教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

授業がうまくなるために欠かせないこと

2010年12月25日 23時55分55秒 | 教育者・保育者のための名言

 沢柳政太郎(詳しくはこちらを参照のこと)の文章を読むと、いつも共感する。私が経験的に思っていることを述べているから。時代背景が違うのはわかっているが、100年も前にこんな風にわかりやすく論じてくれていたと思うと、感心せざるを得ない。

 沢柳政太郎『教師及校長論』(明治41(1908)年刊)の第1章第9節「師弟の関係」には、以下のような一節がある。

 近来師弟の関係が紊れたと教師の人物徳行を非難するものが多いが、余は師弟の関係をよくする方法として教授法の改良を以て最も大切なりと信ずるものである。
 教授がへたであるために生徒が興味を感じない、授業がよくないために生徒の理解が十分でない、従て又苦むことがある。さる場合には教師の人格が高くとも生徒は教師を以て自身等を苦むるものである、面白くないことを強ふるものであると考へる。そうしてその考は尤のことである。この感が一たび起ったならば生徒の教師を尊敬することを求めてもそれは出来ない話である。これに反して教師は自身等の知識を開発して呉れる人である、誠に授業は面白い[、]教師のおかげで能く明瞭に理解することが出来ると感じたときにはどうであらう。生徒は自然に教師を尊敬し、これに心服し師恩の高きを感ずるに至るであらう。これ全く授業の巧みなるより来る結果である。授業の巧拙は師弟の関係に大影響を及ぼすものである。
 (引用部分の初出は、沢柳政太郎『教師論』(明治38(1905)年刊))

 もっと授業がうまくなりたい。教育を受ける者たちが学びを楽しいと感じられるように。

 そのためには、様々な教授技術を覚えればよいのか。機械を駆使して、演出を凝ればよいのか。よい教科書を使えばよいのか。よい授業案を参照すればよいのか。もちろん、それらも有効だろう。それらも授業をうまくする手がかりになる。
 しかし、それらは授業を構成する「部品」である。必要なのはそれだけではない。必要なのは、教材をより広くより深く研究し、被教育者一人ひとりとじっくりつきあいながら理解を深め、目標と展開を練りに練り、授業後に計画と実践とを丁寧に検討して、確実に改善につなげていくこと。授業をする、ということは、授業時間数十分を過ごすだけではない。前後の準備と省察が必要なのだ。そのための時間が必要なのだ。

 今の教育現場では、授業時間数十分は確保されている。しかし、その前後は確保されているだろうか。
 よい教育を、という言葉は、授業前後の時間を確保してから発せられるべきである。教師を本気でしたことのない人にはわからないかもしれないし、部外者から見れば無駄な時間に見えるかもしれない。しかし、前後に準備と省察の時間が確保されなければ、よい教育などやりようがないのである。この技術を、この授業案を渡せば、すぐに面白い授業ができる、というのは幻想である。授業がうまくなるための特効薬など存在しない。
 教師には、一回の授業につき、せめて授業時間と同程度の時間を与えてほしい。また、教師自身も、自らの仕事をよりよくし、教育を受ける者たちをより高めていくために、授業前後の時間を確保し、しっかり使っていくよう努めなければならない。

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