今日は松山→東広島。
11:15の呉広島行きフェリーに乗って呉へ。松山から東広島に帰るには、松山観光港→呉港→JR呉駅→JR海田市駅→JR西条駅が最短。
呉港下船後、港の隣にある大和ミュージアム(正式名称は、「呉市海事歴史科学館」)へ。展示物の数、質、見せ方いずれもすばらしい。機械技術の戦前から戦後への継承、というテーマも一貫して良い。2時間以上館内にいましたが、それでも全部見切れませんでした。同館でとくに思うところがあったのが、以下の3点。
第1は、旧帝国海軍の技術力でした。館内に展示されていたのは、大和や回天などのできあがった全体としての兵器だけではなく、その全体を構築している部品もたくさん展示されていました。その精密さは、素人目でもすごいということぐらいはわかります。今まで小さな模型や本でしか知らなかった兵器が、これだけの技術力を駆使して作り上げられていたのだ、ということを知り、感動しました。これらの技術は、戦後、さまざまな機械技術に平和利用されていくのです。
第2は、戦争の狭間に見える人間らしさでした。第二次大戦は組織戦ですから、兵士は人間らしさを捨てなくてはいけません。ですが、実際の兵士は死に直面したとき、極めて凝縮された人間らしさを発揮します。回天特別攻撃隊少尉の塚本太郎氏が出撃前に自分のハンカチに遺した遺言を見て、深く感じました。すなわち、「悠策 兄貴ガツイテヰルゾ 頑張レ 親孝行ヲタノム」。私にも弟想いの兄がいてくれています。他の人の遺言に比べ非常に短いものですが、自分と自分の兄に重なり、涙がとまりませんでした。
第3は、完全に私事ですが、肝付兼行(きもつき かねゆき)という海軍軍人の功績と写真が展示されていたことです。肝付さんは、私の研究対象である大日本教育会・帝国教育会の幹部として、熱心に教育会の活動(すなわち「我邦教育ノ普及改良及ビ上進」)に参加していた人です。海軍軍人であることは知っていましたが、海軍軍人として何をした人かは知りませんでした。展示によると、呉に海軍の重要施設である鎮守府を設置する候補を決める際、呉湾の測量調査にあたり、「此呉湾ヲ除キテ他ニナシ」と報告した人物が、肝付さんだとのこと。呉に鎮守府を置いた立て役者の一人が、肝付兼行だったのです。思わぬ発見でした。
大和ミュージアムは呉港の隣にあるので、私は帰省から帰るたびに近くを通って来ました。それでも今まで入ったことがなかったのは、その来館者の多さ。いずれ少なくなるさ、と思っていたのですが、一向に少なくならない。その理由はわかりませんが、今回巡ってみて、来館者はその展示の魅力にひきつけられているのではないか、という考えるようになりました。来館者が普通の博物館じゃありえないくらい多いのは、大和のエンターテイメント性だけに支えられてるのではないように思います。超おすすめ。
写真は有名な10分の1戦艦「大和」を上から撮ったものです。
11:15の呉広島行きフェリーに乗って呉へ。松山から東広島に帰るには、松山観光港→呉港→JR呉駅→JR海田市駅→JR西条駅が最短。
呉港下船後、港の隣にある大和ミュージアム(正式名称は、「呉市海事歴史科学館」)へ。展示物の数、質、見せ方いずれもすばらしい。機械技術の戦前から戦後への継承、というテーマも一貫して良い。2時間以上館内にいましたが、それでも全部見切れませんでした。同館でとくに思うところがあったのが、以下の3点。
第1は、旧帝国海軍の技術力でした。館内に展示されていたのは、大和や回天などのできあがった全体としての兵器だけではなく、その全体を構築している部品もたくさん展示されていました。その精密さは、素人目でもすごいということぐらいはわかります。今まで小さな模型や本でしか知らなかった兵器が、これだけの技術力を駆使して作り上げられていたのだ、ということを知り、感動しました。これらの技術は、戦後、さまざまな機械技術に平和利用されていくのです。
第2は、戦争の狭間に見える人間らしさでした。第二次大戦は組織戦ですから、兵士は人間らしさを捨てなくてはいけません。ですが、実際の兵士は死に直面したとき、極めて凝縮された人間らしさを発揮します。回天特別攻撃隊少尉の塚本太郎氏が出撃前に自分のハンカチに遺した遺言を見て、深く感じました。すなわち、「悠策 兄貴ガツイテヰルゾ 頑張レ 親孝行ヲタノム」。私にも弟想いの兄がいてくれています。他の人の遺言に比べ非常に短いものですが、自分と自分の兄に重なり、涙がとまりませんでした。
第3は、完全に私事ですが、肝付兼行(きもつき かねゆき)という海軍軍人の功績と写真が展示されていたことです。肝付さんは、私の研究対象である大日本教育会・帝国教育会の幹部として、熱心に教育会の活動(すなわち「我邦教育ノ普及改良及ビ上進」)に参加していた人です。海軍軍人であることは知っていましたが、海軍軍人として何をした人かは知りませんでした。展示によると、呉に海軍の重要施設である鎮守府を設置する候補を決める際、呉湾の測量調査にあたり、「此呉湾ヲ除キテ他ニナシ」と報告した人物が、肝付さんだとのこと。呉に鎮守府を置いた立て役者の一人が、肝付兼行だったのです。思わぬ発見でした。
大和ミュージアムは呉港の隣にあるので、私は帰省から帰るたびに近くを通って来ました。それでも今まで入ったことがなかったのは、その来館者の多さ。いずれ少なくなるさ、と思っていたのですが、一向に少なくならない。その理由はわかりませんが、今回巡ってみて、来館者はその展示の魅力にひきつけられているのではないか、という考えるようになりました。来館者が普通の博物館じゃありえないくらい多いのは、大和のエンターテイメント性だけに支えられてるのではないように思います。超おすすめ。
写真は有名な10分の1戦艦「大和」を上から撮ったものです。
(1)徳富蘇峰研究をしていて、(2)水難救済会を研究していて、ともに、肝付兼行に出会いました。試しに、『明治の読売新聞 CD-ROM』を検索し、眺めているところです。
urlを張った私のブログで紹介した記事「マハン『海上権力史論』300部を、宮内省が買い上げ、全国の師範学校・中学校へ下賜」の内容を見ると、肝付は教育会にかかわることで、海軍にとって有能な広報担当者の役割を果たしていたように見えます。
海事思想を涵養することが、同時に、海軍への理解と支持を集めることになる明治時代に、とてもよく適合した活動スタイルです。
1890年後半から1891年前半に、肝付の講演や談話内容に変化がなかったかを、これから調べて見ようと思っています。肝付が、マハン著『海上権力史論』の原著に出会ったのはその時期だったはずです。
私の方からも情報提供しますと、肝付は、明治21年~22年に大日本教育会議員、明治24年~27年に大日本教育会評議員、明治29年~大正11年まで帝国教育会評議員(明治33年~大正元年?まで評議員議長)を務めいます。辻新次会長の再選に尽力するなど、会における実質的な影響力を持っていたようです。また、大日本教育会・帝国教育会にて、軍艦や海事思想に関する演説をしばしばしています。
柴崎さんの研究、たいへん興味深いです。今後ともぜひ勉強させていただきます。
いずれ、肝付についてちゃんとまとめないといけませんね。
さらなる情報提供ありがとうございます。
少しだけ資料を見ました。富山高岡の教育関係者(当然、地方自治体の長なども来場していたはず)を多分に意識した、ユニークな演説だなというのがと思います。浄土宗僧侶と同等の俸給・待遇を小学校教員に与えよという論調は、初めて見ました。また、日清戦後の国際状況から、知徳体育のほかに「胆育」(胆力をつける教育)というカテゴリーを設けているのも興味深いです。
明治30年といえば、小学校教員の待遇改善、および就学率の急上昇などを受けた小学校教育の改革が準備中だった時期です。肝付の演説は、非常に時事的内容に富んだものだったのではないでしょうか。普通の海軍軍人ができる演説ではないように思います。
藤井能三という人物の情報提供、ありがとうございます。地域の豪商が、学制期における小学校創立を全面的に推し進めたものとして、非常に貴重な情報をいただきました。藤井がなぜここまで教育に力を入れたのか、知りたい気がします。海運業に係わっていたようですが、この辺りにヒントがあるのかもしれませんね。
なお、教育会員ではないかとのことですが、私の方で調べたところ、大日本教育会または帝国教育会の会員としては記録が残っておりませんでした。ただ、富山県の有力者のようですから、富山県の県郡レベルの教育会に係わっていた可能性は十分にあります。富山県では教育会が実力を持っていた県ですので、調べてみると面白いかもしれません。