【個人的評価 ■■■■■□】(6段階評価 ■□□□□□:最悪、■■■■■■:最高)
現職の女王や首相の日常、まだ記憶に新しいダイアナ元妃の死という興味をかき立てるセンセーショナルな題材でありながら、政治的プロパガンダには陥らず、冷静に社会と君主制を批評。そして、社会に生きることと個人として生きることの両立がいかに難しいかを、その最も極端な例を使って説明し、最終的には個人の自由な意志表現の大切さが描かれる。
イギリス映画界の懐の広さに恐れ入る見事すぎる一本。
一人の人間には大なり小なり二種類の性格が混在すると思う。
「素の自分」と「共同体の一員としての自分」
人は父親であろうと務めたり、上司たろうと務めたり、親友たろうと務めたりするが、それは「父親」「上司」「親友」という役割を演じていると言える。そういう時、自分の意見や自分の利益を捨て、その属する社会としてふさわしい行動をとろうとする。
そして人は国家の一員としての役割を演じようとする。たいていの人は選挙とか納税のときに意識するくらいだろうが、国家の中枢に近づけば近づくほど「公人的性質」が強くなる。
首相の妻の場合には、私人としての性格の方が優勢だ。
首相となると、公人的性格が自然と強くなるが、私人として振舞うことも許される。
そして君主は、私人としての存在がほとんど否定される。
彼らは何をしても、あるいは、何もしなくても、存在自体が政治的であり、行動や言動の全てが公人として解釈される。彼女らは国家の君主としてふさわしく振舞おうともするが、個人的な動機や感情で動いてもそれが他人にとっては公人としての振る舞いになる。
彼らは、ことさら意識して君主であろうと振舞わずとも、他人は君主としてどうかという目で見るし、それゆえ無意識のうちに君主らしく振舞おうとする。
たとえばチャールズがダイアナの遺体を見て絶句するシーン。
人情家らしいチャールズの一面を見せて王室に媚びている・・・のではないだろう。それ以外に振舞いようのない彼の立場を考えれば、演技だとしても、無意識の演技だとしても、素の感情であったとしても、いずれにせよその行動は政治的なものとなってしまう。チャールズの、国家によって抑圧された窮屈な人生を感じさせるのである。
もう一つ、重要なのが「儀式」である。「儀式」ではほとんど全ての人が身分や立場に関係なく、役割を演じることになる。
結婚式では花婿として、花嫁として、花嫁の父として、花婿の友として・・・皆が与えられた役割を演じることに躍起になり、卒業式では卒業生として父母として先生として、各々が自分の役割を演じる。
そして、葬式では皆が故人との関係にふさわしい態度で、故人を偲ぶ役割に没頭する。
日常的に役割を演じ続ける君主とその家族たちの物語が、葬式という儀式に向けて進んでいくところが、公人的性質と私人的性質を描き分けるこの映画を象徴している。
葬式においては、君主だけでなく首相も外国の要人も、その他参列者も、葬儀には出席せず会場を取り囲む一般市民も、すべてが故人を偲ぶ役割を演じている。
個人的な意見を言ってみたいと、一般市民を羨ましがる女王であるが、葬式においては一般市民と女王との隔たりがごくごく近くなった。
様々な圧力の中、別荘に逃げ込む君主一家。そこでも女王は家庭の母として祖母としてふるまい、ブレアから電話がかかれば君主に戻る。
一人で車を運転し、鹿をみて美しいと感嘆し、その鹿の死を悲しむ。それらのシーンで女王は唯一、私人として振舞う。
素の自分になれる相手はシカ。
そのシカすら死んでしまい、女王は葬式という儀式ではなく、極めて個人的にシカの遺体が安置された猟師小屋を訪ね、個人的にシカの死を悼む。
その後のダイアナの葬儀では、君主としてその死を悼む役割を演じる。そこにはシカの死を知った時の深い絶望も、シカの遺体を前にした時の悲しみもない。君主にふさわしい威厳を備えた女王としての姿があるのみ。
しかしダイアナの死を悼む他の列席者と、その場にふさわしい自分を演じているという点で違いは無い。しかし人が本当に美しく輝くのは、役割を完璧に演じきる時ではなく、素の自分として振る舞う時なのだ。それでも人は演じ続けねばならない。社会の一員であるために。
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自主映画撮ってます。松本自主映画製作工房 スタジオゆんふぁのHP
現職の女王や首相の日常、まだ記憶に新しいダイアナ元妃の死という興味をかき立てるセンセーショナルな題材でありながら、政治的プロパガンダには陥らず、冷静に社会と君主制を批評。そして、社会に生きることと個人として生きることの両立がいかに難しいかを、その最も極端な例を使って説明し、最終的には個人の自由な意志表現の大切さが描かれる。
イギリス映画界の懐の広さに恐れ入る見事すぎる一本。
一人の人間には大なり小なり二種類の性格が混在すると思う。
「素の自分」と「共同体の一員としての自分」
人は父親であろうと務めたり、上司たろうと務めたり、親友たろうと務めたりするが、それは「父親」「上司」「親友」という役割を演じていると言える。そういう時、自分の意見や自分の利益を捨て、その属する社会としてふさわしい行動をとろうとする。
そして人は国家の一員としての役割を演じようとする。たいていの人は選挙とか納税のときに意識するくらいだろうが、国家の中枢に近づけば近づくほど「公人的性質」が強くなる。
首相の妻の場合には、私人としての性格の方が優勢だ。
首相となると、公人的性格が自然と強くなるが、私人として振舞うことも許される。
そして君主は、私人としての存在がほとんど否定される。
彼らは何をしても、あるいは、何もしなくても、存在自体が政治的であり、行動や言動の全てが公人として解釈される。彼女らは国家の君主としてふさわしく振舞おうともするが、個人的な動機や感情で動いてもそれが他人にとっては公人としての振る舞いになる。
彼らは、ことさら意識して君主であろうと振舞わずとも、他人は君主としてどうかという目で見るし、それゆえ無意識のうちに君主らしく振舞おうとする。
たとえばチャールズがダイアナの遺体を見て絶句するシーン。
人情家らしいチャールズの一面を見せて王室に媚びている・・・のではないだろう。それ以外に振舞いようのない彼の立場を考えれば、演技だとしても、無意識の演技だとしても、素の感情であったとしても、いずれにせよその行動は政治的なものとなってしまう。チャールズの、国家によって抑圧された窮屈な人生を感じさせるのである。
もう一つ、重要なのが「儀式」である。「儀式」ではほとんど全ての人が身分や立場に関係なく、役割を演じることになる。
結婚式では花婿として、花嫁として、花嫁の父として、花婿の友として・・・皆が与えられた役割を演じることに躍起になり、卒業式では卒業生として父母として先生として、各々が自分の役割を演じる。
そして、葬式では皆が故人との関係にふさわしい態度で、故人を偲ぶ役割に没頭する。
日常的に役割を演じ続ける君主とその家族たちの物語が、葬式という儀式に向けて進んでいくところが、公人的性質と私人的性質を描き分けるこの映画を象徴している。
葬式においては、君主だけでなく首相も外国の要人も、その他参列者も、葬儀には出席せず会場を取り囲む一般市民も、すべてが故人を偲ぶ役割を演じている。
個人的な意見を言ってみたいと、一般市民を羨ましがる女王であるが、葬式においては一般市民と女王との隔たりがごくごく近くなった。
様々な圧力の中、別荘に逃げ込む君主一家。そこでも女王は家庭の母として祖母としてふるまい、ブレアから電話がかかれば君主に戻る。
一人で車を運転し、鹿をみて美しいと感嘆し、その鹿の死を悲しむ。それらのシーンで女王は唯一、私人として振舞う。
素の自分になれる相手はシカ。
そのシカすら死んでしまい、女王は葬式という儀式ではなく、極めて個人的にシカの遺体が安置された猟師小屋を訪ね、個人的にシカの死を悼む。
その後のダイアナの葬儀では、君主としてその死を悼む役割を演じる。そこにはシカの死を知った時の深い絶望も、シカの遺体を前にした時の悲しみもない。君主にふさわしい威厳を備えた女王としての姿があるのみ。
しかしダイアナの死を悼む他の列席者と、その場にふさわしい自分を演じているという点で違いは無い。しかし人が本当に美しく輝くのは、役割を完璧に演じきる時ではなく、素の自分として振る舞う時なのだ。それでも人は演じ続けねばならない。社会の一員であるために。
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脚本は本気ですごかったですね
役者も良かったですね。威厳と品位を感じさせる女王でしたけど内なる叫びの表現がもっとも心に突き刺さりました。シカのシーン、それだけでアカデミー納得でした
そしてまた王冠を載せたクィーンに戻る。
よく出来た脚本でしたね。
役者も本も監督も。お見事でした。