鬼の平蔵こと、長谷川平蔵は泳ぎが達者であったので、少し風邪をひいたくらいで事なきを得た。
しかし、風評を大事にする平蔵にとって不名誉であることには変わりなかった。
この件を詮議することは、とりもなおさず自らの失態を言いふらすようなものだ。
火付け盗賊改めは、表だっては動かなかった。その代わりやり手の差口奉公(岡っ引き)を使って事件の全容は明らかにした。与力からの報告を聞いて、
「うぬ、やはり風紀の乱れは歌舞伎からか。いつか見ておれ」
平蔵は歯ぎしりをした。
数日後の朝。
貞一は、腫れぼったい目をしながら落ち着かない様子であぐらをかいていた。
神田お玉が池の岩徳の家。
岩徳は正業として楊枝職人をしており、その腕は確かなものであった。
職人らしく、立派な神棚があり、広くはない床はピカピカに磨き上げられていた。
そんな整然とした雰囲気が貞一は、得意でなかったのである。
「おい、お初、めしはまだか」
岩徳が大声を上げると、
「お屋敷じゃあるまいし、小さな声でもよく聞こえますよ」
そういって、奥の部屋から娘のお初が銘々盆を持って、姿を現した。
数えにして一七、親分の娘らしく口調は、はきはきはしているが、表情は初々しい。
年は十以上違うのに、貞一はこのお初を見ると、妙に落ち着かなくなる。
「重田さま、お口に合うかどうか、わかりませんが」
そう言って置かれた盆には、鯵の煮浸し、胡瓜とシラスの酢の物、漬け物、浅蜊の澄まし汁とご飯が乗っていた。
「これは朝から豪勢だ」
そう言いながら、
(せっかちな岩徳を相手によく短い時間でここまでできるものだ)
貞一は、感心した。
「兄貴、一本つけるかね」
「えっ」
岩徳の誘いに、喉から手が出そうであったが、昼から番所に行かなくてはならなかったのを思い出して、とどまった。
「ところで、兄貴、この前の件ですがね、佐々木様にご報告する前に、ちょいと兄貴にもお耳に入れて置こうと思いまして」
「河童か。やはり蛇の道はなんとやら。早耳だな」
貞一は鯵に手を出しながら、答えた。
「恐れ入りやす。この前の番頭風の男は日本橋で呉服商を営んでいる『伊勢屋』の番頭でごぜいやした」
「『伊勢屋』というのは聞いたことがある。なかなかの流行っている店らしいな」
「へえ、手広く商いをしておりやす。それで、先の河童の正体ですが」
「『伊勢屋』の娘、ではないか。その娘は年頃で、小柄だ」
貞一が口をはさんだ。
「兄貴、何でそれを」
岩徳が大きな目をさらにぎょろりとさせた。
「勘だ。あの日、番頭が『お嬢様』と叫んだじゃねえか。わっちはそれをきいて、それまでもやもやしていたものがさっと引っ込んだような気がした。その娘は三代目が大の贔屓だ」
「その通りです」
「娘は、どこかで三代目が河童好きだと聞いて、何とかその夢を叶えてやろうとした」
「それで、この企みを思いついたわけです」
「河童の種明かしは聞いたのか」
「そこまでは、まだ」
何事も行動の早い岩徳は既に朝餉を食べ終わっている。
「これもわっちの勘でしかねえが、最初の時、娘は瓦版屋が持ってきた桶の中に入っていたにちげえねえ。可哀想な瓦版屋は何も知らされちゃいなかったのかも知れねえ。大量の魚は娘の重さを分からなくするために必要だった」
「でも、あの時は中をのぞき込んで見た者もいますぜ」
「鏡を使えば造作ねえ。あの桶はそのためにも四角だった。鏡をだな、こうして右上から左下に斜めに入れる。すると、上から覗いただけじゃ、魚しか見えねえ。娘は鏡と桶の隙間に隠れていた。下半分には外に出られるような潜り戸のようなものが作ってあったはずだ」
貞一は、お椀に箸を斜めに差し込んで図示した。
「それじゃ、兄貴が前に言ってたように、あの河童は水しぶきも上げねえで泳いで行った。これはどうなんです?」
「これはもっと単純だ。舟に乗っていた番頭が紐で引っ張ったんだ。その紐の一端は桶が置かれた岸あたりに、反対側は川のどこかに杭か何かに結わえ付けてあったんだ。船頭が騒いでいる最中に、娘は仕掛けから表に出て岸側の紐を手にした。舟では番頭が紐を杭から外して、滑車のようなもので舟の方へ娘を引っ張ったんだ。その証拠に船頭が騒いだ後は番頭は屋形船の障子の中だったそうじゃねえか。そして、娘は舟の反対側にでも掴まってそのまま人目につかないところまで行った・・・」
そう言いながら、貞一は箸を止めた。
「分からねえのは、それで大成功だったはずなのに、なぜ危険を冒してまで二回目に登場したかだ」
「八百屋お七でさぁ」
岩徳は、湯飲みを手にして、にやっと笑った。
「えっ」
貞一は、岩徳の言った意味が分からなかった。
「娘の執念は江戸の町に大火さえ起こしやす。娘も一度は騒ぎを起こして満足するんですが、河童を見損なって残念がっている路考の風評を聞くと、路考を満足させてやれるのは自分しかいない、と思うようになるんです。それと、憧れの人間から逆に羨望の眼差しで見られる快感を知っちまったらしい。もちろん、番頭は大人ですからしつこく止めたんですが、逆に脅しをかけられる始末で、仕方なく二回目もつきあっちまったらしい」
「そういうわけか」
「へえ。ただ二回目はこの前のようにはいかねえんで、舟の脇に棒を付けてそこに掴まって泳ぐだけにしたらしいんだが、そこに長谷川様のご登場となったわけで」
「種子島を撃たれて慌てた娘はその棒から手を離し、溺れたってわけか」
「しかし、二匹目の河童については、全く知らねえってことで」
「今となっては、あれが本当の河童だったのか、そうじゃなかったのか、突き止める手だてもねえがな」
貞一は、天井を見上げた。
しかし、風評を大事にする平蔵にとって不名誉であることには変わりなかった。
この件を詮議することは、とりもなおさず自らの失態を言いふらすようなものだ。
火付け盗賊改めは、表だっては動かなかった。その代わりやり手の差口奉公(岡っ引き)を使って事件の全容は明らかにした。与力からの報告を聞いて、
「うぬ、やはり風紀の乱れは歌舞伎からか。いつか見ておれ」
平蔵は歯ぎしりをした。
数日後の朝。
貞一は、腫れぼったい目をしながら落ち着かない様子であぐらをかいていた。
神田お玉が池の岩徳の家。
岩徳は正業として楊枝職人をしており、その腕は確かなものであった。
職人らしく、立派な神棚があり、広くはない床はピカピカに磨き上げられていた。
そんな整然とした雰囲気が貞一は、得意でなかったのである。
「おい、お初、めしはまだか」
岩徳が大声を上げると、
「お屋敷じゃあるまいし、小さな声でもよく聞こえますよ」
そういって、奥の部屋から娘のお初が銘々盆を持って、姿を現した。
数えにして一七、親分の娘らしく口調は、はきはきはしているが、表情は初々しい。
年は十以上違うのに、貞一はこのお初を見ると、妙に落ち着かなくなる。
「重田さま、お口に合うかどうか、わかりませんが」
そう言って置かれた盆には、鯵の煮浸し、胡瓜とシラスの酢の物、漬け物、浅蜊の澄まし汁とご飯が乗っていた。
「これは朝から豪勢だ」
そう言いながら、
(せっかちな岩徳を相手によく短い時間でここまでできるものだ)
貞一は、感心した。
「兄貴、一本つけるかね」
「えっ」
岩徳の誘いに、喉から手が出そうであったが、昼から番所に行かなくてはならなかったのを思い出して、とどまった。
「ところで、兄貴、この前の件ですがね、佐々木様にご報告する前に、ちょいと兄貴にもお耳に入れて置こうと思いまして」
「河童か。やはり蛇の道はなんとやら。早耳だな」
貞一は鯵に手を出しながら、答えた。
「恐れ入りやす。この前の番頭風の男は日本橋で呉服商を営んでいる『伊勢屋』の番頭でごぜいやした」
「『伊勢屋』というのは聞いたことがある。なかなかの流行っている店らしいな」
「へえ、手広く商いをしておりやす。それで、先の河童の正体ですが」
「『伊勢屋』の娘、ではないか。その娘は年頃で、小柄だ」
貞一が口をはさんだ。
「兄貴、何でそれを」
岩徳が大きな目をさらにぎょろりとさせた。
「勘だ。あの日、番頭が『お嬢様』と叫んだじゃねえか。わっちはそれをきいて、それまでもやもやしていたものがさっと引っ込んだような気がした。その娘は三代目が大の贔屓だ」
「その通りです」
「娘は、どこかで三代目が河童好きだと聞いて、何とかその夢を叶えてやろうとした」
「それで、この企みを思いついたわけです」
「河童の種明かしは聞いたのか」
「そこまでは、まだ」
何事も行動の早い岩徳は既に朝餉を食べ終わっている。
「これもわっちの勘でしかねえが、最初の時、娘は瓦版屋が持ってきた桶の中に入っていたにちげえねえ。可哀想な瓦版屋は何も知らされちゃいなかったのかも知れねえ。大量の魚は娘の重さを分からなくするために必要だった」
「でも、あの時は中をのぞき込んで見た者もいますぜ」
「鏡を使えば造作ねえ。あの桶はそのためにも四角だった。鏡をだな、こうして右上から左下に斜めに入れる。すると、上から覗いただけじゃ、魚しか見えねえ。娘は鏡と桶の隙間に隠れていた。下半分には外に出られるような潜り戸のようなものが作ってあったはずだ」
貞一は、お椀に箸を斜めに差し込んで図示した。
「それじゃ、兄貴が前に言ってたように、あの河童は水しぶきも上げねえで泳いで行った。これはどうなんです?」
「これはもっと単純だ。舟に乗っていた番頭が紐で引っ張ったんだ。その紐の一端は桶が置かれた岸あたりに、反対側は川のどこかに杭か何かに結わえ付けてあったんだ。船頭が騒いでいる最中に、娘は仕掛けから表に出て岸側の紐を手にした。舟では番頭が紐を杭から外して、滑車のようなもので舟の方へ娘を引っ張ったんだ。その証拠に船頭が騒いだ後は番頭は屋形船の障子の中だったそうじゃねえか。そして、娘は舟の反対側にでも掴まってそのまま人目につかないところまで行った・・・」
そう言いながら、貞一は箸を止めた。
「分からねえのは、それで大成功だったはずなのに、なぜ危険を冒してまで二回目に登場したかだ」
「八百屋お七でさぁ」
岩徳は、湯飲みを手にして、にやっと笑った。
「えっ」
貞一は、岩徳の言った意味が分からなかった。
「娘の執念は江戸の町に大火さえ起こしやす。娘も一度は騒ぎを起こして満足するんですが、河童を見損なって残念がっている路考の風評を聞くと、路考を満足させてやれるのは自分しかいない、と思うようになるんです。それと、憧れの人間から逆に羨望の眼差しで見られる快感を知っちまったらしい。もちろん、番頭は大人ですからしつこく止めたんですが、逆に脅しをかけられる始末で、仕方なく二回目もつきあっちまったらしい」
「そういうわけか」
「へえ。ただ二回目はこの前のようにはいかねえんで、舟の脇に棒を付けてそこに掴まって泳ぐだけにしたらしいんだが、そこに長谷川様のご登場となったわけで」
「種子島を撃たれて慌てた娘はその棒から手を離し、溺れたってわけか」
「しかし、二匹目の河童については、全く知らねえってことで」
「今となっては、あれが本当の河童だったのか、そうじゃなかったのか、突き止める手だてもねえがな」
貞一は、天井を見上げた。