初芝居も中日(なかび)を過ぎれば、劇場には繭玉(←関西では餅玉)こそ飾ってあるが、正月気分になれない。
東京の劇場では、新橋演舞場、ル テアトル銀座、浅草公会堂、中村座、国立劇場と、そのすべてが歌舞伎公演。
それに大阪・松竹座を加えると、、なんと6座が競っていますが、不入りの劇場もあるとか。
さて私、年末から3Dテレビに凝って、あのヘンなメガネをかけていたせいか、眼を少々患って、、今年の始動がおそくなりました。
今年の観劇は大阪・松竹座の昼の部でした。
「吃又」、「修禅寺物語」、「関の扉」の三本立て。
「修禅寺物語」の夜叉王は我当。
海老蔵の頼家、扇雀の桂、吉弥の楓、市蔵の下田五郎と役者に申し分がないが、全体に白々しく、あまり面白くない。
それに観客もあまり乗らない。
岡本綺堂の名作でありながら、今日の客に受けないのはなぜか。
平成の時代にこの名作があまりに符牒が合わないのかもしれない。
そんな中で一頭地を抜いていたのは我当の夜叉王(←画像/上)。
芝居のうまさといい、味わいといい、さらに彫りが深く渾身の力演である。
しかしひとつ間違えば「くさい芝居」になりかねないが、そこは一線を画しているところに我当の芸の心境があるのだろう。
セリフの一つひとつが観客の心をえぐるのである。
姉むすめ桂の断末魔を写し取る幕切れに、今回は独自の工夫を凝らしている。
ここで原作の「筆と紙を持て・・・・・」をカットして、「後の手本に我が眼に焼き付けておかん」と娘を凝視したまま幕にしたのは、今日的でよかった。
頼家は海老蔵(←画像/右)である。
いかにも源氏のご曹司らしいその高貴さ、音吐朗々、言語明晰、立ち身のよさ、申し分がない。
往年の名舞台といわれた寿海とはまた異なった朗誦術。
若いだけに、見ていて爽快である。
悲劇の武将とよばれた頼家の寂しさや翳りを垣間見せたのはさすが。今回は初役だそうだ。
難をいえば、ときに「光源氏」めくところがあるのと、二場の桂川のほとりの花道の出で「おゝ、月が出た・・・」と逆七三で云ったのは疑問がのこる。
妹婿の春彦は進之介(←画像/左端)。
正面のれん奥で桂のセリフをきいているところは秀逸。じっとしているだけで芝居になっている。
前半は父我当の口跡にだいぶ似て「聞かせどころ」をうまくおさえている。
しかし後半になると崩れる。すべてが段取り芝居になる。
早口になるとセリフも現在調になってしまう。
春彦という役はなんでもない役だが、それだけに難しい。
段四郎といういいお手本がある。自分の足元をいまいちどよく見て精進されたい。
姉の桂は扇雀(←画像/左)。
気位のお高いところはよく出ている。
「夢のような望みが今かのうた」と妹楓を振り切るところがお粗末。
先代の時蔵はこの場面が実にうまかった。
妹楓の吉弥(←画像/右)は平凡。
岡本綺堂のよくできたホンだけに「しどころ」があるはず。今回は淡白である。
今回いちばん感心したのは市蔵(←画像/中央)の下田五郎。
「吃又」では貫禄不足だと思ったが、今月いちばんの出来。
僧の當吉郎(←画像/右端)は生彩を欠く。
さほど広くない夜叉王の生家で、上手の端では位置がわるい。
これでは夜叉王との話が通らない。だから説得力に欠ける。
上方役者のベテランだけに惜しい。
百姓は千志郎以下の門弟の手揃いで、アンサンブルもよかった。
「修禅寺物語」の前に義太夫狂言「吃又」がある。
翫雀(←画像/中央)の又平はかなりの力演。
言葉が不自由な障害の苦しさで全身が動くのはお見事。
見ているこちらまでその痛みを感じる。
しかも竹本のイトによく乗って、義太夫味がある一幕であった。
対するおとくは秀太郎(←画像/上)。
秀太郎らしく「花車方」めくが、これはこの人の持ち前だからしかたがない。
又平とのイキもよく、花道の出の沈んだ性根がよく出ていた。
ラストの幕外の引っこみでは、笑いをよんで余裕さえ見られた。
余裕といえば、大頭の舞では、自分で鼓を打つのだが、合わなければ捨て台詞がとんだりして笑わせる。
ただ苦難を乗り越えてゆく又平夫婦の情愛があまり感じられなかった。
それもいま一つ芝居が盛り上がらなかった一因ではないだろうか。
ついで家橘(←画像/左)の北の方がうまい。
最近老け役が多いが、「江戸の夕映」や「髪結新三」の白木屋の後家をやらせば天下一品である。
出過ぎず、邪魔にならず、、出ているだけで芝居になっているのは大したものだ。
つづいて笑也(←画像/右)の修理之助がよくできている。
芝居が丁寧だし、行儀も正しく、色気がある。
最近ではいちばんの修理之助だと思う。
「関の扉」は時間の都合で見なかった。お断りしておく。