木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

上水

2006年05月26日 | 江戸の話
今では蛇口をひねると、簡単に水が出る。あまりにも当たり前な話だが、ひと昔前までは水を汲むというのは面倒な作業だった。特に江戸中期(享保以降)になって井戸の掘削技術が進むまでは、海が近く水質の悪かった江戸では、水の手配には相当苦労した。
水道、という言葉も歴史は古く、この頃は文字通り水の道であった。
飲料水には、上水という言葉が当てられ、全盛期には江戸には六つの上水があった。
神田上水(?~明治) 水源・井の頭池 小川町、神田、柳原、両国、大手前、神田橋、鍛冶橋、京橋川、小網町
玉川上水(承応二年~明治) 水源・多摩川 四谷、麹町、赤坂、愛宕、金杉橋、桜田門、虎ノ門、数寄屋橋、八丁堀、築地 
亀有上水(万治二年~享保七年) 水源・元荒川(越谷) 本所、深川
青山上水(万治三年~享保七年) 水源・玉川上水分水 青山、三田、芝、白金
三田上水(寛文四年~享保七年) 水源・玉川上水分水 同上
千川上水(元禄九年~享保七年) 水源・玉川上水分水 小石川御殿、湯島聖堂、東叡山、浅草御殿の給水が目的だが、神田上水が給水できなかった本郷、湯島、外神田、下谷、浅草などへ給水
上水は最初、江戸城への水路確保の意味で着手され、それが町方にも供給されるようになった。
玉川上水が承応二年(1653年)であり、最も遅い千川上水が約40年遅れの元禄九年であるが、前述の通り井戸の掘削技術の進歩とともに上水は井戸水へと代わっていく。
上水廃止後は用水になったり、舟路になったりした。
千川上水は享保七年に一旦廃止後、天明元年に再開、わずか五年後の天明六年に廃止になるのであるが、水路が具体的にどのような流れだったのか詳細に見てみるのも面白い。千川上水は、保谷で玉川上水を分かれ、巣鴨から江戸に入り、最初に小石川御殿に入る。ついで、板橋から、王子、本郷、湯島と南下。湯島天神あたりを通りながら、上野広小路、浅草、蔵前という水道路を形成していた。上水廃止後は、明治期以降も用水として使われていたので、今も一部は暗渠としてその足跡を残している。
また、玉川上水は今も昔の面影を残していて、興味深い。

江戸上水道の歴史 伊藤吉一 吉川弘文館
東京都水道歴史館 http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/pp/rekisi/index.html

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4 コメント

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Unknown (☆イブ☆)
2006-05-26 17:45:10
こんにちは♪
リンク貼らせてもらいました☆
さっそく、「上水」読ませて頂きました☆
毎回、楽しみです☆
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Unknown (DAAW)
2006-05-26 22:58:09
キム兄さん、歴史ものに絞ってのブログ、かっこいいですネ♪どうやったらこんなに博識になれるのか、うらやましいばかりです。読んでいて勉強にもなり、教養にもなり、嬉しい限りです。また来ます。
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Unknown (☆イブ☆)
2006-05-30 22:13:39
素敵なコメントありがとうございます☆
tadyさん、私も占い大好き人間です♪
今、「江原さんのスピリチュアル」の本を読んでいますが、何だか、怖くなってきております(笑)
また、来ます☆
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Unknown (乙女?)
2006-12-03 22:50:19
?こんばんは?

明日?水道歴史館?へ見学に行く為検索してましたらこの記事?が?されてたので参考になりました。

水の集まる場所と言う意味を持つ?江戸時代頃から㍾にかけて発達した上水の歴史とその時代背景が浮かんで来ました。
本当に興味深い記事?でしたよ?

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