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「交響曲ヒロシマ」という日本の交響作品史上、あるいは日本の交響曲史上の「記念碑的作品」とよべるこの曲を、日本の音楽界は絶対に葬り去ってはならないと思う。
実はゴーストライター・スキャンダルが発覚してから始めてこの「交響曲ヒロシマ」を聞いた。
この交響曲の表現内容の重さ、また音楽の崇高さとも言える精神性は、日本の交響曲作品の中では特筆される「記念碑的作品」と呼べるものであると感じる。
作曲作品は、その曲が作曲された時点で「作曲者の手を離れて独り歩きする」のである。
「ヒロシマ」が持つ内容と精神性は、もはや「作曲家が誰」であるかを必要とはしない。
当然、音楽業界のビジネスとしては著作権問題、作曲者を偽った詐欺行為については責任が問われて当然である。
しかしそういったビジネスとは無関係にこの作品「交響曲ヒロシマ」の持つ「表現内容の重さ」と「崇高な精神性」とは別物である。
この深く感動的な交響曲を日本の音楽界から葬り去るのは、日本の音楽界においては取り返しのつかない損失になるであろうと思う。
というより「真実の感動を呼び起こす作品」は「作品それ自体」が生命力を持っていて「作品が独り歩き」するのである。
過去の名曲はすべてそうであった。
その作品が「生命力」を持たないものは、いくら音楽家、音楽学者が評価し演奏をしても、いずれ消え去ってゆく。
しかし「交響曲ヒロシマ」はおそらく「日本の交響曲作品の金字塔」であるばかりでなく、世界の交響曲作品の中でも「特筆すべき名作」であり、この先ますます聞く人の心に感動を呼び、長く演奏されて行く作品だと思う。
音楽であれ、美術であれ、文学であれ、それを創造した人物と作品は別物と考えてよい。
廃人同様の芸術家が人の心に真っ直ぐに入ってくる作品を創造してきた例は多い。
私生活では全く人間失格の音楽家が素晴らしい作品を残しているのは誰もが知っている事実だ。
スキャンダルがあったから、以後はその曲を聴かない、演奏しないという人達は恐らく「作品そのもの」に触れてこなかったのだろうと思う。
原案<佐村河内> 作曲<新垣>「交響曲1番ヒロシマ」でいいのではないのだろうか。
いずれにせよこの作品は「スキャンダルに見舞われた、日本の交響曲作品の金字塔」としていつまでも演奏され続けると思う。
「交響曲ヒロシマ」自体が生命力を持っている限り、この作品は独り歩きするだろう。
「芸術作品の持つ生命力」というのは、そういうものなのだ。