木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

天誅組隊士のその後

2014年03月17日 | 江戸の幕末
天誅組の変,文久三年(1863年).
尊王攘夷の魁として位置づけられる政変である。
主将に公家・中山忠光。
総裁に岡山の藤本鉄石、土佐の吉本寅太郎、刈谷の松本奎堂。
総勢は38人。

それまで別々であった攘夷思想を尊王思想に結び付け、決起した点は評価できるが、具体的なプランに欠けていた。
直後に起こった8月18日の変で、禁裏から攘夷派の公卿と長州家が一掃されてしまうと、世の情勢は公武合体一色となる。
この時点で、攘夷行動と尊王討幕は再び切り離されて考えられるようになる。
世の中の情勢が自分たちに不利なように動いても潔く退けないところが若さである。
若い天誅組員も、振り上げた拳を下すことができず、猪突猛進していくことになる。

結果として、38人の中で生き延びたのは4人。
「広報ひがしよしの」に4人のその後の消息が書かれている。
非常に興味深いので、抜粋してみる。

平岡鳩平・・・・・天保四年、法隆寺村出身。明治以降、北畠治房(はるふさ)と改名。天誅組当時、追討軍探索隊として先行するが、そのまま逃亡。明治五年、江藤新平に認められ司法省に入局。横浜開港裁判官、京都裁判所所長、東京裁判所所長、横浜裁判所所長、大審院判事などを歴任。奈良県が大阪府から分かれて誕生する際に尽力。明治二十九年、男爵。大正十年死去。享年89歳。

伊吹周吉・・・・・天保十年、高知県安田町出身。後に、石田英吉と改名。天誅組の変以降、長州に走り、翌年の禁門の変にも出征。その後、坂本龍馬の海援隊にも参加。明治になると、長崎県大参事、秋田県県令、長崎県令、千葉県知事、高知県知事を歴任し、第一次伊藤博文内閣で農商務次官。そのご、貴族院勅撰議員。明治二十九年男爵。明治三十四年死去。享年62歳。

水郡(にごり)長義・・嘉永五年、富田林出身。天誅組には、父親である小荷駄奉行・水郡善之状祐とともに従軍。当時、13歳。維新後はアメリカに留学。帰国後、大阪、和歌山、姫路などの地方裁判所の検事を歴任。明治四十三年、死去。享年59歳。

伊藤三弥・・・・・・天保七年、刈谷出身。後に伊藤謙吉と改名。天誅組には、同郷の松本奎堂、宍戸弥四郎と共に参加。岩倉具美に親書を届けると言って戦線離脱。明治になると、佐賀、徳島の始審裁判長を歴任。三重県大書記官を経て、衆議院議員。高知県寒川鉱山を経営、東京歌舞伎座社長、東京株式取引所理事を務める。大正六年死去、享年82歳。

抜粋にならないくらい、輝かしい歴々の面々である。

吉村寅太郎ら天誅組の隊士の一部は、明治十六年になって靖国神社に合祀され、明治二十四年には贈位が行われた。
松本奎堂や宍戸弥太郎は生誕の地である刈谷や、戦死した場所には石碑が建てられた。

だが、生き残った者の活躍をみると、死んだ者のために建てられた石碑がなんぼのもんじゃい、と思われてくる。
幕末を見ると、非常に優秀な人物も呆気なく死んでいる。
坂本龍馬しかり、清水港の咸臨丸上で斬り殺された春山兄弟。
呆気なくはないが、五稜郭で戦死した中島三郎助、自決した川路聖漠謨、長岡の河合継之助。
明治以降に生き延びていれば、間違いなく活躍した人物である。
その一方で、榎本武揚のように、死のうとしても死ななかった強運の人もいる。
改めて運の不思議さを感じる。
それにしても、生き残った者が勝ちなんだなあ、と改めて思った。


刈谷市にある松本奎堂石碑

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