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NHKニュースを見ていたら、ドイツの「第4次産業革命」が報道されていた。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2302G_T20C14A1000000/
この「第4次産業革命」は人類にとっては、扱い方によっては死活問題になるなあと思った。
この流れは止めようが無い科学技術の進歩だろうと思う。
そしてついに「人工知能」が現実味をおびてきた。
量子コンピューターの急速な進歩は、近い将来に「人工知能」が現実化することを予測させていた。
量子コンピューターは砂粒大のチップで「スーパーコンピューター京」を遥かに凌駕する情報処理能力を持つ。
こんな途方も無いコンピューター・・・「人工知能」が現実味を帯びてきたということだ。
そして「人類の脅威は人工知能」という認識が現実のものとなってきた。
すべての機械と生産ラインが人工知能で制御されるようになったら、人類の「労働」はどんな価値を持つのか。
「人類」と「人工知能」はどこまで共存が可能か「哲学的考察」も必要になってくると思う。
それは「科学倫理」の分野であり、平たく言うと「マッドサイエンティストの暴走により人類が亡ぶ」という「危機問題」だ。
このテーマは最近の映画には非常に多い。
「ターミネーター」がそうだし「マトリックス」もそうだ。
古くは「カーク船長の宇宙大作戦」で「機械帝国~ヴォーグ」として描かれていた。
この問題は哲学的考察を必要とする。つまり「人類」とはという問いかけになる。
「人工知能」はメカシステムの究極の進化形と見られる。これが人類を凌駕するのは「情報処理能力」とその「超合理的統合力」だと思われる。
この分野では人類は残念ながら、将来的に勝ち目は無いと思われる。
しかし人類にしかない特性というものがある。
それは「愛」「感情」「情緒」というごく流動的で曖昧で不確定なものだ。
これはコンピューターが持つ「合理性」とは相容れない性格のものだ。
まして「自己犠牲」というような「人類が持つ崇高な精神性」をコンピューターは獲得できるかという問題。
<人類 VS 人工知能>は<不確定曖昧性 VS 合理性>に置き換えることができるだろう。
この二つの「価値」をいかに共存し融和させていくかが、近未来の「哲学」になるような予感がする。
近い将来、人類が「民族、国家、イデオロギー」などで対立している状況を人工知能は「非合理的、非生産的」として抹殺にかかるかも知れない。SF映画の世界のように。
しかしどんなに進化しても「人工知能」は「メカシステム」であり「人類の精神性を、データの集積により模倣」はできるが、どこまでいっても人類にはなりえない。
しかし「人工知能」の「合理性」が人類の排除を始めた時は、おそらく人類に勝ち目は無いような気がする。
しかしこの問題の究極はコンピューターに「自我は獲得できるか」ということであろうと思う。
このテーマは以前にスピルバーグが映画「I ロボット」に描いていた。
カーク船長の「宇宙大作戦」では「神のごとく進化したコンピューター」との対決が描かれていた。
その時カーク船長が取った行動は「おまえは何者だ」という問いをコンピューターに投げかけた。
この哲学的、存在論的問いかけには「神の如きコンピューター」は回答を持たない。
そのためショートしてシステムダウンを起こす。
やはり「人口知能」は「人類」を凌駕することはできないかもしれない。
ただし人類が「人工知能」を凌駕する「哲学」を持ちえた時だろうと思う。