この1週間、天気がよく変わり、雨があがってもどんよりと曇り、そのうえ寒い週末だった。
いわゆる「寒の戻り」ということで春がちょっと足踏み。
ただ、先週からのあったかさで我が家のさくらんぼの花が開花してしまった。
まだ、1分咲きとも言えないけど、こんなに早く開花して大丈夫なんじゃろうかと少々心配になるのである。
去年はほとんど花がつかなんだということなので、今年は綺麗に咲いていっぱい実をつけて欲しいというのは植えた者の欲。
そのさくらんぼの木の根元にはえている水仙も1つだけ花をつけていた。
一輪とは可憐な感じで、もう少し咲きほこれば賑やかさが感じられれだろう。
自宅のすぐ近く、段々の田んぼの中に梅の木が何本があって少し前から花を咲かせている。
先週、木だけの写真を載せたが、この梅の木の段だけならば、無理すれば桃源郷のように見えなくもない。
梅の花を愛でながら一献傾けたくなる光景なのである。
藤沢周平の小説に没頭していたことは東京在住中の時に書いた。
彼のエッセーの中に
「物をふやさず、むしろ少しずつ減らし、生きている痕跡をだんだんと消しながら、やがてふっと消えるように生涯を終えることが出来たらしあわせだろうと時どき夢想する。」
というくだりがある。
30歳の頃にこのエッセーを読んでどう感じただろうかと思っても詮無いことであるが、
アラ50となって読んで妙に心に引っかって離れない。
ひとつには、現実的な話として、単身とはいえ東京で生活していたときの用品・雑貨の類を自宅に持ち帰った際に収納に困ったことがある。
妻は、当然のことながら、使えても不用品は処分しろと言う。
自分の中には、壊れて使えなくなったから最後の手段として処分というのがある。使えるものを捨てるのは憚れるのである。
とはいえ、収納もできず置き場所もない状態では、この先ずーっと小言を言われてはかなわないので、小言を誘発しない程度に処分を試みるという時期があった。
衣類も、何年前に買ったのか分からないが当時から体型が変わっていないこともあってまだ着られるのだが、
少々くたびれているものや着ることの頻度がほとんどないものも処分「させられた」のである。
また、少し前に部屋の本棚を移動した際に、手元に置いておきたいと思わないあ本を古書店に引き取ってもらったりもした。
こうして自分の身のまわりに置いていたモノを手放してみたら、
手放す前の、何か一抹の寂しさを感じるのではないかといった心配というか心持ちなどなく、
却ってすっきりしたという心持ちさえした。
こうした感じはおそらく今より若いころにはなかったのではないかと思う。
ということで、レコードやCD、写真といったまだ手をつけていないモノの整理処分に変な話、前向きになっている自分に気付いた。
痕跡は消せないけれども「モノを残さない」という処世観に少し傾倒しているのである。