駿河湾からほど遠くない地に相良資料館が建つ。
遠州相良は、かつて田沼意次が領主を務めた土地で、この資料館が建っているのは、相良城の本丸があった場所である。
私の中では、田沼意次というと、いまも田沼町という地名が残る栃木のイメージが強いが、実は静岡のほうが所縁が深い。
意次と忠臣蔵の主要人物、大石内蔵助、吉良上野介には共通点がある。
それは、三人とも製塩業に力を入れていたことである。
赤穂の塩は現在も有名だが、相良や吉良の塩は今は聞かなくなった。
上野介は赤穂の塩に妬みがあった、という説もあるが、赤穂の塩はそれだけ優秀だったのであろうか。
意次は遺言として家訓を残している。
七条から成り、徳川に対する忠誠や、文武の奨励、孝行を行うことなどを説いているが、別枠として書き記している七条は意次の真骨頂である。
勝手元不如意で、貯えなきは、一朝事ある時役に立たない。御軍用にさしつかえ武道を失い、領地頂戴の身の不面目これに過ぎるものはない。
意次に対する悪評は松平定信が悪意を持って流布したというのが現在の定説ではあるが、意次はこのように商人的な考え方を持つ、当時としては異色の武士だったことには変わりがない。
大奥が騒ぐような色男だったとか、誰彼となく気さくに声を掛けたなどという話も伝わっているが真偽はよく分からない。
ただ、田沼の血筋は優秀だったのは紛れもない事実で、定信が執念かけて排斥しようとした田沼家はお家断絶になることもなく、一度は奥州に追いやられたものの、後には相良に復帰している。
そして、幕末には田沼意尊(おきたか)が若年寄まで進んでいる。
この意尊は、天狗党の乱制圧の指揮官であるが、天狗党員をニシン倉に詰め込み、幕末史最大とも言える斬殺を指示した人間である。
だが、政治能力には長けていて、上総小久保藩に転封後も藩知事となり、さらに、女婿である望(のぞみ)は、明治天皇の侍従を務め、貴族院議員となっている。
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遠州相良は、かつて田沼意次が領主を務めた土地で、この資料館が建っているのは、相良城の本丸があった場所である。
私の中では、田沼意次というと、いまも田沼町という地名が残る栃木のイメージが強いが、実は静岡のほうが所縁が深い。
意次と忠臣蔵の主要人物、大石内蔵助、吉良上野介には共通点がある。
それは、三人とも製塩業に力を入れていたことである。
赤穂の塩は現在も有名だが、相良や吉良の塩は今は聞かなくなった。
上野介は赤穂の塩に妬みがあった、という説もあるが、赤穂の塩はそれだけ優秀だったのであろうか。
意次は遺言として家訓を残している。
七条から成り、徳川に対する忠誠や、文武の奨励、孝行を行うことなどを説いているが、別枠として書き記している七条は意次の真骨頂である。
勝手元不如意で、貯えなきは、一朝事ある時役に立たない。御軍用にさしつかえ武道を失い、領地頂戴の身の不面目これに過ぎるものはない。
意次に対する悪評は松平定信が悪意を持って流布したというのが現在の定説ではあるが、意次はこのように商人的な考え方を持つ、当時としては異色の武士だったことには変わりがない。
大奥が騒ぐような色男だったとか、誰彼となく気さくに声を掛けたなどという話も伝わっているが真偽はよく分からない。
ただ、田沼の血筋は優秀だったのは紛れもない事実で、定信が執念かけて排斥しようとした田沼家はお家断絶になることもなく、一度は奥州に追いやられたものの、後には相良に復帰している。
そして、幕末には田沼意尊(おきたか)が若年寄まで進んでいる。
この意尊は、天狗党の乱制圧の指揮官であるが、天狗党員をニシン倉に詰め込み、幕末史最大とも言える斬殺を指示した人間である。
だが、政治能力には長けていて、上総小久保藩に転封後も藩知事となり、さらに、女婿である望(のぞみ)は、明治天皇の侍従を務め、貴族院議員となっている。
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