CGという技術を手に入れたクリエイターがCGべったりでただCGと遊ぶばかりで、物語とか演出とかそういう部分がまったく面白くなく、というよりそもそもそういう基本的技術を必要としていないかのような映画作りをする。その一番極端な例がエピソード1以降のジョージ・ルーカスだとするなら、ルーカスのミニチュア版となっていたのが山崎貴監督である。正直いってただのCGオタクな二流監督と思っていたのだけど、CGオタクを貫き通したことが次第に映画作家としての力につながっていった、その成果を見せたのが本作である。
この映画が、企画として面白いのは、CG作家を中高年観客層と結びつけたところにあるのではと思う。同世代以下の人たちのためにCGと取り組んできた作家が、逆にもっと上に目を向ける。
場内の観客には、(寅さん終了以降はあまり映画館にも出向かなかったであろう)中高年の方々が多く、映画を観ながら「あれは集団就職っていってねえ・・」「まだ東京タワーはできてなかったんだねえ・・」「なつかしいテレビだねえ・・」とまるでスポーツ中継の解説者のようにいろいろコメントを言っていた。しかし映画も終盤になるとコメントは消えうせ、変わりにすすり泣く声が聞こえてくる。
もし、この映画が大ヒットしたらCG映画の興行面における新しい道が開けるかもしれない。10代~30代の人たちはCGなんてハリウッド映画で飽きるほど見てるし、テレビでもプレステ2でも見慣れていて今更どんなにすごいもの見せられてもあまり新鮮さも驚きもない。だが50代~60代の人には「三丁目の夕日」くらいのCGでも新鮮に映るのではないだろうか?もちろん年に100本も映画をむさぼり観る映画マニアおじさんorおじいさんにとっては珍しくもないだろうが。しかし狙い目の客層だったに違いない。
さて昭和32年か33年という、もろアナログ時代をデジタライズする本作。マトリックスをパクったり、宇宙船やら、小型ロボやら出すわけにはいかない。CGで行うのは30年代に当たり前だった風景を再現すること。セットでは金がかかりすぎるがCGならOK。機関車の壁面に写りこむ人影まで丁寧に再現しポストプロダクションの努力がうかがえる。けれどそれだけのCG利用では面白くないと考えたか、さらに遊び心膨らませ、CGならではの表現・・・長回しにチャレンジ。テオ・アンゲロプロスのアナログ長回しとは全く異なりカメラは狭い隙間をすり抜け、トカゲをアップで写し、模型飛行機と一緒に空を飛ぶ。技術を見せ付けているだけで、ストーリーとの関連が薄く感じられるが、「30年代のデジタライズ」が根本的な企画意図である本作である。これでもかと最新技術を見せ付けることが第一義なのだろうからそれでよしとする。
ただし、CGという技術に依存した長回しにこだわったためか、意地悪な見方するとモンタージュへの不信感が感じられなくもない。例えば、小雪が吉岡秀隆の駄菓子屋を訪れるシーン。「ほんと、小さいわ」と一人言。しかめっ面だけでいいじゃないか。ラストにおける窓から身を乗り出し「完成したんだ」と語るロクちゃん。自分の部屋から見えてたはずなのに。CGに頼りすぎたことの副作用としてこれら説明過剰な演出に繋がったとすると困ったものだ。
それから一平たちが淳之介の小説を読むと教室の壁が崩れ去り未来世界がかっこいいCGで描かれるイメージシーン。(西岸良平の漫画でもそのような演出はあったけど)淳之介の想像力の源となった身近なものでもカットバックしてほしかった。透明なチューブの中を未来の車が・・・と読んでいるとき、ストローの一本のカットでも挿入したら効果的だったなあ、と思うわけだ。ここは好みの問題だけど。
しかし、中高年層が後半しゃべるのをやめて泣き出したことからも伺えるように、演出は物語が進むほど乗りに乗ってくる。
粗大ごみとなった氷冷式冷蔵庫を無言で見つめる氷屋さん。"指輪"をはめるエピソード。お母さんのお守りを見つける一平(原作では継ぎはぎの中の"お守り"を見つけた一平はワーイと大喜びし"お守り"が何かを説明する吹き出しまで付いていたが、映画では一平は無言でむせび泣くのである!!)これら印象的なシーンにおいてデジタル技術は完全に脇に追いやられる。
クライマックスではふたつの手紙が重要な小道具となる。淳之介が茶川さんにプレゼントされた万年筆で書いた"書置き"と、ロクちゃんのお母さんからの"手紙"。メールも携帯も、それどころか電話の普及率も高くなかった時代。人々は手書きのメディアによって想いを伝え合い、絆を深めていたのだ。そんな物語をインターネット直撃世代の監督が、デジタル技術全開で描くという逆説的企画。"手紙"も顔文字多用の携帯メールも、人と人が気持ちを伝え合うことを目的としているという当たり前なことを再認識させられる。手段と目的が混同されているインターネット情報の氾濫した現代へのメッセージとも取れる。
東京タワーの建設過程を視覚的に見せることで時間経過を分かりやすくし、また観客が映画の世界に入り込む手助けとさせるのもうまいと思うが、なにより東京タワーの完成をもって幕を閉じるところに、作り手のメッセージが感じられる。
東京タワーはテレビ時代の幕開けであり、あるいは情報化社会の幕開けを象徴しているとも言え、同時に映画の衰退の始まりを想起させる。しかしそもそも映画作家というよりCG作家である監督にとって、その辺への哀愁はない。自分のようなデジタル作家へと続く未来への幕開けとして、豊かになった現代社会を肯定的に見つめている。また技術革新が始まった時代を生きた人たちへの敬意にも満ちている。若い世代も古い世代も決して悪い気はしない優しい映画なんである。
話は変わって、キャスティングについてであるが、皆、ややオーバーアクトながらも楽しげに演じていて、観ていて気持ちいい。原作とのイメージで考えると、ほぼ全員がイメージと異なるキャスティングであるが、そもそもほぼ全員が原作と異なるキャラ設定なので別にいい。
すっかりおばさん化した薬師丸ひろ子、芸風を超えてスタイリッシュになりつつある吉岡秀隆、そしぶち切れパパの堤真一。つくに堤真一はいい。今作の逆上シーンでも見る者を釘付けにする。激怒・デンジャラスでありながらコミカルであることも決して忘れない。「フライ・ダディ・フライ」も素晴らしかったが、奇しくも両方とも日テレ制作映画。というわけで日本アカデミー最有力。
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この映画が、企画として面白いのは、CG作家を中高年観客層と結びつけたところにあるのではと思う。同世代以下の人たちのためにCGと取り組んできた作家が、逆にもっと上に目を向ける。
場内の観客には、(寅さん終了以降はあまり映画館にも出向かなかったであろう)中高年の方々が多く、映画を観ながら「あれは集団就職っていってねえ・・」「まだ東京タワーはできてなかったんだねえ・・」「なつかしいテレビだねえ・・」とまるでスポーツ中継の解説者のようにいろいろコメントを言っていた。しかし映画も終盤になるとコメントは消えうせ、変わりにすすり泣く声が聞こえてくる。
もし、この映画が大ヒットしたらCG映画の興行面における新しい道が開けるかもしれない。10代~30代の人たちはCGなんてハリウッド映画で飽きるほど見てるし、テレビでもプレステ2でも見慣れていて今更どんなにすごいもの見せられてもあまり新鮮さも驚きもない。だが50代~60代の人には「三丁目の夕日」くらいのCGでも新鮮に映るのではないだろうか?もちろん年に100本も映画をむさぼり観る映画マニアおじさんorおじいさんにとっては珍しくもないだろうが。しかし狙い目の客層だったに違いない。
さて昭和32年か33年という、もろアナログ時代をデジタライズする本作。マトリックスをパクったり、宇宙船やら、小型ロボやら出すわけにはいかない。CGで行うのは30年代に当たり前だった風景を再現すること。セットでは金がかかりすぎるがCGならOK。機関車の壁面に写りこむ人影まで丁寧に再現しポストプロダクションの努力がうかがえる。けれどそれだけのCG利用では面白くないと考えたか、さらに遊び心膨らませ、CGならではの表現・・・長回しにチャレンジ。テオ・アンゲロプロスのアナログ長回しとは全く異なりカメラは狭い隙間をすり抜け、トカゲをアップで写し、模型飛行機と一緒に空を飛ぶ。技術を見せ付けているだけで、ストーリーとの関連が薄く感じられるが、「30年代のデジタライズ」が根本的な企画意図である本作である。これでもかと最新技術を見せ付けることが第一義なのだろうからそれでよしとする。
ただし、CGという技術に依存した長回しにこだわったためか、意地悪な見方するとモンタージュへの不信感が感じられなくもない。例えば、小雪が吉岡秀隆の駄菓子屋を訪れるシーン。「ほんと、小さいわ」と一人言。しかめっ面だけでいいじゃないか。ラストにおける窓から身を乗り出し「完成したんだ」と語るロクちゃん。自分の部屋から見えてたはずなのに。CGに頼りすぎたことの副作用としてこれら説明過剰な演出に繋がったとすると困ったものだ。
それから一平たちが淳之介の小説を読むと教室の壁が崩れ去り未来世界がかっこいいCGで描かれるイメージシーン。(西岸良平の漫画でもそのような演出はあったけど)淳之介の想像力の源となった身近なものでもカットバックしてほしかった。透明なチューブの中を未来の車が・・・と読んでいるとき、ストローの一本のカットでも挿入したら効果的だったなあ、と思うわけだ。ここは好みの問題だけど。
しかし、中高年層が後半しゃべるのをやめて泣き出したことからも伺えるように、演出は物語が進むほど乗りに乗ってくる。
粗大ごみとなった氷冷式冷蔵庫を無言で見つめる氷屋さん。"指輪"をはめるエピソード。お母さんのお守りを見つける一平(原作では継ぎはぎの中の"お守り"を見つけた一平はワーイと大喜びし"お守り"が何かを説明する吹き出しまで付いていたが、映画では一平は無言でむせび泣くのである!!)これら印象的なシーンにおいてデジタル技術は完全に脇に追いやられる。
クライマックスではふたつの手紙が重要な小道具となる。淳之介が茶川さんにプレゼントされた万年筆で書いた"書置き"と、ロクちゃんのお母さんからの"手紙"。メールも携帯も、それどころか電話の普及率も高くなかった時代。人々は手書きのメディアによって想いを伝え合い、絆を深めていたのだ。そんな物語をインターネット直撃世代の監督が、デジタル技術全開で描くという逆説的企画。"手紙"も顔文字多用の携帯メールも、人と人が気持ちを伝え合うことを目的としているという当たり前なことを再認識させられる。手段と目的が混同されているインターネット情報の氾濫した現代へのメッセージとも取れる。
東京タワーの建設過程を視覚的に見せることで時間経過を分かりやすくし、また観客が映画の世界に入り込む手助けとさせるのもうまいと思うが、なにより東京タワーの完成をもって幕を閉じるところに、作り手のメッセージが感じられる。
東京タワーはテレビ時代の幕開けであり、あるいは情報化社会の幕開けを象徴しているとも言え、同時に映画の衰退の始まりを想起させる。しかしそもそも映画作家というよりCG作家である監督にとって、その辺への哀愁はない。自分のようなデジタル作家へと続く未来への幕開けとして、豊かになった現代社会を肯定的に見つめている。また技術革新が始まった時代を生きた人たちへの敬意にも満ちている。若い世代も古い世代も決して悪い気はしない優しい映画なんである。
話は変わって、キャスティングについてであるが、皆、ややオーバーアクトながらも楽しげに演じていて、観ていて気持ちいい。原作とのイメージで考えると、ほぼ全員がイメージと異なるキャスティングであるが、そもそもほぼ全員が原作と異なるキャラ設定なので別にいい。
すっかりおばさん化した薬師丸ひろ子、芸風を超えてスタイリッシュになりつつある吉岡秀隆、そしぶち切れパパの堤真一。つくに堤真一はいい。今作の逆上シーンでも見る者を釘付けにする。激怒・デンジャラスでありながらコミカルであることも決して忘れない。「フライ・ダディ・フライ」も素晴らしかったが、奇しくも両方とも日テレ制作映画。というわけで日本アカデミー最有力。
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堤真一はどの作品でノミネートされるのでしょう?まさか『うぶめの夏』ではないだろうけど・・・
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さすがに、「作り手」からの視点で書かれましたね。
ウチは、「裏記事」もあるんですけど、リンク貼ってあるので、「表記事」
だけTBさせていただきます。
あとですね、ウチの親も観にいったみたいなんですけど、
一般的5、60代のの人間は、(ここに書かれているように、寅さん以降
映画から遠ざかっていたような層です)
は、あれがCGだということに、全然気づかずに映画観ていると思います。
そういうこと、あんまり考えないんですよ。
意外と「ローレライ」かも(あれはフジか)
>RINさま
CGって思ってくれないからこそ、そいつらのためにCG作っちゃるぜ!!と思っての企画だったのかもしれませんね
でもさすがに東京タワーを実物大ミニチュアとは思ってないでしょうが
って、誉めすぎな気がしないでもないんですが、TBありがとうございます。
単なる商売人の「カス」よりゃ、ちゃんと映画監督の山崎貴。
もっとも、「リターナー」なんかは、ヤマザキ・タカスって感じもしたけど
同郷だからでスカ?
山崎演出、もうちょっとここ長く見せてくれよ~という所がいくつかありました。
山崎ノリノリ製作であろう、未来世界のCGは、もうちょっとレトロフューチャーでもよかったんじゃないかな~。
あそこまでイメージできるって、手塚超えてるよ一平!
手塚こえてましたね。将来が楽しみなガキです。
山崎演出は全体的に凡庸な感じもしたのですが、凡庸さゆえ作品にはまってましたね。
山崎監督は松本出身ということで、33年の東京はそんなに知らないそうですが、だからこそ先入観にとらわれずに画面作りができたとのこと。
私は今でこそ松本に住んでいますが、北海道出身ゆえ、地元びいき的先入観にとらわれずに山崎監督を見ることができる・・・かもしれないです。
制作者サイドからのご意見面白かったです。
若い人はもうCGなんて飽きるほど見ていますから、やっぱりターゲットは5,60代ですね!
この監督さん「ジュブナイル」の人と聞いてイヤな予感がしていたんですが、良い方に外れてよかったです。
制作者ってほどじゃないです
ALWAYSの吉岡秀隆の自称作家と同じくらいのレベルの自称映画監督です
ははは
「ジュブナイル」は見てないけど、「リターナー」は最悪でしたから、良いほうに外れて私もよかったです
この映画、CGが良い方向に使われていましたよね。
最初、この映画の噂を聞いたときは、
誰が監督をしているのか分からなかったのですが、
あのリターナーの監督と分かるとちょっと不安になりました。
でも、観たら見事にヒットしてしまいました。
CGだけではなく、細部までのこだわりもあったのでしょうけれど、
ここまで作ってくれた事で、懐かしくあたたかい映画になったと思います。
中途半端よりやり過ぎる方がいいと悟らせたのでしょうね、リターナーは・・