教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

大日本教育会・帝国教育会の系図

2011年01月24日 23時55分55秒 | 教育会史研究

図1:大日本教育会・帝国教育会沿革図
 『帝国教育会五十年史』等を参照して作成。(2005年1月作成)

 

 バリ忙しいです。なんだか100名以上の方が毎日見に来てくださっているようなので、更新したいところなのですが…
 と思っていたら、旧HPのテキストと画像がまだお蔵入りになっていたのを思い出しました。書き直そうと思って、しまってあったのですが、どうもそんな余裕はないようなので、ここに投げ出しておきます。
 私の本当の専門分野は日本教育史でして、とくに明治期の大日本教育会・帝国教育会という団体の研究を中心的なテーマとしてきました。以下の文章と本記事冒頭につけた図は、2005年に作成したものです。駆け出しも駆け出しの頃に作成したものですので、図は中途半端な出来ですが、まあわかりやすい部類かと。日本教育協会と日本連合教育会の成立年だけ元号なのは、私の詰めの甘さを象徴する失敗です(苦笑)。直そうかと思いましたが、成立の月がわかる資料が手元になかったので、そのままにしています。

 ちなみに「教育会」って何?という方は、こちらの記事をご覧ください。→「教育会は現在の教育委員会の前身か?」(2010.3.21記事)


 大日本教育会・帝国教育会とは、戦前日本において活動していた私立の教育団体です。両団体ともに日本教育の普及・改良・上進などを目的として活動しました。両団体は別団体ではなく、前身・後身団体の関係にあります。
 両団体の全体的な沿革を図にしたのが図1(筆者作成[本記事の画像])です。両団体は、明治12(1879)年に東京の小学校で開かれた教育演説討論会(教育演説会とも)を最も最初の前身団体としました。ついで東京教育会と東京教育協会が合併して東京教育学会となり、明治16(1883)年に大日本教育会と改称しました。明治29(1896)年に帝国教育会に改称、その数日後に国家教育社と合併しました。昭和19(1944)年に各地にあった地方教育会を支部として、大日本教育会(ここでは便宜上、後期大日本教育会と称します)となりました。昭和21(1946)年に日本教育会となり、昭和23(1948)年に解散を決定しました。教育会館を始めとした財産は日本教職員組合に引き継がれ、支部となっていた地方教育会はそれぞれの道を歩み始めました。昭和24(1949)年にはいくつかの地方教育会が日本教育協会を結成、昭和27(1952)年には日本連合教育会となりました。現在、財産は日本教職員組合が保有しておりますが、一方では日本連合教育会が大日本教育会・帝国教育会の正統を継ぐと宣言しています。ここでは、この問題について論じることは避け、日本教育会までの沿革と特徴について紹介していきたいと思います。
 両団体の財産は日本教職員組合が引き継ぎましたが、同組合が所蔵している両団体の資料は残念ながら限られています。同組合が所蔵している資料は、現在確認しているところでは、機関誌『大日本教育会雑誌』『教育公報』『帝国教育』『日本教育』『教育界』の原本、および旧附属教育図書館所蔵の約千冊の文芸書とのことです。数度の移転、関東大震災による倒壊・火災などによる資料の紛失があったようです。
 それでは次項から、前身団体の成立から日本教育会の解散までの沿革・特徴等を書きつづっていきたいと思います。1項につき一ヶ月を目安に少しずつ連載していきますので、しばらくおつきあい願います。
 なお、日本教職員組合所蔵の資料調査では、日本教職員組合附属教育図書館のスタッフに多大なる協力を得ました。ここに篤く御礼申し上げます。
 (以上、2005年1月頃に作成、同年12月19日に最終改訂したもの。2011年1月25日、明らかな間違いを1点修正)

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