暖かい日が続いた。
ここにきて少し冷え込んで平地でも少し雪が積もった。
この地から見える後立山連峰が白くなった。
少し距離があるので、明瞭さに欠けるが、爺ヶ岳。
双耳峰が美しい鹿島槍ヶ岳。
長大な遠見尾根を張り出させた五竜岳。
八方尾根の向こうの唐松岳。
白馬槍、杓子、白馬の三山。
目を転ずればぐっと近くに飯綱山と黒姫山。
飯綱山は来年の元旦に登る予定だが、スキー場以外は雪がない。
この年末年始の時期に甲州街道の続きを歩こうと、現地まで鉄道で行くので、青春18切符を買いに飯山駅まで行った。
長野駅で買っていた時期もあるのだが、みどりの窓口の混雑ぶりに辟易していた。
そこで、ローカルな飯山駅に変更したのだが、駅員の案内で、自動券売機で買えることを初めて知った。
飯山まで来たついでに、幻の蕎麦と言われる富倉蕎麦の本場、富倉地区まで足を延ばした。
富倉蕎麦はオヤマボクチというヤマゴボウの葉を繋ぎに使ったそばで、腰が強い。
それに、もう半世紀近い昔、中野市から直江津までの64キロや、長野市から直江津までの100キロの強歩大会があって、そのとき飯山市から富倉峠を越えて、この富倉地区を真夜中に何度も通過した思い出の地だ。
かつてあった富倉蕎麦の店はどうなっているのだろう。もう20年近くも訪れていない。
そばの打ち手はかなりのおばあさんだった。いまもあるといいなあ。
そんな郷愁をあざ笑うように、富倉食堂は農家風の大きな建物だったが今は影も形もなく、空き地になっていた。
その近くに、橋場食堂があり、看板は今も出ていた。あの時は多分80近いおばあさんがそばを打っていたはずだ。
今も続いているとすれば、うまく後継ぎが見つかったのだろうか。
他に、確か美咲食堂という蕎麦屋もあったはずだが、トンネル工事があったりして場所そのものが、この辺だったはずという具合でよく判らなかった。
ちょっと大きなかじか亭という店は建物も看板もあったので、今も続いているのだろう。
富倉地区は、うっすらと雪が積もり、明らかに廃屋というような建物もいくつかあった。
行(ゆ)く川の流れは絶えずして、しかも もと(本)の水にあらず。淀(よど)みに浮ぶ うたかた(泡沫)は、かつ消えかつ結びて、久しく止(とゞ)まる事なし。世の中にある人と住家(すみか)と、またかくの如し。
玉敷(たましき)の都の中に、棟(むね)を竝(なら)べ甍(いらか)を爭へる、尊(たか)き卑しき人の住居(すまい)は、代々(よよ)を經て盡きせぬものなれど、これを まこと(真)かと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或(ある)は、去年(こぞ)焼けて今年は造り、あるは、大家(おおいえ)滅びて小家(こいえ)となる。住む人も、これにおなじ。處もかはらず、人も多かれど、いにしへ(古)見し人は、二・三十人が中に、僅(わず)かに一人・二人なり。
朝(あした)に死し、夕(ゆうべ)に生るゝ ならひ(習い)、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方(いずかた)より來りて、何方へか去る。また知らず、假の宿り、誰(た)がために心をなやまし、何によりてか、目を悦ばしむる。その主人(あるじ)と住家と、無常を爭ふさま、いはば、朝顔の露に異ならず。或は、露落ちて花殘れり。殘るといへども、朝日に枯れぬ。或は、花は萎みて露なほ消えず。消えずといへども、夕べを待つことなし。
大好きな方丈記の一節がおのずと脳裏に浮かぶ。
どんなに楽し気にふるまっていても、心の底にはこの無常感が拭いようもなく、ある。
帰宅してわが村の最深部にある七味温泉に行った。
心と体を温めるために。
知らず知らずに引き込まれてしまった私です。
一枚だけお写真がX印になって観る事が出来なかったのが残念です。(下から2枚目)
写真の指摘ありがとうございます。こちらには表示されているのですが...(様子を見ます)