今日は『ニュータイプ』の表現について、ファーストガンダム原理主義っぽい私が受入できる境界線について。
先日、こちらが発売されました。
【機動戦士ガンダム ナラティヴ 6巻】
劇場公開から3年近く経過したんですね。
コミックはスピード感ある映画原作を丁寧に描いていて、興味深い内容になってます。
映画に登場しないオリジナルキャラも登場し、目が離せない内容になってますね。
ただ、私はこの「ナラティヴ」劇場版を視聴した時に違和感を覚えたクチです。
所謂『ニュータイプのオカルト表現』が過激さを増し、派手な物語とは真逆に『流石に露骨な表現で嫌だなあ』とも感じたんですよね。
そもそも『ファーストガンダム』での『ニュータイプ』は
『認識力の拡大で会話無しでコミュニケーションができる』だから『人はわかりあえる』
といった程度の感じでした。
この表現から当時は『ニュータイプはエスパーとは違う存在』と理解してました。
しかし、『Z』ではバイオセンサーを通して『バリアー』張ったりと、『エスパー』的な表現となりガッカリしたものです。
『アクシズショック』は隕石を押し戻したり、『ユニコーン』ではコロニーレーザーをバリアーで防いだり、機械を分解したり、『ナラティヴ』では死人がモビルスーツ操縦したり、爆発を飲み込んだり。
何故、ここまで『ニュータイプ』能力の表現が過激になったのか。
それは、富野氏が描いてきた『ニュータイプ』を福井氏が真摯に丁寧に解釈し結論を出し、その結論から『ニュータイプ』ができる『可能性』を突き詰めて描いてしまったからでしょうね。
福井氏は過去のガンダム上の『ニュータイプ描写』を各シーン毎に分析したようです。
『ファーストガンダム』では『ミライがマチルダの死を予感する』『アムロがコロニーレーザーを発射前に警告する』事から、『予知能力がある』。
『アムロとララアが戦闘中に交信する』事から、『テレパシー能力がある』。
『アムロがララアが死ぬ間際に、人はいつか時間さえ支配する事だってできるさ』と言っている事から、『究極的に時間も支配できる』。
『脱出におけるカツレツキッカの道案内』は『透視能力』『空間把握能力』。
『アムロが死んだララアといつでも会えると言っている』事から、『死者と面会ができる』。
『Z』では『カミーユが死者からエネルギーを得ている』事から、『ニュータイプは死者から強力なエネルギーを得る事ができる』。
これらから、
『ガンダム世界には死後の世界がある。』
『死後の世界には死者の魂が存在している。』
『その世界には莫大なエネルギーがあり、時間・空間も超越されている。』
『ニュータイプは他の人と交信できるが、その能力の拡大により、死者と交信できる。』
『ニュータイプ同士の交信はより深い死者の世界との交信ができるきっかけとなる。』
『死者の世界が時間も超越している為、ニュータイプは予知能力や先読みが可能となる。』
『死者の世界には莫大なエネルギーがあるため、アクシズショックも何でも可能となる。』
『究極的に宇宙崩壊も可能となる。』
としているようです。
だから『ユニコーン』では『機械が時間を遡ったように分解』されたり、『ナラティヴ』では死んだニュータイプがモビルスーツを操縦したり、『不老不死が実現』とか話が出たりするようですね。
『ユニコーン』のバナージがラストで帰ってこなくなりそうになり、リディに引き戻される描写も、バナージが死者の世界の力を引き出し過ぎ、死者の世界と交信し過ぎて、死者の世界から帰還できなくなりそうになったことらしいです。
『TV版・Z』のラストも福井氏は、
『カミーユは、死に際のシロッコに死者の世界へ引きずり込まれた』
という解釈のようです。
『カミーユが最高のニュータイプ』
という解釈も『より深く死者の世界と交信していたニュータイプだから』というものらしい。
ちなみに、富野氏は明確にニュータイプを結論付けしてないですし、安彦氏は『ニュータイプ』になれば人がわかり合えて平和になるという考えを否定してます。
さて、私にとってのガンダムにおける『ニュータイプ』は、やはり『認識力の拡大』『空間把握能力の拡大』『普通より勘が鋭い』だけで良いと考えています。だから、
『ミライの予知能力』は『現代における『勘の鋭い人』が悪い予感がする』程度の能力。
『ララアとの交信』こそが『ニュータイプの認識力の拡大』
『アムロの先読み攻撃』は『認識力の拡大で、攻撃する直前の敵の意思をキャッチしてる』。
『脱出におけるカツレツキッカの道案内』は『空間把握能力の拡大』と『認識力の拡大』。
『死んだララアにいつでも会える』は死んだらいつでも会えるから、まだ生きていく宣言。
(ニュータイプ能力ではなく、人としての会話)
で良いと思います。
『サイコフレーム』は人の意思を高精度に受信し力に変換するもので、『アクシズショック』は生きてる人の意思を地上から大量に受信集積した奇跡かもしれないし、モビルスーツがたくさん頑張ったからアクシズ軌道がズレたのかもしれない。
逆に
『Z』のバイオセンサーを通じたバリアーは、サイコミュと違って『バリア機能がある設備』でもない。iフィールド装備の大型モビルアーマーでもないのに、強く念じただけでバリアー張るとか反則。(まあ、このシーンのせいで「ユニコーン」の各種描写にも抵抗無くなったというのはありますが。)
『ユニコーン』のマシンが製造前の状態に分解する現象は、ありえない。
(といっても、世の中にはありえない不思議な事もあるんですが)
といった感じです。
なので私にとっての「ニュータイプ描写」では『ファーストガンダム』と『z』の間に既に大きな境界線がありますね。
こんな事は気にしないで作品を楽しむようにしてはいますが、
『ニュータイプ描写に違和感のある作品』は『作品は楽しめても、違和感の無い作品ほどには好きになれない』
んですよね。
『完成されたニュータイプが時空を操り世界を滅ぼす事ができる』なら、ガンダムはニュータイプという特別に選ばれた人たちのドラマになってしまいます。
そういえば『Z』は特別なニュータイプと感じる人たち、カミーユ、シロッコ、ハマーン(とシャア)がドラマのクライマックスを作っていました。(こういう頂上決戦も盛り上がりますが)
『ファーストガンダム』は『普通の人たちが織りなすドラマの積み重ね』だったと感じています。
『ニュータイプ』も絶対では無く『一人で戦争に勝てる』ものでもなく、ちょっとだけ認識力が優れている程度で良い。
私はそう感じます。
不完全な人間が成長し精一杯あがいて、うまくいくものでもないけど、不条理な現実を変える努力をする。特別な人間なんていない。努力しても神様みたいな存在になれるものでもない。それでも努力する。
ドラマとしても、その方がリアリティがあって面白いですよ。
このあたりは安彦氏と考え方が似てるかもしれません。
『ユニコーン』はバナージが特別な力をクライマックスで発現したような描写がありますが、物語が全般的に「ダメだけど、それでもと言い続ける」ドラマでした。
『Z』のカミーユに至っては不条理の連続でした。TV版は最後まで報われません。
その点でも2作品とも嫌いじゃないです。
ただ、酷かったけど努力し続けたら『神様みたいな力』を得る可能性がある境地に至る必要はないかなと。
普通の人と大きく変わらないままで、それでも努力して少し報われる。ドラマとしてその方が良いと感じますし、『ファーストガンダムに始まる宇宙世紀ガンダム』としての世界観も『ニュータイプに特別な能力を付与し過ぎない』方が良いと思うのです。
皆さんはどう感じてますか?
先日、こちらが発売されました。
【機動戦士ガンダム ナラティヴ 6巻】
劇場公開から3年近く経過したんですね。
コミックはスピード感ある映画原作を丁寧に描いていて、興味深い内容になってます。
映画に登場しないオリジナルキャラも登場し、目が離せない内容になってますね。
ただ、私はこの「ナラティヴ」劇場版を視聴した時に違和感を覚えたクチです。
所謂『ニュータイプのオカルト表現』が過激さを増し、派手な物語とは真逆に『流石に露骨な表現で嫌だなあ』とも感じたんですよね。
そもそも『ファーストガンダム』での『ニュータイプ』は
『認識力の拡大で会話無しでコミュニケーションができる』だから『人はわかりあえる』
といった程度の感じでした。
この表現から当時は『ニュータイプはエスパーとは違う存在』と理解してました。
しかし、『Z』ではバイオセンサーを通して『バリアー』張ったりと、『エスパー』的な表現となりガッカリしたものです。
『アクシズショック』は隕石を押し戻したり、『ユニコーン』ではコロニーレーザーをバリアーで防いだり、機械を分解したり、『ナラティヴ』では死人がモビルスーツ操縦したり、爆発を飲み込んだり。
何故、ここまで『ニュータイプ』能力の表現が過激になったのか。
それは、富野氏が描いてきた『ニュータイプ』を福井氏が真摯に丁寧に解釈し結論を出し、その結論から『ニュータイプ』ができる『可能性』を突き詰めて描いてしまったからでしょうね。
福井氏は過去のガンダム上の『ニュータイプ描写』を各シーン毎に分析したようです。
『ファーストガンダム』では『ミライがマチルダの死を予感する』『アムロがコロニーレーザーを発射前に警告する』事から、『予知能力がある』。
『アムロとララアが戦闘中に交信する』事から、『テレパシー能力がある』。
『アムロがララアが死ぬ間際に、人はいつか時間さえ支配する事だってできるさ』と言っている事から、『究極的に時間も支配できる』。
『脱出におけるカツレツキッカの道案内』は『透視能力』『空間把握能力』。
『アムロが死んだララアといつでも会えると言っている』事から、『死者と面会ができる』。
『Z』では『カミーユが死者からエネルギーを得ている』事から、『ニュータイプは死者から強力なエネルギーを得る事ができる』。
これらから、
『ガンダム世界には死後の世界がある。』
『死後の世界には死者の魂が存在している。』
『その世界には莫大なエネルギーがあり、時間・空間も超越されている。』
『ニュータイプは他の人と交信できるが、その能力の拡大により、死者と交信できる。』
『ニュータイプ同士の交信はより深い死者の世界との交信ができるきっかけとなる。』
『死者の世界が時間も超越している為、ニュータイプは予知能力や先読みが可能となる。』
『死者の世界には莫大なエネルギーがあるため、アクシズショックも何でも可能となる。』
『究極的に宇宙崩壊も可能となる。』
としているようです。
だから『ユニコーン』では『機械が時間を遡ったように分解』されたり、『ナラティヴ』では死んだニュータイプがモビルスーツを操縦したり、『不老不死が実現』とか話が出たりするようですね。
『ユニコーン』のバナージがラストで帰ってこなくなりそうになり、リディに引き戻される描写も、バナージが死者の世界の力を引き出し過ぎ、死者の世界と交信し過ぎて、死者の世界から帰還できなくなりそうになったことらしいです。
『TV版・Z』のラストも福井氏は、
『カミーユは、死に際のシロッコに死者の世界へ引きずり込まれた』
という解釈のようです。
『カミーユが最高のニュータイプ』
という解釈も『より深く死者の世界と交信していたニュータイプだから』というものらしい。
ちなみに、富野氏は明確にニュータイプを結論付けしてないですし、安彦氏は『ニュータイプ』になれば人がわかり合えて平和になるという考えを否定してます。
さて、私にとってのガンダムにおける『ニュータイプ』は、やはり『認識力の拡大』『空間把握能力の拡大』『普通より勘が鋭い』だけで良いと考えています。だから、
『ミライの予知能力』は『現代における『勘の鋭い人』が悪い予感がする』程度の能力。
『ララアとの交信』こそが『ニュータイプの認識力の拡大』
『アムロの先読み攻撃』は『認識力の拡大で、攻撃する直前の敵の意思をキャッチしてる』。
『脱出におけるカツレツキッカの道案内』は『空間把握能力の拡大』と『認識力の拡大』。
『死んだララアにいつでも会える』は死んだらいつでも会えるから、まだ生きていく宣言。
(ニュータイプ能力ではなく、人としての会話)
で良いと思います。
『サイコフレーム』は人の意思を高精度に受信し力に変換するもので、『アクシズショック』は生きてる人の意思を地上から大量に受信集積した奇跡かもしれないし、モビルスーツがたくさん頑張ったからアクシズ軌道がズレたのかもしれない。
逆に
『Z』のバイオセンサーを通じたバリアーは、サイコミュと違って『バリア機能がある設備』でもない。iフィールド装備の大型モビルアーマーでもないのに、強く念じただけでバリアー張るとか反則。(まあ、このシーンのせいで「ユニコーン」の各種描写にも抵抗無くなったというのはありますが。)
『ユニコーン』のマシンが製造前の状態に分解する現象は、ありえない。
(といっても、世の中にはありえない不思議な事もあるんですが)
といった感じです。
なので私にとっての「ニュータイプ描写」では『ファーストガンダム』と『z』の間に既に大きな境界線がありますね。
こんな事は気にしないで作品を楽しむようにしてはいますが、
『ニュータイプ描写に違和感のある作品』は『作品は楽しめても、違和感の無い作品ほどには好きになれない』
んですよね。
『完成されたニュータイプが時空を操り世界を滅ぼす事ができる』なら、ガンダムはニュータイプという特別に選ばれた人たちのドラマになってしまいます。
そういえば『Z』は特別なニュータイプと感じる人たち、カミーユ、シロッコ、ハマーン(とシャア)がドラマのクライマックスを作っていました。(こういう頂上決戦も盛り上がりますが)
『ファーストガンダム』は『普通の人たちが織りなすドラマの積み重ね』だったと感じています。
『ニュータイプ』も絶対では無く『一人で戦争に勝てる』ものでもなく、ちょっとだけ認識力が優れている程度で良い。
私はそう感じます。
不完全な人間が成長し精一杯あがいて、うまくいくものでもないけど、不条理な現実を変える努力をする。特別な人間なんていない。努力しても神様みたいな存在になれるものでもない。それでも努力する。
ドラマとしても、その方がリアリティがあって面白いですよ。
このあたりは安彦氏と考え方が似てるかもしれません。
『ユニコーン』はバナージが特別な力をクライマックスで発現したような描写がありますが、物語が全般的に「ダメだけど、それでもと言い続ける」ドラマでした。
『Z』のカミーユに至っては不条理の連続でした。TV版は最後まで報われません。
その点でも2作品とも嫌いじゃないです。
ただ、酷かったけど努力し続けたら『神様みたいな力』を得る可能性がある境地に至る必要はないかなと。
普通の人と大きく変わらないままで、それでも努力して少し報われる。ドラマとしてその方が良いと感じますし、『ファーストガンダムに始まる宇宙世紀ガンダム』としての世界観も『ニュータイプに特別な能力を付与し過ぎない』方が良いと思うのです。
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