劇評 演劇集団BLUE MOON「海からの手紙」
2019年5月26日 松本市信濃ギャラリーにて観劇
演劇集団 BLUE MOON
原作 関治
作・演出 廣田謙一
出演 太田理恵子、ひらのみゆき、ひさよ、神田健太、いつみ
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引き算の演出のすごさを思い知る
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実は私は劇団員である。
松本の「劇団天邪鬼」の団員である。
その劇団の役者として舞台に立ったのはずいぶん前で、今は埼玉県在住なので劇団としての活動は何もしていないけど、辞めたと言ったことはないし、退団を通告されたこともないからまだ団員なのだろう。
団費もここ数年払ってないからいつクビを宣告されてもおかしくないのだけど、そう言われるまでは劇団員ヅラをさせてもらう。
その天邪鬼の現メンバーの皆様が中心となり新たに劇団を結成したという。
昨年一回限りの演劇ユニットとして天邪鬼メンバーと、演劇実験室◎経帷子を主宰する廣田謙一さんによる「演劇ユニットわるだくみ」を母体としてきちんとした劇団にしようということで「演劇集団BLUE MOON」という名前で新たに立ち上げたというのである。
天邪鬼は解散したわけでも消滅したわけでもないけど、先輩方が、失礼ながら若くもない方々が、新たな演劇表現のための新たなホームグランドを作り上げたというのは、とても感動したわけで。
その第一回公演を観るために、埼玉から松本へと向かった。
今回の公演は1992年の天邪鬼公演の台本をベースに、舞台を東北震災後の架空の町に置き換え、大幅に書き直されているのだという
私が天邪鬼に入ったのはたしか2002年であり、92年には松本に住んでもいなかったので、本公演のオリジナルは観ていない。
私が入ったころの天邪鬼は劇団☆新感線テイストがかなり強く10分おきに殺陣があり、ギャグ満載のエンタメ路線だったが、90年代はダイアローグ中心の舞台だったようだ。
25年も前の公演の再演となったわけだが、ホンはほぼ新作。
あえて今、それを再演する理由は何だろうか
---------
劇場は信濃ギャラリーという、非常に狭い小屋で、満員でも観客は40人くらいだろうか
狭いので観客の密集感がすごい
そして私は前から2列目に座ったのだが、舞台のツラまで1メートルもなく、演者が近い。
一番後ろの席に座ったとしてもツラまでせいぜい3メートル。とにかく近く、顔がでかい。
天邪鬼の役者の皆さんの芝居は「リアリズム芝居」からはだいぶ離れた、舞台役者特有のオーバーアクト演技をさらにグレードアップしたような芝居である。原則としてすべての台詞に対して身振り手振りが付加される。普通はそんな人間いないのだが、天邪鬼の皆さんは割と普段もそんな風にして生活しているので慣れた私は現実離れ感はあまりない。
それでも信濃ギャラリーという狭いハコで演じることで、観客は引きの画で舞台全体を観るのではなく、自然と喋る一人一人の顔にフォーカスされる。
舞台っぽいオーバーアクトはハコの狭さによってクロップされ、視界に残るのは顔、表情・・・それは感情そのものである。
結果として演者たちの異常に強調された感情の渦に巻き込まれていく。
広い劇場のワイドな画角でみたり、ましてビデオで見たりすれば、変なだけの世界に移るかもしれない。
生の感情が溢れかえる世界の真っただ中にぶち込まれる感覚は、激烈に魂を込めた芝居を信濃ギャラリーという逃げ場の無いようなところでやるから味わえるものだ。
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最初に書いた「引き算の演出」という思わせぶりなサブタイトルはまさにこのあたりのことを言いたかった。
演劇も映画も、演出は足し算で考えがちだ。
役者が演技をしている
そこにアクション、セット、照明、音響が次々と付加されていく。映画ならカメラワークと編集も入るだろう。
演出家はその場面に付加されるあらゆる要素を結合させたものをイメージしながら細部を組み立てていく。足し算だ。
そうすると芝居だけ観たらつまらない場面がすごく面白くなることもある。黒澤明なんかは足し算どころか映画は画と音の掛け算だと言った。
対してこの「海からの手紙」の演出アプローチは「引き算」だ。
信濃ギャラリーというせまいハコを使うこともあわせて、演技「以外」の部分をどんどんはぎ取ってゆき、芝居の節々の小ネタや細部が切り取られることもお構いなく、ついには演技の底のエモーションだけが残る
-----------
一応足し算部分もある。
火や水だ。
廣田さんの演劇は(私も一度廣田さんの芝居に客演したことはあるのだが)、とても演劇的というか、演劇だけに可能な表現方法を追い求めている方だ。
テレビ的でも映画的でもない。
客席も含めた会場全体を使う。
そしてテレビや映画では絶対に感じられない、視覚と聴覚以外の感覚に訴えかけてくる演出が面白い。
舞台そのものが動くとか、煙でむせかえり(昔はやばいぐらいロスコたいてた),水しぶきがかかってくる、何かUSJのような(行ったことないが)演出が魅力だ。生演奏も多かった。
今回は、客席は動かないし、煙もないが、水しぶきが結構飛んでくる(10年前の廣田さんならもっと観客をびしょ濡れにしたかもしれないが)
でもそうした加算要素は今回は少ない。可能な限り濾過されたエモーションを抽出するのが、今回の演出の方向性だったと思うので、それが正解だったと思う。
演劇の魅力はなんだかんだでライブ感である。今回の公演では狭い会場も演出の一部だった。
欠点として座席が無く体育座り状態での観劇なのでお尻が痛くなることは挙げたいが、それとても触覚を刺激する演出の一部といえば言えなくもない。
--------
けれどもうひとつわりと重要な付加要素がある。
前説で25年前の再演であることを強調されていたことだ。それも演出の一部だろうか。
その当時演じておられた方が3名出演しており、役は違うかもしれないが、「一度離れた故郷に帰ってくる」とか「約束を果たすため届けものを岡持ちに入れたままずっと探している」とかいう設定は、初演のことを知らなくても25年の歳月を想起させる。
きっと25年前、若く美しくシュッとしていた皆さんが、今そうではなくなった体をこれだけ至近距離で観客につきつけ、あの時とおそらくは同じ感情を指の先までほとばしらせて、演技しているのだ。
そこにはただただ、そうやって演劇を創ってきた皆さんの生き様が刻み付けられ、はきはきした発音と目力による問答無用感もあり、芝居に人生かけてきた人たちのリアルがある。
あの時からだいぶ時間は経ったが、蓄積された気持ちが狭いハコにみなぎっていくのであった
ストーリーも、悲しみを背負ってもそれでも生きていかなくちゃならない、人を愛する気持ちがあるなら生き抜いてくれ・・・という強い気持ちが感じられる。それはきっと演者全員の想いがつまっているのだろう。だから凝縮された感情が最高潮に高まるラストは胸かきむしられるように、切なく、涙があふれるに任せるしかなかったのである
だから私はこの芝居をみて、なんだかドキュメンタリーみたいだと思った
ストーリーじゃなく、舞台と向き合った役者が吐き出したリアルの感情であり、彼ら彼女らの生き様を刻むための舞台だったと思ったのだ
でもおそらくそれらの「25年ぶり」の協調も、最終的にエモーションの渦に巻き込むための周到な伏線だったに違いないのだ
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一名、特に言及しておきたい役者がいた
主人公の少年を演じた ひさよ
濃いぃキャラクターの中にあって、一人何色にも染まっていないような、「普通の存在感」を見せていた。
無個性が個性になるという点ではキャスティングの妙かもしれないし、ストーリー的にネタバレになるが唯一のリアルな存在だった少年が周りの濃厚な姉さん兄さんたちとは異なるナチュラルな芝居を、周りに流されることなくやり切ったのは素晴らしいと思う。
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【追記 BLUE MOON に関する、たぶん深読み】
ところで「BLUE MOON」という劇団名について
どういう理由でそうなったのだろうか?
多分劇団名とは関係ないが「BLUE MOON」という私の好きな歌がある。
作曲は「サウンド・オブ・ミュージック」のリチャード・ロジャースで、作詞はロジャースの相棒だったロレンツ・ハート。
歌詞はロマンチックなラブソングで、恋人がいなくて夢もなかった時青く見えていた月だけど、恋が実った時に見上げたら月はゴールドになっていたよ、という感じのもの
月は今も昔もかわらず夜空に輝いていたはず
気持ち次第で世界はブルーにもなるしゴールドにもなる
前を向いて生きようよ、そう思いさえすれば、わかるだろ。あなたは一人じゃないって
…そんな意味合いの曲でもあると思います
芝居とどう向き合うか年もとり、色々なことがある中で、やっぱり改めて芝居をやろうと気持ちを切り替えた姉さん方の心中を表現するように思った。
きっと劇団名とこの曲とは関係ないと思いますが
ブルームーン(Blue Moon:歌詞)
Blue Moon
You saw me standing alone
Without a dream in my heart
Without a love of my own
Blue Moon
You knew just what I was there for
You heard me saying a prayer for
Someone I really could care for
And then there suddenly appeared before me
The only one my arms will (ever) hold
I heard somebody whisper please adore me
And when I looked to the Moon it turned to gold
Blue Moon
Now I’m no longer alone
Without a dream in my heart
Without a love of my own
And then there suddenly appeared before me
The only one my arms will ever hold
I heard somebody whisper please adore me
And when I looked the Moon had turned to gold
Blue moon
Now I’m no longer alone
Without a dream in my heart
Without a love of my own
Blue moon
Now I’m no longer alone
Without a dream in my heart
Without a love of my own
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ブルームーン(Blue Moon:和訳)
ブルームーン
あなたは一人ぼっちで立っている私を見ていた
心に描く夢もなくて
愛する人もいない
ブルームーン
あなたは何のために私がそこにいるのかちゃんと分っていたのですね
あなたは私のお祈りが何を言ってたのか聞いていたのですね
私が誰かを本当に大切にしたいということ
それから突然私の前に現れた
私がいつまでも抱きしめておきたいたった一人のひとが
私は誰かがささやくのを聞いた「どうか私を大事にして。」と
そしたら、お月さまが金色に変わっていた
ブルームーン
今はもう一人じゃないんだ
心に描く夢もなくて
愛する人もいないような
訳は以下ページより引用
「magictrainミュージックブログ」
色々な人がカバーしているが、私はジュリー・ロンドンさんのバージョンが好きだ
BLUE MOON, JULIE LONDON
私がこの曲を知ったのは映画「日の名残り」で。終盤の再会シーンのカフェでかかっている。
最近だとウディ・アレンの「ブルー・ジャスミン」でも物語上重要な曲として使われていた。
2019年5月26日 松本市信濃ギャラリーにて観劇
演劇集団 BLUE MOON
原作 関治
作・演出 廣田謙一
出演 太田理恵子、ひらのみゆき、ひさよ、神田健太、いつみ
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引き算の演出のすごさを思い知る
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実は私は劇団員である。
松本の「劇団天邪鬼」の団員である。
その劇団の役者として舞台に立ったのはずいぶん前で、今は埼玉県在住なので劇団としての活動は何もしていないけど、辞めたと言ったことはないし、退団を通告されたこともないからまだ団員なのだろう。
団費もここ数年払ってないからいつクビを宣告されてもおかしくないのだけど、そう言われるまでは劇団員ヅラをさせてもらう。
その天邪鬼の現メンバーの皆様が中心となり新たに劇団を結成したという。
昨年一回限りの演劇ユニットとして天邪鬼メンバーと、演劇実験室◎経帷子を主宰する廣田謙一さんによる「演劇ユニットわるだくみ」を母体としてきちんとした劇団にしようということで「演劇集団BLUE MOON」という名前で新たに立ち上げたというのである。
天邪鬼は解散したわけでも消滅したわけでもないけど、先輩方が、失礼ながら若くもない方々が、新たな演劇表現のための新たなホームグランドを作り上げたというのは、とても感動したわけで。
その第一回公演を観るために、埼玉から松本へと向かった。
今回の公演は1992年の天邪鬼公演の台本をベースに、舞台を東北震災後の架空の町に置き換え、大幅に書き直されているのだという
私が天邪鬼に入ったのはたしか2002年であり、92年には松本に住んでもいなかったので、本公演のオリジナルは観ていない。
私が入ったころの天邪鬼は劇団☆新感線テイストがかなり強く10分おきに殺陣があり、ギャグ満載のエンタメ路線だったが、90年代はダイアローグ中心の舞台だったようだ。
25年も前の公演の再演となったわけだが、ホンはほぼ新作。
あえて今、それを再演する理由は何だろうか
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劇場は信濃ギャラリーという、非常に狭い小屋で、満員でも観客は40人くらいだろうか
狭いので観客の密集感がすごい
そして私は前から2列目に座ったのだが、舞台のツラまで1メートルもなく、演者が近い。
一番後ろの席に座ったとしてもツラまでせいぜい3メートル。とにかく近く、顔がでかい。
天邪鬼の役者の皆さんの芝居は「リアリズム芝居」からはだいぶ離れた、舞台役者特有のオーバーアクト演技をさらにグレードアップしたような芝居である。原則としてすべての台詞に対して身振り手振りが付加される。普通はそんな人間いないのだが、天邪鬼の皆さんは割と普段もそんな風にして生活しているので慣れた私は現実離れ感はあまりない。
それでも信濃ギャラリーという狭いハコで演じることで、観客は引きの画で舞台全体を観るのではなく、自然と喋る一人一人の顔にフォーカスされる。
舞台っぽいオーバーアクトはハコの狭さによってクロップされ、視界に残るのは顔、表情・・・それは感情そのものである。
結果として演者たちの異常に強調された感情の渦に巻き込まれていく。
広い劇場のワイドな画角でみたり、ましてビデオで見たりすれば、変なだけの世界に移るかもしれない。
生の感情が溢れかえる世界の真っただ中にぶち込まれる感覚は、激烈に魂を込めた芝居を信濃ギャラリーという逃げ場の無いようなところでやるから味わえるものだ。
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最初に書いた「引き算の演出」という思わせぶりなサブタイトルはまさにこのあたりのことを言いたかった。
演劇も映画も、演出は足し算で考えがちだ。
役者が演技をしている
そこにアクション、セット、照明、音響が次々と付加されていく。映画ならカメラワークと編集も入るだろう。
演出家はその場面に付加されるあらゆる要素を結合させたものをイメージしながら細部を組み立てていく。足し算だ。
そうすると芝居だけ観たらつまらない場面がすごく面白くなることもある。黒澤明なんかは足し算どころか映画は画と音の掛け算だと言った。
対してこの「海からの手紙」の演出アプローチは「引き算」だ。
信濃ギャラリーというせまいハコを使うこともあわせて、演技「以外」の部分をどんどんはぎ取ってゆき、芝居の節々の小ネタや細部が切り取られることもお構いなく、ついには演技の底のエモーションだけが残る
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一応足し算部分もある。
火や水だ。
廣田さんの演劇は(私も一度廣田さんの芝居に客演したことはあるのだが)、とても演劇的というか、演劇だけに可能な表現方法を追い求めている方だ。
テレビ的でも映画的でもない。
客席も含めた会場全体を使う。
そしてテレビや映画では絶対に感じられない、視覚と聴覚以外の感覚に訴えかけてくる演出が面白い。
舞台そのものが動くとか、煙でむせかえり(昔はやばいぐらいロスコたいてた),水しぶきがかかってくる、何かUSJのような(行ったことないが)演出が魅力だ。生演奏も多かった。
今回は、客席は動かないし、煙もないが、水しぶきが結構飛んでくる(10年前の廣田さんならもっと観客をびしょ濡れにしたかもしれないが)
でもそうした加算要素は今回は少ない。可能な限り濾過されたエモーションを抽出するのが、今回の演出の方向性だったと思うので、それが正解だったと思う。
演劇の魅力はなんだかんだでライブ感である。今回の公演では狭い会場も演出の一部だった。
欠点として座席が無く体育座り状態での観劇なのでお尻が痛くなることは挙げたいが、それとても触覚を刺激する演出の一部といえば言えなくもない。
--------
けれどもうひとつわりと重要な付加要素がある。
前説で25年前の再演であることを強調されていたことだ。それも演出の一部だろうか。
その当時演じておられた方が3名出演しており、役は違うかもしれないが、「一度離れた故郷に帰ってくる」とか「約束を果たすため届けものを岡持ちに入れたままずっと探している」とかいう設定は、初演のことを知らなくても25年の歳月を想起させる。
きっと25年前、若く美しくシュッとしていた皆さんが、今そうではなくなった体をこれだけ至近距離で観客につきつけ、あの時とおそらくは同じ感情を指の先までほとばしらせて、演技しているのだ。
そこにはただただ、そうやって演劇を創ってきた皆さんの生き様が刻み付けられ、はきはきした発音と目力による問答無用感もあり、芝居に人生かけてきた人たちのリアルがある。
あの時からだいぶ時間は経ったが、蓄積された気持ちが狭いハコにみなぎっていくのであった
ストーリーも、悲しみを背負ってもそれでも生きていかなくちゃならない、人を愛する気持ちがあるなら生き抜いてくれ・・・という強い気持ちが感じられる。それはきっと演者全員の想いがつまっているのだろう。だから凝縮された感情が最高潮に高まるラストは胸かきむしられるように、切なく、涙があふれるに任せるしかなかったのである
だから私はこの芝居をみて、なんだかドキュメンタリーみたいだと思った
ストーリーじゃなく、舞台と向き合った役者が吐き出したリアルの感情であり、彼ら彼女らの生き様を刻むための舞台だったと思ったのだ
でもおそらくそれらの「25年ぶり」の協調も、最終的にエモーションの渦に巻き込むための周到な伏線だったに違いないのだ
------
一名、特に言及しておきたい役者がいた
主人公の少年を演じた ひさよ
濃いぃキャラクターの中にあって、一人何色にも染まっていないような、「普通の存在感」を見せていた。
無個性が個性になるという点ではキャスティングの妙かもしれないし、ストーリー的にネタバレになるが唯一のリアルな存在だった少年が周りの濃厚な姉さん兄さんたちとは異なるナチュラルな芝居を、周りに流されることなくやり切ったのは素晴らしいと思う。
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【追記 BLUE MOON に関する、たぶん深読み】
ところで「BLUE MOON」という劇団名について
どういう理由でそうなったのだろうか?
多分劇団名とは関係ないが「BLUE MOON」という私の好きな歌がある。
作曲は「サウンド・オブ・ミュージック」のリチャード・ロジャースで、作詞はロジャースの相棒だったロレンツ・ハート。
歌詞はロマンチックなラブソングで、恋人がいなくて夢もなかった時青く見えていた月だけど、恋が実った時に見上げたら月はゴールドになっていたよ、という感じのもの
月は今も昔もかわらず夜空に輝いていたはず
気持ち次第で世界はブルーにもなるしゴールドにもなる
前を向いて生きようよ、そう思いさえすれば、わかるだろ。あなたは一人じゃないって
…そんな意味合いの曲でもあると思います
芝居とどう向き合うか年もとり、色々なことがある中で、やっぱり改めて芝居をやろうと気持ちを切り替えた姉さん方の心中を表現するように思った。
きっと劇団名とこの曲とは関係ないと思いますが
ブルームーン(Blue Moon:歌詞)
Blue Moon
You saw me standing alone
Without a dream in my heart
Without a love of my own
Blue Moon
You knew just what I was there for
You heard me saying a prayer for
Someone I really could care for
And then there suddenly appeared before me
The only one my arms will (ever) hold
I heard somebody whisper please adore me
And when I looked to the Moon it turned to gold
Blue Moon
Now I’m no longer alone
Without a dream in my heart
Without a love of my own
And then there suddenly appeared before me
The only one my arms will ever hold
I heard somebody whisper please adore me
And when I looked the Moon had turned to gold
Blue moon
Now I’m no longer alone
Without a dream in my heart
Without a love of my own
Blue moon
Now I’m no longer alone
Without a dream in my heart
Without a love of my own
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ブルームーン(Blue Moon:和訳)
ブルームーン
あなたは一人ぼっちで立っている私を見ていた
心に描く夢もなくて
愛する人もいない
ブルームーン
あなたは何のために私がそこにいるのかちゃんと分っていたのですね
あなたは私のお祈りが何を言ってたのか聞いていたのですね
私が誰かを本当に大切にしたいということ
それから突然私の前に現れた
私がいつまでも抱きしめておきたいたった一人のひとが
私は誰かがささやくのを聞いた「どうか私を大事にして。」と
そしたら、お月さまが金色に変わっていた
ブルームーン
今はもう一人じゃないんだ
心に描く夢もなくて
愛する人もいないような
訳は以下ページより引用
「magictrainミュージックブログ」
色々な人がカバーしているが、私はジュリー・ロンドンさんのバージョンが好きだ
BLUE MOON, JULIE LONDON
私がこの曲を知ったのは映画「日の名残り」で。終盤の再会シーンのカフェでかかっている。
最近だとウディ・アレンの「ブルー・ジャスミン」でも物語上重要な曲として使われていた。