向井華奈子さんの「モダンダンスリサイタルⅠ」を新神戸オリエンタル劇場で見ました。(2012年11月10日)
向井さんは藤田佳代舞踊研究所(神戸市)に所属するダンサーです。
藤田研究所ではソリストたちが年に一回、自分たちのオリジナルな振り付け作品を中心にして、本格的なリサイタルを開いています。
向井さんにとっては、今回が初めてのリサイタルでした。
「柘榴」「虚空の底へ」「Phenomenon―私たちという現象」の三本が彼女のオリジナルな作品で、これに加えてほかのダンサーとの共作(オムニバス形式)による「SAND LOT」、そして研究所主宰・藤田佳代さん振り付けの作品「開く」が上演されました。
「柘榴」(ざくろ)についてはこのブログですでに採り上げたことがありますので、「虚空の底へ」と「Phenomenonn」(フェノメノン)について書いておきたいと思います。
あえて順序を逆にしますが、まず「Phenomenon」から。
出演者は、向井さんのほかに、貞松・浜田バレエ団から堤悠輔さん、Kobe Ballet Studioから文山絵真さんが加わって、合わせて三人になりました。
いくつもの山の切り立った尾根筋を微妙なバランスで縫(ぬ)っていくような、ひじょうにデリケートな作品でした。
三人のダンサーが舞台の上で出会うということ、それは出会ったその瞬間から三人の間にある強い関係が生まれるということです。
「Phenomenon」では、その相互の関係が転々と変化を続けていくのです。
三という数のもつ性格からいえば、そこに現われる関係は、あるいは男女の愛憎の物語かと想像されるかもしれません。
しかし向井さんの作品は、そのような常套的(じょうとうてき)な舞踊作法を軽々と超えていました。
むろん男女の関係もそこには含まれるでしょうが、作品の主題はもっと深いところにあるように見えたのです。
人間とはどのような存在なのか、その根源的なありかたにまで下りていこうという強い意図が見えました。
それでは人間の根源へ下りていこうとするそのダンスが、なぜそんなにデリケートな肌ざわりをもっているのか、ということになりますが、それはこういうわけなのです。
一口に言って、とても輻輳的(ふくそうてき)なのです。
観客にとっては最後のある一点に向かって一直線に進んでいく作品のほうが理解もしやすいのですが、「Phenomenon」はそれとは反対に、互いに対立する要素が休みなく現われてきて、はじめは観客をすこし混乱に誘います。
三人が親しい隣人のように踊るシーンが現われます。
そこにはやわらかな空気が流れます。
すると次には三人がそれぞれの孤独に陥っているような、そのような対極的な表現が、とくにこれといった前触れもなく始まります。
一転、寂しい空気が流れます。
そのような輻輳的な構造がさまざまなバリエーションで展開します。
調和のあとに疎外が来ます。
平衡のあとに崩落が来ます。
希望のあとに絶望が来るのです。
むろんその逆も起こります。
疎外のあとに調和が来ます。
崩落のあとに平衡が来ます。
絶望のあとに希望がやって来るのです。
それも、常にたんたんと。
あるいはこのように時系列的に書きとめるのは、あまり親切な案内とは言えないかもしれません。
むしろそれらの対立項は同時並行的に起こっていると言ったほうが実際の舞台の空気に近いような気もします。
調和と疎外が同時に来ます。
平衡と崩落が同時に来ます。
希望と絶望が同時にやって来るのです。
そのように同時並行的、つまり重層的に見ることで、舞踊家の洞察にいっそう近づくように思えます。
わたしたち人間は、じっさい、対立的な要素を重層的に持ち合わせている存在ではないかということです。
調和に生きながら疎外に生き、平衡を保ちながら崩落を続けていて、希望を育てながら絶望へ落ちていく(ということはつまり同時に、疎外に生きながら調和に生き、崩落を続けながら平衡を保っていて、絶望へ落ちながら希望を育てている…)、そのような存在ではないか、ということです。
いささか厄介な両義的存在だということです。
これをさらに突き詰めていけば、生きながら死んでいる(死にながら生きている)というデモーニッシュなヴィジョンにまで行きつくことになるでしょう。
さて、ではこれをどう乗り超えるかというところに、実は次の作品「虚空の底へ」がほとんどぴったりと、奇跡のように嵌(は)まるのです。
「虚空の底へ」は、十一人のダンサーで踊られました。
初めから終わりまでとても美しい作品でした。
ここで美しいというのは、踊りに現われる肉体の形そのものが美しいということです。
人間がこの世界で採る形には、歩く、走る、跳ぶ、泳ぐ、つかむ、食べる…、ともう無数の類型がありますが、その中でいちばん美しい形は何かといえば、それは祈りの形ではないでしょうか。
祈りの対象は神であったり、仏であったり、宇宙であったり、大地であったり、これは民族や地域によって多彩な変化がありますが、祈りの姿そのものには共通して美しい形(ここでは物理的な体の形のことを言っています)が現われます。
「虚空の底へ」には、一貫してその祈りの形を思わせるフォルムがつづられていくのです。
むろん舞踊には舞踊の言語がありますから、そこにある祈りは宗教的な表現とは完全に別のものです。
それどころか、宗教的な祈りの形からは最も遠いところにあるといっていいでしょう。
むしろ宗教が世俗化するに従って、宗教的な祈りには夾雑(きょうざつ)な要素が避けがたく混じり込んできましたが、それら濁りを帯びた祈りの隙間に残っているなお純粋な祈りの形、それが舞踊のなかに掬(すく)い取られているように思えます。
宗教が失いかけているものが、舞踊の中に甦っているのです。
では、どうしてその純粋な祈りの形が、厄介な人間の両義性を超えることになるのでしょう。
それは、おそらく、純粋な祈りの姿が全宇宙との対話の形だからではないでしょうか。
祈りによって人間は自己を全宇宙へ開くのです。
そして、全宇宙というのは、あらゆる対立項をすべて肯定的に受け入れる無限の空間にほかなりません。
宇宙はどのような局面にも、それでよし、と肯定的な回答を出すのです。
調和と疎外の双方に、それでよし、と答えます。
平衡と崩落の双方に、それでよし、と答えます。
希望と絶望の双方に、それでよし、と答えます。
人間のすべての面に、それでよし、と告げるのです。
この世界では引き裂かれ続ける人間ですが、宇宙の前では統合された存在になるのです。
人はそこであるがままの人間の姿を回復します。
「虚空の底へ」は救いを求める人間の姿が祈りの形で現われますが、もうそれは、すでに救われている人間の姿を表しているように見えるのです。
向井さんは第一回のリサイタルとは思えないほど、深いビジョンをわたしたちに示しました。
先が楽しみな舞踊家です。(了)
向井さんは藤田佳代舞踊研究所(神戸市)に所属するダンサーです。
藤田研究所ではソリストたちが年に一回、自分たちのオリジナルな振り付け作品を中心にして、本格的なリサイタルを開いています。
向井さんにとっては、今回が初めてのリサイタルでした。
「柘榴」「虚空の底へ」「Phenomenon―私たちという現象」の三本が彼女のオリジナルな作品で、これに加えてほかのダンサーとの共作(オムニバス形式)による「SAND LOT」、そして研究所主宰・藤田佳代さん振り付けの作品「開く」が上演されました。
「柘榴」(ざくろ)についてはこのブログですでに採り上げたことがありますので、「虚空の底へ」と「Phenomenonn」(フェノメノン)について書いておきたいと思います。
あえて順序を逆にしますが、まず「Phenomenon」から。
出演者は、向井さんのほかに、貞松・浜田バレエ団から堤悠輔さん、Kobe Ballet Studioから文山絵真さんが加わって、合わせて三人になりました。
いくつもの山の切り立った尾根筋を微妙なバランスで縫(ぬ)っていくような、ひじょうにデリケートな作品でした。
三人のダンサーが舞台の上で出会うということ、それは出会ったその瞬間から三人の間にある強い関係が生まれるということです。
「Phenomenon」では、その相互の関係が転々と変化を続けていくのです。
三という数のもつ性格からいえば、そこに現われる関係は、あるいは男女の愛憎の物語かと想像されるかもしれません。
しかし向井さんの作品は、そのような常套的(じょうとうてき)な舞踊作法を軽々と超えていました。
むろん男女の関係もそこには含まれるでしょうが、作品の主題はもっと深いところにあるように見えたのです。
人間とはどのような存在なのか、その根源的なありかたにまで下りていこうという強い意図が見えました。
それでは人間の根源へ下りていこうとするそのダンスが、なぜそんなにデリケートな肌ざわりをもっているのか、ということになりますが、それはこういうわけなのです。
一口に言って、とても輻輳的(ふくそうてき)なのです。
観客にとっては最後のある一点に向かって一直線に進んでいく作品のほうが理解もしやすいのですが、「Phenomenon」はそれとは反対に、互いに対立する要素が休みなく現われてきて、はじめは観客をすこし混乱に誘います。
三人が親しい隣人のように踊るシーンが現われます。
そこにはやわらかな空気が流れます。
すると次には三人がそれぞれの孤独に陥っているような、そのような対極的な表現が、とくにこれといった前触れもなく始まります。
一転、寂しい空気が流れます。
そのような輻輳的な構造がさまざまなバリエーションで展開します。
調和のあとに疎外が来ます。
平衡のあとに崩落が来ます。
希望のあとに絶望が来るのです。
むろんその逆も起こります。
疎外のあとに調和が来ます。
崩落のあとに平衡が来ます。
絶望のあとに希望がやって来るのです。
それも、常にたんたんと。
あるいはこのように時系列的に書きとめるのは、あまり親切な案内とは言えないかもしれません。
むしろそれらの対立項は同時並行的に起こっていると言ったほうが実際の舞台の空気に近いような気もします。
調和と疎外が同時に来ます。
平衡と崩落が同時に来ます。
希望と絶望が同時にやって来るのです。
そのように同時並行的、つまり重層的に見ることで、舞踊家の洞察にいっそう近づくように思えます。
わたしたち人間は、じっさい、対立的な要素を重層的に持ち合わせている存在ではないかということです。
調和に生きながら疎外に生き、平衡を保ちながら崩落を続けていて、希望を育てながら絶望へ落ちていく(ということはつまり同時に、疎外に生きながら調和に生き、崩落を続けながら平衡を保っていて、絶望へ落ちながら希望を育てている…)、そのような存在ではないか、ということです。
いささか厄介な両義的存在だということです。
これをさらに突き詰めていけば、生きながら死んでいる(死にながら生きている)というデモーニッシュなヴィジョンにまで行きつくことになるでしょう。
さて、ではこれをどう乗り超えるかというところに、実は次の作品「虚空の底へ」がほとんどぴったりと、奇跡のように嵌(は)まるのです。
「虚空の底へ」は、十一人のダンサーで踊られました。
初めから終わりまでとても美しい作品でした。
ここで美しいというのは、踊りに現われる肉体の形そのものが美しいということです。
人間がこの世界で採る形には、歩く、走る、跳ぶ、泳ぐ、つかむ、食べる…、ともう無数の類型がありますが、その中でいちばん美しい形は何かといえば、それは祈りの形ではないでしょうか。
祈りの対象は神であったり、仏であったり、宇宙であったり、大地であったり、これは民族や地域によって多彩な変化がありますが、祈りの姿そのものには共通して美しい形(ここでは物理的な体の形のことを言っています)が現われます。
「虚空の底へ」には、一貫してその祈りの形を思わせるフォルムがつづられていくのです。
むろん舞踊には舞踊の言語がありますから、そこにある祈りは宗教的な表現とは完全に別のものです。
それどころか、宗教的な祈りの形からは最も遠いところにあるといっていいでしょう。
むしろ宗教が世俗化するに従って、宗教的な祈りには夾雑(きょうざつ)な要素が避けがたく混じり込んできましたが、それら濁りを帯びた祈りの隙間に残っているなお純粋な祈りの形、それが舞踊のなかに掬(すく)い取られているように思えます。
宗教が失いかけているものが、舞踊の中に甦っているのです。
では、どうしてその純粋な祈りの形が、厄介な人間の両義性を超えることになるのでしょう。
それは、おそらく、純粋な祈りの姿が全宇宙との対話の形だからではないでしょうか。
祈りによって人間は自己を全宇宙へ開くのです。
そして、全宇宙というのは、あらゆる対立項をすべて肯定的に受け入れる無限の空間にほかなりません。
宇宙はどのような局面にも、それでよし、と肯定的な回答を出すのです。
調和と疎外の双方に、それでよし、と答えます。
平衡と崩落の双方に、それでよし、と答えます。
希望と絶望の双方に、それでよし、と答えます。
人間のすべての面に、それでよし、と告げるのです。
この世界では引き裂かれ続ける人間ですが、宇宙の前では統合された存在になるのです。
人はそこであるがままの人間の姿を回復します。
「虚空の底へ」は救いを求める人間の姿が祈りの形で現われますが、もうそれは、すでに救われている人間の姿を表しているように見えるのです。
向井さんは第一回のリサイタルとは思えないほど、深いビジョンをわたしたちに示しました。
先が楽しみな舞踊家です。(了)
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