8月6日、66年前、広島にアメリカ軍によってウラン型原子爆弾が投下された日である。
そして2011年の今日、福島第一原発事故は終息が見えないまま続いている。
核兵器と原子力発電は同根のものである。そのことを私達は今回の事故ではっきり知った。
「核兵器」と「原子力の平和利用」の名の元の原子力発電は、切り離して考えることはできない。
核爆弾はそれが爆弾として実際使用されれば、広島、長崎の惨状が再び起きるわけだし、爆発しなくても事故、いやそれ以前に核爆弾製造工場ではそこで働く労働者は日常的に被曝にさらされている。
原発も同じだ。被曝労働なしに運転し続けることはできない。
いちはやく「原爆の製造」に成功したアメリカは、その実験を広島・長崎で試みた。砂漠での実験では得られない街の破壊、人々の破壊がどのように進むのか、これ以上ない結果を得た。
広島ではウラン型、長崎ではプルトニウム型。
日本を降伏させるには広島一発で充分なはずだが、最強・最悪の兵器を我が物にしたアメリカは一気に両方試したかった。
アメリカの無人の砂漠からアジア人の住む街に実験場は進化した。
原子爆弾の実験の次は水素爆弾だ。
実験場は太平洋上のビキニ環礁。周辺の島々にはポリネシア系の原住民が自然の恵みを利用した生活を続けているところだった。
この海域もアメリカは実験で汚した。
そして1954年3月のビキニでの水爆実験で日本のマグロ漁船第5福竜丸が「死の灰」を浴びた。
この時、船上に降って来る灰の意味を船員達はすぐ知るところとなる。
後に「死の灰」の最初の犠牲者となった無線長の久保山愛吉は、アメリカ軍の機密に遭遇したことを察知。見つかれば船もろとも爆破沈没させられると、いっさいの交信をせず、焼津港に帰港した。この時「死の灰」を持ち帰り、御用学者ではない学者に分析を託した。
『ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸』ベン・シャーン=絵、アーサー・ビナード構成(集英社)
という本を出した、日本で活動する詩人のアーサー・ビナード氏がCS「朝日ニュースター」という番組で語っていた。
このエピソードは知らなかった。
以前、NHK教育テレビで、第5福竜丸生き残りの大石又七と大江健三郎の対談番組を見たが、聞き漏らしたか、また例のNHKの編集か、この事実は語っていなかったように思う。
大石氏は、帰港してすぐ入院、だが1年3ヵ月後に退院させられたと語っていた。「治ったからではなく、この事故は終わったという演出のためだ」と言っていた。
大石氏はその後結婚、子供ができるが、赤ん坊は死産。死の灰が原因と思われる奇形児だった。
この後、日本で大々的な反米・反核運動が巻き起こり、それを沈静化するためにアイゼンハワー米大統領主導で、「原子力の平和利用」が実際化されていくことになった経過は、最近の新聞記事でも明らかになっているところだ。
アメリカ以外の国々は「核兵器」を持つことが、対外的にハリネズミの針になると考え、第二次大戦の戦勝国は次々に核実験をし、核兵器を持つようになった。
最近では、これ以外の国も核を持ち、原子力発電所はいつでも核に転用できるプルトニウムの生産ための隠れみのとなっている。
「核兵器」、「原子力発電」、人類に牙をむくこの両方を捨てなければならない。
「原発廃炉」は単なるエネルギーのあれかこれかの問題ではない。
日本の諜報機関は、テニアン島のB29の電波を数ヶ月前から捉え、ヒロシマ・ナガサキ原爆投下の可能性を察知、大本営にも報告したが、無視され、空襲警報さえ出されなかった。
66年経過して、ようやく明るみに出た経過。
書類は敗戦後、大量に処分されたが、徹底的に調べて欲し歴史の出来事です。
参謀本部のある一部とアメリカはぐるだったんじゃないかとさえ思ったほどです。
敗戦が決定的なった段階で、敵側につく者がいるのは世の習いです。