教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

明治10年代後半、不況期において小学校教員に求められた意識と態度

2009年12月10日 22時52分23秒 | 教育会史研究
 そういえば、以前発表した論文について紹介していなかったので、改めて。
 平成21年3月18日、中国四国教育学会編『教育学研究紀要』(CD-ROM版)第54巻が発行され、同誌に掲載した拙稿が活字化されました。題名は「明治10年代後半の大日本教育会における教師像―不況期において小学校教員に求められた意識と態度」です。その論文構成は、以下の通り。

  はじめに
1.明治10年代後半の『大日本教育会雑誌』における教員記事
2.明治16年末~18年前半における理想的教員像
 (1)理学知識の蓄積
 (2)各科教授法の原理的理解と熟達
3.明治18年後半~19年末における理想的教員像
 (1)村民と誠実に交流する態度
 (2)教職意識と社会貢献の態度
  おわりに

 節タイトルに出ている時期区分は、資料の『大日本教育会雑誌』に掲載された教員関係記事の傾向から導き出したものです。
 明治10年代後半の制度上からみた教師像は、儒教道徳を基礎として学識と技術との熟練を目指すものが主流だったとされていますが、大日本教育会では、もう少し現実問題へと対処する方向で教師像が提示されていました。とくに明治18年後半以降になると、明らかに、提示される教師像に変化が現れます。どのように変化したのかは、上述の論文構成を見てもらえばわかるように工夫しました。
 当時の小学校費は町村負担であり、町村支出の少なくない割合を占めていたため、松方デフレによる不況の影響をこうむった町村では、小学校費を削減し始めます。そのような状況下では、教員は座して学校費削減を見ているわけにはいかず(学校費の大半は人件費、すなわち教員の俸給)、村民と交流する必要性を生じました。また、教職の重要性・公益性を高め、自覚し、行動に移していく必要性も生じました。当時の『大日本教育会雑誌』上の教員関係記事を読むと、当時の教員に差し迫った問題を解決する方向性を示す内容が見られます。そこからは、教員は変わらなければならないという意識が、私にははっきりと感じられました。
 このような内容の論文を1年前に書いて発表しました。

 ちなみに、中国四国教育学会編『教育学研究紀要』(CD-ROM版)は、審査なしで基本的に自由に書けるので、私はよく投稿します。来年3月発行予定の巻にも、また投稿します。ただ、この紀要は、同学会員以外は手に入れにくいという難点をかかえた媒体です。中国四国内の学者・院生による多彩な内容の教育学論文が多数掲載されているので、外部者からはネット公開を切望されることも多いのですが、乗り越えなければいけない障害もなかなか多く、しばらくそのままではないかと思います。ひとまず、昨年内の実行は無理でした。拙稿を読んでみたい方は、図書館の相互サービスなどを利用して、手に入れてみてください。
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