかく、第一章で認められた政府における政府側の教授実践への認識の転換が、制度上にも認められることを明らかにし、第三章で東京師範学校における開発主義教授法研究と政府における教授実践の定型化の連続性へとつなげた章といえるでしょう。この章を読んで、明治14年前後、教育政策上において、教員は教授実践の担い手(その代わり規制をはめられたが)であると確定したと理解しました。
一番興味を持ったのは、明治16年8月の教員講習所に関する文部省達の指摘です。本文中ではあまり考察されてはいないのですが、なにしろこの月に、文部省幹部の辻新次を加えて、東京教育学会内部で大日本教育会結成の会議が開かれていたのです。大日本教育会は教育関係者(教員を含む)の団結を企図し、文部省古参の官僚・辻新次がリーダーとなって結成されました。今のところ、確実に関連性を実証できそうな材料は持ち合わせていない(たぶん見つけるのは難しい)のですが、文部省の教員政策と大日本教育会結成、関連ありそうであまり関連づけられていないんですよね。私の博士論文で考えている構想にも重要な示唆を与える仮説なので、今後とも考えていきたいなと思います。
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