以下は黄文雄さんの、3月に発売された別冊正論26に掲載されていた、世界の無知とは違う、本物の知性の論文の続きである。日本の多くの人が全く知らなかった史実の数々、勿論、世界の人たちは全く知らなかった史実の数々である。
戦後日本の中国製ヒット作と駄作
「日本軍の暴虐」として、戦後日本には中国から多くの戦争話が流入している。
最大にして“ロングセラー”の「南京大虐殺」のようなヒット作もあるが、すべてがそうではない。
日本軍の進攻を阻止しようと自ら堤防を破壊、百万人の白国民を水死させ、被災者六百万人も出した「黄河決壊」を「日本軍の暴虐」として広めようとしたが、たった数日でフランス人記者に「自作自演の愚挙」と見破られた。
同様な決壊作戦は「八年抗日戦争」とされる間に、失敗を含めて十二回も行われている。
「黄河決壊」に続く駄作は「長沙大火」である。
千古の名城が三昼夜も延焼し、死者二万人以上も出した。
日本軍に向けた蒋介石の焦土作戦で、蒋は長沙警備司令、警備団長省警察局長の三人を銃殺して責任を逃れた。
放火実行犯の長沙警備司令部参謀長・許権が回顧録『造魂』で、大火の裏には長沙に潜伏した共産党の周恩来、葉剣英を焼き殺す計画もあったことを打ち明けた。
同様な「焚城」「焦土」作戦の駄作は、長沙にかぎらず各地で繰り返し行われた。
「支那を征服せんと欲すれば、必ず先ず満蒙を征服せざるべからず。世界を征服せんと欲せば、必ずまず支那を征服せざるべからず」とした「明治大帝の遺策」とされる田中義一首相の「田中上奏文」は、支那侵略の証文とされたが、すぐに捏造とわかり、外務省は国民党政府に抗議。
東京裁判でも取り上げられなかった。
それでも中共はこの偽書を毎年八月に繰り返し取り上げている。 ほかに中共が戦後流布しているものに「三光作戦」「万人坑」「七三一部隊のBC兵器などがある。
「七三一部隊」は一時勢いがあったが、ロングセラーには至らなかった。
理由は多々ある。そもそも日本人には「三光」の意味がわからない。漢語の「光」は「空っぽ」を意味するが、日本語の「光」にその意はない。
「焼光」(焼き尽くす)、「殺光」(殺し尽くす)、「搶光」(奪い尽くす)
という「三光政策」は本来、国共内戦で双方が相手の「暴行・悪行」を非難したものだが、やがて「日本軍の仕業」に変えられてしまった。「万人坑」は、前述した支那古代の「京観」からくるもので、各地の古戦場だけでなく、支那歴代軍隊の風習ともいえる。
反日日本人には珍しいので、すぐに飛びついたわけだ。
「七三一部隊」のBC(生物化学)兵器は、森村誠一『悪魔の飽食』(光文社、昭和五十六)で書かれた直後に話題となり、中共政府と反日日本人が手を携え、日本全国で展示会まで開いた。
そもそも「七三一部隊」は「防疫給水部隊」である。
終戦直後に米軍が石井軍医中将など部隊幹部に聞き取り調査を行い、「フェル・レポート」と「トムソン・レポート」まで出ている。
風聞やらで流布された「七三一部隊」は事実とまったく異なるので、「南京大虐殺」の二匹目のドジョウにはならなかった。
この稿続く。