個人的評価: ■■■■□□
[6段階評価 最高:■■■■■■(めったに出さない)、最悪:■□□□□□(わりとよく出す)]
監督の佐藤信介という方に少しばかり思い入れがある。
2008年に亡くなられた名匠・市川準監督の代表作というべき「東京夜曲」の脚本を書かれた方だ。
その後も「たどんとちくわ」「ざわざわ下北沢」で市川準監督の脚本を手がけている。後の二作は残念ながら傑作というわけにはいかなかったが、「東京夜曲」でほとんど自分のスタイルを完成させた市川準監督が、新たな頂を目指して動き出した頃に一緒に創作していたのだから、かなり信頼されていた方だったのだと思う。
たしか2001年にまだ10代だったころの仲間由紀恵主演で撮った「LOVE SONG」が公開され、それが監督デビュー。「東京夜曲」の脚本家のデビュー作ということで劇場に観に行った。市川準と岩井俊二の中間地点にあたるような恋愛映画の佳作で、好印象を持った。
ところが同じ年に釈由美子主演のアクション映画「修羅雪姫」も監督。刀で掌を貫かれそのまま地面に釘付けにされた釈由美子の闘う姿にただならぬ迫力を感じたことを覚えている。
しかし「東京夜曲」から「LOVE SONG」への流れはごく自然に思えたが、そこから「修羅雪姫」への流れはよくわからなかった。その後も様々な作品を監督したり、脚本を書いたりしていたらしいが、残念ながら観る機会はなかった。
そしてCGアニメの「ホッタラケの島」へ
いったいどこを目指しているのやらさっぱりわからないが、それだけに今後の動向が気になる映像作家だ。
だが女の子の自分探しという点で「LOVE SONG」「修羅雪姫」「ホッタラケ」に共通項を見出す事は可能だ。
------
それはさておき「ホッタラケ」であるが、アニメらしいダイナミックでスピーディなアクションシーンの密度が、後半に進むほど高くなっていき、心地よい高揚感を与えてくれる。最初こそ、プレステゲームのイベントシーンに毛が生えた程度の、ぎこちない動きをするCGキャラに「セルでいいじゃん」と異議を唱えたくもなった。だが、そのうちストーリーにのめり込みヒロインの遥に感情移入して、最後の方ではすこしウルリと涙腺がゆるんだ。やはり表現方法より、物語や映画的演出が重要なのである。ハードよりソフト(使い方間違えてる?)。
この映画は、我々現代人に、オモチャやぬいぐるみと同じように「愛や友情のつまった思い出」までもホッタラケにしていたことを教えてくれる。CGというデジタル表現で、しかし結局は心の繋がりというアナログの大切さを伝えてくれる。とても感動的ないい話だったし、ドキドキワクワクの大冒険に心が弾んだ90分だった・・・
------
と、表向きの感想はこの程度にして、ここからはエロおっさんモード全開で「CGパンツ論」を展開してみたい。
本作に素直に感動したピュアな皆さんは、以下を読まないことをお薦めします。
-----
ハリウッドでセルアニメがほぼ駆逐され、ハリウッドのアニメといえばCGばかり・・・という状況になって随分経つ。
思えばアカデミーでアニメ部門が創設された年あたりから急速にCG作品が勢力を延ばし始めたものだ。まだ歴史の浅いアカデミー賞のアニメ部門だが、これまでのところセルアニメの受賞は「千と千尋の神隠し」だけである。
(余談だが、第1回アカデミー賞の年に初のトーキー作品「ジャズシンガー」が公開され、アカデミー元年がほぼサイレント没年となったことを思い出す。)
ハリウッドがそのような状況であるにも関わらず、我がジャパンは今でもアニメ映画といえば主流はセルアニメであり、フルCG表現においてはハリウッドに水をあけられている形だ。「WALL・E」のCG表現など間違いなくその分野で世界最高峰だ。
そんな中、あえてフルCGアニメを制作したクリエイターの意図は何か。なぜCGでなければならなかったのか・・・
私が本作で感じたのは、クリエイターたちが、CGというツールを「パンツへの挑戦」のために使ったのではないか・・・という事である。
本作においてカメラ(という表現は適切ではないが意図は汲んでくれよう)はローポジションが非常に多く、女子高生制服ミニスカヒロイン遥の躍動する足と、なびくミニスカの裾がやたらに強調されている。
そこで刺激されるのは、「パンツを観たい」という(主に男の) 衝動だ。
CGがセルに対して優れているものは何か・・・と考えれば、それは立体感溢れる映像が生む「肉感」であろう。
細田守監督の「時をかける少女」も、ミニスカ女子高生の下半身が随分印象に残る作品ではあったが、独特の陰影のない作画の影響もあってか(個人的には)エロスを感じない作品だった。
だが本作は、CGによる肉感効果により、すさまじいエロスに襲われる。
立体感によるリアルがそんなにいいなら、実写の方がもっといいだろう・・・とも思えるが、実写の場合、物理的制約が撮影に課される。カメラ位置とか重力とか明るさとかそういった問題だ。それに比べアニメでは、被写体を完全にクリエイターの支配下に置く事ができる。
CGによる完全なモーションコントロールにより、ローポジション主体のカメラで遥の肉感のある足をさんざん映しながら、その向こうのパンツはギリギリのところで映さない・・・ということを可能にする。
そう、本作は「パンツ」が裏テーマだと思う。
映画が始まり、幼少期の遥の短いシーンに続いて、高校生・遥の初登場シーンとなる。
全編通して制服ミニスカの衣装であり続けた高校生・遥のファーストショットは、ローポジションのカメラによる下半身だけのショットだった。しかもその遥ファーストカットにおいて下半身だけの遥は「カメラまたぎ」までする。だが、影や微妙な足の動きにより、パンツの色やフォルムは判然としない。
「シナリオの15分ルール」に即して説明すれば、「最初の15分で『惜しくも見えないパンツ』を呈示する事で、『この物語の最終目的はパンツを見る事だ』と観客に意識させ、それをドラマの求心力としている」・・・となろう。
その後の、自室で友だちと語るシーンにおいても、遥は足をカメラに向けて、つまり我々観客の方に足を向けてベッドに仰向けになる。もちろんカメラはローポジだ。
さらに、家を飛び出しおばあちゃん家のそばの稲荷において、「境内の階段でまどろみながら体をずり落とす」など、見えそうで見えない映像が続く。
そしてホッタラケの世界に飛び込み、大冒険となっても、カメラは隙あらば遥のパンツを映そうと、ローアングルで走る遥を追いかけたり、遥も「カメラまたぎ」を何度か見せはするが、スクリーンで遥のパンツを目視する事はできない。
さらには、アクションシーンの多くなる後半になると、足を上にして落下する遥を、これで見えなきゃおかしいという絶妙のポジションのカメラで映す。・・・にもかかわらず、被写体の微妙な動きや陰影によってパンツは覆い隠される。
徹底的にCGはパンツを見せない方、見せない方へと被写体をコントロールしていく。
故・伊丹十三監督のような露骨にエロい人なら見せる方見せる方へとコントロールしたことだろう・・・とこれは余談。
もはやフラストレーションである。クライマックスに突入しテンションの上がる物語にあわせ、観客のパンツ衝動も加速される。
そして、クライマックスの終わりの方、多量の鏡がぶら下がる「鏡の間」みたいなところでの遥と男爵の空中対決において、戦いの中のドラマの盛り上がりにリンクするように、ついについに遥の「白いパンツ」がはっきりとスクリーンに映し出されるのである!!!
こうして溜まりに溜まったパンツ衝動の解放を果たした我ら観客は、落ち着いた気分でその後の感動の場面に心を委ねるのである(遥が鏡の魔法で家族の愛や友達の大切さに気付かされる場面)。
なんという手腕だろう。CGによる被写体の「モーションコントロール」の真の目的は、観客の「エモーションコントロール」だったのである!!!
もしかすると佐藤信介監督は天才なのかも知れない!!
また、CGというツールで追い求めたものが「パンツ」であるという点も重要だ。
「セルに無い肉感によるエロ衝動」が目的なら、そのものずばり「裸」でもいいわけである。
しかし、「裸」ならば、それはどうしたって実写には勝てない。撮影の物理的制約がどんなにあろうとも、実写でスクリーンに映し出される生の裸の圧倒的説得力の前には、CGのコントロールなどひたすら無力である。
だがパンツは記号である。
それが持つ意味は、実写もセルもCGも何ら変わりない。
ピクサーやドリームワークスが手をつけていない未開の地。それが「パンツ」。
数多くのゲームを作り出し、エロCG表現の土台ができていたジャパンならではの着眼点が、本作「ホッタラケの島」で見事に映画表現として開花したのではないだろうか!!!!
(もし、監督に、以上のようなつもりは全くなかったとしたら、恥ずかしいばかりの批評でもなんでもない単なる妄想であり、申しわけなく思います)
[追記]
エロついでに、拘束器みたいなやつに磔にされた遥の姿を観て、心の中で何かが燃え上がるのを感じました。
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[6段階評価 最高:■■■■■■(めったに出さない)、最悪:■□□□□□(わりとよく出す)]
監督の佐藤信介という方に少しばかり思い入れがある。
2008年に亡くなられた名匠・市川準監督の代表作というべき「東京夜曲」の脚本を書かれた方だ。
その後も「たどんとちくわ」「ざわざわ下北沢」で市川準監督の脚本を手がけている。後の二作は残念ながら傑作というわけにはいかなかったが、「東京夜曲」でほとんど自分のスタイルを完成させた市川準監督が、新たな頂を目指して動き出した頃に一緒に創作していたのだから、かなり信頼されていた方だったのだと思う。
たしか2001年にまだ10代だったころの仲間由紀恵主演で撮った「LOVE SONG」が公開され、それが監督デビュー。「東京夜曲」の脚本家のデビュー作ということで劇場に観に行った。市川準と岩井俊二の中間地点にあたるような恋愛映画の佳作で、好印象を持った。
ところが同じ年に釈由美子主演のアクション映画「修羅雪姫」も監督。刀で掌を貫かれそのまま地面に釘付けにされた釈由美子の闘う姿にただならぬ迫力を感じたことを覚えている。
しかし「東京夜曲」から「LOVE SONG」への流れはごく自然に思えたが、そこから「修羅雪姫」への流れはよくわからなかった。その後も様々な作品を監督したり、脚本を書いたりしていたらしいが、残念ながら観る機会はなかった。
そしてCGアニメの「ホッタラケの島」へ
いったいどこを目指しているのやらさっぱりわからないが、それだけに今後の動向が気になる映像作家だ。
だが女の子の自分探しという点で「LOVE SONG」「修羅雪姫」「ホッタラケ」に共通項を見出す事は可能だ。
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それはさておき「ホッタラケ」であるが、アニメらしいダイナミックでスピーディなアクションシーンの密度が、後半に進むほど高くなっていき、心地よい高揚感を与えてくれる。最初こそ、プレステゲームのイベントシーンに毛が生えた程度の、ぎこちない動きをするCGキャラに「セルでいいじゃん」と異議を唱えたくもなった。だが、そのうちストーリーにのめり込みヒロインの遥に感情移入して、最後の方ではすこしウルリと涙腺がゆるんだ。やはり表現方法より、物語や映画的演出が重要なのである。ハードよりソフト(使い方間違えてる?)。
この映画は、我々現代人に、オモチャやぬいぐるみと同じように「愛や友情のつまった思い出」までもホッタラケにしていたことを教えてくれる。CGというデジタル表現で、しかし結局は心の繋がりというアナログの大切さを伝えてくれる。とても感動的ないい話だったし、ドキドキワクワクの大冒険に心が弾んだ90分だった・・・
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と、表向きの感想はこの程度にして、ここからはエロおっさんモード全開で「CGパンツ論」を展開してみたい。
本作に素直に感動したピュアな皆さんは、以下を読まないことをお薦めします。
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ハリウッドでセルアニメがほぼ駆逐され、ハリウッドのアニメといえばCGばかり・・・という状況になって随分経つ。
思えばアカデミーでアニメ部門が創設された年あたりから急速にCG作品が勢力を延ばし始めたものだ。まだ歴史の浅いアカデミー賞のアニメ部門だが、これまでのところセルアニメの受賞は「千と千尋の神隠し」だけである。
(余談だが、第1回アカデミー賞の年に初のトーキー作品「ジャズシンガー」が公開され、アカデミー元年がほぼサイレント没年となったことを思い出す。)
ハリウッドがそのような状況であるにも関わらず、我がジャパンは今でもアニメ映画といえば主流はセルアニメであり、フルCG表現においてはハリウッドに水をあけられている形だ。「WALL・E」のCG表現など間違いなくその分野で世界最高峰だ。
そんな中、あえてフルCGアニメを制作したクリエイターの意図は何か。なぜCGでなければならなかったのか・・・
私が本作で感じたのは、クリエイターたちが、CGというツールを「パンツへの挑戦」のために使ったのではないか・・・という事である。
本作においてカメラ(という表現は適切ではないが意図は汲んでくれよう)はローポジションが非常に多く、女子高生制服ミニスカヒロイン遥の躍動する足と、なびくミニスカの裾がやたらに強調されている。
そこで刺激されるのは、「パンツを観たい」という(主に男の) 衝動だ。
CGがセルに対して優れているものは何か・・・と考えれば、それは立体感溢れる映像が生む「肉感」であろう。
細田守監督の「時をかける少女」も、ミニスカ女子高生の下半身が随分印象に残る作品ではあったが、独特の陰影のない作画の影響もあってか(個人的には)エロスを感じない作品だった。
だが本作は、CGによる肉感効果により、すさまじいエロスに襲われる。
立体感によるリアルがそんなにいいなら、実写の方がもっといいだろう・・・とも思えるが、実写の場合、物理的制約が撮影に課される。カメラ位置とか重力とか明るさとかそういった問題だ。それに比べアニメでは、被写体を完全にクリエイターの支配下に置く事ができる。
CGによる完全なモーションコントロールにより、ローポジション主体のカメラで遥の肉感のある足をさんざん映しながら、その向こうのパンツはギリギリのところで映さない・・・ということを可能にする。
そう、本作は「パンツ」が裏テーマだと思う。
映画が始まり、幼少期の遥の短いシーンに続いて、高校生・遥の初登場シーンとなる。
全編通して制服ミニスカの衣装であり続けた高校生・遥のファーストショットは、ローポジションのカメラによる下半身だけのショットだった。しかもその遥ファーストカットにおいて下半身だけの遥は「カメラまたぎ」までする。だが、影や微妙な足の動きにより、パンツの色やフォルムは判然としない。
「シナリオの15分ルール」に即して説明すれば、「最初の15分で『惜しくも見えないパンツ』を呈示する事で、『この物語の最終目的はパンツを見る事だ』と観客に意識させ、それをドラマの求心力としている」・・・となろう。
その後の、自室で友だちと語るシーンにおいても、遥は足をカメラに向けて、つまり我々観客の方に足を向けてベッドに仰向けになる。もちろんカメラはローポジだ。
さらに、家を飛び出しおばあちゃん家のそばの稲荷において、「境内の階段でまどろみながら体をずり落とす」など、見えそうで見えない映像が続く。
そしてホッタラケの世界に飛び込み、大冒険となっても、カメラは隙あらば遥のパンツを映そうと、ローアングルで走る遥を追いかけたり、遥も「カメラまたぎ」を何度か見せはするが、スクリーンで遥のパンツを目視する事はできない。
さらには、アクションシーンの多くなる後半になると、足を上にして落下する遥を、これで見えなきゃおかしいという絶妙のポジションのカメラで映す。・・・にもかかわらず、被写体の微妙な動きや陰影によってパンツは覆い隠される。
徹底的にCGはパンツを見せない方、見せない方へと被写体をコントロールしていく。
故・伊丹十三監督のような露骨にエロい人なら見せる方見せる方へとコントロールしたことだろう・・・とこれは余談。
もはやフラストレーションである。クライマックスに突入しテンションの上がる物語にあわせ、観客のパンツ衝動も加速される。
そして、クライマックスの終わりの方、多量の鏡がぶら下がる「鏡の間」みたいなところでの遥と男爵の空中対決において、戦いの中のドラマの盛り上がりにリンクするように、ついについに遥の「白いパンツ」がはっきりとスクリーンに映し出されるのである!!!
こうして溜まりに溜まったパンツ衝動の解放を果たした我ら観客は、落ち着いた気分でその後の感動の場面に心を委ねるのである(遥が鏡の魔法で家族の愛や友達の大切さに気付かされる場面)。
なんという手腕だろう。CGによる被写体の「モーションコントロール」の真の目的は、観客の「エモーションコントロール」だったのである!!!
もしかすると佐藤信介監督は天才なのかも知れない!!
また、CGというツールで追い求めたものが「パンツ」であるという点も重要だ。
「セルに無い肉感によるエロ衝動」が目的なら、そのものずばり「裸」でもいいわけである。
しかし、「裸」ならば、それはどうしたって実写には勝てない。撮影の物理的制約がどんなにあろうとも、実写でスクリーンに映し出される生の裸の圧倒的説得力の前には、CGのコントロールなどひたすら無力である。
だがパンツは記号である。
それが持つ意味は、実写もセルもCGも何ら変わりない。
ピクサーやドリームワークスが手をつけていない未開の地。それが「パンツ」。
数多くのゲームを作り出し、エロCG表現の土台ができていたジャパンならではの着眼点が、本作「ホッタラケの島」で見事に映画表現として開花したのではないだろうか!!!!
(もし、監督に、以上のようなつもりは全くなかったとしたら、恥ずかしいばかりの批評でもなんでもない単なる妄想であり、申しわけなく思います)
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エロついでに、拘束器みたいなやつに磔にされた遥の姿を観て、心の中で何かが燃え上がるのを感じました。
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自主映画撮ってます。松本自主映画製作工房 スタジオゆんふぁのHP
パンツモード全開で目をぎらぎら光らせて注視していたので、映ったのは間違いないです
このチャレンジは私も評価したいですが、二次元萌えの文化が根付いた日本では定着は難しいかもです・・・
アクションのどさくさに紛れてやっちゃったのかと思いますが。
私はCG屋なので、日本のアニメーションにおけるCGの使い方は常々疑問を持っていました。
この作品のチャレンジと成果は高く評価したいです。