8時の記念式典までは時間があったので、タクシーを飛ばして日和山に登りました。壊滅的な被害を受けた、門脇・南浜地区を見下ろす山です。
立派なビルだった石巻市民病院や、辛うじて残っていた家屋は取り壊され、がれきや廃車体の山も処分が進み、消えていました。災害危険区域となった麓から海岸にかけては、公園化されるとのことです。
駅までの帰路は、徒歩で下りました。いちはやく復活していた石ノ森萬画館は足場が組まれておりドキッとしますが、外壁の改修工事中とのこと。
市街地の津波浸水域でも、未だ痕跡はあちこちで見られる一方、家の再建も進んでいます。
石ノ森キャラクターの像が並ぶマンガ通り。マンガ像はきれいに磨き込まれており、萬画館への来訪者を誘います。
道路のインターロッキング舗装にはまだ凸凹が多く、こけないように注意。震災後の神戸でも、道路の段差解消までにはずいぶん時間がかかったように記憶しています。
2年前にはあった駅前通りのアーケードは、すっかり消えてなくなっていました。震災が、老朽化を早めてしまったとのこと。
被災地に限らずアーケード撤去の動きは他都市でも見られ、時代の流れではあるのですが、街の中心が視覚的には見えづらくなったように感じられます。
仙石線・仙石東北ラインの開業記念式典は、8時から。沿線の学校の鼓笛隊演奏で幕を開けました。
会場となった仙石線ホーム先端は、関係者以外立ち入り禁止。告知されたイベントなのに一般人シャットアウトというのは、ちょっと違和感も。大勢のギャラリーは、ホームに停車中の電車から見守りました。
知事や市長、JR東日本副社長などの祝辞が続きます。単なる復旧に留まらず、仙石東北ラインという悲願が実ったことに対する、感謝と期待が大きかったのは印象的でした。
車掌への花束贈呈。
そして、テープカット。
一日駅長の出発合図とともに、真新しいハイブリッドディーゼルカーが仙台に向けて出発していきました。
駅前でのイベントは、午後まで続きます。僕もお祝いムードに乗って、記念バッジや笹かまぼこのプレゼントにありつき、屋台では石巻やきそばや牛タン串を味わいました。
一方 駅前の片隅では、完成した復興公営住宅の見学会行きバスも待機中。ハード面での整備は、少しずつ進んでいます。
さて僕は、石巻線の列車で女川へと下ります。一昨年末に乗った時は、渡波までの部分復旧状態。その直後に浦宿まで延伸されましたが、女川までの一駅間は街のかさ上げ事業完成を待って、この3月21日に復旧したばかりです。
車両も従来の国鉄形から、JR世代の新型車に一新され、快適になりました。
石巻線は、女川駅付近で内陸方向に短縮された以外、ほぼ原位置で復旧されました。ただ地盤沈下の影響は大きく、線路の海抜が低くなった区間では、真新しい堤防が築かれています。
少し海抜が上がる区間では、万石湾の養殖イカダを見降ろす、以前のままの車窓が健在です。
トンネルを抜ければ、周囲のすべてが新しい女川駅に到着。真新しいホームを、乗客が埋めました。
坂茂氏設計の女川駅舎は、羽根を広げたような幕屋根が輝く、木材を多用した温もりのある建物です。
一昨年に女川駅付近を訪れた際には、すべてが流され、それこそ「なにもない」状態でした。わずか1年半、資材難の中でよくここまで駅と線路を作り上げたものと思います。
震災前からあった温泉施設「ゆぽっぽ」も復活。自然光が入り、タイル画も輝く明るい浴室です。サウナや露天風呂はないけれど、500円払って入る価値は充分にあると思います。
駅や海が見渡せる畳敷きの休憩所も、なかなかスタイリッシュです。
駅から海へと続くシンボルロードは、まだ駅前部分が完成したのみ。完成後の、ゆったりした街並みを思い描けました。
駅前ではすでに2軒、商店の新築工事が進んでいました。人口減少の中、コンパクトな市街地で再起を目指す女川の、再起したばかりの姿です。
地域医療センターを挟んだ旧市街地も、工事の真っ最中。津波で転倒したビルも解体され、かさ上げ工事が進んでいました。
周囲でも造成が進む女川駅に、折り返し11時18分発になる列車が入ってきました。
1時間前の列車を、はるかに上回る混雑ぶり。多くは観光客のようです。
折り返し列車は、陸羽東線向けの観光車両でした。海側の座席は窓に向けることができて、石巻線でもぴったりの仕様です。
石巻駅からは、仙石東北ライン・快速仙台行きに乗り込みます。
ディーゼルカーとはいえ、電車の規格で作られた車体は大きく、クロスシートが並んだ車内は快適。モーター音が響いてくるのはハイブリッド車ならではで、電車に対して「見劣り」しない車両です。
車内ではハイブリッドカーよろしく、モニタでハイブリッドシステム駆動の様子を見ることができます。
沿線では、復興住宅用地の造成が進みます。仙石線にも来年、新駅の石巻あゆみ野駅が開業予定。新たな街づくりは、やはりここでも鉄道と駅がセットです。
再び新しい高架橋に上がり、野蒜駅着。震災前の仙石線快速も停車していた駅で、仙石東北ラインの快速も引き続き停車します。
500m内陸の高台に移設された駅からは、旧野蒜駅が俯瞰できました。
駅前には、三陸鉄道でも見かけた屋内型の式典会場が。石巻駅での式典を終えた来賓が移動して開かれた後で、すでに撤収作業が始まっていました。
2階建ての新駅舎は、目の前が仮囲いで囲まれています。
駅前の様子も、ご覧の通り。線路と駅こそ復旧したものの、駅前の造成はまだこれからの段階です。もっとも、造成が完了した時点で駅がなければ誰も寄りつかないわけで、需要に先行させて作られた駅といえます。
駅から下った旧野蒜小学校跡では、開業記念イベントが開かれていました。スタバの出店は、なんと「振る舞い」。5月の東北とは思えない日差しの中、冷たいコーヒーはありがたかったです。
賑わうイベント会場の側に、ひっそりと残る旧仙石線の踏切跡。仙石線の電車が津波に巻き込まれ、流出したのもこの辺りでの出来事です。
踏切両側の線路と枕木は撤去済みで、いずれここに線路があったことも忘れられていくのでしょうか。
旧野蒜駅は、もう少し石巻方へ下った側にありました。周囲から家々が消えた、奥松島パークラインを歩いて旧駅に向かいます。
津波に襲われた旧野蒜駅舎は、きれいになってファミマが入居していて意表をつかれました。旧駅の待合室跡もレストスペース的に使われており、ドライブの休息場所として重宝されているようです。
しかしホームは、架線や線路こそ撤去されたものの、今も激しく損傷したまま時が止まっていました。
立ち入り禁止とは書かれておらず、かといって震災遺構として保全がはかられているわけでもありません。今後は、どうなっていくのでしょうか。
駅前には、昨日まで行き交っていた代行バスの案内が残っていました。
来た道を引き返し、東名駅方向に歩きます。途中には海鮮屋台の店があり、フラフラと足が向いてしまいましたが、人気の店のようで待つ人多数。諦めて歩いていると、東名の集落にラーメン屋さんを見つけました。
木・金・土のみ営業の店の建物は、まるっきり日本家屋。家主のおばあさんは津波で亡くなり、主を失った家を再生したお店なのだそうです。
あっさり味のラーメンはおいしかったのですが、カフェメニューのコーヒーを食後に頼んでみたら、豆入りのミルを渡されびっくり。仙台の有名なコーヒー店の豆とかで、しっかり苦味のきいたコーヒーは文句なくうまかったです。
陸橋から見た、東名駅跡。周囲から流された家々や車で滅茶苦茶になったホームは、すっかりなくなっていました。
旧駅跡は建設会社の資材置き場になっており、駅だったことを示すものはほとんど残っていません。
駅跡から山側に歩くと、新しい家が続々と立ち並んでいました。このあたりも津波浸水域のはずだけど、高台の宅地造成を待っていられずに、再建されたのでしょうか。
新しい東名駅は、野蒜丘陵地区の西側に位置します。駅までのアクセス道路は途中までの開通。真新しい道路を登り、新駅を目指します。
東名駅は、無人駅。小さな駅舎は、一言でいうと薄い!
野蒜駅周辺と同様、周囲は造成工事の真っただ中。何もない高台を貫く線路を、「マンガッタンライナー」が進入してきました。
駅前も道路が貫くのみで、建物は「薄い」駅舎と仮設トイレしか見当たりません。浸水域での住宅再建が進む中、商店などと共に高台へ街ができるのか、将来の姿になかなか想像が及びませんでした。
ただ震災前より仙台への時間短縮が図られた分、広範囲からの移住者を呼び込むポテンシャルはあるのかも。数年後、活気ある街になっていることを願っています。
東名駅に快速は止まらないため、一旦下り普通電車で野蒜に引き換えし、上り快速で折り返すようにプランニングしていました。
ところがダイヤが乱れているのか、下りの普通電車がやって来ません。そのまま上りの快速がやって来てしまい、全速力で通過する列車を呆然と見送りました。
遅れてきた普通電車で野蒜へ戻ったものの、次の快速は40分後。吹き上げてくる潮風を受けつつぼおっと過ごしていたら、頭上から轟音が響いてきました。
仙石線復旧を記念して、松島基地のブルーインパルスがお祝いに飛んだらしく、空に飛行機雲を残し松島方向へ消えて行きました。電車が遅れたおかげで見られた、余得です。
気を取り直して、後続の仙石東北ラインの快速に乗車。4両編成の車両は席が埋まっており、心強い盛況っぷりです。
高城町を出ると、右手に東北本線の線路が近づいてきました。はるか昔は別会社だった、東北線と仙石線。線路は絡み合いながらもライバルのごとく、お互いの線路は交わることがありませんでした。
そこに短い渡り線が新設され、新型気動車が行き交うようになりました。東北本線は交流電化、仙石線は直流電化ですが、電源切り替え区間を設けるには渡り線が短すぎるため、交直流電車ではなくディーゼルカーが導入されたとのこと。
さきほどまで走っていた仙石線の線路が、左手に離れて行きます。仙石線に乗り慣れている人ほど、不思議な感覚にとらわれる体験でしょう。
沿岸の町を結ぶ仙石線に対し、東北線は仙台へほぼストレート。通勤時間帯の快速は東北線内ノンストップになり、さらに速達性は高まります。
野蒜から35分で、仙台着。通勤にも、まったく無理がない距離になりました。
仙台では常磐線に乗り換え、南下します。17時23分の浜吉田行きは、オールロングシートの701系。純然たる、通勤仕様の電車です。
週末ながらに混雑する車内で、うつらうつらすること35分、亘理駅着。常磐線の不通区間は浜吉田~相馬間ですが、代行バスの乗り継ぎ拠点は、1駅手前の亘理です。
18時15分発の代行バスは、各駅停車の相馬行き。仙台バスの貸し切りバス仕様のバスが待っていました。代行輸送も4年に渡り、もう「日常の姿」とは思うのですが、きちんと案内の警備員が配備されています。
仙台湾からの津波で、甚大な被害を受けた浜吉田~相馬間の線路と街。線路は仙石線と同様、内陸に移設されることになり、新しい高架橋が立ちあがり始めていました。
坂本駅では、駅舎の位置もはっきりと示されていました。
現在地で復旧が決まった駒ヶ嶺駅の周辺に、新しい住宅が立ち並んでいたのは、ここ数年の変化です。自宅の再建にあたって、やはり駅への近さはポイントになったのでしょう。今はまだ電車が来ないけど、復旧が確約されたからこそできた再建なんだと思います。
相馬~原ノ町駅間は、両側を不通区間に挟まれながら運行される、JRでも唯一の孤立線区。19分の道のりを、2両編成の電車が往復します。
本来の検修所がない、孤立した区間での運行は苦労がつきもののはずですが、車体はきちんと清掃が行き届いています。
トイレが使えず、中吊り広告がほとんどない車内。限られた区間の運行ゆえ、乗客は決して多くはありません。それでも電車を走らせる姿勢には、頭が下がります。
終点、原ノ町よりも途中駅の鹿島での乗降が目立ちました。
原ノ町駅。「スーパーひたち」と415系電車が閉じ込められたままで、ひたちの白い車体は、年々黒ずんでいってます。
今夜は南相馬市原町区泊り。食堂でビールを一杯飲んでいたら、猛烈なめまいに襲われました。過労状態かと心配になりましたが、周りの人も騒ぎ出してようやく地震であると理解。震度3で収まりましたが、「いつもと違う揺れ」「めまいかと思った」と周囲も驚いた地震の正体は、日本全土を揺らした小笠原沖の巨大地震でした。