やべー!! どうするおいっ・・・てくらい面白い、これぞ青春ムービー
転校を目前に幼なじみの直(ナオ)に思いを打ち明けたい晶(アキラ)は、弓道部の先輩から告白される。その先輩は付き合っていた恋人をふってまで晶に告白したのだ。先輩がふった女はクラスで一番人気の環(タマキ)。困った事に直は環のことが好きで、環は環で直に対する晶の気持ちに感づいていて、先輩にふられた復讐のため直に言い寄る。晶のお別れパーティの日、晶の作戦で直と2人きりになるはずだったのに、そこに環と先輩まで入ってきて、はたして晶は直に気持ちを伝える事ができるのか!!4人は夜の高校に忍び込み、晶vs先輩の勝った方が言う事聞く弓道対決が始まるのだ!!!!!!!!!
そんなつねにピリピリの緊張感つきまとうお別れパーティ。物語は淡々に進む筈もなく、若さゆえの青っちょろい、喧嘩といがみ合いと絶叫と涙の青春夜話を照れる事なく追い掛ける。バカだねこいつら・・・と思わせながら、はたして次はどうなるのかと、物語がひとつひとつ進んでいくことのたまらない興奮をなんとしよう。
別段目新しい物語ではないが、演出は定型にはまることを極端におそれ、自由に自由にふるまう。大人たちに興味はないと言わんばかりに、水橋研二も石野真子もアップはほとんどなく、油断しているとどこに出演していたのかわからないくらいだ。若い出演者たちにも長回しの末に泣かせるような本気の芝居をさせる。カットカットの積み重ねではなく4人の俳優たちのむき出しの感情とテンションを焼き付けていく。物語同様にスリリング。
既成のドラマ演出に陥らないために、常に攻撃的なところは、カット割りにも現れている。
物語序盤における、(環との)キスの練習がしたいと言う直に、晶が動揺するくだり。カメラはアクションラインを悠々と飛び越える。
向かい合って喋る人間のそれぞれの顔のアップをつなぐ場合、カメラは人物Aと人物Bを結ぶ線を越えてはならない。これ常識。カメラが人物Aのアップを撮った後、ABを結ぶ線を飛び越えて人物Bのアップを撮るとどうなるか。編集するとAもBも画面に対して同じ方向を向いて喋っている形になり、対話している感じが出ないのである。
しかし、この常識的映画文法に疑問を感じる人物もいた。巨匠・小津安二郎だ。
「しかし、この"文法"も私に言わせると何か説明的な、こじつけのように思えてならない。それで私は一向に構わずABを結ぶ線をまたいでクローズ・アップを撮る。するとAも左を向くし、Bも左を向く。だから、客席の上で視線が交わるようなことにならない。しかしそれでも対話の感じは出るのである。おそらくこんな撮り方をしているのは、日本では私だけであろうが、世界でも、おそらく私一人であろう。私は、こんなことをやり出してもう30年になる。」(芸術新潮 1959年4月号)・・・吉田喜重著「小津安二郎の反映画」より
(吉田喜重は小津のアクションラインまたぎは、おだやかな展開に異物を投入して平衡感覚をくずすため・・と解釈している)
「恋する日曜日」でもカメラは晶と直を結ぶ線を飛び越え2人は画面に対し同じ向きで会話をする。
練習のキス、願っていたキス、不本意なキス、それでもキス・・・そんな混乱した雰囲気を盛り上げるため、あえて常識を破って、不安定で違和感あるカット割りにしたのではないだろうか?
多分、ABを結ぶ線を越えることは小津の時代はさておき、最近はめずらしくないと思われる(意識して観ていないからよくわかんないが)。それでもテレビドラマとかでは普通はやらないだろう。
この映画はBS-iの人気ドラマシリーズの映画版ということであるが、昨今の日本に氾濫するテレビの延長でしかないような映画たちとの差別化を図ろうと、常識にも決まり事にもとらわれない自由な発想で攻撃的になっていることが、こんなカット割りからも察せられるのである。
低予算小品ながらもの凄い情熱と映画界への反抗すら感じる力はいりまくりの青春大会であった。大好きさ、こういう映画。
*******
↓面白かったらクリックしてね
人気blogランキング
自主映画撮ってます。松本自主映画製作工房 スタジオゆんふぁのHP
転校を目前に幼なじみの直(ナオ)に思いを打ち明けたい晶(アキラ)は、弓道部の先輩から告白される。その先輩は付き合っていた恋人をふってまで晶に告白したのだ。先輩がふった女はクラスで一番人気の環(タマキ)。困った事に直は環のことが好きで、環は環で直に対する晶の気持ちに感づいていて、先輩にふられた復讐のため直に言い寄る。晶のお別れパーティの日、晶の作戦で直と2人きりになるはずだったのに、そこに環と先輩まで入ってきて、はたして晶は直に気持ちを伝える事ができるのか!!4人は夜の高校に忍び込み、晶vs先輩の勝った方が言う事聞く弓道対決が始まるのだ!!!!!!!!!
そんなつねにピリピリの緊張感つきまとうお別れパーティ。物語は淡々に進む筈もなく、若さゆえの青っちょろい、喧嘩といがみ合いと絶叫と涙の青春夜話を照れる事なく追い掛ける。バカだねこいつら・・・と思わせながら、はたして次はどうなるのかと、物語がひとつひとつ進んでいくことのたまらない興奮をなんとしよう。
別段目新しい物語ではないが、演出は定型にはまることを極端におそれ、自由に自由にふるまう。大人たちに興味はないと言わんばかりに、水橋研二も石野真子もアップはほとんどなく、油断しているとどこに出演していたのかわからないくらいだ。若い出演者たちにも長回しの末に泣かせるような本気の芝居をさせる。カットカットの積み重ねではなく4人の俳優たちのむき出しの感情とテンションを焼き付けていく。物語同様にスリリング。
既成のドラマ演出に陥らないために、常に攻撃的なところは、カット割りにも現れている。
物語序盤における、(環との)キスの練習がしたいと言う直に、晶が動揺するくだり。カメラはアクションラインを悠々と飛び越える。
向かい合って喋る人間のそれぞれの顔のアップをつなぐ場合、カメラは人物Aと人物Bを結ぶ線を越えてはならない。これ常識。カメラが人物Aのアップを撮った後、ABを結ぶ線を飛び越えて人物Bのアップを撮るとどうなるか。編集するとAもBも画面に対して同じ方向を向いて喋っている形になり、対話している感じが出ないのである。
しかし、この常識的映画文法に疑問を感じる人物もいた。巨匠・小津安二郎だ。
「しかし、この"文法"も私に言わせると何か説明的な、こじつけのように思えてならない。それで私は一向に構わずABを結ぶ線をまたいでクローズ・アップを撮る。するとAも左を向くし、Bも左を向く。だから、客席の上で視線が交わるようなことにならない。しかしそれでも対話の感じは出るのである。おそらくこんな撮り方をしているのは、日本では私だけであろうが、世界でも、おそらく私一人であろう。私は、こんなことをやり出してもう30年になる。」(芸術新潮 1959年4月号)・・・吉田喜重著「小津安二郎の反映画」より
(吉田喜重は小津のアクションラインまたぎは、おだやかな展開に異物を投入して平衡感覚をくずすため・・と解釈している)
「恋する日曜日」でもカメラは晶と直を結ぶ線を飛び越え2人は画面に対し同じ向きで会話をする。
練習のキス、願っていたキス、不本意なキス、それでもキス・・・そんな混乱した雰囲気を盛り上げるため、あえて常識を破って、不安定で違和感あるカット割りにしたのではないだろうか?
多分、ABを結ぶ線を越えることは小津の時代はさておき、最近はめずらしくないと思われる(意識して観ていないからよくわかんないが)。それでもテレビドラマとかでは普通はやらないだろう。
この映画はBS-iの人気ドラマシリーズの映画版ということであるが、昨今の日本に氾濫するテレビの延長でしかないような映画たちとの差別化を図ろうと、常識にも決まり事にもとらわれない自由な発想で攻撃的になっていることが、こんなカット割りからも察せられるのである。
低予算小品ながらもの凄い情熱と映画界への反抗すら感じる力はいりまくりの青春大会であった。大好きさ、こういう映画。
*******
↓面白かったらクリックしてね
人気blogランキング
自主映画撮ってます。松本自主映画製作工房 スタジオゆんふぁのHP
ここに小津安二郎の交わらない視線の話が出てくるとは!?
不覚にも観た時には気づきませんでした。
おお
小津
・・で反応してくれるのが嬉しいです