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【映評】キオリ [淀んでいく意識だけの世界を低予算で作る]

2016-04-05 18:45:15 | 映評 2013~
[75点]
映画のファーストショットは水の中を泳ぐ魚(金魚だったか)。
培養液に使ったまま生かされる脳という映画の出だしとして非常に象徴的な画である。

脳だけの状態で生かされたとしたら、常に夢でも見ているような感覚になるのではないか?そのワンアイデアの映画ではある。
以前の脳の持ち主だった若い女性の、五体満足状態での最後の記憶となる場面から始まり、そこからは培養脳に関わる人たちのエピソードと、脳の回想が交互に入る形で物語は進む

問題の脳の培養設備のセットであるが、これがいい意味でB級感あふれる造形で、無駄にピカピカ光っているところとか昔の特撮映画を観ている気分になる。
映像上のリアリティを度外視することで、その他の登場人物の奇妙な行動も、そういうものだと自然に受け入れることができる。早い話がワールドを作っていて、そこに観客を引き込むことに成功しているのだ。

最近、特撮のないSF映画にすごく興味があって、そういう自分のブームともぴたり一致するような作品であった。
CGなんかなくっても脚本とカメラと簡単なセットだけでSFはできるんだと気づかせてくれる作品でもあった。

脚本について言うと、沢山の登場人物を出し過ぎて個々の掘り下げ不足になった感は否めない。
若い男性科学者の気持ちに焦点を絞っても良かったかもしれないし、脳の持ち主の恋人だった男をもっと掘り下げても良かったかもしれない。
ただし脳の持ち主たるカオリについては、逆に多くを語らせない展開で魅力的になった。常に半眠状態な脳。その持ち主の生前の姿とモンタージュさせて会話させるという方法は、あるいは安易な説明的演出ととられるかもしれないが、そこにありもしない顔があり、心がどろどろに溶けたような表情と言葉があるのはやっぱり映画的な演出という他無いだろう。
映画で語られるカオリの人生は特に変わったところはない、壮絶とは程遠い人生なのかもしれない。しかし話しの節々から愛とは縁遠い人生を送ってきたことがわかる。愛のない淀んだ沼を泳ぐともなく漂ってきたカオリにとって、生きることと死ぬことと脳だけとなって生きることに大した違いはなかったかもしれないが、あるいは脳だけになることで研究者たちと語り合えることができ、人とつながることができたのだとしたらなんとも皮肉なことだ。
いや、すべてはカオリではなく、研究者の妄想(彼の方こそ脳との対話で半眠状態にあったのかもしれない)かもしれない。
だからこそ決して幸せではなかった彼女を無理に生かし続けた研究者の葛藤がもっと見たいと欲したのである。

ラスト、狭い培養器に使っていた脳に広い海を見せてあげる、この緩急のきいた場面設定も秀逸だし、いわば女性が一人亡くなるという悲劇の物語であるにもかかわらずラストには自由を得たことによる安らぎが広がるというギャップもふさわしい例えじゃないかもしれないけど文学的な香りがして好きだ。
そうだ、今気づいた、この終わった後の感覚はシェークスピアの読後感に近い。亡霊にふりまわされる展開もそういえばハムレットみたいだ。

キオリ
監督・脚本 古本恭一
撮影 三本木久城
出演 新宮明日香、篠之井駿輔
2016年3月

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