好きな台詞・・・というかナレーション
「トニー滝谷の本当の名前は、本当にトニー滝谷だった」
という面白すぎるナレーションで始まる本作は、全編映画演出の粋をこらした実験精神あふれる衝撃作だった。
余談
私の好きなタイプの映画・・・タイプなど関係なく面白い映画が好きなんだ・・と思ってきたけど、最近一つの傾向に気付いた。「喪失感」。これに弱い。小津安二郎の映画は前から大好きなのだが、小津映画が好きなのもその大半が家族の分解という喪失の過程を描いているからと気付いた。「東京物語」のラスト近くの笠智衆の「いい夜明けじゃったあ。今日も暑うなるわい」が心を打つのは、いつもと変わらぬ風景を語ることで妻の喪失がより強調されるからだ。「秋刀魚の味」はもっと顕著で、嫁いだ娘が寝起きしていた部屋へと続く階段を見つめる父、娘の部屋に残された姿見を写すショット、これらは露骨すぎるほどに娘の喪失を印象づけ、それゆえに感動的だ。
候孝賢も好きだ(台湾の巨匠。ハリウッド人が間違っても撮らないようなドラマを排した静寂な映画を撮る。「悲情城市」「恋恋風塵」「珈琲時光」)。彼がよく小津と比較されるのは、彼の映画に横たわる「喪失感」ゆえではないか?
市川準だって「東京兄妹」「東京夜曲」「大阪物語」といったタイトルが示すように小津を強く意識している監督だ。やはりその「喪失感」に共感しているのだろうと解釈する。
「充足感」とか「開放感」とかを軸にした映画が嫌いとかダメとか言うつもりはないし、実際そういうのも好きなのだが、私にとっては「喪失感」こそがツボにはまりまくる。
・・・で、今まであまり意識しなかったがこの映画の原作者・村上春樹も、作品に漂う「喪失感」が良いとされる(「羊をめぐる冒険」は私の好きな本ベスト5に入れてもいい好きな本だ)。「トニー滝谷」のパンフレットを買ってみたが「喪失感」という単語が何度も出てきた。
この映画はそんな「喪失フェチ」である私を感動させるにはもってこいの、喪失感ばりばり、心にぽっかり穴の開いた感覚を堪能できる傑作だった。
この映画を傑作と言い張るのは私の市川準偏愛と喪失感に依っているところもある。喪失感の映画なんて興味ない人、市川準なんてつまんない奴だよ、村上春樹??ああ、あのつまんない本ばっか書く奴ね・・・とか思ってる人はこの映画を観ない方がいい。
余談終わり
映画を観た後で原作を読んだ。原作は30ページ程度の短編で、小説というより設定資料みたいなものだ。淡々と三人称の解説で進む原作を市川準は忠実に再現しただけではない。ところどころでモノローグを一人称に切り替え俳優にカメラ(つまり我々)に向かって語りかけさせる。これは映画ならではのテクニックで村上春樹には絶対できない。カメラに語りかける程度の演出自体は別に珍しくもない。しかしこの映画の語りかけは演じる俳優に極めて高度な技術を要求する。圧巻なのは、宮沢りえが持ち主を失った膨大な量の衣装が収納された部屋でむせび泣くシーン。1カットの長回し。イッセー尾形に案内された衣装部屋の中で、コートに袖を通したり、靴を履いてみたりしている内、何故か自分でも判らずに泣き出してしまう。その迫真の演技に胸を打たれている僕に向かって彼女は泣いたまま語りかける
「しばらくして彼が様子を観に部屋に入ってきました」(泣き声)
登場人物に感情移入して泣いているハズの女優が同時に、「演じている」ということを客観視して説明する。この相反する芝居。俳優は役を演じているに過ぎないということをここまであからさまにフィルムに焼きつけてしまう監督。村上春樹よりよほどクールだ。観客から世界に入り込む余地を奪い、それが故にすぐ傍にありながら全く手の届かないもどかしさと切なさ。登場人物を慰めてめてやろうにも決して入り込めない疎外感。市川準のこれまでの映画(「病院で死ぬということ」など)でも使われてきた手法だが、それを純化し演出テクニックだけで塗り固めた映画なのだ。ストーリーで「喪失感」を語り、演出で「疎外感」を与える。
カメラワークも計算されている。覗き見しているようなカット割。常に一歩ひいた位置に観客を置き、それでいてカメラへの語りかけにより、観客に映画に参加していることを意識付けもする。
実験段階の域を出ていない映画ではあるかもしれない。ストーリーだけを追おうとすると置いてきぼりにされてしまう。だから一般受けは絶対しないだろう。つまんないよこれ、という人はきっとわんさかいるだろう。だが監督の新しい映画スタイルへの挑戦という志を買うべきだ。実験は失敗かもしれない。テーマと手法が結びつくことで感動は生まれるが本作では完全に融合していない。これを発展させ洗練させた作品が作られた時、それは市川準の最高傑作となるだろう。そのための布石とするなら、これが世間的には失敗作ととられたとしても、偉大な失敗なのだ。
尤も失敗作との烙印が押されることはないだろう。一応、市川準は本作で、ロカルノ映画祭監督賞を獲っている。
ちなみに私の感覚では、映画祭を東京の私大に例えると「カンヌ」「ベルリン」「ヴェネチア」が「早慶上智」で、「ロカルノ」「ナント」「モスクワ」「モントリオール」が「日東駒専」という感じ(知名度・権威・歴史とかから考えて・・・)
市川準は「東京夜曲」でモントリオール映画祭の監督賞を獲っている。もう少し踏んばって「早慶上智」クラスの覇者となってほしいなあ。
イッセー尾形はこの作品にピタリはまった。映画そのものとなった息づかい。
宮沢りえは先に書いたように難役を見事にこなし女優としてますます魅力的になってきた。しかし宮沢りえの存在感はやや強調され過ぎ(ひらたく言えば、りえちゃんのアイドル映画っぽくなってる)。彼女の自然な振る舞いや涼しげな笑顔がこの物語においては若干だが浮いていた気もする。イッセー尾形の分をわきまえた引き具合と比較するとまだまだだな、と偉そうなこと思ったりして。そうは言っても「父と暮らせば」に続いての好演で本年度のしんくんの私的アカデミー賞主演女優賞の最有力候補であります。
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自主映画撮ってます。松本自主映画製作工房 スタジオゆんふぁのHP
「トニー滝谷の本当の名前は、本当にトニー滝谷だった」
という面白すぎるナレーションで始まる本作は、全編映画演出の粋をこらした実験精神あふれる衝撃作だった。
余談
私の好きなタイプの映画・・・タイプなど関係なく面白い映画が好きなんだ・・と思ってきたけど、最近一つの傾向に気付いた。「喪失感」。これに弱い。小津安二郎の映画は前から大好きなのだが、小津映画が好きなのもその大半が家族の分解という喪失の過程を描いているからと気付いた。「東京物語」のラスト近くの笠智衆の「いい夜明けじゃったあ。今日も暑うなるわい」が心を打つのは、いつもと変わらぬ風景を語ることで妻の喪失がより強調されるからだ。「秋刀魚の味」はもっと顕著で、嫁いだ娘が寝起きしていた部屋へと続く階段を見つめる父、娘の部屋に残された姿見を写すショット、これらは露骨すぎるほどに娘の喪失を印象づけ、それゆえに感動的だ。
候孝賢も好きだ(台湾の巨匠。ハリウッド人が間違っても撮らないようなドラマを排した静寂な映画を撮る。「悲情城市」「恋恋風塵」「珈琲時光」)。彼がよく小津と比較されるのは、彼の映画に横たわる「喪失感」ゆえではないか?
市川準だって「東京兄妹」「東京夜曲」「大阪物語」といったタイトルが示すように小津を強く意識している監督だ。やはりその「喪失感」に共感しているのだろうと解釈する。
「充足感」とか「開放感」とかを軸にした映画が嫌いとかダメとか言うつもりはないし、実際そういうのも好きなのだが、私にとっては「喪失感」こそがツボにはまりまくる。
・・・で、今まであまり意識しなかったがこの映画の原作者・村上春樹も、作品に漂う「喪失感」が良いとされる(「羊をめぐる冒険」は私の好きな本ベスト5に入れてもいい好きな本だ)。「トニー滝谷」のパンフレットを買ってみたが「喪失感」という単語が何度も出てきた。
この映画はそんな「喪失フェチ」である私を感動させるにはもってこいの、喪失感ばりばり、心にぽっかり穴の開いた感覚を堪能できる傑作だった。
この映画を傑作と言い張るのは私の市川準偏愛と喪失感に依っているところもある。喪失感の映画なんて興味ない人、市川準なんてつまんない奴だよ、村上春樹??ああ、あのつまんない本ばっか書く奴ね・・・とか思ってる人はこの映画を観ない方がいい。
余談終わり
映画を観た後で原作を読んだ。原作は30ページ程度の短編で、小説というより設定資料みたいなものだ。淡々と三人称の解説で進む原作を市川準は忠実に再現しただけではない。ところどころでモノローグを一人称に切り替え俳優にカメラ(つまり我々)に向かって語りかけさせる。これは映画ならではのテクニックで村上春樹には絶対できない。カメラに語りかける程度の演出自体は別に珍しくもない。しかしこの映画の語りかけは演じる俳優に極めて高度な技術を要求する。圧巻なのは、宮沢りえが持ち主を失った膨大な量の衣装が収納された部屋でむせび泣くシーン。1カットの長回し。イッセー尾形に案内された衣装部屋の中で、コートに袖を通したり、靴を履いてみたりしている内、何故か自分でも判らずに泣き出してしまう。その迫真の演技に胸を打たれている僕に向かって彼女は泣いたまま語りかける
「しばらくして彼が様子を観に部屋に入ってきました」(泣き声)
登場人物に感情移入して泣いているハズの女優が同時に、「演じている」ということを客観視して説明する。この相反する芝居。俳優は役を演じているに過ぎないということをここまであからさまにフィルムに焼きつけてしまう監督。村上春樹よりよほどクールだ。観客から世界に入り込む余地を奪い、それが故にすぐ傍にありながら全く手の届かないもどかしさと切なさ。登場人物を慰めてめてやろうにも決して入り込めない疎外感。市川準のこれまでの映画(「病院で死ぬということ」など)でも使われてきた手法だが、それを純化し演出テクニックだけで塗り固めた映画なのだ。ストーリーで「喪失感」を語り、演出で「疎外感」を与える。
カメラワークも計算されている。覗き見しているようなカット割。常に一歩ひいた位置に観客を置き、それでいてカメラへの語りかけにより、観客に映画に参加していることを意識付けもする。
実験段階の域を出ていない映画ではあるかもしれない。ストーリーだけを追おうとすると置いてきぼりにされてしまう。だから一般受けは絶対しないだろう。つまんないよこれ、という人はきっとわんさかいるだろう。だが監督の新しい映画スタイルへの挑戦という志を買うべきだ。実験は失敗かもしれない。テーマと手法が結びつくことで感動は生まれるが本作では完全に融合していない。これを発展させ洗練させた作品が作られた時、それは市川準の最高傑作となるだろう。そのための布石とするなら、これが世間的には失敗作ととられたとしても、偉大な失敗なのだ。
尤も失敗作との烙印が押されることはないだろう。一応、市川準は本作で、ロカルノ映画祭監督賞を獲っている。
ちなみに私の感覚では、映画祭を東京の私大に例えると「カンヌ」「ベルリン」「ヴェネチア」が「早慶上智」で、「ロカルノ」「ナント」「モスクワ」「モントリオール」が「日東駒専」という感じ(知名度・権威・歴史とかから考えて・・・)
市川準は「東京夜曲」でモントリオール映画祭の監督賞を獲っている。もう少し踏んばって「早慶上智」クラスの覇者となってほしいなあ。
イッセー尾形はこの作品にピタリはまった。映画そのものとなった息づかい。
宮沢りえは先に書いたように難役を見事にこなし女優としてますます魅力的になってきた。しかし宮沢りえの存在感はやや強調され過ぎ(ひらたく言えば、りえちゃんのアイドル映画っぽくなってる)。彼女の自然な振る舞いや涼しげな笑顔がこの物語においては若干だが浮いていた気もする。イッセー尾形の分をわきまえた引き具合と比較するとまだまだだな、と偉そうなこと思ったりして。そうは言っても「父と暮らせば」に続いての好演で本年度のしんくんの私的アカデミー賞主演女優賞の最有力候補であります。
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自主映画撮ってます。松本自主映画製作工房 スタジオゆんふぁのHP
濃厚な考察見事です。これからもお邪魔させて頂きます。
市川準ってロカルノ好みっぽいと思っていたので、受賞のニュースを聞いたときは「ふふふん」と微笑んでしまいました。
マイブログは愛をもっって映画を語っております。またご興味ありましたらご来店お待ちしております。
とても興味深いレビューでまた違った側面を知ることができました(^-^)
とても参考になりました。
『トニー滝谷』はとても好きな映画です。
アレだけ静に淡々と物語が進む中、
作品のテーマがとてもはっきりとしていて、
とてもいい時間が流れていたと思います。
でもやっぱカンヌ狙ってほしいですね。あとオスカー
・・・無理か??
>Rica様
時間が流れている・・・って表現のぴったりくる映画でした
カメラへの役者の語りかけについての考察、スバラシイです。
私は一緒に「晴れた家」というメイキングもみたのですが、こちらも、監督の画づくりやこだわりや「こ、こんな風に撮影してたんだー!(目から鱗がポロリ)」というのがよくわかって、良かったです。ご覧になりましたか?
では。
こんな映画撮ろうとする奴は相当クレージーなハズ
何を語っているのか興味あります。
こちらからもTBしております。
僕も原作読みたいと思ってまだ読んでないんです。
はやく読まなきゃ。
映画ももう一度部屋でゆっくり見たいです。
先にここに来てから映画を観たら、もっと広がりがあったに違いないと思いながらレビュー読ませて頂きました
沢山の方々にもっともっと見てもらいたい、映画だと思いますよね。市川監督は、邦画の最後の砦みたいな気がするですよ(苦笑)。
原作・・・すごい短いから一瞬で読み終わりますよ。
あの短編を80分に引き延ばす市川準は、弛緩の名匠と呼んでいいかもしれない
>yocco様
ありがとうございます。
でも先にここ来てたらネタバレしまくってるから・・・
>ツボヤキ様
でも私は市川準は世界に飛び出して映画撮ってほしい気もします。まずは台湾あたりで
力の入った面白いレビューでした。トラックバックいただき、感謝。
ところで、「サマリア」やっぱり良さそうですね。僕も見たいと思っています。