木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

薩摩藩士、強さの秘密

2009年07月13日 | 江戸の幕末
上野の森で彰義隊が壊滅した後、薩摩藩士は死体の太股の肉を抉って食した、とどこかの本で読んだ記憶がある。
どこで読んだのか定かでなく、真偽のほども怪しいのであるが、あり得ない話ではないと思った。事実だとすると、薩摩藩士は、肝試しの一環として行っていたのであろう。
徳川泰平三百年の間に士風は廃れ、武士は弱体化したのに、薩摩藩士のみが闘争本能を全開にした勇者、蛮者の群れだったのであろうか。

司馬遼太郎の小説に、薩摩藩士の肝試しの場面が出てくる。
天井から紐で結んだ火縄銃を吊るし、車座になって酒を飲む。吊された火縄銃はゆっくりと回転している。いつ暴発してもおかしくない状況で平然と酒を飲めなければ、一人前の薩摩藩士とは認められなかったという。
精神を鍛えるという意味のほかに、団結心を強める効果を狙った肝試しだと思う。
団結心が強まると、人は、独りでは考えもしなかったような行動に出る時がある。集団心理である。

一方の幕府軍はどうであろうか。
渋沢清一郎の後任として彰義隊の頭取となった天野八郎が、官軍と一戦を交えている時に部下を背後に従えて、黒口門に駆け上がった。「俺についてこい」と勇ましく叫んで走っていったのはいいが、敵弾の飛び交う黒口門まで行って後ろを振り向くと、ついてくる者は誰もいなかった、というエピソードがある。

幕府軍では、負けそうになると我先に逃げ出すという集団心理が働いたのに対し、薩長ではたとえ敗色が濃くても一歩も引いてはならないという集団心理が働いた。
戊辰戦争における勝敗の差は、作戦の是非や火力の差などといわれるが、発生した集団心理の違いも勝敗に大きく影響を及ぼしたのではないだろうか。

薩摩藩士が彰義隊士の人肉を食したというのもひどい話であるが、薩長藩士は会津藩の領民には、もっとひどい仕打ちを行っている。

官軍という名の薩長兵は婦女子を捕らえて裸踊りを強要し、抵抗する者があれば情け容赦なく、一刀のもとに斬り殺した。
(中略)男女老幼区別なく、殺し、強姦を重ね、藩内の妻や娘らを陣所や宿舎などに捕らえて来て、侍妾とするものもいたので会津藩士はおおいに憤慨した。


正義や忠義心を口にする前に、人としての道はどこへ行ってしまったのだろう。
この時、暴行を行った薩長藩士の中にも、年頃の子供を持つ親もいただろうし、老いた親を持つ者もいたであろう。
それが、会津藩の領民というだけで、強姦したり、虐殺してしまうのは、一対一の人間同士ではなし得ない行為である。
その時、働いているのも集団心理だ。
虐殺や強姦に反対などしようものなら、自分自身まで殺されかねないという状況もあったのだろう。
だからといって、許される行為ではない。だが、戦という名の下に、罪は問われることはない。普段だったら殺人であり、略奪であっても、戦争時には、正当な行為と見なされる。
このような行為を非難する前に、戦争そのものを非難しなければならないのだ。
幕末は江戸無血開城が行われるなど、流血の痛みなしに成し得た革命だという説があるが、決して無血革命などではない。明治維新といえども、失われなくてもよい沢山の血の上に成り立ったものであるという事実を忘れてはならないと思う。


幕末・維新の群像(4)~悲劇の戊申戦争 小学館

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