文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

新羅は黄金の国でもあったのだ。『日本書記』にも、黄金があるから神功皇后たちが攻めたとある。だから日本は侵攻を繰り返したのだ。

2019年03月12日 20時33分52秒 | 日記

古代朝鮮半島を支配していたのが日本人だった
佐藤洋二郎 作家・日大芸術学部教授
韓国人の虚言癖にヘキエキしながらも、古代朝鮮経由で多くの文化が列島に伝わってきたと思い込んでいる日本人はまだ少なくない。「渡来人」などという新造語にユメ惑わされるなかれ。
新羅王家に流れる倭人の血…日本国民全員が必読の書である月刊誌WiLL4月号別冊「歴史通」の続きである。
半島に侵攻を繰り返す 
その影響かもしれないが、今日でも着物のことを「呉服」という。
揚子江近辺から船に乗れば、なにもしなくても九州に着くと土地の人間に聞いた。
日本での稲作が九州の発祥だとすれば、彼らが運んできたという推理もあるいは成り立つ。 
神武「東征」が南九州から起こっていることを考えれば、先端技術を持った彼らが東進したとも思える。
ちなみに「東遷」と「東征」とでは意味が違うが、これも深く吟味されることなく安易に使用されている。
「東を征伐する」と都を「東に遷す」とでは意味が違いすぎる。 
韓国人は稲作も半島から伝播したというが、それは地理的、気候的、海流的にも、根拠が乏しい。 
文化面においても、『陏書』に「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢使者曰 聞海西菩薩天子重興仏法故遣朝拝 兼沙門数十人来学仏法」とあり、倭王の多利思北孤が使いを出して貢ぎものをし、海の西の菩薩天子は熱心に仏法をやり、そのため僧侶を派遣してそれを学ぶためにきたと記述されている。
日本人はすでに二千年前に中国と交流を持ち、仏法を学んでいる。 
『隋書』や『魏志』には倭人は鉄を使うと記されている。
鏃(やじり)や鉄器を使っていることが、彼らにとって驚きだったから書き残したのだが、倭人は二千年前に製鉄をしていた。 
仏法を学び、先端技術を習得している日本の文化が、少なくとも中国の歴史書を読むかぎり朝鮮半島から流入したとは考えにくい。 
そして「三国史記」や「記紀」を読めば判然とするが、有史以来、日本は数えきれないほど朝鮮半島を侵攻し続けている。
その逆は無きに等しい。
わたしは室町期に李氏朝鮮が対馬を十日前後攻めた「応永の外寇」しか知らないが、ほかにあるのだろうか。
倭寇の侵入が夥しくあり、高麗の沿岸には人々が住まなくなった。
この倭寇の拠点となっていた対馬を強襲して船を破壊し、人質を解放したというのが「応永の外寇」だが、それ以外は逆に日本に人質を差し出したり、貢ぎ物を繰り返したりしている。
なおかつあれだけ侵攻していた新羅には、日本が唐・新羅連合軍に敗れた白村江の戦いから、国家問の交流は乏しくなっている。 
南都六宗や鎌倉新仏教との関わりも、日本は朝鮮より唐から影響を受けている。
文化の輸入も遣隋使や遣唐使とともに中国からだったはずだ。
『隋書』にも見えるように、朝鮮半島から文化が入ってきたという説は成立しにくいし、古代から攻撃を受け続けている国から、さまざまな文化が流入したというのも考えにくい。 
長江ルートと半島ルートの両方があったとしても、日本より朝鮮半島のほうが国力も文化水準も高かったと言うのは間違いだ。
そう言い張るなら、その根拠を提示しなければ、「嘘も百回つけば真実になる」の類だろう。
日本の律令も冠位も朝鮮を真似てつくったわけではない。       
それなのに文禄・慶長の役のおりに、「東アジアの文化的後進国であった日本は、朝鮮から活字、書籍、絵画、陶磁器などの文化遺産を略奪し、多くの技術者や学者を拉致して行った。これとともに朝鮮の性理学も伝えられ、日本文化に大きな影響を与えた」と高麗大学教授で韓国哲学会会長などを歴任した申一徹氏(1931年生まれ)は言っている。
「三国史記」や「三国遺事」よりも四百年も古い『日本書記』や『古事記』がすでに存在し、それよりさらに古い中国の歴史書にも、日本がどういう国でどういう存在だったか書かれているのにも関わらずだ。 
日本が執拗に新羅を攻めたのは、そこに鉱物があったからだ。
845年にアラブ人のイブン・クルダドビーが編纂した『王国と道路綜覧』には、「中国の向こう側に、新羅という、山が多く、いろいろな王たちが支配している国があり、金が多く産出している」とあり、それを求めてすでにイスラム人が定着していたと書かれている。 
新羅は黄金の国でもあったのだ。
『日本書記』にも、黄金があるから神功皇后たちが攻めたとある。
だから日本は侵攻を繰り返したのだ。
そのことは「記紀」だけでなく『三国史記』にも書かれている。
韓国人は自分たちの「正史」すら否定するのだろうか。
日本について云々する前に、自国の「正史」を読んだほうがいい。 
少なくともそこには倭国が何度も攻めてきたことが書かれている。
そういう国が彼らのいう文化の乏しい国であるはずがない。
何世紀にもわたり海を渡って攻めてきたとすれば、それは日本が大国であるということ以外に考えられない。
この稿続く。

 


845年にアラブ人のイブン・クルダドビーが編纂した『王国と道路綜覧』には、「中国の向こう側に、新羅という、山が多く、いろいろな王たちが支配している国があり、金が多く産出

2019年03月12日 20時32分02秒 | 日記

古代朝鮮半島を支配していたのが日本人だった
佐藤洋二郎 作家・日大芸術学部教授
韓国人の虚言癖にヘキエキしながらも、古代朝鮮経由で多くの文化が列島に伝わってきたと思い込んでいる日本人はまだ少なくない。「渡来人」などという新造語にユメ惑わされるなかれ。
新羅王家に流れる倭人の血…日本国民全員が必読の書である月刊誌WiLL4月号別冊「歴史通」の続きである。
半島に侵攻を繰り返す 
その影響かもしれないが、今日でも着物のことを「呉服」という。
揚子江近辺から船に乗れば、なにもしなくても九州に着くと土地の人間に聞いた。
日本での稲作が九州の発祥だとすれば、彼らが運んできたという推理もあるいは成り立つ。 
神武「東征」が南九州から起こっていることを考えれば、先端技術を持った彼らが東進したとも思える。
ちなみに「東遷」と「東征」とでは意味が違うが、これも深く吟味されることなく安易に使用されている。
「東を征伐する」と都を「東に遷す」とでは意味が違いすぎる。 
韓国人は稲作も半島から伝播したというが、それは地理的、気候的、海流的にも、根拠が乏しい。 
文化面においても、『陏書』に「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢使者曰 聞海西菩薩天子重興仏法故遣朝拝 兼沙門数十人来学仏法」とあり、倭王の多利思北孤が使いを出して貢ぎものをし、海の西の菩薩天子は熱心に仏法をやり、そのため僧侶を派遣してそれを学ぶためにきたと記述されている。
日本人はすでに二千年前に中国と交流を持ち、仏法を学んでいる。 
『隋書』や『魏志』には倭人は鉄を使うと記されている。
鏃(やじり)や鉄器を使っていることが、彼らにとって驚きだったから書き残したのだが、倭人は二千年前に製鉄をしていた。 
仏法を学び、先端技術を習得している日本の文化が、少なくとも中国の歴史書を読むかぎり朝鮮半島から流入したとは考えにくい。 
そして「三国史記」や「記紀」を読めば判然とするが、有史以来、日本は数えきれないほど朝鮮半島を侵攻し続けている。
その逆は無きに等しい。
わたしは室町期に李氏朝鮮が対馬を十日前後攻めた「応永の外寇」しか知らないが、ほかにあるのだろうか。
倭寇の侵入が夥しくあり、高麗の沿岸には人々が住まなくなった。
この倭寇の拠点となっていた対馬を強襲して船を破壊し、人質を解放したというのが「応永の外寇」だが、それ以外は逆に日本に人質を差し出したり、貢ぎ物を繰り返したりしている。
なおかつあれだけ侵攻していた新羅には、日本が唐・新羅連合軍に敗れた白村江の戦いから、国家問の交流は乏しくなっている。 
南都六宗や鎌倉新仏教との関わりも、日本は朝鮮より唐から影響を受けている。
文化の輸入も遣隋使や遣唐使とともに中国からだったはずだ。
『隋書』にも見えるように、朝鮮半島から文化が入ってきたという説は成立しにくいし、古代から攻撃を受け続けている国から、さまざまな文化が流入したというのも考えにくい。 
長江ルートと半島ルートの両方があったとしても、日本より朝鮮半島のほうが国力も文化水準も高かったと言うのは間違いだ。
そう言い張るなら、その根拠を提示しなければ、「嘘も百回つけば真実になる」の類だろう。
日本の律令も冠位も朝鮮を真似てつくったわけではない。       
それなのに文禄・慶長の役のおりに、「東アジアの文化的後進国であった日本は、朝鮮から活字、書籍、絵画、陶磁器などの文化遺産を略奪し、多くの技術者や学者を拉致して行った。これとともに朝鮮の性理学も伝えられ、日本文化に大きな影響を与えた」と高麗大学教授で韓国哲学会会長などを歴任した申一徹氏(1931年生まれ)は言っている。
「三国史記」や「三国遺事」よりも四百年も古い『日本書記』や『古事記』がすでに存在し、それよりさらに古い中国の歴史書にも、日本がどういう国でどういう存在だったか書かれているのにも関わらずだ。 
日本が執拗に新羅を攻めたのは、そこに鉱物があったからだ。
845年にアラブ人のイブン・クルダドビーが編纂した『王国と道路綜覧』には、「中国の向こう側に、新羅という、山が多く、いろいろな王たちが支配している国があり、金が多く産出している」とあり、それを求めてすでにイスラム人が定着していたと書かれている。 
新羅は黄金の国でもあったのだ。
『日本書記』にも、黄金があるから神功皇后たちが攻めたとある。
だから日本は侵攻を繰り返したのだ。
そのことは「記紀」だけでなく『三国史記』にも書かれている。
韓国人は自分たちの「正史」すら否定するのだろうか。
日本について云々する前に、自国の「正史」を読んだほうがいい。 
少なくともそこには倭国が何度も攻めてきたことが書かれている。
そういう国が彼らのいう文化の乏しい国であるはずがない。
何世紀にもわたり海を渡って攻めてきたとすれば、それは日本が大国であるということ以外に考えられない。
この稿続く。

 


日本が執拗に新羅を攻めたのは、そこに鉱物があったからだ。

2019年03月12日 20時30分34秒 | 日記

古代朝鮮半島を支配していたのが日本人だった
佐藤洋二郎 作家・日大芸術学部教授
韓国人の虚言癖にヘキエキしながらも、古代朝鮮経由で多くの文化が列島に伝わってきたと思い込んでいる日本人はまだ少なくない。「渡来人」などという新造語にユメ惑わされるなかれ。
新羅王家に流れる倭人の血…日本国民全員が必読の書である月刊誌WiLL4月号別冊「歴史通」の続きである。
半島に侵攻を繰り返す 
その影響かもしれないが、今日でも着物のことを「呉服」という。
揚子江近辺から船に乗れば、なにもしなくても九州に着くと土地の人間に聞いた。
日本での稲作が九州の発祥だとすれば、彼らが運んできたという推理もあるいは成り立つ。 
神武「東征」が南九州から起こっていることを考えれば、先端技術を持った彼らが東進したとも思える。
ちなみに「東遷」と「東征」とでは意味が違うが、これも深く吟味されることなく安易に使用されている。
「東を征伐する」と都を「東に遷す」とでは意味が違いすぎる。 
韓国人は稲作も半島から伝播したというが、それは地理的、気候的、海流的にも、根拠が乏しい。 
文化面においても、『陏書』に「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢使者曰 聞海西菩薩天子重興仏法故遣朝拝 兼沙門数十人来学仏法」とあり、倭王の多利思北孤が使いを出して貢ぎものをし、海の西の菩薩天子は熱心に仏法をやり、そのため僧侶を派遣してそれを学ぶためにきたと記述されている。
日本人はすでに二千年前に中国と交流を持ち、仏法を学んでいる。 
『隋書』や『魏志』には倭人は鉄を使うと記されている。
鏃(やじり)や鉄器を使っていることが、彼らにとって驚きだったから書き残したのだが、倭人は二千年前に製鉄をしていた。 
仏法を学び、先端技術を習得している日本の文化が、少なくとも中国の歴史書を読むかぎり朝鮮半島から流入したとは考えにくい。 
そして「三国史記」や「記紀」を読めば判然とするが、有史以来、日本は数えきれないほど朝鮮半島を侵攻し続けている。
その逆は無きに等しい。
わたしは室町期に李氏朝鮮が対馬を十日前後攻めた「応永の外寇」しか知らないが、ほかにあるのだろうか。
倭寇の侵入が夥しくあり、高麗の沿岸には人々が住まなくなった。
この倭寇の拠点となっていた対馬を強襲して船を破壊し、人質を解放したというのが「応永の外寇」だが、それ以外は逆に日本に人質を差し出したり、貢ぎ物を繰り返したりしている。
なおかつあれだけ侵攻していた新羅には、日本が唐・新羅連合軍に敗れた白村江の戦いから、国家問の交流は乏しくなっている。 
南都六宗や鎌倉新仏教との関わりも、日本は朝鮮より唐から影響を受けている。
文化の輸入も遣隋使や遣唐使とともに中国からだったはずだ。
『隋書』にも見えるように、朝鮮半島から文化が入ってきたという説は成立しにくいし、古代から攻撃を受け続けている国から、さまざまな文化が流入したというのも考えにくい。 
長江ルートと半島ルートの両方があったとしても、日本より朝鮮半島のほうが国力も文化水準も高かったと言うのは間違いだ。
そう言い張るなら、その根拠を提示しなければ、「嘘も百回つけば真実になる」の類だろう。
日本の律令も冠位も朝鮮を真似てつくったわけではない。       
それなのに文禄・慶長の役のおりに、「東アジアの文化的後進国であった日本は、朝鮮から活字、書籍、絵画、陶磁器などの文化遺産を略奪し、多くの技術者や学者を拉致して行った。これとともに朝鮮の性理学も伝えられ、日本文化に大きな影響を与えた」と高麗大学教授で韓国哲学会会長などを歴任した申一徹氏(1931年生まれ)は言っている。
「三国史記」や「三国遺事」よりも四百年も古い『日本書記』や『古事記』がすでに存在し、それよりさらに古い中国の歴史書にも、日本がどういう国でどういう存在だったか書かれているのにも関わらずだ。 
日本が執拗に新羅を攻めたのは、そこに鉱物があったからだ。
845年にアラブ人のイブン・クルダドビーが編纂した『王国と道路綜覧』には、「中国の向こう側に、新羅という、山が多く、いろいろな王たちが支配している国があり、金が多く産出している」とあり、それを求めてすでにイスラム人が定着していたと書かれている。 
新羅は黄金の国でもあったのだ。
『日本書記』にも、黄金があるから神功皇后たちが攻めたとある。
だから日本は侵攻を繰り返したのだ。
そのことは「記紀」だけでなく『三国史記』にも書かれている。
韓国人は自分たちの「正史」すら否定するのだろうか。
日本について云々する前に、自国の「正史」を読んだほうがいい。 
少なくともそこには倭国が何度も攻めてきたことが書かれている。
そういう国が彼らのいう文化の乏しい国であるはずがない。
何世紀にもわたり海を渡って攻めてきたとすれば、それは日本が大国であるということ以外に考えられない。
この稿続く。

 


「三国史記」や「三国遺事」よりも四百年も古い『日本書記』や『古事記』がすでに存在し、それよりさらに古い中国の歴史書にも、日本がどういう国でどういう存在だったか

2019年03月12日 20時28分29秒 | 日記

古代朝鮮半島を支配していたのが日本人だった
佐藤洋二郎 作家・日大芸術学部教授
韓国人の虚言癖にヘキエキしながらも、古代朝鮮経由で多くの文化が列島に伝わってきたと思い込んでいる日本人はまだ少なくない。「渡来人」などという新造語にユメ惑わされるなかれ。
新羅王家に流れる倭人の血…日本国民全員が必読の書である月刊誌WiLL4月号別冊「歴史通」の続きである。
半島に侵攻を繰り返す 
その影響かもしれないが、今日でも着物のことを「呉服」という。
揚子江近辺から船に乗れば、なにもしなくても九州に着くと土地の人間に聞いた。
日本での稲作が九州の発祥だとすれば、彼らが運んできたという推理もあるいは成り立つ。 
神武「東征」が南九州から起こっていることを考えれば、先端技術を持った彼らが東進したとも思える。
ちなみに「東遷」と「東征」とでは意味が違うが、これも深く吟味されることなく安易に使用されている。
「東を征伐する」と都を「東に遷す」とでは意味が違いすぎる。 
韓国人は稲作も半島から伝播したというが、それは地理的、気候的、海流的にも、根拠が乏しい。 
文化面においても、『陏書』に「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢使者曰 聞海西菩薩天子重興仏法故遣朝拝 兼沙門数十人来学仏法」とあり、倭王の多利思北孤が使いを出して貢ぎものをし、海の西の菩薩天子は熱心に仏法をやり、そのため僧侶を派遣してそれを学ぶためにきたと記述されている。
日本人はすでに二千年前に中国と交流を持ち、仏法を学んでいる。 
『隋書』や『魏志』には倭人は鉄を使うと記されている。
鏃(やじり)や鉄器を使っていることが、彼らにとって驚きだったから書き残したのだが、倭人は二千年前に製鉄をしていた。 
仏法を学び、先端技術を習得している日本の文化が、少なくとも中国の歴史書を読むかぎり朝鮮半島から流入したとは考えにくい。 
そして「三国史記」や「記紀」を読めば判然とするが、有史以来、日本は数えきれないほど朝鮮半島を侵攻し続けている。
その逆は無きに等しい。
わたしは室町期に李氏朝鮮が対馬を十日前後攻めた「応永の外寇」しか知らないが、ほかにあるのだろうか。
倭寇の侵入が夥しくあり、高麗の沿岸には人々が住まなくなった。
この倭寇の拠点となっていた対馬を強襲して船を破壊し、人質を解放したというのが「応永の外寇」だが、それ以外は逆に日本に人質を差し出したり、貢ぎ物を繰り返したりしている。
なおかつあれだけ侵攻していた新羅には、日本が唐・新羅連合軍に敗れた白村江の戦いから、国家問の交流は乏しくなっている。 
南都六宗や鎌倉新仏教との関わりも、日本は朝鮮より唐から影響を受けている。
文化の輸入も遣隋使や遣唐使とともに中国からだったはずだ。
『隋書』にも見えるように、朝鮮半島から文化が入ってきたという説は成立しにくいし、古代から攻撃を受け続けている国から、さまざまな文化が流入したというのも考えにくい。 
長江ルートと半島ルートの両方があったとしても、日本より朝鮮半島のほうが国力も文化水準も高かったと言うのは間違いだ。
そう言い張るなら、その根拠を提示しなければ、「嘘も百回つけば真実になる」の類だろう。
日本の律令も冠位も朝鮮を真似てつくったわけではない。       
それなのに文禄・慶長の役のおりに、「東アジアの文化的後進国であった日本は、朝鮮から活字、書籍、絵画、陶磁器などの文化遺産を略奪し、多くの技術者や学者を拉致して行った。これとともに朝鮮の性理学も伝えられ、日本文化に大きな影響を与えた」と高麗大学教授で韓国哲学会会長などを歴任した申一徹氏(1931年生まれ)は言っている。
「三国史記」や「三国遺事」よりも四百年も古い『日本書記』や『古事記』がすでに存在し、それよりさらに古い中国の歴史書にも、日本がどういう国でどういう存在だったか書かれているのにも関わらずだ。 
日本が執拗に新羅を攻めたのは、そこに鉱物があったからだ。
845年にアラブ人のイブン・クルダドビーが編纂した『王国と道路綜覧』には、「中国の向こう側に、新羅という、山が多く、いろいろな王たちが支配している国があり、金が多く産出している」とあり、それを求めてすでにイスラム人が定着していたと書かれている。 
新羅は黄金の国でもあったのだ。
『日本書記』にも、黄金があるから神功皇后たちが攻めたとある。
だから日本は侵攻を繰り返したのだ。
そのことは「記紀」だけでなく『三国史記』にも書かれている。
韓国人は自分たちの「正史」すら否定するのだろうか。
日本について云々する前に、自国の「正史」を読んだほうがいい。 
少なくともそこには倭国が何度も攻めてきたことが書かれている。
そういう国が彼らのいう文化の乏しい国であるはずがない。
何世紀にもわたり海を渡って攻めてきたとすれば、それは日本が大国であるということ以外に考えられない。
この稿続く。

 


そう言い張るなら、その根拠を提示しなければ、「嘘も百回つけば真実になる」の類だろう。日本の律令も冠位も朝鮮を真似てつくったわけではない

2019年03月12日 20時26分58秒 | 日記

古代朝鮮半島を支配していたのが日本人だった
佐藤洋二郎 作家・日大芸術学部教授
韓国人の虚言癖にヘキエキしながらも、古代朝鮮経由で多くの文化が列島に伝わってきたと思い込んでいる日本人はまだ少なくない。「渡来人」などという新造語にユメ惑わされるなかれ。
新羅王家に流れる倭人の血…日本国民全員が必読の書である月刊誌WiLL4月号別冊「歴史通」の続きである。
半島に侵攻を繰り返す 
その影響かもしれないが、今日でも着物のことを「呉服」という。
揚子江近辺から船に乗れば、なにもしなくても九州に着くと土地の人間に聞いた。
日本での稲作が九州の発祥だとすれば、彼らが運んできたという推理もあるいは成り立つ。 
神武「東征」が南九州から起こっていることを考えれば、先端技術を持った彼らが東進したとも思える。
ちなみに「東遷」と「東征」とでは意味が違うが、これも深く吟味されることなく安易に使用されている。
「東を征伐する」と都を「東に遷す」とでは意味が違いすぎる。 
韓国人は稲作も半島から伝播したというが、それは地理的、気候的、海流的にも、根拠が乏しい。 
文化面においても、『陏書』に「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢使者曰 聞海西菩薩天子重興仏法故遣朝拝 兼沙門数十人来学仏法」とあり、倭王の多利思北孤が使いを出して貢ぎものをし、海の西の菩薩天子は熱心に仏法をやり、そのため僧侶を派遣してそれを学ぶためにきたと記述されている。
日本人はすでに二千年前に中国と交流を持ち、仏法を学んでいる。 
『隋書』や『魏志』には倭人は鉄を使うと記されている。
鏃(やじり)や鉄器を使っていることが、彼らにとって驚きだったから書き残したのだが、倭人は二千年前に製鉄をしていた。 
仏法を学び、先端技術を習得している日本の文化が、少なくとも中国の歴史書を読むかぎり朝鮮半島から流入したとは考えにくい。 
そして「三国史記」や「記紀」を読めば判然とするが、有史以来、日本は数えきれないほど朝鮮半島を侵攻し続けている。
その逆は無きに等しい。
わたしは室町期に李氏朝鮮が対馬を十日前後攻めた「応永の外寇」しか知らないが、ほかにあるのだろうか。
倭寇の侵入が夥しくあり、高麗の沿岸には人々が住まなくなった。
この倭寇の拠点となっていた対馬を強襲して船を破壊し、人質を解放したというのが「応永の外寇」だが、それ以外は逆に日本に人質を差し出したり、貢ぎ物を繰り返したりしている。
なおかつあれだけ侵攻していた新羅には、日本が唐・新羅連合軍に敗れた白村江の戦いから、国家問の交流は乏しくなっている。 
南都六宗や鎌倉新仏教との関わりも、日本は朝鮮より唐から影響を受けている。
文化の輸入も遣隋使や遣唐使とともに中国からだったはずだ。
『隋書』にも見えるように、朝鮮半島から文化が入ってきたという説は成立しにくいし、古代から攻撃を受け続けている国から、さまざまな文化が流入したというのも考えにくい。 
長江ルートと半島ルートの両方があったとしても、日本より朝鮮半島のほうが国力も文化水準も高かったと言うのは間違いだ。
そう言い張るなら、その根拠を提示しなければ、「嘘も百回つけば真実になる」の類だろう。
日本の律令も冠位も朝鮮を真似てつくったわけではない。       
それなのに文禄・慶長の役のおりに、「東アジアの文化的後進国であった日本は、朝鮮から活字、書籍、絵画、陶磁器などの文化遺産を略奪し、多くの技術者や学者を拉致して行った。これとともに朝鮮の性理学も伝えられ、日本文化に大きな影響を与えた」と高麗大学教授で韓国哲学会会長などを歴任した申一徹氏(1931年生まれ)は言っている。
「三国史記」や「三国遺事」よりも四百年も古い『日本書記』や『古事記』がすでに存在し、それよりさらに古い中国の歴史書にも、日本がどういう国でどういう存在だったか書かれているのにも関わらずだ。 
日本が執拗に新羅を攻めたのは、そこに鉱物があったからだ。
845年にアラブ人のイブン・クルダドビーが編纂した『王国と道路綜覧』には、「中国の向こう側に、新羅という、山が多く、いろいろな王たちが支配している国があり、金が多く産出している」とあり、それを求めてすでにイスラム人が定着していたと書かれている。 
新羅は黄金の国でもあったのだ。
『日本書記』にも、黄金があるから神功皇后たちが攻めたとある。
だから日本は侵攻を繰り返したのだ。
そのことは「記紀」だけでなく『三国史記』にも書かれている。
韓国人は自分たちの「正史」すら否定するのだろうか。
日本について云々する前に、自国の「正史」を読んだほうがいい。 
少なくともそこには倭国が何度も攻めてきたことが書かれている。
そういう国が彼らのいう文化の乏しい国であるはずがない。
何世紀にもわたり海を渡って攻めてきたとすれば、それは日本が大国であるということ以外に考えられない。
この稿続く。

 


長江ルートと半島ルートの両方があったとしても、日本より朝鮮半島のほうが国力も文化水準も高かったと言うのは間違いだ。

2019年03月12日 20時25分13秒 | 日記

古代朝鮮半島を支配していたのが日本人だった
佐藤洋二郎 作家・日大芸術学部教授
韓国人の虚言癖にヘキエキしながらも、古代朝鮮経由で多くの文化が列島に伝わってきたと思い込んでいる日本人はまだ少なくない。「渡来人」などという新造語にユメ惑わされるなかれ。
新羅王家に流れる倭人の血…日本国民全員が必読の書である月刊誌WiLL4月号別冊「歴史通」の続きである。
半島に侵攻を繰り返す 
その影響かもしれないが、今日でも着物のことを「呉服」という。
揚子江近辺から船に乗れば、なにもしなくても九州に着くと土地の人間に聞いた。
日本での稲作が九州の発祥だとすれば、彼らが運んできたという推理もあるいは成り立つ。 
神武「東征」が南九州から起こっていることを考えれば、先端技術を持った彼らが東進したとも思える。
ちなみに「東遷」と「東征」とでは意味が違うが、これも深く吟味されることなく安易に使用されている。
「東を征伐する」と都を「東に遷す」とでは意味が違いすぎる。 
韓国人は稲作も半島から伝播したというが、それは地理的、気候的、海流的にも、根拠が乏しい。 
文化面においても、『陏書』に「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢使者曰 聞海西菩薩天子重興仏法故遣朝拝 兼沙門数十人来学仏法」とあり、倭王の多利思北孤が使いを出して貢ぎものをし、海の西の菩薩天子は熱心に仏法をやり、そのため僧侶を派遣してそれを学ぶためにきたと記述されている。
日本人はすでに二千年前に中国と交流を持ち、仏法を学んでいる。 
『隋書』や『魏志』には倭人は鉄を使うと記されている。
鏃(やじり)や鉄器を使っていることが、彼らにとって驚きだったから書き残したのだが、倭人は二千年前に製鉄をしていた。 
仏法を学び、先端技術を習得している日本の文化が、少なくとも中国の歴史書を読むかぎり朝鮮半島から流入したとは考えにくい。 
そして「三国史記」や「記紀」を読めば判然とするが、有史以来、日本は数えきれないほど朝鮮半島を侵攻し続けている。
その逆は無きに等しい。
わたしは室町期に李氏朝鮮が対馬を十日前後攻めた「応永の外寇」しか知らないが、ほかにあるのだろうか。
倭寇の侵入が夥しくあり、高麗の沿岸には人々が住まなくなった。
この倭寇の拠点となっていた対馬を強襲して船を破壊し、人質を解放したというのが「応永の外寇」だが、それ以外は逆に日本に人質を差し出したり、貢ぎ物を繰り返したりしている。
なおかつあれだけ侵攻していた新羅には、日本が唐・新羅連合軍に敗れた白村江の戦いから、国家問の交流は乏しくなっている。 
南都六宗や鎌倉新仏教との関わりも、日本は朝鮮より唐から影響を受けている。
文化の輸入も遣隋使や遣唐使とともに中国からだったはずだ。
『隋書』にも見えるように、朝鮮半島から文化が入ってきたという説は成立しにくいし、古代から攻撃を受け続けている国から、さまざまな文化が流入したというのも考えにくい。 
長江ルートと半島ルートの両方があったとしても、日本より朝鮮半島のほうが国力も文化水準も高かったと言うのは間違いだ。
そう言い張るなら、その根拠を提示しなければ、「嘘も百回つけば真実になる」の類だろう。
日本の律令も冠位も朝鮮を真似てつくったわけではない。       
それなのに文禄・慶長の役のおりに、「東アジアの文化的後進国であった日本は、朝鮮から活字、書籍、絵画、陶磁器などの文化遺産を略奪し、多くの技術者や学者を拉致して行った。これとともに朝鮮の性理学も伝えられ、日本文化に大きな影響を与えた」と高麗大学教授で韓国哲学会会長などを歴任した申一徹氏(1931年生まれ)は言っている。
「三国史記」や「三国遺事」よりも四百年も古い『日本書記』や『古事記』がすでに存在し、それよりさらに古い中国の歴史書にも、日本がどういう国でどういう存在だったか書かれているのにも関わらずだ。 
日本が執拗に新羅を攻めたのは、そこに鉱物があったからだ。
845年にアラブ人のイブン・クルダドビーが編纂した『王国と道路綜覧』には、「中国の向こう側に、新羅という、山が多く、いろいろな王たちが支配している国があり、金が多く産出している」とあり、それを求めてすでにイスラム人が定着していたと書かれている。 
新羅は黄金の国でもあったのだ。
『日本書記』にも、黄金があるから神功皇后たちが攻めたとある。
だから日本は侵攻を繰り返したのだ。
そのことは「記紀」だけでなく『三国史記』にも書かれている。
韓国人は自分たちの「正史」すら否定するのだろうか。
日本について云々する前に、自国の「正史」を読んだほうがいい。 
少なくともそこには倭国が何度も攻めてきたことが書かれている。
そういう国が彼らのいう文化の乏しい国であるはずがない。
何世紀にもわたり海を渡って攻めてきたとすれば、それは日本が大国であるということ以外に考えられない。
この稿続く。

 


『隋書』にも見えるように、朝鮮半島から文化が入ってきたという説は成立しにくいし、古代から攻撃を受け続けている国から、さまざまな文化が流入したというのも考えにくい

2019年03月12日 20時24分07秒 | 日記

古代朝鮮半島を支配していたのが日本人だった
佐藤洋二郎 作家・日大芸術学部教授
韓国人の虚言癖にヘキエキしながらも、古代朝鮮経由で多くの文化が列島に伝わってきたと思い込んでいる日本人はまだ少なくない。「渡来人」などという新造語にユメ惑わされるなかれ。
新羅王家に流れる倭人の血…日本国民全員が必読の書である月刊誌WiLL4月号別冊「歴史通」の続きである。
半島に侵攻を繰り返す 
その影響かもしれないが、今日でも着物のことを「呉服」という。
揚子江近辺から船に乗れば、なにもしなくても九州に着くと土地の人間に聞いた。
日本での稲作が九州の発祥だとすれば、彼らが運んできたという推理もあるいは成り立つ。 
神武「東征」が南九州から起こっていることを考えれば、先端技術を持った彼らが東進したとも思える。
ちなみに「東遷」と「東征」とでは意味が違うが、これも深く吟味されることなく安易に使用されている。
「東を征伐する」と都を「東に遷す」とでは意味が違いすぎる。 
韓国人は稲作も半島から伝播したというが、それは地理的、気候的、海流的にも、根拠が乏しい。 
文化面においても、『陏書』に「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢使者曰 聞海西菩薩天子重興仏法故遣朝拝 兼沙門数十人来学仏法」とあり、倭王の多利思北孤が使いを出して貢ぎものをし、海の西の菩薩天子は熱心に仏法をやり、そのため僧侶を派遣してそれを学ぶためにきたと記述されている。
日本人はすでに二千年前に中国と交流を持ち、仏法を学んでいる。 
『隋書』や『魏志』には倭人は鉄を使うと記されている。
鏃(やじり)や鉄器を使っていることが、彼らにとって驚きだったから書き残したのだが、倭人は二千年前に製鉄をしていた。 
仏法を学び、先端技術を習得している日本の文化が、少なくとも中国の歴史書を読むかぎり朝鮮半島から流入したとは考えにくい。 
そして「三国史記」や「記紀」を読めば判然とするが、有史以来、日本は数えきれないほど朝鮮半島を侵攻し続けている。
その逆は無きに等しい。
わたしは室町期に李氏朝鮮が対馬を十日前後攻めた「応永の外寇」しか知らないが、ほかにあるのだろうか。
倭寇の侵入が夥しくあり、高麗の沿岸には人々が住まなくなった。
この倭寇の拠点となっていた対馬を強襲して船を破壊し、人質を解放したというのが「応永の外寇」だが、それ以外は逆に日本に人質を差し出したり、貢ぎ物を繰り返したりしている。
なおかつあれだけ侵攻していた新羅には、日本が唐・新羅連合軍に敗れた白村江の戦いから、国家問の交流は乏しくなっている。 
南都六宗や鎌倉新仏教との関わりも、日本は朝鮮より唐から影響を受けている。
文化の輸入も遣隋使や遣唐使とともに中国からだったはずだ。
『隋書』にも見えるように、朝鮮半島から文化が入ってきたという説は成立しにくいし、古代から攻撃を受け続けている国から、さまざまな文化が流入したというのも考えにくい。 
長江ルートと半島ルートの両方があったとしても、日本より朝鮮半島のほうが国力も文化水準も高かったと言うのは間違いだ。
そう言い張るなら、その根拠を提示しなければ、「嘘も百回つけば真実になる」の類だろう。
日本の律令も冠位も朝鮮を真似てつくったわけではない。       
それなのに文禄・慶長の役のおりに、「東アジアの文化的後進国であった日本は、朝鮮から活字、書籍、絵画、陶磁器などの文化遺産を略奪し、多くの技術者や学者を拉致して行った。これとともに朝鮮の性理学も伝えられ、日本文化に大きな影響を与えた」と高麗大学教授で韓国哲学会会長などを歴任した申一徹氏(1931年生まれ)は言っている。
「三国史記」や「三国遺事」よりも四百年も古い『日本書記』や『古事記』がすでに存在し、それよりさらに古い中国の歴史書にも、日本がどういう国でどういう存在だったか書かれているのにも関わらずだ。 
日本が執拗に新羅を攻めたのは、そこに鉱物があったからだ。
845年にアラブ人のイブン・クルダドビーが編纂した『王国と道路綜覧』には、「中国の向こう側に、新羅という、山が多く、いろいろな王たちが支配している国があり、金が多く産出している」とあり、それを求めてすでにイスラム人が定着していたと書かれている。 
新羅は黄金の国でもあったのだ。
『日本書記』にも、黄金があるから神功皇后たちが攻めたとある。
だから日本は侵攻を繰り返したのだ。
そのことは「記紀」だけでなく『三国史記』にも書かれている。
韓国人は自分たちの「正史」すら否定するのだろうか。
日本について云々する前に、自国の「正史」を読んだほうがいい。 
少なくともそこには倭国が何度も攻めてきたことが書かれている。
そういう国が彼らのいう文化の乏しい国であるはずがない。
何世紀にもわたり海を渡って攻めてきたとすれば、それは日本が大国であるということ以外に考えられない。
この稿続く。

 


南都六宗や鎌倉新仏教との関わりも、日本は朝鮮より唐から影響を受けている。文化の輸入も遣隋使や遣唐使とともに中国からだったはずだ。

2019年03月12日 20時22分35秒 | 日記

古代朝鮮半島を支配していたのが日本人だった
佐藤洋二郎 作家・日大芸術学部教授
韓国人の虚言癖にヘキエキしながらも、古代朝鮮経由で多くの文化が列島に伝わってきたと思い込んでいる日本人はまだ少なくない。「渡来人」などという新造語にユメ惑わされるなかれ。
新羅王家に流れる倭人の血…日本国民全員が必読の書である月刊誌WiLL4月号別冊「歴史通」の続きである。
半島に侵攻を繰り返す 
その影響かもしれないが、今日でも着物のことを「呉服」という。
揚子江近辺から船に乗れば、なにもしなくても九州に着くと土地の人間に聞いた。
日本での稲作が九州の発祥だとすれば、彼らが運んできたという推理もあるいは成り立つ。 
神武「東征」が南九州から起こっていることを考えれば、先端技術を持った彼らが東進したとも思える。
ちなみに「東遷」と「東征」とでは意味が違うが、これも深く吟味されることなく安易に使用されている。
「東を征伐する」と都を「東に遷す」とでは意味が違いすぎる。 
韓国人は稲作も半島から伝播したというが、それは地理的、気候的、海流的にも、根拠が乏しい。 
文化面においても、『陏書』に「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢使者曰 聞海西菩薩天子重興仏法故遣朝拝 兼沙門数十人来学仏法」とあり、倭王の多利思北孤が使いを出して貢ぎものをし、海の西の菩薩天子は熱心に仏法をやり、そのため僧侶を派遣してそれを学ぶためにきたと記述されている。
日本人はすでに二千年前に中国と交流を持ち、仏法を学んでいる。 
『隋書』や『魏志』には倭人は鉄を使うと記されている。
鏃(やじり)や鉄器を使っていることが、彼らにとって驚きだったから書き残したのだが、倭人は二千年前に製鉄をしていた。 
仏法を学び、先端技術を習得している日本の文化が、少なくとも中国の歴史書を読むかぎり朝鮮半島から流入したとは考えにくい。 
そして「三国史記」や「記紀」を読めば判然とするが、有史以来、日本は数えきれないほど朝鮮半島を侵攻し続けている。
その逆は無きに等しい。
わたしは室町期に李氏朝鮮が対馬を十日前後攻めた「応永の外寇」しか知らないが、ほかにあるのだろうか。
倭寇の侵入が夥しくあり、高麗の沿岸には人々が住まなくなった。
この倭寇の拠点となっていた対馬を強襲して船を破壊し、人質を解放したというのが「応永の外寇」だが、それ以外は逆に日本に人質を差し出したり、貢ぎ物を繰り返したりしている。
なおかつあれだけ侵攻していた新羅には、日本が唐・新羅連合軍に敗れた白村江の戦いから、国家問の交流は乏しくなっている。 
南都六宗や鎌倉新仏教との関わりも、日本は朝鮮より唐から影響を受けている。
文化の輸入も遣隋使や遣唐使とともに中国からだったはずだ。
『隋書』にも見えるように、朝鮮半島から文化が入ってきたという説は成立しにくいし、古代から攻撃を受け続けている国から、さまざまな文化が流入したというのも考えにくい。 
長江ルートと半島ルートの両方があったとしても、日本より朝鮮半島のほうが国力も文化水準も高かったと言うのは間違いだ。
そう言い張るなら、その根拠を提示しなければ、「嘘も百回つけば真実になる」の類だろう。
日本の律令も冠位も朝鮮を真似てつくったわけではない。       
それなのに文禄・慶長の役のおりに、「東アジアの文化的後進国であった日本は、朝鮮から活字、書籍、絵画、陶磁器などの文化遺産を略奪し、多くの技術者や学者を拉致して行った。これとともに朝鮮の性理学も伝えられ、日本文化に大きな影響を与えた」と高麗大学教授で韓国哲学会会長などを歴任した申一徹氏(1931年生まれ)は言っている。
「三国史記」や「三国遺事」よりも四百年も古い『日本書記』や『古事記』がすでに存在し、それよりさらに古い中国の歴史書にも、日本がどういう国でどういう存在だったか書かれているのにも関わらずだ。 
日本が執拗に新羅を攻めたのは、そこに鉱物があったからだ。
845年にアラブ人のイブン・クルダドビーが編纂した『王国と道路綜覧』には、「中国の向こう側に、新羅という、山が多く、いろいろな王たちが支配している国があり、金が多く産出している」とあり、それを求めてすでにイスラム人が定着していたと書かれている。 
新羅は黄金の国でもあったのだ。
『日本書記』にも、黄金があるから神功皇后たちが攻めたとある。
だから日本は侵攻を繰り返したのだ。
そのことは「記紀」だけでなく『三国史記』にも書かれている。
韓国人は自分たちの「正史」すら否定するのだろうか。
日本について云々する前に、自国の「正史」を読んだほうがいい。 
少なくともそこには倭国が何度も攻めてきたことが書かれている。
そういう国が彼らのいう文化の乏しい国であるはずがない。
何世紀にもわたり海を渡って攻めてきたとすれば、それは日本が大国であるということ以外に考えられない。
この稿続く。

 


この倭寇の拠点となっていた対馬を強襲して船を破壊し、人質を解放したというのが「応永の外寇」だが、それ以外は逆に日本に人質を差し出したり、貢ぎ物を繰り返したりしている

2019年03月12日 20時21分00秒 | 日記

古代朝鮮半島を支配していたのが日本人だった
佐藤洋二郎 作家・日大芸術学部教授
韓国人の虚言癖にヘキエキしながらも、古代朝鮮経由で多くの文化が列島に伝わってきたと思い込んでいる日本人はまだ少なくない。「渡来人」などという新造語にユメ惑わされるなかれ。
新羅王家に流れる倭人の血…日本国民全員が必読の書である月刊誌WiLL4月号別冊「歴史通」の続きである。
半島に侵攻を繰り返す 
その影響かもしれないが、今日でも着物のことを「呉服」という。
揚子江近辺から船に乗れば、なにもしなくても九州に着くと土地の人間に聞いた。
日本での稲作が九州の発祥だとすれば、彼らが運んできたという推理もあるいは成り立つ。 
神武「東征」が南九州から起こっていることを考えれば、先端技術を持った彼らが東進したとも思える。
ちなみに「東遷」と「東征」とでは意味が違うが、これも深く吟味されることなく安易に使用されている。
「東を征伐する」と都を「東に遷す」とでは意味が違いすぎる。 
韓国人は稲作も半島から伝播したというが、それは地理的、気候的、海流的にも、根拠が乏しい。 
文化面においても、『陏書』に「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢使者曰 聞海西菩薩天子重興仏法故遣朝拝 兼沙門数十人来学仏法」とあり、倭王の多利思北孤が使いを出して貢ぎものをし、海の西の菩薩天子は熱心に仏法をやり、そのため僧侶を派遣してそれを学ぶためにきたと記述されている。
日本人はすでに二千年前に中国と交流を持ち、仏法を学んでいる。 
『隋書』や『魏志』には倭人は鉄を使うと記されている。
鏃(やじり)や鉄器を使っていることが、彼らにとって驚きだったから書き残したのだが、倭人は二千年前に製鉄をしていた。 
仏法を学び、先端技術を習得している日本の文化が、少なくとも中国の歴史書を読むかぎり朝鮮半島から流入したとは考えにくい。 
そして「三国史記」や「記紀」を読めば判然とするが、有史以来、日本は数えきれないほど朝鮮半島を侵攻し続けている。
その逆は無きに等しい。
わたしは室町期に李氏朝鮮が対馬を十日前後攻めた「応永の外寇」しか知らないが、ほかにあるのだろうか。
倭寇の侵入が夥しくあり、高麗の沿岸には人々が住まなくなった。
この倭寇の拠点となっていた対馬を強襲して船を破壊し、人質を解放したというのが「応永の外寇」だが、それ以外は逆に日本に人質を差し出したり、貢ぎ物を繰り返したりしている。
なおかつあれだけ侵攻していた新羅には、日本が唐・新羅連合軍に敗れた白村江の戦いから、国家問の交流は乏しくなっている。 
南都六宗や鎌倉新仏教との関わりも、日本は朝鮮より唐から影響を受けている。
文化の輸入も遣隋使や遣唐使とともに中国からだったはずだ。
『隋書』にも見えるように、朝鮮半島から文化が入ってきたという説は成立しにくいし、古代から攻撃を受け続けている国から、さまざまな文化が流入したというのも考えにくい。 
長江ルートと半島ルートの両方があったとしても、日本より朝鮮半島のほうが国力も文化水準も高かったと言うのは間違いだ。
そう言い張るなら、その根拠を提示しなければ、「嘘も百回つけば真実になる」の類だろう。
日本の律令も冠位も朝鮮を真似てつくったわけではない。       
それなのに文禄・慶長の役のおりに、「東アジアの文化的後進国であった日本は、朝鮮から活字、書籍、絵画、陶磁器などの文化遺産を略奪し、多くの技術者や学者を拉致して行った。これとともに朝鮮の性理学も伝えられ、日本文化に大きな影響を与えた」と高麗大学教授で韓国哲学会会長などを歴任した申一徹氏(1931年生まれ)は言っている。
「三国史記」や「三国遺事」よりも四百年も古い『日本書記』や『古事記』がすでに存在し、それよりさらに古い中国の歴史書にも、日本がどういう国でどういう存在だったか書かれているのにも関わらずだ。 
日本が執拗に新羅を攻めたのは、そこに鉱物があったからだ。
845年にアラブ人のイブン・クルダドビーが編纂した『王国と道路綜覧』には、「中国の向こう側に、新羅という、山が多く、いろいろな王たちが支配している国があり、金が多く産出している」とあり、それを求めてすでにイスラム人が定着していたと書かれている。 
新羅は黄金の国でもあったのだ。
『日本書記』にも、黄金があるから神功皇后たちが攻めたとある。
だから日本は侵攻を繰り返したのだ。
そのことは「記紀」だけでなく『三国史記』にも書かれている。
韓国人は自分たちの「正史」すら否定するのだろうか。
日本について云々する前に、自国の「正史」を読んだほうがいい。 
少なくともそこには倭国が何度も攻めてきたことが書かれている。
そういう国が彼らのいう文化の乏しい国であるはずがない。
何世紀にもわたり海を渡って攻めてきたとすれば、それは日本が大国であるということ以外に考えられない。
この稿続く。

 


そして「三国史記」や「記紀」を読めば判然とするが、有史以来、日本は数えきれないほど朝鮮半島を侵攻し続けている。その逆は無きに等しい。

2019年03月12日 20時19分34秒 | 日記

古代朝鮮半島を支配していたのが日本人だった
佐藤洋二郎 作家・日大芸術学部教授
韓国人の虚言癖にヘキエキしながらも、古代朝鮮経由で多くの文化が列島に伝わってきたと思い込んでいる日本人はまだ少なくない。「渡来人」などという新造語にユメ惑わされるなかれ。
新羅王家に流れる倭人の血…日本国民全員が必読の書である月刊誌WiLL4月号別冊「歴史通」の続きである。
半島に侵攻を繰り返す 
その影響かもしれないが、今日でも着物のことを「呉服」という。
揚子江近辺から船に乗れば、なにもしなくても九州に着くと土地の人間に聞いた。
日本での稲作が九州の発祥だとすれば、彼らが運んできたという推理もあるいは成り立つ。 
神武「東征」が南九州から起こっていることを考えれば、先端技術を持った彼らが東進したとも思える。
ちなみに「東遷」と「東征」とでは意味が違うが、これも深く吟味されることなく安易に使用されている。
「東を征伐する」と都を「東に遷す」とでは意味が違いすぎる。 
韓国人は稲作も半島から伝播したというが、それは地理的、気候的、海流的にも、根拠が乏しい。 
文化面においても、『陏書』に「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢使者曰 聞海西菩薩天子重興仏法故遣朝拝 兼沙門数十人来学仏法」とあり、倭王の多利思北孤が使いを出して貢ぎものをし、海の西の菩薩天子は熱心に仏法をやり、そのため僧侶を派遣してそれを学ぶためにきたと記述されている。
日本人はすでに二千年前に中国と交流を持ち、仏法を学んでいる。 
『隋書』や『魏志』には倭人は鉄を使うと記されている。
鏃(やじり)や鉄器を使っていることが、彼らにとって驚きだったから書き残したのだが、倭人は二千年前に製鉄をしていた。 
仏法を学び、先端技術を習得している日本の文化が、少なくとも中国の歴史書を読むかぎり朝鮮半島から流入したとは考えにくい。 
そして「三国史記」や「記紀」を読めば判然とするが、有史以来、日本は数えきれないほど朝鮮半島を侵攻し続けている。
その逆は無きに等しい。
わたしは室町期に李氏朝鮮が対馬を十日前後攻めた「応永の外寇」しか知らないが、ほかにあるのだろうか。
倭寇の侵入が夥しくあり、高麗の沿岸には人々が住まなくなった。
この倭寇の拠点となっていた対馬を強襲して船を破壊し、人質を解放したというのが「応永の外寇」だが、それ以外は逆に日本に人質を差し出したり、貢ぎ物を繰り返したりしている。
なおかつあれだけ侵攻していた新羅には、日本が唐・新羅連合軍に敗れた白村江の戦いから、国家問の交流は乏しくなっている。 
南都六宗や鎌倉新仏教との関わりも、日本は朝鮮より唐から影響を受けている。
文化の輸入も遣隋使や遣唐使とともに中国からだったはずだ。
『隋書』にも見えるように、朝鮮半島から文化が入ってきたという説は成立しにくいし、古代から攻撃を受け続けている国から、さまざまな文化が流入したというのも考えにくい。 
長江ルートと半島ルートの両方があったとしても、日本より朝鮮半島のほうが国力も文化水準も高かったと言うのは間違いだ。
そう言い張るなら、その根拠を提示しなければ、「嘘も百回つけば真実になる」の類だろう。
日本の律令も冠位も朝鮮を真似てつくったわけではない。       
それなのに文禄・慶長の役のおりに、「東アジアの文化的後進国であった日本は、朝鮮から活字、書籍、絵画、陶磁器などの文化遺産を略奪し、多くの技術者や学者を拉致して行った。これとともに朝鮮の性理学も伝えられ、日本文化に大きな影響を与えた」と高麗大学教授で韓国哲学会会長などを歴任した申一徹氏(1931年生まれ)は言っている。
「三国史記」や「三国遺事」よりも四百年も古い『日本書記』や『古事記』がすでに存在し、それよりさらに古い中国の歴史書にも、日本がどういう国でどういう存在だったか書かれているのにも関わらずだ。 
日本が執拗に新羅を攻めたのは、そこに鉱物があったからだ。
845年にアラブ人のイブン・クルダドビーが編纂した『王国と道路綜覧』には、「中国の向こう側に、新羅という、山が多く、いろいろな王たちが支配している国があり、金が多く産出している」とあり、それを求めてすでにイスラム人が定着していたと書かれている。 
新羅は黄金の国でもあったのだ。
『日本書記』にも、黄金があるから神功皇后たちが攻めたとある。
だから日本は侵攻を繰り返したのだ。
そのことは「記紀」だけでなく『三国史記』にも書かれている。
韓国人は自分たちの「正史」すら否定するのだろうか。
日本について云々する前に、自国の「正史」を読んだほうがいい。 
少なくともそこには倭国が何度も攻めてきたことが書かれている。
そういう国が彼らのいう文化の乏しい国であるはずがない。
何世紀にもわたり海を渡って攻めてきたとすれば、それは日本が大国であるということ以外に考えられない。
この稿続く。

 


仏法を学び、先端技術を習得している日本の文化が、少なくとも中国の歴史書を読むかぎり朝鮮半島から流入したとは考えにくい。

2019年03月12日 20時17分43秒 | 日記

古代朝鮮半島を支配していたのが日本人だった
佐藤洋二郎 作家・日大芸術学部教授
韓国人の虚言癖にヘキエキしながらも、古代朝鮮経由で多くの文化が列島に伝わってきたと思い込んでいる日本人はまだ少なくない。「渡来人」などという新造語にユメ惑わされるなかれ。
新羅王家に流れる倭人の血…日本国民全員が必読の書である月刊誌WiLL4月号別冊「歴史通」の続きである。
半島に侵攻を繰り返す 
その影響かもしれないが、今日でも着物のことを「呉服」という。
揚子江近辺から船に乗れば、なにもしなくても九州に着くと土地の人間に聞いた。
日本での稲作が九州の発祥だとすれば、彼らが運んできたという推理もあるいは成り立つ。 
神武「東征」が南九州から起こっていることを考えれば、先端技術を持った彼らが東進したとも思える。
ちなみに「東遷」と「東征」とでは意味が違うが、これも深く吟味されることなく安易に使用されている。
「東を征伐する」と都を「東に遷す」とでは意味が違いすぎる。 
韓国人は稲作も半島から伝播したというが、それは地理的、気候的、海流的にも、根拠が乏しい。 
文化面においても、『陏書』に「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢使者曰 聞海西菩薩天子重興仏法故遣朝拝 兼沙門数十人来学仏法」とあり、倭王の多利思北孤が使いを出して貢ぎものをし、海の西の菩薩天子は熱心に仏法をやり、そのため僧侶を派遣してそれを学ぶためにきたと記述されている。
日本人はすでに二千年前に中国と交流を持ち、仏法を学んでいる。 
『隋書』や『魏志』には倭人は鉄を使うと記されている。
鏃(やじり)や鉄器を使っていることが、彼らにとって驚きだったから書き残したのだが、倭人は二千年前に製鉄をしていた。 
仏法を学び、先端技術を習得している日本の文化が、少なくとも中国の歴史書を読むかぎり朝鮮半島から流入したとは考えにくい。 
そして「三国史記」や「記紀」を読めば判然とするが、有史以来、日本は数えきれないほど朝鮮半島を侵攻し続けている。
その逆は無きに等しい。
わたしは室町期に李氏朝鮮が対馬を十日前後攻めた「応永の外寇」しか知らないが、ほかにあるのだろうか。
倭寇の侵入が夥しくあり、高麗の沿岸には人々が住まなくなった。
この倭寇の拠点となっていた対馬を強襲して船を破壊し、人質を解放したというのが「応永の外寇」だが、それ以外は逆に日本に人質を差し出したり、貢ぎ物を繰り返したりしている。
なおかつあれだけ侵攻していた新羅には、日本が唐・新羅連合軍に敗れた白村江の戦いから、国家問の交流は乏しくなっている。 
南都六宗や鎌倉新仏教との関わりも、日本は朝鮮より唐から影響を受けている。
文化の輸入も遣隋使や遣唐使とともに中国からだったはずだ。
『隋書』にも見えるように、朝鮮半島から文化が入ってきたという説は成立しにくいし、古代から攻撃を受け続けている国から、さまざまな文化が流入したというのも考えにくい。 
長江ルートと半島ルートの両方があったとしても、日本より朝鮮半島のほうが国力も文化水準も高かったと言うのは間違いだ。
そう言い張るなら、その根拠を提示しなければ、「嘘も百回つけば真実になる」の類だろう。
日本の律令も冠位も朝鮮を真似てつくったわけではない。       
それなのに文禄・慶長の役のおりに、「東アジアの文化的後進国であった日本は、朝鮮から活字、書籍、絵画、陶磁器などの文化遺産を略奪し、多くの技術者や学者を拉致して行った。これとともに朝鮮の性理学も伝えられ、日本文化に大きな影響を与えた」と高麗大学教授で韓国哲学会会長などを歴任した申一徹氏(1931年生まれ)は言っている。
「三国史記」や「三国遺事」よりも四百年も古い『日本書記』や『古事記』がすでに存在し、それよりさらに古い中国の歴史書にも、日本がどういう国でどういう存在だったか書かれているのにも関わらずだ。 
日本が執拗に新羅を攻めたのは、そこに鉱物があったからだ。
845年にアラブ人のイブン・クルダドビーが編纂した『王国と道路綜覧』には、「中国の向こう側に、新羅という、山が多く、いろいろな王たちが支配している国があり、金が多く産出している」とあり、それを求めてすでにイスラム人が定着していたと書かれている。 
新羅は黄金の国でもあったのだ。
『日本書記』にも、黄金があるから神功皇后たちが攻めたとある。
だから日本は侵攻を繰り返したのだ。
そのことは「記紀」だけでなく『三国史記』にも書かれている。
韓国人は自分たちの「正史」すら否定するのだろうか。
日本について云々する前に、自国の「正史」を読んだほうがいい。 
少なくともそこには倭国が何度も攻めてきたことが書かれている。
そういう国が彼らのいう文化の乏しい国であるはずがない。
何世紀にもわたり海を渡って攻めてきたとすれば、それは日本が大国であるということ以外に考えられない。
この稿続く。

 


『隋書』や『魏志』には倭人は鉄を使うと記されている。鏃(やじり)や鉄器を使っていることが、彼らにとって驚きだったから書き残したのだが、倭人は二千年前に製鉄をしていた

2019年03月12日 20時02分07秒 | 日記

古代朝鮮半島を支配していたのが日本人だった
佐藤洋二郎 作家・日大芸術学部教授
韓国人の虚言癖にヘキエキしながらも、古代朝鮮経由で多くの文化が列島に伝わってきたと思い込んでいる日本人はまだ少なくない。「渡来人」などという新造語にユメ惑わされるなかれ。
新羅王家に流れる倭人の血…日本国民全員が必読の書である月刊誌WiLL4月号別冊「歴史通」の続きである。
半島に侵攻を繰り返す 
その影響かもしれないが、今日でも着物のことを「呉服」という。
揚子江近辺から船に乗れば、なにもしなくても九州に着くと土地の人間に聞いた。
日本での稲作が九州の発祥だとすれば、彼らが運んできたという推理もあるいは成り立つ。 
神武「東征」が南九州から起こっていることを考えれば、先端技術を持った彼らが東進したとも思える。
ちなみに「東遷」と「東征」とでは意味が違うが、これも深く吟味されることなく安易に使用されている。
「東を征伐する」と都を「東に遷す」とでは意味が違いすぎる。 
韓国人は稲作も半島から伝播したというが、それは地理的、気候的、海流的にも、根拠が乏しい。 
文化面においても、『陏書』に「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢使者曰 聞海西菩薩天子重興仏法故遣朝拝 兼沙門数十人来学仏法」とあり、倭王の多利思北孤が使いを出して貢ぎものをし、海の西の菩薩天子は熱心に仏法をやり、そのため僧侶を派遣してそれを学ぶためにきたと記述されている。
日本人はすでに二千年前に中国と交流を持ち、仏法を学んでいる。 
『隋書』や『魏志』には倭人は鉄を使うと記されている。
鏃(やじり)や鉄器を使っていることが、彼らにとって驚きだったから書き残したのだが、倭人は二千年前に製鉄をしていた。 
仏法を学び、先端技術を習得している日本の文化が、少なくとも中国の歴史書を読むかぎり朝鮮半島から流入したとは考えにくい。 
そして「三国史記」や「記紀」を読めば判然とするが、有史以来、日本は数えきれないほど朝鮮半島を侵攻し続けている。
その逆は無きに等しい。
わたしは室町期に李氏朝鮮が対馬を十日前後攻めた「応永の外寇」しか知らないが、ほかにあるのだろうか。
倭寇の侵入が夥しくあり、高麗の沿岸には人々が住まなくなった。
この倭寇の拠点となっていた対馬を強襲して船を破壊し、人質を解放したというのが「応永の外寇」だが、それ以外は逆に日本に人質を差し出したり、貢ぎ物を繰り返したりしている。
なおかつあれだけ侵攻していた新羅には、日本が唐・新羅連合軍に敗れた白村江の戦いから、国家問の交流は乏しくなっている。 
南都六宗や鎌倉新仏教との関わりも、日本は朝鮮より唐から影響を受けている。
文化の輸入も遣隋使や遣唐使とともに中国からだったはずだ。
『隋書』にも見えるように、朝鮮半島から文化が入ってきたという説は成立しにくいし、古代から攻撃を受け続けている国から、さまざまな文化が流入したというのも考えにくい。 
長江ルートと半島ルートの両方があったとしても、日本より朝鮮半島のほうが国力も文化水準も高かったと言うのは間違いだ。
そう言い張るなら、その根拠を提示しなければ、「嘘も百回つけば真実になる」の類だろう。
日本の律令も冠位も朝鮮を真似てつくったわけではない。       
それなのに文禄・慶長の役のおりに、「東アジアの文化的後進国であった日本は、朝鮮から活字、書籍、絵画、陶磁器などの文化遺産を略奪し、多くの技術者や学者を拉致して行った。これとともに朝鮮の性理学も伝えられ、日本文化に大きな影響を与えた」と高麗大学教授で韓国哲学会会長などを歴任した申一徹氏(1931年生まれ)は言っている。
「三国史記」や「三国遺事」よりも四百年も古い『日本書記』や『古事記』がすでに存在し、それよりさらに古い中国の歴史書にも、日本がどういう国でどういう存在だったか書かれているのにも関わらずだ。 
日本が執拗に新羅を攻めたのは、そこに鉱物があったからだ。
845年にアラブ人のイブン・クルダドビーが編纂した『王国と道路綜覧』には、「中国の向こう側に、新羅という、山が多く、いろいろな王たちが支配している国があり、金が多く産出している」とあり、それを求めてすでにイスラム人が定着していたと書かれている。 
新羅は黄金の国でもあったのだ。
『日本書記』にも、黄金があるから神功皇后たちが攻めたとある。
だから日本は侵攻を繰り返したのだ。
そのことは「記紀」だけでなく『三国史記』にも書かれている。
韓国人は自分たちの「正史」すら否定するのだろうか。
日本について云々する前に、自国の「正史」を読んだほうがいい。 
少なくともそこには倭国が何度も攻めてきたことが書かれている。
そういう国が彼らのいう文化の乏しい国であるはずがない。
何世紀にもわたり海を渡って攻めてきたとすれば、それは日本が大国であるということ以外に考えられない。
この稿続く。

 


倭王の多利思北孤が使いを出して貢ぎものをし、海の西の菩薩天子は熱心に仏法をやり、そのため僧侶を派遣してそれを学ぶためにきたと記述されている

2019年03月12日 20時00分01秒 | 日記

古代朝鮮半島を支配していたのが日本人だった
佐藤洋二郎 作家・日大芸術学部教授
韓国人の虚言癖にヘキエキしながらも、古代朝鮮経由で多くの文化が列島に伝わってきたと思い込んでいる日本人はまだ少なくない。「渡来人」などという新造語にユメ惑わされるなかれ。
新羅王家に流れる倭人の血…日本国民全員が必読の書である月刊誌WiLL4月号別冊「歴史通」の続きである。
半島に侵攻を繰り返す 
その影響かもしれないが、今日でも着物のことを「呉服」という。
揚子江近辺から船に乗れば、なにもしなくても九州に着くと土地の人間に聞いた。
日本での稲作が九州の発祥だとすれば、彼らが運んできたという推理もあるいは成り立つ。 
神武「東征」が南九州から起こっていることを考えれば、先端技術を持った彼らが東進したとも思える。
ちなみに「東遷」と「東征」とでは意味が違うが、これも深く吟味されることなく安易に使用されている。
「東を征伐する」と都を「東に遷す」とでは意味が違いすぎる。 
韓国人は稲作も半島から伝播したというが、それは地理的、気候的、海流的にも、根拠が乏しい。 
文化面においても、『陏書』に「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢使者曰 聞海西菩薩天子重興仏法故遣朝拝 兼沙門数十人来学仏法」とあり、倭王の多利思北孤が使いを出して貢ぎものをし、海の西の菩薩天子は熱心に仏法をやり、そのため僧侶を派遣してそれを学ぶためにきたと記述されている。
日本人はすでに二千年前に中国と交流を持ち、仏法を学んでいる。 
『隋書』や『魏志』には倭人は鉄を使うと記されている。
鏃(やじり)や鉄器を使っていることが、彼らにとって驚きだったから書き残したのだが、倭人は二千年前に製鉄をしていた。 
仏法を学び、先端技術を習得している日本の文化が、少なくとも中国の歴史書を読むかぎり朝鮮半島から流入したとは考えにくい。 
そして「三国史記」や「記紀」を読めば判然とするが、有史以来、日本は数えきれないほど朝鮮半島を侵攻し続けている。
その逆は無きに等しい。
わたしは室町期に李氏朝鮮が対馬を十日前後攻めた「応永の外寇」しか知らないが、ほかにあるのだろうか。
倭寇の侵入が夥しくあり、高麗の沿岸には人々が住まなくなった。
この倭寇の拠点となっていた対馬を強襲して船を破壊し、人質を解放したというのが「応永の外寇」だが、それ以外は逆に日本に人質を差し出したり、貢ぎ物を繰り返したりしている。
なおかつあれだけ侵攻していた新羅には、日本が唐・新羅連合軍に敗れた白村江の戦いから、国家問の交流は乏しくなっている。 
南都六宗や鎌倉新仏教との関わりも、日本は朝鮮より唐から影響を受けている。
文化の輸入も遣隋使や遣唐使とともに中国からだったはずだ。
『隋書』にも見えるように、朝鮮半島から文化が入ってきたという説は成立しにくいし、古代から攻撃を受け続けている国から、さまざまな文化が流入したというのも考えにくい。 
長江ルートと半島ルートの両方があったとしても、日本より朝鮮半島のほうが国力も文化水準も高かったと言うのは間違いだ。
そう言い張るなら、その根拠を提示しなければ、「嘘も百回つけば真実になる」の類だろう。
日本の律令も冠位も朝鮮を真似てつくったわけではない。       
それなのに文禄・慶長の役のおりに、「東アジアの文化的後進国であった日本は、朝鮮から活字、書籍、絵画、陶磁器などの文化遺産を略奪し、多くの技術者や学者を拉致して行った。これとともに朝鮮の性理学も伝えられ、日本文化に大きな影響を与えた」と高麗大学教授で韓国哲学会会長などを歴任した申一徹氏(1931年生まれ)は言っている。
「三国史記」や「三国遺事」よりも四百年も古い『日本書記』や『古事記』がすでに存在し、それよりさらに古い中国の歴史書にも、日本がどういう国でどういう存在だったか書かれているのにも関わらずだ。 
日本が執拗に新羅を攻めたのは、そこに鉱物があったからだ。
845年にアラブ人のイブン・クルダドビーが編纂した『王国と道路綜覧』には、「中国の向こう側に、新羅という、山が多く、いろいろな王たちが支配している国があり、金が多く産出している」とあり、それを求めてすでにイスラム人が定着していたと書かれている。 
新羅は黄金の国でもあったのだ。
『日本書記』にも、黄金があるから神功皇后たちが攻めたとある。
だから日本は侵攻を繰り返したのだ。
そのことは「記紀」だけでなく『三国史記』にも書かれている。
韓国人は自分たちの「正史」すら否定するのだろうか。
日本について云々する前に、自国の「正史」を読んだほうがいい。 
少なくともそこには倭国が何度も攻めてきたことが書かれている。
そういう国が彼らのいう文化の乏しい国であるはずがない。
何世紀にもわたり海を渡って攻めてきたとすれば、それは日本が大国であるということ以外に考えられない。
この稿続く。

 


その影響かもしれないが、今日でも着物のことを「呉服」という。揚子江近辺から船に乗れば、なにもしなくても九州に着くと土地の人間に聞いた。

2019年03月12日 19時58分14秒 | 日記

古代朝鮮半島を支配していたのが日本人だった
佐藤洋二郎 作家・日大芸術学部教授
韓国人の虚言癖にヘキエキしながらも、古代朝鮮経由で多くの文化が列島に伝わってきたと思い込んでいる日本人はまだ少なくない。「渡来人」などという新造語にユメ惑わされるなかれ。
新羅王家に流れる倭人の血…日本国民全員が必読の書である月刊誌WiLL4月号別冊「歴史通」の続きである。
半島に侵攻を繰り返す 
その影響かもしれないが、今日でも着物のことを「呉服」という。
揚子江近辺から船に乗れば、なにもしなくても九州に着くと土地の人間に聞いた。
日本での稲作が九州の発祥だとすれば、彼らが運んできたという推理もあるいは成り立つ。 
神武「東征」が南九州から起こっていることを考えれば、先端技術を持った彼らが東進したとも思える。
ちなみに「東遷」と「東征」とでは意味が違うが、これも深く吟味されることなく安易に使用されている。
「東を征伐する」と都を「東に遷す」とでは意味が違いすぎる。 
韓国人は稲作も半島から伝播したというが、それは地理的、気候的、海流的にも、根拠が乏しい。 
文化面においても、『陏書』に「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢使者曰 聞海西菩薩天子重興仏法故遣朝拝 兼沙門数十人来学仏法」とあり、倭王の多利思北孤が使いを出して貢ぎものをし、海の西の菩薩天子は熱心に仏法をやり、そのため僧侶を派遣してそれを学ぶためにきたと記述されている。
日本人はすでに二千年前に中国と交流を持ち、仏法を学んでいる。 
『隋書』や『魏志』には倭人は鉄を使うと記されている。
鏃(やじり)や鉄器を使っていることが、彼らにとって驚きだったから書き残したのだが、倭人は二千年前に製鉄をしていた。 
仏法を学び、先端技術を習得している日本の文化が、少なくとも中国の歴史書を読むかぎり朝鮮半島から流入したとは考えにくい。 
そして「三国史記」や「記紀」を読めば判然とするが、有史以来、日本は数えきれないほど朝鮮半島を侵攻し続けている。
その逆は無きに等しい。
わたしは室町期に李氏朝鮮が対馬を十日前後攻めた「応永の外寇」しか知らないが、ほかにあるのだろうか。
倭寇の侵入が夥しくあり、高麗の沿岸には人々が住まなくなった。
この倭寇の拠点となっていた対馬を強襲して船を破壊し、人質を解放したというのが「応永の外寇」だが、それ以外は逆に日本に人質を差し出したり、貢ぎ物を繰り返したりしている。
なおかつあれだけ侵攻していた新羅には、日本が唐・新羅連合軍に敗れた白村江の戦いから、国家問の交流は乏しくなっている。 
南都六宗や鎌倉新仏教との関わりも、日本は朝鮮より唐から影響を受けている。
文化の輸入も遣隋使や遣唐使とともに中国からだったはずだ。
『隋書』にも見えるように、朝鮮半島から文化が入ってきたという説は成立しにくいし、古代から攻撃を受け続けている国から、さまざまな文化が流入したというのも考えにくい。 
長江ルートと半島ルートの両方があったとしても、日本より朝鮮半島のほうが国力も文化水準も高かったと言うのは間違いだ。
そう言い張るなら、その根拠を提示しなければ、「嘘も百回つけば真実になる」の類だろう。
日本の律令も冠位も朝鮮を真似てつくったわけではない。       
それなのに文禄・慶長の役のおりに、「東アジアの文化的後進国であった日本は、朝鮮から活字、書籍、絵画、陶磁器などの文化遺産を略奪し、多くの技術者や学者を拉致して行った。これとともに朝鮮の性理学も伝えられ、日本文化に大きな影響を与えた」と高麗大学教授で韓国哲学会会長などを歴任した申一徹氏(1931年生まれ)は言っている。
「三国史記」や「三国遺事」よりも四百年も古い『日本書記』や『古事記』がすでに存在し、それよりさらに古い中国の歴史書にも、日本がどういう国でどういう存在だったか書かれているのにも関わらずだ。 
日本が執拗に新羅を攻めたのは、そこに鉱物があったからだ。
845年にアラブ人のイブン・クルダドビーが編纂した『王国と道路綜覧』には、「中国の向こう側に、新羅という、山が多く、いろいろな王たちが支配している国があり、金が多く産出している」とあり、それを求めてすでにイスラム人が定着していたと書かれている。 
新羅は黄金の国でもあったのだ。
『日本書記』にも、黄金があるから神功皇后たちが攻めたとある。
だから日本は侵攻を繰り返したのだ。
そのことは「記紀」だけでなく『三国史記』にも書かれている。
韓国人は自分たちの「正史」すら否定するのだろうか。
日本について云々する前に、自国の「正史」を読んだほうがいい。 
少なくともそこには倭国が何度も攻めてきたことが書かれている。
そういう国が彼らのいう文化の乏しい国であるはずがない。
何世紀にもわたり海を渡って攻めてきたとすれば、それは日本が大国であるということ以外に考えられない。
この稿続く。

 


日本国が被った大損害と日本国民が棄損された名誉や信用を思えば...科研費で毎年6億円もの税金を得ている山口二郎が真の国士なら「たたっ斬ってやる」だろう

2019年03月12日 19時47分02秒 | 日記

夕食を摂りながらNHKの7時のニュースを見ていたのだが…
東電に対して刑事罰を求める人間達がいる事に先ず驚く。

彼らの言い分が、あの…1,000年に一度の津波は予測できた、と言って東電の経営陣を罪に問おうとする悪辣さには本当に呆れて物も言えない。
原告の弁護人(彼らがたきつけたのだろう)として登場したのが、あの海渡雄一…福島瑞穂の事実婚の相手と言われている男である。

なるほど、この男ならやりかねん。
こんな人間が弁護士でございと言っている態様。
言える事は、彼らが立脚している国である中国や朝鮮半島なら間違いなく拘束・逮捕され死刑を含む重罪に処せられている人間達である。
その事が彼らの愚かしさを何よりも明らかにしている。
私は上記の男の顔を観ただけで夕食が拙くなった。
こんな男達の為に日本国が被った大損害と日本国民が棄損された名誉や信用を思えば...科研費で毎年6億円もの税金を得ている山口二郎が真の国士なら「たたっ斬ってやる」だろう。