自己は自己でないものによって自己である

2005年10月08日 | 心の教育
 
私たちは、空気や水や食べ物などなしに生きることはできません。

 生きていたいのなら、私たちには、例えば水を飲まない選択の自由・権利などありません。

 確かに人間には、死を覚悟して首をくくって空気を吸わない=窒息するという選択はできます。

 しかし、生きるためには呼吸をしないという選択肢はありえません。

 仙人ではないので、食べ物を食べないで雲や霞を吸っているというわけにもいきません。

 そういうことに関しては、自分勝手に選べるという意味での「自由」はないんですね。

 しかしそれは、決して縛られていることでも、権利を侵害されていることでもないと思うのですが、どう思われますか?

 私たちのいのちの営みそのものが、空気や水や食べ物とのつながりなしには不可能です。

 そのことは、「人間は自然の掟に拘束されている」と表現することもできますが、すなおな取り方をすれば、「私たちのいのちは自然とその法則に支えられている」ということになるのではないでしょうか。

 さらに考えていくと、食べ物とは食べ物になってくれる植物や動物のことです。

 植物や動物が生きるためには、大地・地球が必要です。

 地球に無数の生命が存在できるためには、ほとんどの生命のエネルギーの源になっている太陽が必要です。

 そうした無数のものと関わっていること……などに関しても、選択の自由はないだけではなく、そういう自由は必要ないのです。

 自分勝手にできないものが山ほど与えられているから、生きられる、つまり自分が自分でいられます。

 「自己は自己でないものによって自己である」というのは日本近代の代表的哲学者西田幾多郎の言葉ですが、ほんとうにそのとおりです。

 私は私でないもののおかげで私でいることができるのですね。

 そして、それらの自由に選択できない条件がベースにあるから、私たちはいろいろなことを選択できるわけです。

 空気、水、食べ物、食べ物になる植物や動物、それらを支え育む大地=地球、すべての生命のエネルギーを恵む太陽、そして太陽と地球とその他の惑星からなる太陽系、太陽系のような星のまとまりを無数に含む銀河、そして一千億からもしかすると一兆もの銀河を含むといわれる宇宙……。

 よく考えていくと、それらのすべてとのつながりの中で、今・ここで私が生きることができている、ということになるようです。
 
 だから、「私が生きている」と思っているだけでは部分的であり不十分で、「私は生かされている」ことをしっかりと自覚するのが、正確で現実的な自分の見方――少し難しくいえば「自己認識」――だということになるのではないでしょうか。

 本当の意味で現実的で正確な自己認識ができた時、ゆるぎなき「自己」信頼、つまり自信が確立していくでしょう。

 そういう意味で、自信には、ただ個人の心理的なレベルだけでなく、コスモロジー的なレベルがあるわけです。

 というよりも、個人的なレベルだけでは、決してゆるぎなき自信は得られない(のではないか)、と私は考えています。

 必要ではあったのですがやや長い前置きを終えて、次回からやっとお約束どおり、現代科学の成果――主にまず物質面からになりますが――のポイントを学びながら、宇宙の始まりからずっと私たちが無数のものとのつながりによって生かされているということを考えていくことにしましょう。

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