■今日は一日"山下達郎"三昧 第二部
2011年9月19日(月・祝)
NHK-FM 19:20-22:45
http://www.nhk.or.jp/zanmai/past/20110919tatsuro/index.html
出演:山下達郎 黒崎めぐみアナウンサー 平田毅(NHKアナウンス室 専任局長)
ゲスト:松尾 潔
[第二部]19:20-22:45
67 Plastic Love(Live)[1986.7.30 中野サンプラザ]
68 Last Step(Live)[1998.2.26 福岡サンパレス]
69 What's Going On(Live)[2003.3.21 TOKYO FM ホール]
70 Nights In White Satin(Live)[2001.11.21 ON AIR EAST]
71 Guilty(Demo Version)
72 Hey, Reporter
73 いつも通り(Live)[1974.?.? 池袋シアターグリーン] / Sugar Babe
74 ジェット・コースター・ロマンス / kinki kids
75 ハイティーン・ブギ / 近藤真彦
76 Guilty / 鈴木雅之
77 夏の恋人 / 竹内まりや
78 酔いしれてDeja Vu / 円道一成
79 Woman / フランク永井
80 プロポーズ
81 俺の空
82 いのちの最後のひとしずく
83 あしあと(Live)[1984.1. 大阪フェスティバルホール]
84 ポケット・ミュージック(Live)[1986.7.30 中野サンプラザ]
85 Stand By Me(Studio Live)
86 さよなら夏の日(Live)[2010.8.14 RISING SUN ROCK FESTIVAL 2010 in EZO SUN STAGE]
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■内容の一部を抜粋
・Joyじゃないやつ
達郎さんのライヴ・アルバム『Joy』から22年。続編となる『Joy 2』を出したいがなかなか思うに任せないという。『Joy』にはいろいろな曲が入ってるが、入ってないヴァージョンを俗に「Joyじゃないやつ」と呼んでるそうだ。
・Plastic Love(Live)
「Joyじゃないやつ」から1986年7月30日に中野サンプラザで行われたライヴから。このヴァージョンは『Joy 2』が発売されても収録されることはないそうだ。『Joy』収録ヴァージョンのほうが出来がいいという。まだ仮ミックスの段階だが自分の番組でかけたときからリマスタリングしてるので更に音がよくなってるとか。オリジナルはまりやさんの1984年の作品だが、その後育児のためまりやさんが表に出られないときに、1986年のアルバム『ポケット・ミュージック』のツアーで「まりやの代わりに歌います」と言って披露していたそうだ。
・Last Step(Live)
1998年2月26日に某放送局の名物ディレクターの還暦祝いとして福岡サンパレスで行われたライヴから。ライヴ・アルバム『Joy』にはアンコールで歌ったギターの弾き語りヴァージョンが収録されている。ラストに歌った曲がライヴ・アルバムの冒頭を飾るという趣向が凝らされている。今回のヴァージョンはレアな演奏入りのライヴ・ヴァージョン。'90年代以降、フル・バンドで演奏した「Last Step」のライヴ・ヴァージョンはこのときと、1994年の「山下達郎 Sings Sugar Babe」だけだという。この日が達郎さんのバンドにはじめてギタリストとして佐橋佳幸さんが加わった日になるとか。いわゆるPAアウトの音源。
・What's Going On(Live)
2003年3月21日にTOKYO FM ホールで行われたアコースティック・ライヴから。達郎さんとベースの伊藤広規さんとピアノの難波弘之さんの3人だけの演奏。達郎さんのファンクラブ10周年を記念したツアー。その初日はレギュラー番組の「Sunday Song Book」10周年記念としてスタートしたが、アメリカのイラク侵攻が前日に起こり、急遽この曲をセットに加えることになったそうだ。オリジナルはマーヴィン・ゲイの「What's Going On」で1971年に発表された曲が、それから30年以上経ってもそのメッセージ性はまだ有効だという証明になったとか。ドラムはドラムのループをテープでかけながらの演奏で「難波くんのキーボードが素晴らしい」と達郎さん。
・Nights In White Satin(Live)
2001年11月21日にON AIR EASTで行われた難波弘之さんのデビュー25周年記念ライヴから。オリジナルはムーディー・ブルース。達郎さんの中学、高校時代はブリティッシュ・ロックを聴いていたとか。難波さんも同世代でキース・エマーソンとかを聴いていたので、せっかくの機会だからブリティッシュ・ロックのカヴァーを演奏することになったそうだ。「僕は一回人前で歌って見たかっただけなんだけど(笑)」と達郎さん。いわゆるPAアウトの音源。
・達郎という泥沼
松尾さんは達郎さんのことを熱く語るあまり暴言を吐いてしまった(笑)。
松尾「音が雄弁であれば実生活は饒舌でなくても大丈夫という人が少しずつ増えてきてるのかもしれませんけれども、僕も含めて今の例えば四十代ぐらいのリスナーの方々は、達郎さんの音楽と、あと達郎さんのお話、この二つが互いを裏打ちし合うような関係で、どんどん達郎という泥沼に...」
達郎「何を言ってるんですか(笑)、あなた」
松尾「ごめんなさい。なんか褒めてるつもりなのに表現がラフで(笑)。達郎という泥沼(笑)。失礼しました(笑)。」
達郎「ミドルネームを"泥沼"にしよう」
松尾「すいません、あとで誤ります(笑)」
・Guilty(Demo Version)
ここから先の企画は達郎さんが提供した曲にコメントをもらうコーナーになるのでそれに先駆けて。鈴木雅之さんに提供した3曲の中で達郎さん自身が気に入ってる曲が「Guilty」。このヴァージョンはデモ・ヴァージョンなのでミックスが若干違うそうだ。メロディーを変えたいので仮歌をもう一回歌ったのがこのヴァージョンなのだとか。
・平田毅さん
午後8時代は達郎さんがNHKの中で最も仲のいいアナウンサーの平田毅さんをゲストに迎えて。現在、平田さんはNHKアナウンサー室のNO.2なのだとか。平田さんが1980年にNHKに入局し、初任地の青森で「FMリクエスト・アワー」と毎週月金の帯番組のレギュラーをFMでやっていて、そこにある日キャンペーンで達郎さんがやってきたのが最初の出会いなのだとか。調べたところ1981年3月20日のことだそうだ。この日のために平田さんは「山下達郎・竹内まりや年表」を作って持ってきたという。それによると平田さんが青森にいた1980年から1984年にかけての4年間は「山下達郎活動期」だったとか。オリジナル作品が3枚に企画ものが3枚と6枚のレコードを発表している。これは山下達郎史上最大のアルバム発表枚数になるという。アルバムは『Ride On Time』、『On The Street Corner』、『For You』、『Greatest Hits』、『Melodies』、『Big Wave』の6枚。その度にキャンぺーンで会って達郎さんにインタビューしたりしたそうだ。
・Hey, Reporter
平田さんが知ってる達郎伝説は1982年にテレビのレポーターがライヴの楽屋に来て「山下達郎さんはどこですか?」と訊いたことがあり、そのエピソードを基に「Hey, Reporter」という曲を書いたというもの。達郎さんとまりやさんが付き合いはじめた頃にレポーターに追いかけられて、それを題材にして曲を書いたのは本当だが、実際「山下達郎さんはどこですか?」というのは1982年7月26日に西武球場で行われたイベントがあり、その前日に達郎さんとまりやさんのことが新聞に出たので、放送局のスタッフが気を遣い、達郎さんをハイエースに乗せて球場の裏口から楽屋に入れた(姿を隠すために毛布をかけられて荷物扱いにされたそうだ)。バンドのメンバーは普通に楽屋入りしたが、そのことを知らないテレビのレポーターがそこら中で「山下さんはどこ?」と訊きまわっていたとか。レポーターは達郎さんがテレビの歌番組に出ないので顔を知らなかった。それ以来、いわゆる芸能界に、テレビの歌番組に進出してはいけないと思ったという。
・テレビ出演
マクセルのCMに出演したのはスタッフがコマーシャル音楽のスタッフだったので、言い含められてサイパンに連れて行かれたと、簡単に15秒で言えばそういうことだったとか。
1980年にまつわるエピソードとしては、その年末の12月31日に『Moongrow』が日本レコード大賞のベスト・アルバム賞を獲得して達郎さんはテレビに出た。それは達郎さんのスタッフが地方出身者ばかりで、「自分たちが手掛けたアーティストがベスト・アルバム賞を獲った、故郷に錦が飾れるのでお願いだから出てくれ」と懇願されたのでしかたなく出演したのだと達郎さん。イエロー・マジック・オーケストラと長渕剛さんもベスト・アルバム賞を獲得したが、出演したのはYMOの3人と達郎さんだけ。残念ながらそのときの映像はないそうだ。平田さんはカセットテープ(マクセルのCM)のはネットに出てるのを見たと話していた。
・RISING SUN ROCK FESTIVAL
リスナーから寄せられた達郎伝説。
昨年の「RISING SUN ROCK FESTIVAL 2010 in EZO」で達郎さんの出番のとき、出演したアーティストやスタッフが全員観に来たので、SUN STAGEの前方は業界人ばかりだったという話。
楽屋が空っぽになったというのは本当だとか。関係者によると楽屋が空っぽになったのは初めてのことだったそうだ。
・中古レコード店をまるごと買った
リスナーから寄せられた達郎伝説。
達郎さんが中古レコード店をまるごと買ったという話。
達郎さんの友人で中古レコード店に行って「これ全部でいくら?」と言った人が何人かいるそうだが、達郎さんはそんなことは絶対にしないそうだ。レコードはそこで待ってるものだから、全部見て、ほしいものだけ買うことにしてるとか。
「そういうような尾ヒレ背ヒレがつくんですよ」と達郎さん。
・放送局のレコード
リスナーから寄せられた達郎伝説。
ある放送局でレコードを処分することになり、達郎さんに連絡したらトラック2台分ほど自ら選んで持って帰ったという伝説。
これも嘘。放送曲のレコードは資産なので勝手に処分できないそうだ。1980年以前には放送局のレコードが100円以下でバザーなどに出されたこともあったが、今は絶対ありえない話だと達郎さん。
・ゴジラ
リスナーから寄せられた達郎伝説。
ライヴのときステージにゴジラのフィギュアを置いてるというもの。
本当。達郎さんはゴジラが好きなのでフィギュアをアンプの横に置いてるそうだ。ラジコンのゴジラで、30センチくらいの本当によくできたゴジラで、尻尾は動くし、首は回るし、吠えて歩いたのだそうだが、今はすべての機能が退化して置物になってるとか。
・神奈川県民ホールで声の調子が悪くて中断
リスナーから寄せられた達郎伝説。
神奈川県民ホールでのコンサートが声の調子が悪くて中断して振替公演が行われたというもの。
むかしは死のロードでときどき声の調子が悪くなったそうだ。神奈川県民ホールのときは、コーラスの女性から飲みつけない中国製か台湾製の水薬を飲まされて、それでコンサートに臨んだが、声が嗄れて出ないんじゃなく水薬を飲んだせいでGから上が全然出なくなり、一時間七転八倒したが、結局その日はやめて振替にしたそうだ。普通は「がんばって~」とか「しっかり~」と声援があるものだが、その日の客は「今日は会社休んで来てんだから、ちゃんとやれ!」と血も涙もない客だったので中止にしたという。何日か後で振替公演にしたら、小さな子どもがたくさん来ていて、お母さんたちが子どもを預けて観に来ていたが二度も預けられず、連れてきて膝の上に乗せて観ていたとか。35歳くらいの話で、その頃は地獄のロードだったそうだ。今は体調管理をしてるし、年なのでスケジュールもタイトではないから声の調子が悪くなることはないという。
・いつも通り
初代シュガーベイブの演奏。1974年、池袋シアターグリーンでのライヴ・レコーディング。2005年のアルバム『SONGS』30周年盤にボーナス・トラックとして収録した音源と同じ。
黒崎めぐみアナは1994年に行われた「山下達郎 SINGS SUGAR BABE」を平田さんと観に行ったそうだ。平田さんと黒崎さんは初任地の先輩後輩の間柄だとか。
・大貫妙子さんのコメント
シュガーベイブの頃、コマーシャルの仕事を達郎さんが見つけてきて、レコーディング・スタジオでコーラスの録音をしてたら、なかなかハモらなくて、達郎さんから「音程が悪いんだよ!」と怒られて喧嘩になったエピソードを話した。それがトラウマになって40歳過ぎまで悩んでいて、ステージに立つのが怖くなり、ライヴ嫌いの原因のひとつになったそうだ。近年はそれを克服できて、ちゃんと歌えるようになったとか。自分にとって歌のハードルを挙げたのは山下達郎という存在があればこそなので今では感謝していると話した。
・kinki kidsのコメント
kinki kidsのデビュー曲「硝子の少年」を手掛けた達郎さん。レコーディングの現場に駆けつけて、そのままディレクションを行ったという。剛くんの好きなお茶を段ボール箱一杯持ってきてくれたり、体調を崩していた様子を見て、一日仕事をオフにしてくれたりと気を遣ってもらったという。新しいアルバム『K album』では達郎さんの新曲「いのちの最後のひとしずく」をレコーディングする予定だとか。
・アイドル歌謡
むかしから「歌入れの山下」と言われるくらい歌入れには自信があるという達郎さん。「硝子の少年」には「この曲はあなたたちが30になっても歌える曲だから、そんなにテンパッてやらなくていいから」と言ったそうだ。「歌が上手いとか下手だとか関係なくて、音程が悪くても、それを補って余りある切迫感とか、そういうものがアイドル歌謡に必要で、それ抜きにしてアイドル歌謡は語れない。歌を歌う衝動というのは、どこでどう捕まえて、どこでどう録音するかというのがアイドル歌謡の重要なところ。フランスのシャンソンの歌手もそんなに音程のいい人がそんなにいなくて、あふれる感情表現とかそういうようなものを重要視する。日本の場合はヨーロッパ音楽の悪影響で音程やリズム感のことを言い過ぎる」と達郎さん。そういう意味で女性アイドルのプロデュースは今までやってないとも。
・ハイティーン・ブギ
1982年の曲だがNHKにはシングルがなくて、'90年代にセルフ・カヴァーしたヴァージョン。オリジナル・ヴァージョンの「ハイティーン・ブギ」はこれまでオフィシャルでCDになってないそうだ。達郎さんはリマスターしたオリジナル・ヴァージョンが家にあったのにうっかりしていたと話した。
・近藤真彦さんのコメント
「ハイティーン・ブギ」のレコーディングには達郎さんも立ち会ったとか。歌入れの30分前までディレクターと卓球をやっていて、録音するときにはハァハァゼェゼェと息切れ状態に。それを見咎めた達郎さんはディレクターに「録音前にマッチに卓球なんかやらせてんじゃねえよ」と言ったとか。今でも達郎さんと交流があり、ちょっとワインが入ると「あなたに作った曲『ハイティーン・ブギ』は、とにかくオレ見せてやりたいよ。大学ノート何冊あると思ってんだよ」と毎回言うのだそうだ。マッチの音域だとか得意の50音は何だとかを調べて、それを大学ノートに全部書き出し、そのデータに基づいて「ハイティーン・ブギ」を作ったという話。「本当に親身になって曲を書いてもらったんだなぁと感謝しております」とマッチ。マッチのデビュー25周年のとき雑誌で対談したときは「歌が上手く歌えたとか、下手に歌っちゃったとか、そんなことではなくて、あなたの歌がマッチの歌なんだ。だから上手い下手は関係ない。とにかくマッチが歌えばみんないいんだ。かっこいいんだ」と言ってもらったことを思い出すそうだ。「僕が歌う歌は近藤真彦の歌なんだと自信を持ってこれからも頑張っていきたいと思います」とマッチ。
・マッチについて
音階を上からド・シ・ラ・ソ・ファ・ミ・レ・ドと降りてくるほうがいいと達郎さん。上がっていくとちょっと不安定になるので、降りて降りて降りまくるメロディにしたそうだ。
・鈴木雅之さんのコメント
1988年の2枚目のソロ・アルバム『Radio Days』を達郎さんにプロデュースしてもらったところ、最初の曲だけで3ヶ月かかって、スタッフが全員顎を3バウンドさせたとか(笑)。「Guilty」や「Misty Mauve」、そして「おやすみロージー」を達郎さんとコラボレーションしてもらったお陰で、「鈴木雅之」のヴォーカリストとしての方向性がはっきりと見えたような気がしたと話す。ドゥーワップの同志として、一人のヴォーカリストとしては自分たちの先を走り続けるその背中を見ながら、自分なりの音楽を歌い続けてこられたのは達郎さんとの出会いがあったからだと感謝してるそうだ。
・声
達郎さんの好きな声はしゃがれ声だそうだ。男はジェームス・ブラウン、女はアレサ・フランクリンという時代がずいぶんと長かったという。日本ではeastern youthの吉野さんやチバユウスケさん、甲本さんといったシャウターのほうが好きだとか。
・鈴木雅之さんとのコラボレーション
鈴木雅之さんの声は曲を選ぶと達郎さん。7,8曲書いて3曲しかうまく行かなかったので、あと15曲くらい作ったら10曲入りのアルバムが出来ると考えたが、「そんなに時間と予算はかけられない」とスタッフに言われたそうだ。
・竹内まりやさんのコメント
デビュー・アルバムに楽曲提供してもらったのが「夏の恋人」という曲。当時達郎さんが作詞までしたのは珍しかったとか。3枚目のアルバム『Love Songs』の「さよならの夜明け」で初めて共作したが、今回調べたところ、まりやさんが作詞家としてほかの作曲家と組んだのはこの曲が第一作だったという。「今更ながら運命を感じてます」とまりやさん。達郎さんのすごいところは音楽の引き出しの多さとアレンジ能力だという。また達郎さんのニュー・アルバム『RAY OF HOPE』について、達郎さんの持つ音楽の幅広さと深さが、人間的な成熟と見事に合体して、達郎さんの生き方を象徴するアルバムに仕上がってると思うのだとか。
・酔いしれてDeja Vu
達郎さんのリクエスト。円道一成さんは神戸生まれのシンガー。ウィルソン・ピケットが好きで、クリスチャン。作詞は山川啓介さん、作曲・編曲は達郎さん。達郎さんは2曲書いたがこの曲のほうがお気に入り。「自分では歌えないタイプの曲」と達郎さん。1984年の作品。
・Woman
「達郎さんが楽曲提供した曲」の中でリスナーのリクエストがいちばん多かった曲。1982年だから「ハイティーン・ブギ」と同時期。ロック以前、ロック以後という世代の断絶があり、それを埋めることができないかと思って、スタッフの制作担当を通してフランク永井さんにオファーしたという。詞は3人くらいの作詞家に頼んだが従来のフランク永井さんのイメージで歌詞を書いてきたため、仕方なく達郎さんが自ら書くことになったそうだ。フランクさんのバリトンの声を念頭にルウ・ロウルズの路線でサウンドをデザインしたとか。ルウ・ロウルズはフィラデルフィア・ソウルの偉人。フランクさんは16ビート恐怖症で胃が痛くなって病院に入院して逃げようとしたが、達郎さんが「これラテンですよ。ラテンでスネアが半分になっただけなんですから」と言ったらうまくいったという。当時、フランクさんは四十代だった。
・『Ray Of Hope』特集
「今日は一日"山下達郎"三昧」大詰めの最後一時間のところでニュー・アルバム『RAY OF HOPE』特集。アルバムの楽曲に関連する話題とともに。
・静寂(しじま)
番組に届いたメールの中に「達郎さんの(使う)静寂(しじま)がとっても好きです」というのがあったそうだ。
中学のときサイモンとガーファンクルの「Sound Of Silence」を聴いて、辞書で"Silence"を引いたら「静寂(しじま)」と出てきたという。
そうした言葉を寝かしていて使うことが多いそうだ。例えば"Never Grow Old"は'80年代にアメリカでテレビを見てたらテレビ・ショッピングの番組でオールディーズもののボックス・セットを売ってて、"Never Grow Old!"と叫んでいたとか。そういうのをインプットして、必要とあればメモを取ったりしておくという。
・家の中でいちばん好きな場所
黒崎アナから「俺の空」に関連する質問で「家の中でいちばん好きな場所は?」。
レコード室だそうだ。特別な補強は何もしてなくて地下室にあるので地盤が強いとか。
・いのちの最後のひとしずく
最初は2番の歌詞が「不器用な私を笑ってる」ではなくて「不器用な私を笑ってね」だったとか。恥ずかしいのでやめたそうだ。
・あしおと
リスナーからのリクエスト。
1984年1月に行われた大阪フェスティバルホールでのライヴから。
「あしおと」はアルバム『Melodies』のツアーで初演しただけだそうだ。
・ポケット・ミュージック
リスナーからのリクエスト。
1986年7月30日に中野サンプラザで行われたライヴから。
「ポケット・ミュージック」もアルバム『ポケット・ミュージック』のツアーで初演しただけだとか。
・Stand By Me(Studio Live)
リスナーからスタジオ生アカペラのリクエスト。
再びラジカセを膝の上に乗せて「Stand By Me」。
「何卒、YouTubeへのアップはご遠慮願います」と達郎さん。
・Joy 2
平田さんからの質問で「ツアーが終わったら『Joy 2』は?」。
「『Joy 2』やります、もちろん。次のツアーが終わったらソースがほぼ揃うと思うので、それでやろうかなと思ってるんですよね。下手すると4枚組とか(笑)。そういう感じですかね。なるべく低価格というか、変な言い方ですけれど、お手頃な値段で」と達郎さん。
・さよなら夏の日(Live)
2010年8月14日に「RISING SUN ROCK FESTIVAL 2010 in EZO」SUN STAGEで行われたライヴから。
セットリストのいちばん最後の曲だったとか。
・希望という名の光(Postlude)
エンディング・テーマに「希望という名の光(Postlude)」。
Twitterからこちらのブログにたどり着き、
拝見しております。
達郎氏のファンのひとりです。
今更なコメントすみません。私は録音する手段がなかったので、ずっとリアルタイムに車のラジオやら、i-podのラジオ機能やら駆使してずっと聞いておりました。
おこして頂いた記事を拝見し、記憶を反芻しております。ありがとうございます。
達郎氏のライブは今TOUR2回行きましたが、
まだまだ行きたくて悩んでおります。
あと何回達郎氏の生のライブを観れるのだろうと思うと、できる限り行きたいと思うのです。
またお邪魔させてください。
コメントありがとうございます。
エアチェックは昔ながらのMD録音です。
ソニーがMDから撤退して風前の灯となってしまい、
いつまで続けられるかもしれませんが。。
どうぞまたお寄りいただければと思います。
今回のツアーは5月まで続きますから
チケットさえ手に入ればあとは時間だけですね。
それと今の季節だと体調を整えてとか。
なかなか大変ですが
終わってしまえばそれもいい思い出となりますものね。
それではまた宜しくお願い致します。