Dream Gate ( 中野 浚次のブログ )   

本日はようこそ開いてくださいました!お芝居のことグルメを語ります!


          

種之助の涎くり   秀山祭の「寺子屋」  ― 新橋演舞場・昼の部 ―

2012-09-15 | 歌舞伎


前回の新橋演舞場夜の部に引き続き、今回は昼の部。

義太夫狂言『寺子屋』と黙阿弥の世話物『河内山』の2本立である。幕間40分の休憩が1回ある。

今月から初の試みらしいが(いつもは3本立て)、わたしは今回のような試行に賛成したい。

嬉しいのは『寺子屋』は、いつもなら源蔵戻りからだが、今回は千代(福助)が子の小太郎を入門させる「寺入り」から。

これだと、菅秀才の身替りになる、我が子小太郎との最後の別れ、つまり母の心情がより鮮明になる。

それと、なにより嬉しいのは、涎くり(種之助)の仕どころというか、見せ場が多分にあることだ。

 

 

滞在してるホテルで夕刊をみると、今回の歌舞伎評がちょっぴり載っていた。大半が吉右衛門のせりふ回しの賛辞ばかり。

最後の1行が「種之助の涎れくりがいい」。それだけである。

いま一番注目しているのは、又五郎丈の長男・歌昇(平成元年生まれ)と次男・種之助(平成5年生まれ←画像)のご兄弟である。

兄弟といえば阪神の新井良太新井貴浩選手も三味線の吉田兄弟も好きです。

話が逸れましたが、昨年も同じ新橋演舞場で父又五郎の初役源蔵で『寺子屋』をみている。そのときの涎くりが兄貴の歌昇だった。

著名な演劇評論家が歌昇の涎くりを「あまりにも現在的すぎる」と評した。

異論を唱えるつもりはないが、わたしは今まで誰もやったことのない工夫がいたるところにあり、いい涎くりだったと思う。

この役は幹部の息子がやるのが通常だが、大名題がご馳走役で出ることもある。名前はいわないが、ある襲名公演で涎くりを幹部俳優が付き合った。

段取り芝居だけのつまらない涎くりだった。

さて種之助の涎くりであるが、ベテランの錦吾の三助を相手に回して大奮闘である。嫌味にならず、淡々と演じたところがいい。

オームという件などは、客席からかなりの爆笑があった。ことに戸浪のマネが素人っぽいのがいい。

ただし二つの欠点がある。

一つは暖簾口の引っ込みがよくない。涎くりの役でなく、素になってしまっている。小川暁久になってしまっている。

二つ目は寺子の親たちが迎えに来るところ。涎くりは3番目である。花道でおんぶしてもらうのが逆に祖父の橘三郎をおんぶするのがいつもの決まりだが、ジャンプしないで横を通る始末。所見の日だけならいいのだが・・。

又五郎の玄番はニンだと思う。期待通りのいい玄番だ。

その又五郎曰く
「息子の種之助が涎くりで出させていただいてますが、玄番が涎くりを叩くところは思いきり力をかけますハ、ハ、ハ」。

   左の高頬にひとつのほくろ!!

ご存知『河内山』。

やはり吉之助の持役の北村大膳がうまい。

それと米吉の浪路がこの芝居にうまくおさまった。7月の松竹座より格段の進歩である。

人気狂言がふたつ。夜の部よりも盛況だった。 

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驚くべく実悪の凄さ  『馬盥』の吉右衛門  ―新橋演舞場・夜の部―

2012-09-09 | 歌舞伎

 
「馬盥」とは、馬に水をのませる桶である。
春永(←織田信長)が光秀(←明智光秀)に、馬盥で酒をのませるところがあるので、俗にこの芝居を『馬盥』という。
春永の光秀に対する態度はサディストめいているが、それだけに後の光秀の謀叛が引立つのである。

どんな世界でも、どこの会社にも、天性気の合わない人間同士はいるものだ。
この芝居の春永と光秀もそうであった。
春永は光秀をいじめぬく。それをジッと耐えている光秀。
ひと口でいえば、そんなお芝居である。

光秀には、当たり役にしている吉右衛門。春永には染五郎の代役で歌六
光秀が愛宕山で二人の上使を斬って刀をぐっと見る凄味。圧巻である。
さすがに大歌舞伎をみた迫力である。

本能寺での幕切れ、花道七三で「魚の水を失い、鳥がねぐらを焼かれし如く」のせりふ回しのうまさは抜群。
それに『馬盥』といえば「この切髪は越路にて」の名セリフをたっぷり聞かせて堪能させてくれる。
吉右衛門という役者のスケールの大きさが演舞場という劇場(こや)の寸法にぴたりと収まった感がしてならない。

対する春永の歌六も染五郎の代役といえども、その力強さ、その明晰さ、堂々とした大きさは立派に本役である。
立派さは買うものの、もう少し男の色気がほしい。小姓に森蘭丸(←歌昇)、森力丸(←種之助)という前髪の美少年の色子がいるではないか。
完璧な出来も味がないというか面白くないものである。

世の中に明智光秀を嫌う人は数多い。
あの山本周五郎もそのひとりだった。生涯に一度も「明智光秀」だけは書かなかった。
鶴屋南北はこの『馬盥』で信長光秀確執の稗史を歌舞伎に書いた。

わたしは先に”気の合わぬ奴”が世の中にいるものだといった。もっとも性格の違い、考え方の違いもあるだろう。
春永と光秀はおそらく後者だと思う。
つまり春永にとっては、天下は自分個人のもの、光秀は万人のものだと思っている。
とすれば、この芝居は現在にも通じる古典劇にもなりうるのではないだろうか。

 

         


魁春(画像/右)の皐月は、座頭吉右衛門を向うにまわして力演である。
ことにあまり動きのない場面の出場ではあるが、スキを見せない時代物らしい生彩があって存在感が十分。
「貞女とも褒められる行いがかえって夫の難儀を招く、その無念さを出したい!!」とは魁春さんの弁。

芝雀(画像/左)の桔梗は持ち役。この人の芸域の広さに驚く。女形さんのほとんどいない播磨屋さんでは、貴重な欠かせない存在でもある。
「世の中で一番好きな人は?」の質問に、「うちの女房です!!」と即答してくれました。

 

 

 

切りが七世芝翫さんを偲んで『娘道成寺』。
思えば昨年の9月。同じこの新橋演舞場で淀君を演じたのが芝翫さん最後の舞台となった。
今回は長男の福助が白拍子花子である。道行はカットして、押戻がつく。

「恋の手習い・・・」の手踊りで使った手ぬぐい(←画像)を観客に投げるのが慣例なんです。
12人も出ている「聞いたか坊主(所化)」たちも袖から手ぬぐいを出して観客になげてくれる。
甲子園球場でヒーロー選手がサインボウルを観客に投げるのと同じ光景である。

その所化のなかに知った役者さんが出ていて、しかも前から5列目の私の席めがけて2本も投げてくれた。もちろん2本とも命中した。
ところが私の後席のおばちゃんが「わたしに1本戴けません?」とのお声が。失礼な!!

こういう交歓が歌舞伎の本質なのである。

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若手の成長肌で感じた 『新口村』   ― 第22回 上方歌舞伎会 ―

2012-08-15 | 歌舞伎


歌舞伎界では巡業を含めて、各地で「夏の勉強会」たけなわである。

ことしの「上方歌舞伎会」は例年より1週間早く、『封印切』 『新口村』 所作事の3本立。
たぶん出演者の配分を考えてか『封印切』では忠兵衛に名題の仁三郎、梅川にりき彌。これが『新口村』になると忠兵衛に千志郎、梅川に純弥となる。

 

 新口村 

亀治郎じゃなかった新猿之助のパクリではないが、このどクソお暑いなか、雪の芝居『新口村』の演目にはうんざりしたが、これが本公演中でいちばんの出来栄え。

浄瑠璃のオキがあって、浅黄幕がとぶと、いつもの藁屋根百姓家の横面道具がなく、一面の雪の大和路である。
糸立てをかむった忠兵衛と梅川の絵面になる。清元の『道行旅路の花聟』の幕開きを思わせる。

千志郎の忠兵衛は、芝居がいささか浮いてはいるが、この若さ、この上方らしい柔らかさ。精一杯の力演である。
彼は兵庫県生野高校の出身。余談ですが私も高校の頃、卓球の試合で生野高校に行った事がある。
彼はこの10年ですばらしく成長した。これからが楽しみである。

純弥の梅川は、最近実力をつけてきたが、前回の『野崎村』のお光より格段いい。こなしに工夫がある。
欲をいえば、<めんない千鳥>の件(くだり)で、手ぬぐいを外してから後がぞんざいなのが気になる。
『新口村』の梅川は忠兵衛の父親孫右衛門への申し訳ないという気持ちが、梅川の”性根”ではないだろうか。
遊女の色気や甘えがもう少し出ればと惜しまれる。

父親孫右衛門には佑次郎
まだお若いのに、フケは気の毒だが、メンバーではこの人しかいないのが現状。
芝居が平板になったことは是非もないが、精一杯やっていた。その真摯な演技に拍手。

千壽郎の忠三郎女房が傑作である。
まず出てきたとき、カオのつくりが『女殺油地獄』の秀太郎丈の”おさわ”にそっくりなのにおどろいた。
もう少しチャリめいた”おかしみ”があってもよいが、嫌味がなく及第点である。

最後に一つ。
最近は子役による忠兵衛、梅川の遠見をはぶくが、追手を逃れて行く忠兵衛・梅川両人があたかも子役の遠見のような、死しかない道行を絵面で見せた演出は秀逸で、感動的であった。

  封印切 

前後するが、その前の『封印切』は全体的にバランス に欠いている。
その中で當史弥の”おえん”が一頭地を抜いている。
ことに塀外で「はじめて逢ったその時は・・」といいかけて、世話にくだけて「オオ てれくさ」あたりも、上方の味が出て絶品である。

りき彌の梅川。この作品ではいちばんのニンだが、全体的に影がうすい。

対する仁三郎の忠兵衛。花道の出で「梶原源太はおれかしらん」の軽さがなく、芝居が浮いてしまっている。

八右衛門は松次郎。十分突っ込んで忠兵衛に対抗しているが、ねばっこい上方の味にまでいたらなかった。
それに花道の出がよくない。もっといやらしく走って出るべきだろう。
実力のある人だけに惜しい。


   ● 秀太郎さんの本『上方のをんな』にサインしてもらいました!!

 


昨年末に上梓された片岡 秀太郎さんの『上方のをんな』。
幕間に秀太郎さんにサインをもらって来ました。

私はもともと役者さんの「芸談」を読むのが好きなんです。
でも最近は”タレント本”的なものばかりで、ことに上方歌舞伎の芸談などはほとんどありませんでした。
『上方のをんな』の出版はまさに快挙といえましょう。

この本がいい理由は三つあります。
まずゴーストライターの坂東亜矢子さんの文章が簡潔で、とても読みやすいことです。
次に秀太郎さんの「語り」が、上方の役者さんらしく”はんなり”しています。
三番目に、父仁左衛門からの舞台写真は勿論ですが、道頓堀にあった昔の文楽座などの貴重な写真がふんだんに併載されています。

戦後の上方歌舞伎不振のころのエピソードが興味深い。
父・仁左衛門と私(←秀太郎)は公演のチケット売りに奔走したこと。
故・松下幸之助さんの別荘まで押しかけ、松下幸之助さんが公演を一日貸切にしてくれたこと、そればかりかシャープの早川社長に電話して200枚の切符を強引に買ってもらったことなど、芝居ばなしばかりでなく、数々の思い出話も尽きないのです。

以上「上方歌舞伎会」番外編でした。 

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浪花の夏の大歌舞伎   ― 松竹座 昼の部・夜の部 ―

2012-07-27 | 歌舞伎

大阪・松竹座を見てきました。
それも昼・夜の部通しで、さすが見る側も疲れました。
このたびの昼・夜の部は、出し物といい、役者さんの顔ぶれといい、芝居好きにはたまらない大芝居。
どれもがいわゆる「濃~い芝居」で、これぞ大歌舞伎という、最近ではついぞ見られない面白さである。

それにくらべれば、恒例の12月南座での「京の顔見世」だって、これだけの役者が揃ったことはない。
いつも上方勢が大半で、東京から実力派の名題が3人ほど加わる程度である。
それでいて、チケット代がべらぼうに高い。

今回は襲名公演であるにせよ吉右衛門、新又五郎、梅玉、魁春、染五郎、東蔵、芝雀、歌六、上方から仁左衛門、我当、孝太郎が加わっている。
さらに、新歌昇、種之助、米吉、隼人ら次世代の歌舞伎を担う、平成生まれの若手が大役に挑んでいるから芝居が新鮮に見えてくる。

われわれは歌舞伎を何故見にいくのか?
ストーリーの面白さではないだろう。役者さんの芸を見に行くのだ。
芸に深みのない芝居だと、見る側の心を打たない。
深みがなければ「お芝居」を堪能することが出来ないのである。
先に「濃~い芝居」だと云ったのはここにある。

前置きが長~くなった。以下順を追って感想を書きとめておきたい。
     

      ● 「引窓」
                   


 義太夫狂言『引窓』はいまそつさらながら名作だと思う。
登場人物四人の人間関係、人情の機敏が実によく描かれているからである。ことに、どの人物も互いに何かを隠しているところにこそ、この狂言の主題があり、義太夫のノリで役者の仕どころが豊富にある。

梅玉の与兵衛は、時代にこってりでなく、サラサラと淡彩に芝居を運ぶ。
すべてが、行き方が控え目で、ソツなくリアルにやる。
それでいて芝居のリアリティに手応えがあるのも事実である。

「狐川を左に取り」から「あの長五郎はいずれにある」・・・ここだけはこの人らしい名調子を聞かせてくれるのだが、幕切れでも,ピシャンと戸を閉めても
きまったりしない。それでいて形はきちんとしている。思わず胸が熱くなる一幕であった。
これも梅玉らしいうまさである。

東蔵の母お幸がいい。
わが子濡髪をいとおしむ具合、与兵衛への義理、嫁お早へのあしらい、すべてが申し分がない。
ただすべてが仮名手本六段目のおかやとたいして違いがないのは、この人の芸質なのだろうか。

我当の濡髪もしっとりと味わい深く、心持ちが手に取るようにわかるうまさである。
「未来の十次兵衛どのへ、すみますまいがな」の突っ込みも十分。
ただこのところ足がご不自由。歩き方が気の毒なくらいたどたどしいが、それでもめいっぱい動いて感動的でもあった。

孝太郎のお早は八回目らしいが、少々演技過剰が目立った。
今回は「はいどうどう」などカットしてるのに、花街上がりらしい色香すら見えてこない。
芝居が段取りだけになってしまってるのが惜しい。

松江の三原伝造と進之介の平岡丹平の二人侍はそれなりにやっているが、どこか物足りない。
どちらも兄弟が濡髪に殺されているのである。
もっと突っ込むのかと思いのほか、意外に淡白。人相書を持ってきただけの役に終わっている。
少なくとも一人は適役にしたほうが芝居の伽がはっきりすると思ったりした。

 

                   ●  棒しばり 


大阪・松竹座でははじめてという『棒しばり』は、新又五郎の襲名披露演目。

次郎冠者(新又五郎)と太郎冠者(染五郎)が縛られたまま巧みに酒を飲み交わし、さらには不自由な状態で存分に踊るという歌舞伎舞踊の傑作の
一つ。
共に踊りの名手と謳われたふたりが、テンポといい、リズムといい、足と躰の芯を使って踊る難しい踊りだが、二人のイキがピタリとあっていたのはさすが。
明快で、賑やかなフンイキが、観客にいちばん受けていた。
それでいて松羽目物の品格をきっちり見せていた。

今月の昼夜通しでいちばんの出来である。
長唄の立三味線は栄津三郎、後見は種之助。温かくて、ほほえましい一幕であった。


            ● 「荒川の佐吉」


「荒川の佐吉」を見るのは今年になってからでも二度目。
前回の佐吉は染五郎(←詳しくはコチラ。今度は佐吉を当たり芸にしている仁左衛門だが、やはり格別にうまい。
つまり一人の三下奴が一人前の男として人間として成長していく過程を適確にとらえていることである。

たとえば大詰で、相政(吉右衛門)と丸総のお新(芝雀)を前にして述懐する場面での語り芸のうまさ。
大芝居をするでなく、淡々と出来事を語って、しかも憎悪だの、口淋しさ、愛情がうずまいているのに、しっとりと語るところなどは名人芸である。
その一つひとつが手にとるようにわかるし、また感動させられるところである。

対する吉右衛門の相政は、じっと聞き入るのみ。
時には目を閉じ、腕組みをして聞いているが、そこに「聞く芝居」をしているのである。
しかも貫禄十分。
こんどは佐吉を説得する件になると、言葉の一つひとつに重みがある。
それは言葉だけでなく、人を説得するというハラがあるからであろう。

梅玉の成川、歌六の鍾馗の仁兵衛、その娘のお八重に孝太郎。いずれも手堅い。
大工の辰五郎には新又五郎。歌昇時代からの持ち役。
「荒川の佐吉」は子別れのお涙頂戴劇ではないが、この人のうまさで観客は思わず嗚咽してしまうのである。

 

            ●     渡海屋 大物浦       


夜の部の最初が『渡海屋 大物浦』。
この大時代な「義太夫狂言」は、"チンプンカンプンわからない芝居”になるか、”意外にわかり易い芝居”になるかは、それを演じる役者の技量によることが思い知らされる狂言でもある。

まず最初の傘をさしての吉右衛門の銀平の出は、颯爽と、その大きさに驚いたが、いかんせんその後の芝居がぞんざいになる。
この銀平が大物浦では、知盛に一変してからが俄然よくなる。
血染めの装束、水入りの鬘。
なにもしないでも「この世から悪霊の相」に見えるところだが、いかんせん形容だけで、期待にたがわぬ出来であるのは惜しい。
いつものような湧き上がる力、意気込みが足りず見劣りがする。

入江丹蔵には新歌昇。大阪松竹座では初御目見得らしい。
前半と後半では柄が全く変わる役で、ことに後半はご注進という難役。
父の又五郎も歌昇時代に何度も演じてきた役でもある。
ことに見せ場である殺陣も、そして自害のところも段取りだけになってしまった。
まだ23歳。これからの人である。大いに奮起してほしい歌昇くん!!

弁慶の歌六が不出来。義経に梅玉錦之助の相模五郎。

 

                      ● 「吉野山」 


口上を挟んで清元の舞踊劇『吉野山』。
芝雀の静御前、新又五郎の忠信である。

芝雀の静御前は父雀右衛門バリの古風でたっぷりとゆたかな大きさ。
踊りもうまく忠信とのイキもぴったり。

新又五郎の踊りも味が出てきた。
誠にそれよ越方をからは、義太夫が入って「物語」になる。
異なった人物を踊りで表現して、その変わり身があざやか。

襲名狂言とあって早見藤太が仁左衛門。ご馳走役である。
今回の出演者を折り込んだ”役者づくし”と、長~い所作立。

ですから肝心の道行が、この三枚目のために希薄になった。
仁左衛門のうまさが、舞台をさらっていった感じである。

          
                         ● 「河内山」



新歌昇の松江出雲守
 


切狂言は染五郎の『河内山』。松江出雲守には新歌昇である。

本役の梅玉がいるのに、この大役を新歌昇に回したのも、襲名のご祝儀の采配だろう。
てっとり早くいって、この役をやるのは10年早く、新歌昇にはいささか荷が重すぎる。

少なくても梅玉の松江候は、出てきただけで、その癇癪、そのわがままさ、その品位、さすがに十八万石のお大名であった。

しかし新歌昇はいささか生硬すぎる。おそらくこの役には手も足も出なかったのではないだろうか。

余談になるが、そもそもモデルになった松江候は遊蕩に耽ったり、女性にはだらしのないことで有名。
強制的に隠居させられた人物である。

お芝居でも腰元の浪路を妾にしようとするが、宮崎数馬という許嫁がいると断られると逆上して、押し込める。
その浪路には米吉。あまりにも”おぼこ娘”すぎる。これでは殿様が手をつけるような腰元には見えない。

対する許嫁の近習頭の宮崎数馬に隼人。こちらはそれらしく将来が楽しみな成長株である。

最後に一つ。
私は子供のころから『河内山』の芝居は知らなかったが、「とんだところで北村大膳のせりふと「バカめ」はよく覚えていた。
しかも幕切れの「バカめ」のせりふは松江候に云うのだとばかり思っていた。
ところがこれは北村大膳に云うせりふらしい。それが松江候にもかかるという具合だとか、最近になって知ったのである。

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三回目を迎えた「團 菊 祭 」     ― 大阪・松竹座 ― 

2012-05-28 | 歌舞伎

  5月といえば 「團菊祭」。

  東京・歌舞伎座が建て替えのため、一昨年から大阪・松竹座でお引越し興業。早や3年目になる。

  「新幹線から富士山が見えたとか見えなかったとか」場内でそんな話し声を耳にした。

  「海老蔵フアン」か「音羽屋フアン」か知らないけれど、観客の中に東京からの遠征組もかなりいたようだ。

  せっかく大阪に来たのだから、昼夜通しで見たい。、それとたこ焼きとお好み焼きもたべたい。

  1等席が17000円だから、昼夜でその倍はかかる。それにホテル代、旅費などで・・・まあ10万仕事ですな。

  歌舞伎は敷居が高いといわれるけれど、どこの世界だって同じ。熱狂フアンがいるものです。

 

 


「團菊祭」とは、歌舞伎史に偉大な足跡を遺した九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎を顕彰するために昭和11年から始まったものらしい。
もちろん私などまだ生まれていない時代です。

今回は團十郎、菊五郎のほかに、関西勢から坂田藤十郎、上村吉弥が参加している。
昼の部の演目は、菅原の『寺子屋」、舞踊劇「身替座禅」、切狂言は上方の「封印切」。

順序が不同だが、興味のあるお方はしばらくお付き合い願いたい。


 藤十郎の一世一代の忠兵衛 「封印切」

 

  

 
昼の部の坂田藤十郎『封印切』の忠兵衛が感動的である。

「一世一代」という言葉がある。これを最後にこの役は演らないということである。
藤十郎の忠兵衛を見ていると、まさしく「一世一代」の芸ではないかと思われるくらいだ。
今までにない芸に新しい工風、しかも集大成の舞台のような気がしてならない。

たとえば「封印切」の忠兵衛は生と死の、もうぎりぎりのところにいる。
そういう人間の哀れさと、言うに言えない気持ち。
同じ花道なのに”出”の華やいだ気分と、”引っ込み”のときの絶望的な気持ち。
つまり、すこしの間に逆転してしまった恐ろしさと言おうか・・・・。
そういうものを、どう観客に訴えていくのか。どう芸で工風するのか?

それを見つけたかのような、今回の花道の”出”と”引っ込み”であった。

本文では、おえんが「またお近いうちに・・・・」と本舞台で忠兵衛を見送って、花道七三の忠兵衛が「近日・・近日・・・」とつぶやいて引っ込むと、ある。
今回は藤十郎自身の工風で、見せ場の多い印象的な”幕切れ”であった。

何回もやっているうちに、ひとつの役の性根からくるリアリティが濃くなるんですよ・・・・・番附で藤十郎さんは話していた。
おこがましいようだが、そのリアリティこそ上方歌舞伎のいちばん大事なところではないだろうか。

梅川に菊之助、八右衛門が三津五郎
井筒屋のおえんに東蔵。ふっくらとした芸、上方風ではないが、味のある花車方である。


★  「身替座禅」 

  


とかく最近は「身替座禅」というと笑劇じみた「舞踊劇」になった傾向がある。

團十郎の玉の井。抑えるところは抑えて松羽目物の品位を保っていた。

菊五郎の右京の面白さは天下一品。
この面白さは、恋人花子との件で色気があって艶っぽく、だからおかしみが効いていることだろう。

浮気から帰っての”のろけ話”を太郎冠者に自慢する件(くだり)など、立役と女形との踊り分けがうまく、メリハリが効いている。

侍女千枝は巳之助。このところ巳之助の持ち役といってもよいだろう。
踊りがまことに端正。抑制が効いて行儀がいい。


★  「寺子屋」 

 

  


松王は松緑だが、声量といい、ニンといい、それなりの松王だが、スケールが小さい。
ことに泣き笑いの「けな気な奴・・・」からの言葉の切り方、桜丸への思い、息子小太郎への思いが散文的である。
小太郎の死を思ってつい桜丸と対照させるのが本来の姿で、桜丸を悼む心のかげに小太郎への思いがあるべきだろう。

この芝居の人間的な描写と義太夫狂言の手法のバランスが不足していろように思えてならない。
演っている本人は分かっているつもりでも、観客にはタダの説明にしか見えてこないのである。

海老蔵の源蔵を見るのは2度目。
前回よりも、段取りもスムースで引き締っている。
しかし、どうもあの目のギョロギョロが気になってしかたがなかった。
たしかに「目千両」の人だが、源蔵には不向きな気がする。

これはあくまで私見だが、松緑の源蔵、海老蔵の松王と役を入れ替えたほうが正解の気がする。いかがでしょうか?

菊之助が千代。いろは送りで焼香しながら、乳をおさえて倒れるところが印象的だった。

園生の前は吉弥
上方のベテランだけに、出てきただけで舞台がグッと締まる。

戸浪が梅枝。玄蕃が亀三郎。父上彦三郎の声にそっくり。もう少し肩の力がぬければ有望株だろう。

言葉はわるいが、今回の若手による『寺子屋』は勉強会の域である、といえば言い過ぎであろうか・・・。

 

 

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