加藤久美子さん現場ライブ(北九州市・R3.5.22)
ライブの開始は2:36頃からです。⇩
https://youtu.be/m4KOetEdJ_g?t=156
※加藤さんの失踪当時の事が荒木さんのブログに書かれています。⇩
加藤久美子さんのこと【調査会NEWS3441】(R3.5.22): 荒木和博BLOG (way-nifty.com)
加藤さんは昭和45年(1970)8月8日(の朝)、近くの神社で巫女さんをしていた妹さんとご自宅を出ました。大蔵停留所の近くで妹さんと別れ、通常であれば電車に乗って小倉の勤務先に行ったはずなのですが、電車での目撃証言はなく、妹さんと別れたときが最後の目撃になります。
ライブの画像を見てもらえれば分かりますが、大通りです。昔は今より狭かったそうですが、それでも路面電車の走る幹線道路でした。いくら何でもこんなところで待ち伏せて袋に詰めて担いで行くはずはありません。
一番考えられるのは加藤さんと面識のある人物が車で通りかかったように装い、「小倉の方に行くから乗っていかないか」と誘ったのではないかということです。当時勤めていた会社が怪しかったのではないかとの話もあります。知っている人間なら断りにくかったかも知れません。
加藤久美子さんについては元工作員・安明進氏の目撃証言もあります。平成15年(2003)、特定失踪者問題調査会発足当初は調査会で調査して拉致の疑いが濃いとなったら救う会に伝え、救う会で拉致被害者と認定(救う会認定)して救出の運動をするということになっていました。加藤久美子さんと古川了子さんはこの「救う会認定」の対象となった人、つまり当初から極めて拉致の可能性が高いとされていた人だということです(このやり方はその後調査会で扱う特定失踪者の数が多くなり、物理的に対応できなくなったので以後行われていません)。
加藤さんの失踪からもう51年が経過しています。調査会ができてこのことを明らかにしてからでも18年です。ここまで分かりながら何もできないでいることに、ご本人とやがてお会いできたときどうお詫びをすれば良いのでしょう。憲法が悪かったとか、法律が整備されていなかったからと言うのでしょうか。それともコロナのせいで活動できなかったと言うのでしょうか。大蔵停留所の前でふとそんなことを考えました。
※加藤さんが失踪したのは22歳の時です。加藤 久美子 | 特定失踪者問題調査会 (chosa-kai.jp)
それから半世紀。
一番楽しく輝いていた時期の50年間を家族とも離れ、友達とも離れた異国で過ごしているのです。
青春時代をあの暗く、貧しい国で密告にも怯えて生活しているのです。
医療も満足に受けられません。日々の食料に事欠いたこともあったでしょう。
荒木さんが仰るように政治家たちは憲法が悪い、法律が悪い等と言い逃れするでしょう。
そう考えると情けなくなってしまいます。
かつて日本は超法規措置でテロリストの言いなりになった事もありました。
憲法の所為には出来ません。
ただ政治家もマスコミも本気がなかっただけです。