映像の豪華さに満足。ドラマの薄っぺらさに不満足。スピルバーグなら・・・とかIFの世界に思いを馳せ、黒澤の影響かと深読みし、それ以上に深読みどころか妄想モードでチャン・イーモウになりきって複雑な思いにとらわれる・・・
以下の長い文章にその辺の詳細を記す。
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[好みの問題・・・豪華なの大好きさ]
かつて"監督:スピルバーグ"で企画が進行していた時、黒澤明がスピルバーグに「日本の女優で日本語で撮るべきだよ」と伝えたと、どこかで読んだ。
結果として監督はスピからロブ・マーシャルに替わり、中国の女優が英語で日本文化を語る映画になってしまった。そこは批判するのも笑い飛ばすのもどっちでも良かろう。好みの問題。(もちろん、監督替わらなくたって、シンドラーやポーランドのユダヤ人に流暢な英語を喋らせたスピルバーグが日本語で撮ることはなかったろう・・と思うけど)
「さゆり」でなく「SaYuuuRi」と発音するところを"無神経"ととって批判するか、"ギャグ"ととってプッと笑うか? ここもお好きに。
好みの問題って点でいくと、超豪華絢爛な花街再現のセットは私好みである。千代が屋根の上から花街の全景を眺めるショットの、かっこいいこと!!すごいこと!!
純粋な好みからいえば、「かつての町並みを再現!!」が、手段でなく目的と化してしまうような映画の場合、昭和30年代の東京下町を再現するより、花街を再現してくれる方が好きである。成金趣味だけど。映像の豪華さに救われ、そこそこの充実感を味わえた映画だった。
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[好みの問題じゃない欠点・・・スピルバーグならもうちょい…なんて思っちゃう]
しかし、時代性を描かない、というのは好みの問題ではなく、致命的な間違いだったと考える。
映画「SAYURI」に対して、ただ見た目煌びやかなだけの、味も素っ気もないメロドラマである、という感想を抱いてしまうのは、時代性、もっとはっきり言えば戦争を描かないからだと思う。
昭和10~20年代の日本、という嫌でも戦争を描かざるを得ない時代背景のドラマにおいて、本当に嫌だけど仕方なく申し訳程度に戦争を描いたかの様な脚本がいけない。
軍隊が花街を接収する、あの一瞬で終わってしまったシーン。スピルバーグならああいうシーンに力を入れたのではないだろうか。
焼夷弾降り注ぐ中命からがら逃げ惑うくらいの描写が欲しかった。
ただ女が数人が嫉妬、妬み、やっかみを言い合うだけでは、"運命に翻弄された"というほどの物語になんかなりゃしない。
時代の激動の中、自分が生き残るため、愛する者を救うため誰かを犠牲にしたり、それこそ血を吐くような苦労と、死ぬ思いと、苦渋の決断と・・・そういうものの積み重ねがあって初めて"運命"まで想いを抱かせることができる。
ハンカチ一枚捨てるために、絶景の崖っぷちを訪れる、美しいショットだって、「この女、すげーロマンチストだなあ・・・悲劇に見舞われても、そういう自分に酔うタイプだよなあ・・・」としか思えない。つらいエピソードの積み重ねの果てにああいう美しいシーンをもってこないと浮くだけだ。
渡辺謙だってなぜちっちゃい千代に惚れたのか理解に苦しむ。現代なら性犯罪者になってそうだ、などと思っちゃうのも渡辺謙が戦争やなんかでつらい思いしたエピソードが皆無だからではないか?
それというのも、やはりアメリカ人が作ったドラマだからではなかろうか。
戦争加害者として日本人を描けば登場人物に感情移入できなくなるし、戦争被害者として日本人を描けば、アメリカはじめ戦勝国の観客たちの反発を喰らうだろう。
そんなこんなで場面変わればもう戦争は終わっている、というNHK大河ドラマの終盤のようにスピーディーな展開となってしまった。
東洋人女優が芸者のかっこしてりゃみんな喜ぶだろう、という浅はかな考えが伺える・・・とは言いすぎかな?
とはいえ、終盤に登場するアメリカの軍人のバカっぽさなど、よくアメリカ映画で描けたものだ。この映画ではアメリカ人は、伝統を汚すいってみれば"悪"として描かれている。描き方は中途半端だが、アメリカ映画としてはよくやったものだろう。そのへん、一応"日本人の物語"を作ろうと、日本人に感情移入してシナリオを作りあげたのだと思う。
******************
[深読みモード・・・ひょっとして黒澤の影響?]
始めに黒澤に言及したけど、黒澤関連で「おや?」っと興味を引かれたところ。
黒澤明の自伝「蝦蟇の油」にこんなことが書かれていた。
黒澤の助監督時代、彼が師と仰ぐ山本嘉次郎監督が一冊の時代小説を持ってきて、これを脚色してみろと言う。その小説のあるくだり、若侍が藩だか幕府だかが立てた高札を見てその内容に憤慨し、仲間たちの溜まり場に帰ってその内容を話す・・・そんな場面を黒澤は原作そのままに脚色した。
しかしそれを読んだ山本は、これではいけないと言う。小説ならこれでもいいが、映画はこれじゃダメだ、と言って、さらさらと黒澤のホンを書き直す。
"山本版"においてその場面は以下のようになっていた。
高札の内容に激昂した若侍は高札を引っこ抜いて持ち帰り、それを仲間たちの前に投げ出して「これを見ろ!!」と言う。
黒澤はこのエピソードを一例に、カジさんの脚本はほんとに凄い、みたいなことを書いていた。
・・・さて、何が言いたいかと言えば、「SAYURI」で看板芸者のプライド高いコン・リーが、チャン・ツィイー大写しのポスターを街で見かけ、激怒してそのポスターを破って持ち帰り、桃井かおりの前に投げ出して「これはどういうこと!!?」と詰め寄るシーン。黒澤自伝の上記のエピソードそのまんまで、もしかして原作でもそうなってるのかもしれないけど、ひょっとしてロブ・マーシャルは「蝦蟇の油」読んだのかも?? なんて思っちゃった。
******************
[妄想モード・・・これはチャン・イーモウ映画史か?]
ただこの映画「SAYURI」においては、黒澤の影響なんて考えるより、チャン・イーモウのこと考えるほうがよっぽど楽しい深読みができる。
人気No.1だったコン・リーが年とると、No.1の座をチャン・ツィイーに奪われる
まるでチャン・イーモウのフィルモグラフィーがコンパクトにまとめられているみたいである。
清純派から、エロっ気むんむん肉体派へとチャン・ツィイーが変貌していく様も、チャン・イーモウ映画をダイジェストで観ている気分になる。
かつての恋人と現在のお気に入りが罵りあい取っ組み合う様を、チャン・イーモウはどんな想いで観るのだろうか・・・?
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自主映画撮ってます。松本自主映画製作工房 スタジオゆんふぁのHP
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[好みの問題・・・豪華なの大好きさ]
かつて"監督:スピルバーグ"で企画が進行していた時、黒澤明がスピルバーグに「日本の女優で日本語で撮るべきだよ」と伝えたと、どこかで読んだ。
結果として監督はスピからロブ・マーシャルに替わり、中国の女優が英語で日本文化を語る映画になってしまった。そこは批判するのも笑い飛ばすのもどっちでも良かろう。好みの問題。(もちろん、監督替わらなくたって、シンドラーやポーランドのユダヤ人に流暢な英語を喋らせたスピルバーグが日本語で撮ることはなかったろう・・と思うけど)
「さゆり」でなく「SaYuuuRi」と発音するところを"無神経"ととって批判するか、"ギャグ"ととってプッと笑うか? ここもお好きに。
好みの問題って点でいくと、超豪華絢爛な花街再現のセットは私好みである。千代が屋根の上から花街の全景を眺めるショットの、かっこいいこと!!すごいこと!!
純粋な好みからいえば、「かつての町並みを再現!!」が、手段でなく目的と化してしまうような映画の場合、昭和30年代の東京下町を再現するより、花街を再現してくれる方が好きである。成金趣味だけど。映像の豪華さに救われ、そこそこの充実感を味わえた映画だった。
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[好みの問題じゃない欠点・・・スピルバーグならもうちょい…なんて思っちゃう]
しかし、時代性を描かない、というのは好みの問題ではなく、致命的な間違いだったと考える。
映画「SAYURI」に対して、ただ見た目煌びやかなだけの、味も素っ気もないメロドラマである、という感想を抱いてしまうのは、時代性、もっとはっきり言えば戦争を描かないからだと思う。
昭和10~20年代の日本、という嫌でも戦争を描かざるを得ない時代背景のドラマにおいて、本当に嫌だけど仕方なく申し訳程度に戦争を描いたかの様な脚本がいけない。
軍隊が花街を接収する、あの一瞬で終わってしまったシーン。スピルバーグならああいうシーンに力を入れたのではないだろうか。
焼夷弾降り注ぐ中命からがら逃げ惑うくらいの描写が欲しかった。
ただ女が数人が嫉妬、妬み、やっかみを言い合うだけでは、"運命に翻弄された"というほどの物語になんかなりゃしない。
時代の激動の中、自分が生き残るため、愛する者を救うため誰かを犠牲にしたり、それこそ血を吐くような苦労と、死ぬ思いと、苦渋の決断と・・・そういうものの積み重ねがあって初めて"運命"まで想いを抱かせることができる。
ハンカチ一枚捨てるために、絶景の崖っぷちを訪れる、美しいショットだって、「この女、すげーロマンチストだなあ・・・悲劇に見舞われても、そういう自分に酔うタイプだよなあ・・・」としか思えない。つらいエピソードの積み重ねの果てにああいう美しいシーンをもってこないと浮くだけだ。
渡辺謙だってなぜちっちゃい千代に惚れたのか理解に苦しむ。現代なら性犯罪者になってそうだ、などと思っちゃうのも渡辺謙が戦争やなんかでつらい思いしたエピソードが皆無だからではないか?
それというのも、やはりアメリカ人が作ったドラマだからではなかろうか。
戦争加害者として日本人を描けば登場人物に感情移入できなくなるし、戦争被害者として日本人を描けば、アメリカはじめ戦勝国の観客たちの反発を喰らうだろう。
そんなこんなで場面変わればもう戦争は終わっている、というNHK大河ドラマの終盤のようにスピーディーな展開となってしまった。
東洋人女優が芸者のかっこしてりゃみんな喜ぶだろう、という浅はかな考えが伺える・・・とは言いすぎかな?
とはいえ、終盤に登場するアメリカの軍人のバカっぽさなど、よくアメリカ映画で描けたものだ。この映画ではアメリカ人は、伝統を汚すいってみれば"悪"として描かれている。描き方は中途半端だが、アメリカ映画としてはよくやったものだろう。そのへん、一応"日本人の物語"を作ろうと、日本人に感情移入してシナリオを作りあげたのだと思う。
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[深読みモード・・・ひょっとして黒澤の影響?]
始めに黒澤に言及したけど、黒澤関連で「おや?」っと興味を引かれたところ。
黒澤明の自伝「蝦蟇の油」にこんなことが書かれていた。
黒澤の助監督時代、彼が師と仰ぐ山本嘉次郎監督が一冊の時代小説を持ってきて、これを脚色してみろと言う。その小説のあるくだり、若侍が藩だか幕府だかが立てた高札を見てその内容に憤慨し、仲間たちの溜まり場に帰ってその内容を話す・・・そんな場面を黒澤は原作そのままに脚色した。
しかしそれを読んだ山本は、これではいけないと言う。小説ならこれでもいいが、映画はこれじゃダメだ、と言って、さらさらと黒澤のホンを書き直す。
"山本版"においてその場面は以下のようになっていた。
高札の内容に激昂した若侍は高札を引っこ抜いて持ち帰り、それを仲間たちの前に投げ出して「これを見ろ!!」と言う。
黒澤はこのエピソードを一例に、カジさんの脚本はほんとに凄い、みたいなことを書いていた。
・・・さて、何が言いたいかと言えば、「SAYURI」で看板芸者のプライド高いコン・リーが、チャン・ツィイー大写しのポスターを街で見かけ、激怒してそのポスターを破って持ち帰り、桃井かおりの前に投げ出して「これはどういうこと!!?」と詰め寄るシーン。黒澤自伝の上記のエピソードそのまんまで、もしかして原作でもそうなってるのかもしれないけど、ひょっとしてロブ・マーシャルは「蝦蟇の油」読んだのかも?? なんて思っちゃった。
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[妄想モード・・・これはチャン・イーモウ映画史か?]
ただこの映画「SAYURI」においては、黒澤の影響なんて考えるより、チャン・イーモウのこと考えるほうがよっぽど楽しい深読みができる。
人気No.1だったコン・リーが年とると、No.1の座をチャン・ツィイーに奪われる
まるでチャン・イーモウのフィルモグラフィーがコンパクトにまとめられているみたいである。
清純派から、エロっ気むんむん肉体派へとチャン・ツィイーが変貌していく様も、チャン・イーモウ映画をダイジェストで観ている気分になる。
かつての恋人と現在のお気に入りが罵りあい取っ組み合う様を、チャン・イーモウはどんな想いで観るのだろうか・・・?
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まさにその通り。
女性同士の、大奥まがいの戦いだけでは、馬鹿馬鹿しいですね。
もっと彼女のあの時代における生き様を描かないと・・・。
「俺ならもっとイイ映画にしてみせるっ!」と、完全チャイナ版「メモリー・オブ・ゲイシャ」
を撮りだしそうに思います。
私の祖母は京都の街中に住んでましたが、「慌てて疎開したわりに、
なんもなかった・・・」と言ってましたから、結構あの戦争描写は現実に
近いのかもしれません。戦争苦体験に関しては、「戦後、鯖が食いたいという死にそうな父親のために日本海まで鯖をリュックいっぱい
買いに行ったこと」しかないようです。
ツィーも、ハンカチを投げた後、リュックいっぱいの鯖を買って「みやこ」に
帰って欲しかったものだ・・・と残念です。
なるほど、そういう見方は楽しいですねぇ♪
大奥まがいっていうかドラマの大奥の方が面白いくらいでした。最後に「これは王女や姫さまの話ではなく、普通の女性の話です」みたいなモノローグがありましたが、つまらないストーリーの言い訳みたいに聞こえました。
>RINさま
>かえるさま
イーモウならもっと田舎描写に力いれて、もっと露骨にエキゾチックな音楽にしてたでしょう。
だいたい、いまさらコン・リーもツィーイちゃんもどうでもよく、健さんと楽しく映画撮りたいだけかもしれないですね
そんなこんなで今年もよろしくです