すずしろ日誌

介護をテーマにした詩集(じいとんばあ)と、天然な母を題材にしたエッセイ(うちのキヨちゃん)です。ひとりごとも・・・。

キヨちゃんの思い出話

2018-09-12 19:49:58 | うちのキヨちゃん
 通院の道すがらキヨちゃんが言った。
「しかし、どこもかしこも、かずらだらけになったなあ。」
 そうなのだ、今は山はどこもかずらがびっしりで、木も何も覆い隠している。
「ほんまじゃなあ。凄い勢いじゃ。そう言えば、母ちゃん、昔かずらを取ってきて、湯がいて急須の取っ手とか作りよったよなあ。

 「ほれは種類が違うんじゃ。母ちゃん昔焼き物の工場で、かずらを編む担当だったんじゃ。ほなけん出来るんじゃ。」

 さて、ここからはキヨちゃんの思い出話である。

 娘時代、鹿児島でそんな仕事をしよった頃、朝から晩まで働いて、月に1,000円の月給だった。(それが今の価値でどの程度かは定かでないが、かなり薄給だったと見える)
 ほんで、どうにも我慢ならんなって四国に出てきたんじゃ。塩江の温泉で(温泉の工事現場)飯炊き。そしたら、給料が月8,000円になった。嬉しかったなあ。
 婆ちゃん(母親)に3,000円、姉ちゃんに3,000円仕送りして。手元に残ったお金でも、時々何か珍しいもんがあったら送ったんじゃ。
 ほれがなあ、当時の義兄さんが、勝手に婆ちゃんの貯金下ろして使うてしもうたらしくてな、婆ちゃん、
 「キヨ子が苦労して送ってくれた金を、どうして勝手に使うたんぞ。いつかあれが嫁に行く時に、
何か持たしてやりたくて、使わずに貯金しとったのに。」
って怒って、〇〇義兄さん(長女の夫)呼んで説教してもらったらしいわ。
 その現場が終わってから、今度はダムの現場に飯炊きに行った。そこはとにかく礼儀正しい人がようけおってな。警察までおる。何でか言うたら、刑務所の人が働きに来よったんじゃ。ほなけん、夕方にはお巡りさんと帰っていく。ほれは規則正しい、人の良さそうな人ばかりじゃった。
 ほんで、大抵は刑期を終えたらみんな現場にもんてきて、就職しよったな。東北の人が多くてな、真っ白な肌に、湯上り浮かび上がる刺青がそれは綺麗だった。
 人当たりのええ人ばっかりじゃったけん、
 「あんたら、こんなええ人じゃのに、何をして刑務所なんかに入ったんで?」
って聞いたらな、
 「それは聞くなや・・・。」
と言われたわ。

 そう、そんな現場でキヨちゃんは父と出会うのである。あ、父は務所帰りではなかったが、同じくらいやんちゃな男であったけど・・・。

 オチらしいオチは無い。キヨちゃんの思い出話である。

にほんブログ村 介護ブログ 介護職へ ここをクリックしてお立ち寄りください
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする