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ふたたび、みどりとの関係は安定され良好なものになっていく。もちろん、大幅に下向をしていくというふうなことはなかったが、ぼくの気の多さをとがめるようなこともなかった。彼女は空いている時間があると、友人に最近、赤ちゃんができたとのことで、そちらに行くことも多かった。自分は、その当時は、家庭的なことに一切興味が涌かなかった。それで、その家に何度か誘われたこともあるが、三回に二回は断ってしまう。
それでも、写してきた写真をみれば、それなりに可愛いものだとは思う。思うが、自分の家に、その存在がいることは、理解できなかった。それよりも、その年齢としては当然のことかもしれないが、仕事で成果をあげることを最前に考えていた。
徐々に紙面で自分が関わることも増えていった。圧倒的な正解がないことにより、よりこちらの方がよさそう、よりこうすれば良くなると思案すると、時間はいくらあっても足りなかった。みどりも違う会社で、同じようなことをしているはずだから必然的に、お互いが提出しあう時間は、少ないものになっていく。
それでも、お互いの性格を理解し始めるという段階ではないので、直ぐに関係が薄らいでしまうということはないかもしれないが、長期的に考えれば、隙間の予感のようなものが訪れるかもしれない。しかし、若さという結果を心配しないものは、いまが上手くいっていれば、このまま継続するものだ、という浅はかな考えに包まれるものだろう。
だが、彼女に合わせることもした。自分でもその頃は、休日の一部にもなっていたが、一緒にサッカーを観戦した。彼女は、横にいるぼくのことを忘れてしまうほど、熱狂した。その熱狂の気持ちは、客観的な視線につながるのかは理解できなかった。しかし、そのような熱中のモーターがなければ、みどりの仕事の維持は難しかったのだろう。
会っていないときには、どこかにみどりの存在を意識していることがある。それで、目の前に表れると安心して、かえって話さなくなることもあった。それは、もう劇的な変化を通過する時期でもないので、仕方のないことかもしれないが、女性にとっては不満の残ることもあるだろう。彼女は、ぼくの言葉数がすくないと言った。
「それは、いまはじまったことじゃないのは、知っているだろう?」と返答するしかなかった。女性は、急に改善要求を突き付けることがある。自分としては、なりたくてなったわけでもない自分の性格を、変えろといわれても、どうすることもできなかった。生まれてくる前に、母親の胎内にいる少年にプログラミングしてほしいところだ。
と、いいつつも普段は不満など、お互いにもっていなかった。ぼくにとっては、身体に馴染んでしまったようなジーンズを新品ととりかえる必要も感じていなかったし、多分、みどりも同様なことを考えていただろう。
雑誌社が突然、いそがしくなる時がある。
ある男性の歌手が死んだ。若い気持ちをとりこにしたその歌手は、その若さの代表の潜在的な気持ちに足元をすくわれるように自分の命をおとした。自分としては、同世代だが、共感したことはなかった。それでも、学生時代のまわりの友人たちはよく聴いていた。そのことで利益を得たのであれば、その代償もとうぜん支払わなければならない、とその時の自分は考える。だが、彼の歌を別の人がうたうのを聴けば、やはり魅力があるものだと感じる。
20代半ばで亡くなる人がいる反面、まだ、ほとんどの人は、なにひとつ成し遂げていないだろう。そのことでは大変、立派でもある。しかし、時間の経過と淘汰がなければ、なにも結論付けてはいけないと、いまの自分は考えたりもする。
そして、その時期の自分はなにひとつ成し遂げていなかった。いくつかの人間関係ができあがり、それを維持したり、別のものとつないだりして、ものになる何かを探していた。
みどりの部屋のラジオから追悼番組と称して、その永遠に若さをとどめた歌手の切なげな歌が流れていた。ぼくは、テーブルに座りながら、意識もせずに聴いていた。彼女は茹でたスパゲティを手にして、そのラジオからの音楽を一緒に口ずさみながら、テーブルに近づいた。なかなか会えなかった日々を埋めようと、彼女は優しさを全面にだした日だった。冷えたスパークリング・ワインを開け、グラスに注いだ。その歌を聴くと、自然にその日の情景がうかんでくるようになった。
ふたたび、みどりとの関係は安定され良好なものになっていく。もちろん、大幅に下向をしていくというふうなことはなかったが、ぼくの気の多さをとがめるようなこともなかった。彼女は空いている時間があると、友人に最近、赤ちゃんができたとのことで、そちらに行くことも多かった。自分は、その当時は、家庭的なことに一切興味が涌かなかった。それで、その家に何度か誘われたこともあるが、三回に二回は断ってしまう。
それでも、写してきた写真をみれば、それなりに可愛いものだとは思う。思うが、自分の家に、その存在がいることは、理解できなかった。それよりも、その年齢としては当然のことかもしれないが、仕事で成果をあげることを最前に考えていた。
徐々に紙面で自分が関わることも増えていった。圧倒的な正解がないことにより、よりこちらの方がよさそう、よりこうすれば良くなると思案すると、時間はいくらあっても足りなかった。みどりも違う会社で、同じようなことをしているはずだから必然的に、お互いが提出しあう時間は、少ないものになっていく。
それでも、お互いの性格を理解し始めるという段階ではないので、直ぐに関係が薄らいでしまうということはないかもしれないが、長期的に考えれば、隙間の予感のようなものが訪れるかもしれない。しかし、若さという結果を心配しないものは、いまが上手くいっていれば、このまま継続するものだ、という浅はかな考えに包まれるものだろう。
だが、彼女に合わせることもした。自分でもその頃は、休日の一部にもなっていたが、一緒にサッカーを観戦した。彼女は、横にいるぼくのことを忘れてしまうほど、熱狂した。その熱狂の気持ちは、客観的な視線につながるのかは理解できなかった。しかし、そのような熱中のモーターがなければ、みどりの仕事の維持は難しかったのだろう。
会っていないときには、どこかにみどりの存在を意識していることがある。それで、目の前に表れると安心して、かえって話さなくなることもあった。それは、もう劇的な変化を通過する時期でもないので、仕方のないことかもしれないが、女性にとっては不満の残ることもあるだろう。彼女は、ぼくの言葉数がすくないと言った。
「それは、いまはじまったことじゃないのは、知っているだろう?」と返答するしかなかった。女性は、急に改善要求を突き付けることがある。自分としては、なりたくてなったわけでもない自分の性格を、変えろといわれても、どうすることもできなかった。生まれてくる前に、母親の胎内にいる少年にプログラミングしてほしいところだ。
と、いいつつも普段は不満など、お互いにもっていなかった。ぼくにとっては、身体に馴染んでしまったようなジーンズを新品ととりかえる必要も感じていなかったし、多分、みどりも同様なことを考えていただろう。
雑誌社が突然、いそがしくなる時がある。
ある男性の歌手が死んだ。若い気持ちをとりこにしたその歌手は、その若さの代表の潜在的な気持ちに足元をすくわれるように自分の命をおとした。自分としては、同世代だが、共感したことはなかった。それでも、学生時代のまわりの友人たちはよく聴いていた。そのことで利益を得たのであれば、その代償もとうぜん支払わなければならない、とその時の自分は考える。だが、彼の歌を別の人がうたうのを聴けば、やはり魅力があるものだと感じる。
20代半ばで亡くなる人がいる反面、まだ、ほとんどの人は、なにひとつ成し遂げていないだろう。そのことでは大変、立派でもある。しかし、時間の経過と淘汰がなければ、なにも結論付けてはいけないと、いまの自分は考えたりもする。
そして、その時期の自分はなにひとつ成し遂げていなかった。いくつかの人間関係ができあがり、それを維持したり、別のものとつないだりして、ものになる何かを探していた。
みどりの部屋のラジオから追悼番組と称して、その永遠に若さをとどめた歌手の切なげな歌が流れていた。ぼくは、テーブルに座りながら、意識もせずに聴いていた。彼女は茹でたスパゲティを手にして、そのラジオからの音楽を一緒に口ずさみながら、テーブルに近づいた。なかなか会えなかった日々を埋めようと、彼女は優しさを全面にだした日だった。冷えたスパークリング・ワインを開け、グラスに注いだ。その歌を聴くと、自然にその日の情景がうかんでくるようになった。