問い:上の写真は、水戸に伝わる由緒正しき鐘である。ウソ? 本当? 答えは、文末に。
1840年からイギリスと清国の間で争われていた戦争は、1842年にイギリスの一方的な勝利で終結した。
阿片戦争と呼ばれるこの戦争においての清国の敗退は、日本の首脳陣にも大きな衝撃を与えた。
時に、天保十三年。折しも、昨年から老中水野忠邦が御改革の旗を揚げたころである。
去る天保七年(1837年)には、浦賀と薩摩にアメリカの商船、モリソン号が立ち寄ろうとしたこともあり、海の向こうの勢力図には、幕府も敏感になっていた。
幕府は、これまでの異国船打払令を緩和し、燃料や食糧の供給を認める。その一方で、軍備力の強化を図ろうとするが、基盤となる日本の火力はひどく劣ったものであった。
徳川幕府が意図的に地位を低めたのであるが、砲術は足軽など身分の低い者が扱うものであるとされ、技術革新も抑制されていた。
ここで俄然と張り切ったのが水戸家徳川斉昭である。
水戸家は、元来朝廷を信奉している。夷狄に対する反感も並々ならぬものがあった。
斉昭は、私財をなげうってまで、大筒(大砲)の製造に情熱を傾けた。
天保七年四月には、幕府の許可を得て、海防のために助川城という防衛拠点まで築城している。
その意気込みとしては、なかなかのものがあるが、肝心の大砲はと言うと……。
冒頭に写真を示したのが、斉昭自ら筆で「大極」の二文字をしたためた大砲である。
弾が飛び出すかどうかも不安な代物。寺の鐘としか見えない。
これでも、ノウハウのないなか、鋳物師は命がけで製造したのである。
このようなもので、海外の火力と戦おうとしていたのであるから、無謀としか思えない。
答え:× (写真は大極砲と呼ばれる大砲)
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