文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

It shall correct by one me. I who appeared completely, saying that it began with one,

2016年10月08日 17時29分52秒 | 日記

It sent the other day to Japan and the world, discovering a paper with valuable Ara Kenichi who graduated from Tohoku University literature department by the senior in Sendai-Dai-Ni high school which is my alma mater with the Net.

The friend who read this brought separate volume sound argument 26. There was memory in Mr. Ara Kenichi's name and it sent.

I know for the first time, the great part of the Japanese would be the fact to know for the first time. Of course, the people all over the world don't know at all.

Nazism, the fascism, the party making a despotic decision to carry-out by the Communist Party, the evil of the human being the lifeline of whom is advertisement with the convenience which is good for these, itself, it is peaked, because the world doesn't know to the good thing, it is in saying that it tells a lie. It says it, too, not to be an ordinary lie of the lie extensively, making persistent.

The people who have proper intellect have no choice but to be stunned by the severity of the intellect of the world which is represented by the United Nations which believed it though.

I who am the Japanese people remember the cruel rage which is vigorous to the feebleminded world like this.

Therefore, here, I right the world, giving Oda Nobunaga's very loud voice.

It shall correct by one me. I who appeared completely, saying that it began with one, it is the first time person in the world.

Japan the electric appliance manufacturer group to be proud of in the world, it drove to the difficulties, too, it is one of Japan and one of the U.S..

The nuclear power plant technology which Japan is proud of in the world, let it stagnate, one of Toshiba, Hitachi, Mitsubishi Heavy Industries and so on, the big businesses which Japan is proud of in the world if the related enterprise, too, includes, the big group of enterprises which employs the Japanese people of Tens of millions, it is one, three in amount and Asahi Shimbun of the Japanese that drove to the difficulties.

One human being up to this to have practiced beginning with one completely about the evil, I have the self-confidence to have denied strongly.

In the voice of the God, in the providence of the God, there is absolute self-confidence that it is possible to spread a turntable of civilization through the world. Therefore, it made reference, too, that I was Kūkai in today, too.

I send this established theory of mine and the labor of following Ara Kenichi senior to the world as Oda Nobunaga's very loud voice.

Specifically, it is possible to roar at the highbrow in the U.S. which is represented by the New York Times paper and so on of which it seems that it thinks that Nanjing Massacre is a historic fact.

It be possible to listen to my voice and read senior's labor with these fools opening eyes widely and straining an ear.

It is an American and as for being wholesale in the bad sense, it is necessary to know that it only leads the world to the ruin.

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それを信じて来た国連に代表される世界の知性の酷さに、まともな知性を持った人たちは

2016年10月08日 16時44分11秒 | 日記

先日、ネットで私の母校である仙台二高の先輩で東北大学文学部を卒業した阿羅健一さんの貴重な論文を発見して日本と世界に発信した。これを読んだ友人が別冊正論26を持って来てくれた。阿羅健一さんの名前に記憶があって届けてくれたのである。

私が始めて知るように日本人の大半が初めて知る事実だろう。勿論、世界中の人たちは全く知らない。ナチズム、ファシズム、共産党の一党独裁、これら自分に都合のよい宣伝を、その生命線とする人間たちの悪が極まっているのは、世界が知らないことを良い事に嘘をつくと言う事にあるのだ。それも普通の嘘ではない、執拗にして、大々的に嘘をつくのである。

それを信じて来た国連に代表される世界の知性の酷さに、まともな知性を持った人たちは、唖然とするほかはないのだが。

日本国民である私は、そのように酷い、低能な世界に対して激しい怒りを覚える。だから、ここでも私は織田信長の大音声を上げて、世界を正す。

私一人で正して見せる。すべては一人から始まると言って登場した私は世界で初めての人である。

日本が世界に誇る電機メーカー群を苦境に追いやったのも日本の一人と、米国の一人である。日本が世界に誇る原発技術を停滞させ、東芝、日立、三菱重工などの日本が世界に誇る大企業にして、関連企業も含めれば、数千万人の日本国民を雇用している大企業群を苦境に追いやったのも日本人の一人、合計3人と、朝日新聞社である。

私には、一人の人間が、悪において、全ては一人から始まる事を実践してきたこれまでを、強烈に否定して来たという自負がある。神の声を、神の摂理を、文明のターンテーブルを世界にとどろかせたという、絶対的な自負がある。だから私は現代の空海であるとも言及もした。

私のこの前説と以下の阿羅健一先輩の労作を私は織田信長の大音声として世界に発信する。特に南京大虐殺が歴史上の事実であると考えているらしい、ニューヨーク・タイムズ紙などに代表される米国の知識人にとどろかせる。この馬鹿者たちが、目を見開き、耳をそばだてて、私の声を聴け、先輩の労作を読め。

米国人よ、悪い意味での大雑把さは、世界を破滅に導くだけである事を知らなければならない。

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こうした日本の「軽薄きわまる言葉のコンフォーミズム(画一主義)」についてであったのだ

2016年10月08日 13時33分46秒 | 日記

以下は前章の続きである。

そのアメリカ流の詐欺に日本が吸い込まれていくのを、二十一世紀初頭の社会のあるべき姿として、我が国の(比較的に)左翼的な勢力が盛大に応援したのである。

ー全学連や全共闘の(すでに老年期に入った)世代が民主党の勝利に小躍りしているのを老人は何度もみせつけられたー。

しかもその左翼風があまりに強いたため、自民党をも含めて、マニフェストを口にせぬ勢力は一つもなくなるという始末になった。

老人が気にしたのは、こうした日本の「軽薄きわまる言葉のコンフォーミズム(画一主義)」についてであったのだ。

その画一主義とは近代主義(という左翼の本質的な養分)を国民とその代表者が腹一杯に食するということにほかならない。 

その矢先に3.11の東北大地震と(菅直人首相の現場への過剌介人としての「人災」の可能性すら強い)福島原発大事故とが起こった。

そして東京電力の社長が「想定できぬことをも想定しておくべきであった」と謝罪したのである。

あまりにも明瞭なのはプレザムプション(想定)には、不確実性の度合に応じて、様々の段階があるということにかんする(東電を含む)日本人の無知という点だ。

つまり、プレディクション(「予測」すなわち「形と量」にかんする確率的な期待)とアッテイシベーション(「予想」すなわち「形と量」について曖昧なままの期待)とイマジネーション(「想像」すなわち「形と量」について何の確実性をも想定できぬ漠たる期待)、という三段階の区別が何もなされていないのである。

この地震と事故は、せいぜいのところ「想像しておくべきであった」といえる程度のものにすぎない。 

今はもう誰もマニフェストについて語らない。

あれほど暄ましかった公共事業をめぐる「事業仕分け」なるデモンストレーション(示威)をする者たちもいなくなった。

この稿続く。

 

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公共財はマーケット・フェイリュア(市場の失敗)をもたらす典型例だとみなす経済学の倒錯のせいだ

2016年10月08日 13時25分33秒 | 日記

以下も月刊誌正論10月号の西部邁氏の連載論文からの抜粋である。日本国民全員と世界中の人たちが読まなければならない論文である事は言うまでもない。

文中強調は私。

前文略

社会格差に本当に関心があるなら、まずもって市場の価格安定性に気を配らねばならない。その安定性があってはじめて、とくに雇用をめぐる長期(暗黙)契約が落ち着いたものになり、さらには投資(および貯蓄)計画も乱高下を免れうるのである。

そんなことは婚姻という長期(暗黙)契約の成り行きをみているだけでも、つまり夫婦が和するように努めなければその男女関係が修羅場と化すということからも、すぐ察しられることではないのか。 

社会をそうした安定に導くために(それどころか「市場の成立条件」の最たるものとして)公共(事業というよりも)活動がどれほど大事か、論じるまでもあるまい。

具体的には、人々の所得、健康、教育、交通が、そして過去からの精神的遺産としてのモーラルと未来への共同作業を可能にするヴィジョンとが健全でなければ、交換制度がうまく機能しないということである。

それなのに、格差是正論と手を携えたのはいわば公共事業悪玉論であった。

そんな愚論がはびこったのは、「まず市場が成立している」として、次に公共財はマーケット・フェイリュア(市場の失敗)をもたらす典型例だとみなす経済学の倒錯のせいだ。

「公共事業があってようやく市場が成立する」という場合がむしろ多いのである。 

戦後日本人にあって次第に濃くなっていくそうした偽善さらには錯誤を民主党は代表しただけのことなのであろう。

それらの偽善や錯誤によって(新模型の新流行を旨とする)「模流時代」を正当化する雰囲気が捏造される。

そしてそれがムードにすぎないことを隠すために、御大層めかした「形式と数量」が、政策の数値・期限・工程が設計されるというふうな調子でマニフェスト(公言)するのが「マニフェスト政治」であったのだ。 

だがそれ以上に気掛かりであったのは、「厳密めかした形式」と「豊富めかした数量」とによって未来をプレディクト(予測)することができるとする合理主義が、マニフェスト政治によって宣明されたことだ。

それはアメリカニズムの本質にほかならず、グローバル・キャピタリズムが世界を席捲し破壊しているのはまさにその「危機を予測することができる」とするブルシット(嘘話)によってなのである。

リスク(危険)のマネジメント(管理)は可能でもクライシス(危機)にはルーリング(統治)を施せるだけ、という(マイケル・オークシヨツト流の)保守論が一顧だにされない結果、こんな嘘話の大流行となったわけだ。

なお、ここでルーリングというのは(技術知ではなく)実践知による集団運営法といったくらいの意味のことだ。

そのせいでIT(情報技術)の役割に過大な期待が寄せられもした。彼らの頭のなかで不確実性には確率的に予測できるものとしてのリスクしかなく、それゆえに確率計算などの通じないクライシスのことは念頭から追い払われているのである。

そのクライシスへの対処としてHO(ヒューマン・オーガニゼーション)つまり集団・組織が作られ文化が維持されてきたことも彼らは理解しない。

この稿続く。 

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資本分配率の拡大(労働分配率の縮小)という所得格差が休みなく進行し国内の購買力が鈍磨する。 

2016年10月08日 13時04分19秒 | 日記

以下も月刊誌正論10月号の西部邁氏の連載論文からの抜粋である。日本国民全員と世界中の人たちが読まなければならない論文である事は言うまでもない。

見出し以外の文中強調は私。

前文略

「マニフェスト政治」の狂気が広がるなか、その狂気の正体を暴露すべく保守政治を守ることなど不可能と諦念する 

民主党が「社会格差の是正」を強調しているにもかかわらず、イノヴェーションを礼賛しているのにたいし、この老人、反感を持たずにおれなかった。

というのも一つに、技術のイノヴェーションを創造的破壊と呼んでひたすらに肯定せんとしたジョセフ・シュムペーターの徒、つまり「シュムペーターリアン」は、元祖のようには歴史的パースペクティヴを持たぬまま、イノヴェーションを呼号しつづけていたし、今もそうしている。

彼らは、イノヴェーションなるものが独占(および寡占)利潤の確保を動機として進められているにもかかわらず、新技術、新商品、新販路、新資源、新組織の出現を市場における自由競争の偉大な成果として褒め称えている。

そういう嘘を平気で吐くシユムペータリアンで、学界であれ官界であれ財界であれ、今も満ち充ちている。

二つに、イノヴェーションはおおむねキャピタル・ユージング(資本使用的)あるいはレーバー・セーヴイング(労働節約的)で、その結果、資本分配率の拡大(労働分配率の縮小)という所得格差が休みなく進行し国内の購買力が鈍磨する。 

三つに、イノヴェーションに覆われる市場は、未来を(確率的予測が可能なリスクを超えた)クライシス(危機)へと連れ込むというのに、近過去なり現在なりの資本収益率を未来に(マイオピアつまり近視病者よろしく)エクストラポレート(外挿)するという虚偽の情報で、加えてその情報にもとづいてデリヴァティヴ(派生証券)なるものを作り出すというフロード(詐欺)をすら重ねて、株式市場を操っていた。

それは遅かれ早かれ金融パニック(とそれに伴う失業増大や定期雇用制の崩壊)をもたらさずにはいない。

そのことに気づこうとしない「偏差値の高い(民主党系の)政治家や学者や評論家やジャーナリスト」、それが老人には始末に負えない莫迦者たちとみえてならなかった。  この稿続く。

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it views universal morality far but it investigates an individual state situation

2016年10月08日 10時55分52秒 | 日記

The following is the sequel of the preceding chapter.

The text emphasis is me.
To the second one, "Trusting in the justice of the people (the Allied Forces) who love peace and the faith, it maintains our safety and survival" (Preamble clause 2), now the Allied Forces which is the actual state of the "national", postwar "the Security Council" of "the United Nations", that it isn't enough for the trust of "just and the faith" of it, only "it considers in the United Nations but it has independent national defense power" thing can secure "safe and the survival" in Japan.

When adding beforehand in addition, with that Japan comes really by the means with the important thing being "the self-importance and the independence", it should assume that the means it includes "safe and the survival".

"Safe and the survival of the slave" cannot be excluded if not seeing so.

To the 3rd, even if it is told that it does "the law of the politics morality is universal" (preamble clause 3), the law and the "individual" expression depend on the history and the state of the affairs in each country.

There is a person of "the Constitution tells an ideal", too, but it is only a thing with the history step (the times when autarchy was accepted when paraphrasing) that the democracy is immature.

The Constitution gives Noam (the model) as "The balance of the ideal and reality" to the state and the Constitution is born from "it views universal morality far but it investigates an individual state situation before the very eyes sufficiently".

This article continues.

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When interpreting beforehand about the present constitution, with one, in the case of

2016年10月08日 10時22分35秒 | 日記

The following is the sequel of the preceding chapter.
The old person wants to say, before hanging on the entrance of the state of the present-day Japan which took out a term, "the constitutionalism principle", from the stacks which are full of soot in Meiji - Taishou, for "it stands on the Constitution good", it is only the fact to argue about "the quality of the present constitution" first.
When interpreting beforehand about the present constitution, with one, in the case of "the signory exists in the people" (preamble clause 1), there is not even a meaning which is about the unworldly meanings such as sovereignty in sovereign power, it just (for the domestic and foreign policy) should be understood that the thing of the worldly right to "final say".
Then, now that "national" is in "the country stands up on the flow of the history", it should catch in case of being "historic total people", 
if doing so, supposing that national signory is "the mind of the tradition which is brought about from the history" is proper.
This article continues

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it is the paper which the people all over the world must read with all of Japan people.

2016年10月08日 09時59分43秒 | 日記

Hereinafter, it is excerpting from the serialization paper of Mr. Susumu Nishibe in the number of October of monthly magazine sound argument.

It isn't necessary to say that it is the paper which the people all over the world must read with all of Japan people.

The in the text emphasis is me.

The preamble abbreviation

It was the time of this old person, the middle age which still belonged to the university or "Japanese or the history in Japan, too, in addition to not knowing the national sentiments of the Japanese, the youngsters in America which, too, is not the expert of the Constitution, although even 24 gathered, within about 1 week, (Make "the proclamation of independence" in America a drip mat), the Constitution which scattered writing, "I write all revision sentences within 1 night, it is being disqualified as the highbrow in Japan if it isn't made.", it talked big.

Then, in the next day, there was request with "it writes a Constitution revision sentence entire because it doesn't say 1 night and it is permitted to hang for about 3 nights" right away from the editor of Bungeishunjū which was in the place.

Actually, it already exceeded a quarter-century after doing so but the Constitution view of this old person is almost maintained in the form as that case.

It refuses beforehand though, it doesn't say that there is an interest that this man is exceptional in the Constitution of Japan.

As his one of the conservatists, he thinks that the Constitution as the law with non- sentence (the custom) is better than the codification (the establishment) law, therefore, the argument for amendment of Constitution is supporting more if anything to the giving up the Constitution theory.

Because the Constitution is the fundamental norms of "national and the government", if knowing even the fact that the fundamental norms was brewed by the history in its own country, hold at "the specification of the basic history document like the Constitution" for the United Kingdom to be doing, later, being good in " it should be decided in the public opinion inside the important political matters (congress and in the presses) "Charter Oath" is the real intention of this man.

When saying more carefully, it isn't possible to conclude always that reconfirming fundamental norms of the state beforehand as national common sense by the codification statute is a bad thing.

This article continues

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日本国民全員と世界中の人たちが読まなければならない論文である事は言うまでもない。

2016年10月08日 08時52分01秒 | 日記

以下も月刊誌正論10月号の西部邁氏の連載論文からの抜粋である。

日本国民全員と世界中の人たちが読まなければならない論文である事は言うまでもない。

文中強調は私。

前文略

この老人、まだ大学にいた壮年の頃であったか、「日本語も日本の歴史も日本人の国民感情を知らぬ上に、憲法の専門家でもないアメリカの若者どもが、たとえ二十四人集まったとはいえ、一週間足らずで(アメリカの「独立宣言」を下敷にして)書き散らかした憲法なんか、「俺なら一晩で全部の改正文を書いてみせる、それができなければ日本の知識人として失格である」と豪語した。

するとその場にいた文藝春秋の編集者から、翌日に、さっそく「一晩といわず三晩くらいかけてもよいから憲法全面改正文を書いてくれ」との依頼があった。

実際にそうしてからすでに四半世紀を超えたが、この老人の憲法観はほとんどそのときのままの形で維持されている。 

断っておくが日本国憲法にこの男が格別の関心があるというのではないのだ。

彼は、保守派の一人として、成文(制定)法よりも不文(慣習)法としての憲法のほうがよいと考えており、それゆえ改憲論というよりもむしろ廃憲論に味方しているのである。

憲法とは「国民とその政府」の根本規範のことであるから、その根本規範が自国の歴史によって醸成されたものだということさえわきまえていれば、英国がやっているように「憲法的な基本的歴史文書の指定」にとどめて、あとは「万機(議会および言論界での)公論に決すべし」(「五箇条御誓文」)でよいというのが、この男の本心だ。

もっと慎重にいうと、成文制定法によって国家の根本規範を国民の常識として再確認しておくのはかならずしも悪いこととは断定できない。

老人のいいたいのは、明治・大正の煤だらけの書庫から「立憲主義」という用語を取り出してきた現代日本の国家の玄関にぶら下げる前に、「良き憲法の上に立つ」ためにはまず「現憲法の良否」について論じよ、ということにすぎない。 

現憲法について解釈しておくと、一つに「主権が国民に存する」(前文第一項)という場合、ソヴリン・パワー(主権)にはソヴリンティ(崇高性)などという超俗的な意味などあるわけもなく、それはただ(国内外の政策についての)「最終決定権」という俗的な権利のことだと解さるべきだ。

そして「国民」とは、「国が歴史の流れの上に成り立つ」のであるからには、「歴史上の総国民」のことだととらえるのがよく、さすれば国民の主権とは「歴史からもたらされる伝統の精神」のことだとするのが真っ当である。

二つに、「平和を愛する諸国民(連合軍)の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持する」(前文第二項)は、その(「諸国民」の実態たる)連合軍(戦後は「国連」の「安全保障理事会」)の「公正と信義」など信頼に足るものでないからには、日本の「安全と生存」は「国連に配慮しつつも自前の国防力を持つ」ことによってしか確保できない。

ついでにつけ加えておくと、日本が本当に大事とすべきは「自尊と自立」であって、そのための手段として「安全と生存」があるとみなすべきだ。

そうみなければ「奴隷の安全・生存」を排することができないのである。

三つに、「政治道徳の法則は、普遍的」(前文第三項)といわれても、その法則とやらの「個別的」な現れは各国の歴史と国情に依存する。「憲法は理想を語るものだ」という者もいるが、それは、民主主義が未熟な歴史段階(換言すると専制政治が罷り通っていた時代)でのことにすぎない。

憲法は、「理想と現実のバランス」としてのノーム(規範)を国家に与えるもので、「普遍の道徳性を遠くに展望しつつも目前における個別の国家事情を十分に考究する」ことから憲法が生まれる。 

この稿続く。

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