貞松・浜田バレエ団の全幕公演「白鳥の湖」が尼崎市のあましんアルカイックホールで行われました。(2012年9月22日)
バレエ団の精神的な深さを代表する一人といっていいでしょう、瀬島五月さんがオデット姫を踊り、オーストラリアからこの神戸のバレエ団へやってきて今や舞踊界の人気者になっているアンドリュー・エルフィンストンさんがジークフリート王子を踊りました。
いうまでもなくバレエは肉体で表現する芸術です。
体の美しさ、そして技術の卓抜さが命です。
しかし、鍛練されたその体を通して、そこに精神のみずみずさと深さが現われるとき、バレエは最高の喜びに達します。
ふたりはみごとにそのような舞台を創造しました。
むしろ、もう肉体が見えなくなって精神そのものがそこで踊る、そういう瞬間さえあったといっていいでしょう。
第一幕の終わりは、夕暮れの憂愁が舞台いっぱいに満ちてくる場面です。
成年式を終えたジークフリート王子は、もう自由を満喫した青春と別れなければなりません。
あすはとうとう列国の王女たちを舞踏会に迎えて、そこから妃を選ぶことになったのです。
人生の曲がり角に立っている不安もあります。
どうしても心が沈んでいくのです。
エルフィンストンのジークフリートはその内面の憂鬱をあますところなく表現しました。
気品に満ちた体は決して大仰な動きに出ることはありませんが、ちょっとしたそぶりの中に心の揺らぎが鋭く表れてくるのです。
いましも哀愁を誘うオーボエの響きが白鳥の主題を奏でています。
はっと夕空を見上げる王子。
白鳥たちの群れが森を越えて、湖に向かおうとしています。
その美しい鳥たちが王子の内部を横切っていく、そのさまがぼくたちにありありと見えたのです。
悲劇の予感が忍び寄ってくるのです。
悲劇のクライマックスは第四幕、湖のほとりでジークフリートとオデットが再会するシーンです。
ここでは瀬島五月の決然とした表現がぼくたちを圧倒します。
悪魔の罠にかかってしまったふたりには、もう絶望しかありません。
オデットはついに命を断つ決断をするのです。
「死にます」
けれど、それは絶望だけからではありません。
瀬島の踊りの奥深さ、それはまさしくそこにもうひとつのエレメントが含まれていることから醸(かも)されてくるのです。
もうひとつの決意が沈黙の中に響きます。
「わたしはわたしの愛を貫きます」
絶望のすぐ裏にゆるぎない希望が生まれているのです。
その二重の表現にぼくらは圧倒されるのです。
そして、この恋人たちの悲劇をいっそう深くしてみせた第三の主役、ロットバルト。
川村康二の存在も書かないではいられません。
かれはここにきてかれ自身のロットバルト像を創り上げたように思えます。
それは単に世界に不幸を持ち込んで陰鬱な笑いを浮かべる自己充足的な悪魔ではないのです。
悪魔として生きなければならない自己の運命に哀しみを感じている悪魔でもあるのです。
かれは結局、オデットとジークフリートの愛の力で敗北しますが、ぼくたちにはその悪の滅びにすぐには快哉を送れない、複雑で微妙な感情が残るのです。
ロットバルトはおそらくオデットを愛してしまったのではないでしょうか。
かれの死は、あるいはオデットへの愛に破れた悲しい悪魔の、遠回りの自殺だったのではないでしょうか。
川村康二のロットバルトはそんな余韻をぼくらの心に残すのです。
肉体が精神の表現に変わるとき、バレエには言葉(セリフ)がないだけ、よりいっそう純粋な表現になるのです。
ぼくたちはこの夜、みずみずしい心のふるえを目のあたりにしたのです。
(注)貞松・浜田バレエ団「白鳥の湖」は、演出=貞松融・浜田蓉子、振り付け=貞松正一郎。演奏は江原功指揮びわ湖の風オーケストラ。
バレエ団の精神的な深さを代表する一人といっていいでしょう、瀬島五月さんがオデット姫を踊り、オーストラリアからこの神戸のバレエ団へやってきて今や舞踊界の人気者になっているアンドリュー・エルフィンストンさんがジークフリート王子を踊りました。
いうまでもなくバレエは肉体で表現する芸術です。
体の美しさ、そして技術の卓抜さが命です。
しかし、鍛練されたその体を通して、そこに精神のみずみずさと深さが現われるとき、バレエは最高の喜びに達します。
ふたりはみごとにそのような舞台を創造しました。
むしろ、もう肉体が見えなくなって精神そのものがそこで踊る、そういう瞬間さえあったといっていいでしょう。
第一幕の終わりは、夕暮れの憂愁が舞台いっぱいに満ちてくる場面です。
成年式を終えたジークフリート王子は、もう自由を満喫した青春と別れなければなりません。
あすはとうとう列国の王女たちを舞踏会に迎えて、そこから妃を選ぶことになったのです。
人生の曲がり角に立っている不安もあります。
どうしても心が沈んでいくのです。
エルフィンストンのジークフリートはその内面の憂鬱をあますところなく表現しました。
気品に満ちた体は決して大仰な動きに出ることはありませんが、ちょっとしたそぶりの中に心の揺らぎが鋭く表れてくるのです。
いましも哀愁を誘うオーボエの響きが白鳥の主題を奏でています。
はっと夕空を見上げる王子。
白鳥たちの群れが森を越えて、湖に向かおうとしています。
その美しい鳥たちが王子の内部を横切っていく、そのさまがぼくたちにありありと見えたのです。
悲劇の予感が忍び寄ってくるのです。
悲劇のクライマックスは第四幕、湖のほとりでジークフリートとオデットが再会するシーンです。
ここでは瀬島五月の決然とした表現がぼくたちを圧倒します。
悪魔の罠にかかってしまったふたりには、もう絶望しかありません。
オデットはついに命を断つ決断をするのです。
「死にます」
けれど、それは絶望だけからではありません。
瀬島の踊りの奥深さ、それはまさしくそこにもうひとつのエレメントが含まれていることから醸(かも)されてくるのです。
もうひとつの決意が沈黙の中に響きます。
「わたしはわたしの愛を貫きます」
絶望のすぐ裏にゆるぎない希望が生まれているのです。
その二重の表現にぼくらは圧倒されるのです。
そして、この恋人たちの悲劇をいっそう深くしてみせた第三の主役、ロットバルト。
川村康二の存在も書かないではいられません。
かれはここにきてかれ自身のロットバルト像を創り上げたように思えます。
それは単に世界に不幸を持ち込んで陰鬱な笑いを浮かべる自己充足的な悪魔ではないのです。
悪魔として生きなければならない自己の運命に哀しみを感じている悪魔でもあるのです。
かれは結局、オデットとジークフリートの愛の力で敗北しますが、ぼくたちにはその悪の滅びにすぐには快哉を送れない、複雑で微妙な感情が残るのです。
ロットバルトはおそらくオデットを愛してしまったのではないでしょうか。
かれの死は、あるいはオデットへの愛に破れた悲しい悪魔の、遠回りの自殺だったのではないでしょうか。
川村康二のロットバルトはそんな余韻をぼくらの心に残すのです。
肉体が精神の表現に変わるとき、バレエには言葉(セリフ)がないだけ、よりいっそう純粋な表現になるのです。
ぼくたちはこの夜、みずみずしい心のふるえを目のあたりにしたのです。
(注)貞松・浜田バレエ団「白鳥の湖」は、演出=貞松融・浜田蓉子、振り付け=貞松正一郎。演奏は江原功指揮びわ湖の風オーケストラ。
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