問い:江戸時代、犬山城を治めるのは大名の成瀬氏であった。ウソ? 本当? 答えは、文末に。
別名白帝城は、2004年まで日本で唯一、個人所有の城として有名であった。元和2年(1618年)に初代成瀬正成が犬山城に入って以来、成瀬氏は、代々城主を勤めていたが、明治4年の廃藩置県により、犬山城を政府に没収される。しかし、濃尾地震により犬山城が損傷を受けるにあたり、修復を条件に、再び成瀬氏のものとなったのである。
それはさておき、犬山藩という藩が江戸時代にあったかというと、答えは否である。犬山藩は、明治2年に認められ、成瀬氏は大名としての扱いを受けるようになったが、その成立は明治期なのである。
それまで、成瀬家3万5千石はというと、尾張藩付家老という身分にあった。
付家老(御付家老・附家老)というのは、あまり一般に馴染みがない名称である。
付家老は、御三家の成立とも深く関わってくる。家康が執政を補佐するといった役割で、後に御三家と呼ばれる尾張、紀伊、水戸に、家康の考えを深く理解している実力者を「付けた」ので、「付けられた」者たちを付家老(つけかろう)と呼んだ。付家老は、藩主がおかしな振る舞いや反乱の意図がないかなどをを監督する目付的な役割も担っていた。御三家設立当初は、まだ徳川幕府も盤石ではなかったのである。
付家老は、藩主の部下であると同時に、幕臣でもあるという二面性を持ち合わせていた。
「付家老」の「付」は、家康が名古屋・水戸・和歌山に封じた三人の子の補佐役として家康腹心の家臣であった五家を「付」けたということであって、以後の五家はこの由緒によって将軍に直属する大名と同格の待遇を与えられた。他方で「付家老」の「家老」とは、三家のそれぞれで執政の最高責任者に任じられていたという意味である。しかし家老職以上の権限を付与されていたと見られるふしもあって、「筆頭家老」などと言われる場合もあり、「付家老」の「家老」は、厳密に家老職を指していたわけではない。
このように「付家老」は、一方では将軍に直属しており、他方では御三家の家臣でもあるという、二君に仕える特別な存在であったという点が最も大きな特徴なのである。 「付家老展資料より」
上記の資料では、多分混乱を廃するため、付家老を五家と言っているが、正確には、付家老制定当初は、尾張家が成瀬家、竹越家、平岩家、紀州家が水野家、安藤家、水戸家が中山家、水野家の七家であった。制定後まもなく、尾張の平岩家、水戸の水野家が付家老から外れるので、普通は五家と呼ぶ場合が多い。
代を重ねるにともなって、初代の使命感は薄れ、他の家臣と比べて石高・家柄共に群を抜いた存在であるがゆえに、藩内で独自の地位を占めるようになる。とりわけ幕府の家格が整えられてくると、当初は曖昧であった直臣と陪臣の差が明確となる。五家は幕府の制度上では陪臣であり、尾張・紀伊・水戸徳川家の家臣に過ぎないのである。 「徳川御三家付家老の研究」
もともと、付家老を任ぜられたのは、譜代大名として十分独立できるほどの家格であった。付家老となると、御三家の家臣となってしまうため、付家老制定時に、付家老になることを固持する家もあった。
付家老は、その後、密に連絡を取り合い、自分たちの地位向上を画策していく。
一例を挙げると、江戸城での「席」収得である。
大名が江戸城へ登城したとき、どの部屋が詰所になっているかによって家の「格」が明確にされていた。その点、付家老は万石以上の石高を誇りながらも、江戸城に於いては「無席」というひどい扱いを受けていたのである。
付家老家は、江戸城においての「席」を求めたが、得られることはなかった。
また、付家老は、何度も大名としての独立を願い出ている。江戸時代後期、尾張藩におけるごたごたは、付家老の独立志向に影響された部分が大きい。それでも、付家老がようやく大名として独立できたのは、明治になってからであった。
答え:×(成瀬家が大名となるのは明治になってからである)
城のしおり 全国城郭管理者協議会
「徳川御三家付家老の研究」 小山譽雄 清文堂出版
付家老展(2005年) 犬山城白帝文庫
国郡全国大名武鑑 人文社
「大名の日本地図」中嶋繁雄 文春新書
犬山城HP
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犬山城
別名白帝城は、2004年まで日本で唯一、個人所有の城として有名であった。元和2年(1618年)に初代成瀬正成が犬山城に入って以来、成瀬氏は、代々城主を勤めていたが、明治4年の廃藩置県により、犬山城を政府に没収される。しかし、濃尾地震により犬山城が損傷を受けるにあたり、修復を条件に、再び成瀬氏のものとなったのである。
それはさておき、犬山藩という藩が江戸時代にあったかというと、答えは否である。犬山藩は、明治2年に認められ、成瀬氏は大名としての扱いを受けるようになったが、その成立は明治期なのである。
それまで、成瀬家3万5千石はというと、尾張藩付家老という身分にあった。
付家老(御付家老・附家老)というのは、あまり一般に馴染みがない名称である。
付家老は、御三家の成立とも深く関わってくる。家康が執政を補佐するといった役割で、後に御三家と呼ばれる尾張、紀伊、水戸に、家康の考えを深く理解している実力者を「付けた」ので、「付けられた」者たちを付家老(つけかろう)と呼んだ。付家老は、藩主がおかしな振る舞いや反乱の意図がないかなどをを監督する目付的な役割も担っていた。御三家設立当初は、まだ徳川幕府も盤石ではなかったのである。
付家老は、藩主の部下であると同時に、幕臣でもあるという二面性を持ち合わせていた。
「付家老」の「付」は、家康が名古屋・水戸・和歌山に封じた三人の子の補佐役として家康腹心の家臣であった五家を「付」けたということであって、以後の五家はこの由緒によって将軍に直属する大名と同格の待遇を与えられた。他方で「付家老」の「家老」とは、三家のそれぞれで執政の最高責任者に任じられていたという意味である。しかし家老職以上の権限を付与されていたと見られるふしもあって、「筆頭家老」などと言われる場合もあり、「付家老」の「家老」は、厳密に家老職を指していたわけではない。
このように「付家老」は、一方では将軍に直属しており、他方では御三家の家臣でもあるという、二君に仕える特別な存在であったという点が最も大きな特徴なのである。 「付家老展資料より」
上記の資料では、多分混乱を廃するため、付家老を五家と言っているが、正確には、付家老制定当初は、尾張家が成瀬家、竹越家、平岩家、紀州家が水野家、安藤家、水戸家が中山家、水野家の七家であった。制定後まもなく、尾張の平岩家、水戸の水野家が付家老から外れるので、普通は五家と呼ぶ場合が多い。
代を重ねるにともなって、初代の使命感は薄れ、他の家臣と比べて石高・家柄共に群を抜いた存在であるがゆえに、藩内で独自の地位を占めるようになる。とりわけ幕府の家格が整えられてくると、当初は曖昧であった直臣と陪臣の差が明確となる。五家は幕府の制度上では陪臣であり、尾張・紀伊・水戸徳川家の家臣に過ぎないのである。 「徳川御三家付家老の研究」
もともと、付家老を任ぜられたのは、譜代大名として十分独立できるほどの家格であった。付家老となると、御三家の家臣となってしまうため、付家老制定時に、付家老になることを固持する家もあった。
付家老は、その後、密に連絡を取り合い、自分たちの地位向上を画策していく。
一例を挙げると、江戸城での「席」収得である。
大名が江戸城へ登城したとき、どの部屋が詰所になっているかによって家の「格」が明確にされていた。その点、付家老は万石以上の石高を誇りながらも、江戸城に於いては「無席」というひどい扱いを受けていたのである。
付家老家は、江戸城においての「席」を求めたが、得られることはなかった。
また、付家老は、何度も大名としての独立を願い出ている。江戸時代後期、尾張藩におけるごたごたは、付家老の独立志向に影響された部分が大きい。それでも、付家老がようやく大名として独立できたのは、明治になってからであった。
答え:×(成瀬家が大名となるのは明治になってからである)
城のしおり 全国城郭管理者協議会
「徳川御三家付家老の研究」 小山譽雄 清文堂出版
付家老展(2005年) 犬山城白帝文庫
国郡全国大名武鑑 人文社
「大名の日本地図」中嶋繁雄 文春新書
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