爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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壊れゆくブレイン(68)

2012年05月31日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(68)

 広美は自分の将来の方向を決めかねている。まだ10代の半ばの女性に完全なる答えを求めるのは酷かもしれなかった。自由と干渉の狭間に子どもはいる。ぼくと雪代は自由の多いほうに広美を置いた。それが彼女にとって幸福であるのか不幸であるのかぼくらには分からなかった。選択の幅が広ければ可能性も深まっていくように思えたが、その数え切れない選択が方向性を見誤せるのかもしれない。

 ぼくらはただの一直線の道を進んでいるわけではないことを改めて知る。ぼくは、まゆみという女性のことを考えている。彼女はバイト先の店長の娘としてぼくの前にあらわれる。幼少期の彼女をぼくは可愛がった。青春期にスポーツ選手になり地元の新聞を賑わせた。それから、大学生になった彼女は酔ったぼくの前にあらわれる。ぼくは裕紀を失った痛手から立ち直れずにいた。あの小さな女の子だった彼女がぼくの悲しみを労わってくれた。そこで、自由に育ちすぎていた広美の面倒を見るために、彼女は広美に勉強を教え、友人にもなった。大人として旅立つ前に彼女は身ごもった。その運命を無にする可能性だってあったかもしれないが、ぼくは誰かを失うことを許しはしなかった。それで、彼女はいま母になっている。ぼくは、そのことを知っておりタイム・マシーンでもあれば、あのバイト先の少女に教えてあげたいとも思う。いくつかのことに注意するように。また、避けようと思っても別のなにかが彼女に与えられ、奪っていくのだろうとも教えたかった。

 ぼくにも大切なものがあったが、いくつかは取り除かれた。また大事なものも腕のなかに放り込まれた。それを抱え込むのも、落としてしまうのも自分の問題だった。だが、今後はより一層落として失わないように注意を払うのだろう。それが大人になることのようだった。もう大人を何十年と過ごしてきたが。

 でも、まじめ過ぎるのもあきらめ、いや戒め、ぼくと広美はスポーツ・バーで座っている。
「この前、ホテルでパーティーがあって、前の先輩に会ったよ」
「電話できいた」
「そう。仕事、楽しいって?」
「覚えることがあって、大変だって。でも、前に会ったときに顔付きが変わっていた」
「どんな風に?」
「きりっとしてた。世間の風に揉まれた感じ」
「広美は大学に?」

「東京に行ってもいいかな」
「いいよ。雪代は知ってるの?」
「まだ、言ってない。許してくれるかな」
「雪代が反対するわけないじゃない」
「ただ、言ってみただけ。ひろし君との甘い生活が待っているママには」
「4年間だろう?」
「当面は」

「なんでも応援するよ。雪代もぼくも」ぼくはモニターから視線をはずして彼女の方に向いた。「恋をして、勉強して、思い出をたくさん作って」
「うん」
「失恋して、泣いて、思い出をつくって」
「馬鹿みたいだよ。ひろし君もした?」
「あいにく上手くいったけど、もっと大きな痛手もあったしね」
「前の奥さん?」

「それもあるし、ぼくと雪代は別れて、また島本さんと彼女は縒りをもどしたこともあるしね」
「その結晶がわたしだから。それは恨まないで」
「恨んでないよ。ただ、失恋もしておくべきだよ」
「おじさんくさい」
「おじさんだもん」

 ぼくらはまたぼんやりと映像を眺める。アメリカン・フットボールの大事な決勝の試合があった。大柄な男性たちがぶつかりあっている。その大きな鈍い音と衝撃が画面やスピーカーを通してあらわれた。
「近藤さんと広美ちゃんも、なにかおかわり持ってきます?」

 店員の男性が訊いた。
「同じもの」と、広美は華奢な指でグラスを指差した。「わたし、大学に落ちたら、ここで雇ってくれます?」
「大歓迎ですよ。広美ちゃんみたいに可愛くて、しっかりしていれば。危ないときは、お客さんのなかにボディー・ガードもいるし」

「ぼくのこと?」ぼくは、自分の鼻先に指で触れた。
「さあ」と言ってその店員は背中で笑いながら二つの空いたグラスを持ち去った。

 モニターの映像は大柄な男性から躍動感が伝わるミニスカートの女性たちに代わった。彼女たちは踊り、練習の成果を見せていた。だが、彼女たちがいったいどのような10年後を迎えるのか、まったくもって分からなかった。

「はい、就職祝いの手付金」さっきの店員は二つのグラスを満たして持ってきた。だが、無駄口はそこで終わり入り口からはいってきた若い男女を目敏く見つけ、そのひとたちの応対に追われた。

 また画面では大男たちの疾走する姿に変わっていた。その前にすすむという行為はなかなか捗らず一進一退を繰り返していた。
「ひとは自分に向いていることをするべきだね」広美がぽつりという。「彼が、机の前にすわって帳簿を見ている姿が想像できない」
「店長だから、裏ではもちろんそういうこともしているだろう」
「そうなのかな」
「雪代だって、家でしているじゃないか。税金の時期にはとくに」
「そうか」
「そうだよ」
「そろそろ、帰る?」壁にも時計があったが、広美は自分の左の手首を見た。「スーパーに寄って。わたしが今日作るよ」
「そう、じゃあ後で雪代に電話しておく」
「荷物ももってよ」

 ぼくらは外に出た。彼女の大学の受験は多分、来年のいまごろになるのだろう。あの少女が大きくなり東京でひとりで暮らす時期が来るのかもしれない。こっちに残るのかもしれない。どんな未来だって、彼女は乗り越えるだろうというおかしな信念がぼくにはあった。その母も20年も前に同じようにひとりで東京にいた。時間の疾走感にぼくは呑み込まれて窒息するような息苦しさと高揚を覚えていた。
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(5)

2012年05月31日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(5)

「ただいま」妻が一日分の疲労と充足感を持ち帰りながら、言った。
「おかえりなさい」と娘の由美が彼女の肩にあったバッグを引っ張って取り上げて出迎えた。犬のジョンも後方で尻尾を振っていた。
「ご飯の用意するね」彼女は手を洗い、冷蔵庫を開ける。

 ぼくらはテーブルに着き、一日の話題を提供しながらご飯を食べる。妻の前とぼくの前にもビールが注がれたグラスがあった。彼女は、妊娠中と授乳中を除けば、ほぼ毎晩ビールを飲んでいた。意思が固いからそうしたのか、弱いからそうしているのか分からない。

「由美、宿題は?」
「ちゃんとしたよ」
「パパ、教えてくれた?」
「昼寝して、女のひとの名前を寝言で言ってた。楽しそうに笑ってた」と、娘は告げ口をする。
「不潔な中年男性」と妻が苦々しそうに言う。
「不潔な中年男性」と同じ言葉を娘が繰り返す。
「変な言葉を覚えるからやめろよ」

「じゃあ、変な寝言を言わないでよ」と、妻の正論。「なんて、言ってたの? 由美」
「マーガレット」それを聞いた妻の目は一回転したようだった。
「それは、いま書いている小説の主人公の名前だよ。誤解するなよ」
「へえ、そういうのも書けるんだ、あなた。とことん、見直した。節くれだった畳敷きで生活する苦悩するひとびとだけが主人公になるのかと思っていた。水洗便所もなく、ぼっとん便所で」

「ぼっとん便所」と、同じように由美もその響きが気に入ったのかつづけて言った。
「変な言葉を覚えるから止めなよ。それに、食事時だよ」
「はい、分かりました。妻が職場でいじめられている最中に女性の名前の寝言を言って昼寝。それで、マーガレットはなにをするの?」

 避暑に来ているマーガレットは壁の時計を眺めている。約束の時間になってもレナードは玄関の戸を叩かなかった。母は娘の軽率さをたしなめながらも、同じように興奮でそわそわしていた。そこに遅れてレナードがやって来た。時刻は二時を十五分ほど過ぎていた。

「すいません、徹夜をして絵を普段は描いているもんで、仮眠を取ったら、そのまま眠り続けてしまった」
 そして、マーガレットの母に挨拶をする。母はいくらか怪訝な様子をする。亡くなった夫は律儀な銀行員だった。時間に遅れるという観念などまったくなく、母もそれで待ちぼうけをくらわされたという経験もなかった。それでも、その男性がもたらした自由という感覚がどこからか新鮮な風を運んでくるような印象も同時に受けた。

「パパね、まだ学生のころ、素晴らしい小説を書いて、それでたくさん稼いでママを幸せにしてくれるって宣言したのよ、由美」妻と娘は共犯者のような顔をしている。「いつか、実現してくれるといいんだけど」
「だけど、お昼に会ったお店のお姉さんは、パパのことを先生と呼んでた」
「まだ未知なる大器。土のなかに埋もれている宝物」妻は自分の言葉に酔うようにビールを飲みながら言った。「先生、ビールが空になった」

 ぼくは、冷蔵庫に向かう。その扉を開いて缶を探す。同じようにレナードも床に絵の具で汚れた布を敷き、その上で道具が入っている箱を開き、絵の具や何本かの筆を取り出した。真っ白なキャンバスには無限の可能性があった。正面に座っているマーガレットの未来も限りなく無限であった。その画家の後方で母がじっと手元を見ていた。だが、なかなか握っている筆は動かなかった。
「描かないんですか?」しびれを切らしたようにナンシーは言う。素朴な疑問だった。銀行員なら直ぐに目の前の札束を数える。預金でも、出金でも。

「構想してます。具体的な未来のかたちを」それからしばらく経ち、顔の輪郭が描かれる。両親がつくったものを、異次元から来た男性が同じように創造しようとしている。無であるものが1になり、次第に2になる。そして、最後に完成される。その過程がいまはじまったばかりだった。

 妻の前の缶が1つになり、2になった。ぼくは宿題を見てあげられなかったことを後悔していた。
「あした、由美の宿題にみっちりと付き合うよ」
「なに言ってるの? お隣の久美子ちゃんがプールに連れて行ってくれると約束してたじゃない」と妻が言う。
「プール、プール」と、娘は喜んでいた。「9時半に迎えに来てくれるって」
「そうだったのか」

「先生は静かな部屋で大傑作を書いてちょうだい。そして、私の足がむくまなくてもいいように仕事を辞めさせて、せめて、高価なマッサージ器を買って」と妻は注文をだした。しかし、彼女は絶対にやめないだろうと分かっていた。物事を解決していく仕事を彼女はたしかに望んでいたし、生き甲斐にも感じているはずだった。

 マーガレットは一時間ばかり同じ姿勢で座り続けたため、首の凝りを感じていた。今日は不慣れなためこれで終わりということになった。レナードは荷物をまとめ、手を洗うために洗面所を借りた。そこで汚れを落としたが、すべての指がまっさらになったわけでもない。長年の期間を通じた指の汚れがどこかに残っているような気がした。そのまま、レナードは帰ろうとしたがテーブルには紅茶が用意されていた。

「足、揉んで。あなた」妻がベッドに横たわり、両足を指差した。それはほっそりとしてむくんでいるようには見えなかった。だが、ぼくは命じられたままそれを前後や上下にさすり、血流の流れを取り戻すように努力した。
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(4)

2012年05月30日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(4)

「なる」その二文字を頭に思い浮かべ、「ある状態からある状態への推移」ということを連想させながら食後の満ち足りた気持ちを抱え歩いている。娘も同様のようで大人しくぼくの手を握り、歩いていた。将棋の駒の歩は努力した結果、葛藤しながらも金になった。

「パパ、プリンおいしかったよ。あのお店のお姉さん、パパのこと先生って呼んでたね」
「本の書き方を教えてあげていたから」
「じゃあ、パパはそれを簡単にできるの?」
 エキスパート。歴戦の勇士。赤子の手をひねる?
「ほんのたまにね」
「じゃあ、わたしにも教えて」
「昼寝をしたらね」
 ぼくは家に着くと薄い布団を敷き、タオルケットを娘のうえにかけた。
「パパ、本のどこか読んで」
「なにがいい?」
「愉快なやつ」

 ぼくもとなりに添い寝して枕に頭をのせ、目の前の大きな活字を読み始める。すると間もなく由美のちいさな寝息が聞こえ始める。ぼくはそのまましばらくその物語を自分のために読む。仕事に戻らなければならない。だが、物語を読むことへの誘惑と、書くことの憂鬱さを比較して、より安堵と楽しみの多いほうを無条件に選んだ。人間は快楽を求める生き物なのだ。足元ではジョンも寝ていた。夏の昼。世界は音を止める。

 マーガレットは図書館の自分の席の向かいの机にある忘れ物のノートに気付く。さきほどのケンという男性のもののようだった。彼女はそれも自分のバッグに一先ず入れ、明日にでも返そうと思って帰途に着いた。

 マーガレットは遅い食事を母と済ませ、お風呂に入った。洗髪後の濡れた髪を乾かしながら、バックのなかのブラシを探す。すると、ケンのノートがそこから転げ落ちた。彼の書き込んだ文字が見える。その筆跡が彼のまじめさを表しているようだった。そこに自分の名前があることを発見する。さっき、彼に自分の名前を伝えた。それを彼は忘れないようにそこに記したのだろうとマーガレットは思う。だが、それだけのために自分の名前が書かれたのであろうかと悩む。そこには別の意味があるのだろうか。

「パパ、そろそろ起きないと」娘がぼくの肩を揺すっている。
「え、眠ってしまってのか。いま、何時?」
「もう、四時になるよ」
「宿題は?」
「ちゃんとした。ママが約束を守らない子がいちばん嫌いだからっていつもいうから」
「口が酸っぱくなるほど、執拗に」
「なに、パパ?」
「ごめん、手伝ってあげられなくて」
「パパの仕事は?」
「夜にする」歴戦の勇士。

「ご飯を研いでおかないとママうるさいよ。約束を守らない子がいちばん嫌いだからって」
「それが彼女の口癖だった。うん、研いだら、ジョンの散歩に行こう」
 ぼくは冷水でお米を研いだ。それが済むと顔を洗い、ジョンにリードを着けた。眠りから覚めたジョンには元気がみなぎり、ぼくには反対に倦怠感があった。

「宿題、うまくいった?」
「うん、静かだったし」由美は好奇心のかたまりのようにキョロキョロとあたりを見回し犬の散歩に同行していた。同じように主婦たちもそれぞれの愛犬をひきつれ歩いていた。彼女たちは由美の愛想の良さを好ましいものと思っていた。それで、由美はアメやなにかを自分の笑顔と交換にもらった。

 ぼくらは家に戻り、それから炊飯器のスイッチを入れた。これで、妻が帰ってきたら下拵えしたものを調理し、直ぐに夕飯をむかえられる。ぼくは空いた時間を無駄にしないようにパソコンの電源を入れる。

「昨日、これ、忘れてました」マーガレットは、ケンにノートを差し出す。それを受け取るときに彼は照れたような様子を見せた。その端に私の名前が書いてありましたけど、その理由は? と、マーガレットは質問したかったが、なにかが制御し結局は口について出ない。

「あ、あそこに忘れたのか、大切なことを書きなぐったのに」
 大切なこと、とマーガレットは思う。
「パパ、ここにママが書いたメモがあるよ」机で人形をいじっていた娘があるものを発見する。「これ、買っておいてって、ママ、朝にそういえば言ってた」
 大切なこと。書きなぐられた妻の癖のある文字が目に浮かぶ。
「なんだっけ?」
「おしょうゆとか。あとは難しい漢字で由美には読めない」

 ぼくはそれをつかみ、「ちょっと、スーパーに寄って来るね。ご飯、もう直き炊けると思うから」と言って慌てて玄関を飛び出した。ケンは次の講義のために、マーガレットと会っていた部屋から飛び出した。ノートにはうっすらと女性の化粧品のような匂いがうつっていた。ケンはそれを好ましいものと感じる。ぼくはスーパーで列に並びメモとカゴのなかの品物を見比べて点検し買い物を終え、その荷物が入ったレジ袋をぶら提げ、近くのドラッグ・ストアにまた寄った。娘の弱い肌をいたわる石鹸。パパのための環境にも頭髪の栄養にも無関心のシャンプー。それらをレジに持っていくと化粧のきつめの女性がバーコードをかざした。運命を途中で切断する鎌をもつ番人のように。しかし、ぼくはその女性から発せられる匂いを好ましいものと感じていた。
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壊れゆくブレイン(67)

2012年05月30日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(67)

 ぼくは、ある場所で裕紀の兄と偶然に会う。この人生で最も会いたくないひとでもあり、また、こんがらがったぼくらの間をいつかは修正したくも思っていた人物だった。それは、ぼくの一方的な思いであったが。
「なんだ、君も来てたのか」
「ええ、でも知っていたら、来ませんでした」
「そんなに意気込むことないよ。あれから、もう長いことが経った。ぼくもこれで、五十歳に間もなくなる。その間大切なひとを失った。いろいろね。そのすべてを、君のせいにして責任を押し付けるのは、なんだか面倒になった」
「面倒ですか?」

「違うな。フェアじゃないという意味だよ。叔母さんからも君のことを教えてもらった。君も相当悲しんだようだ。ぼくら以上に」
「まあ」
「それで、人生はぼくら人間だけの力、いや力量で片付くようなものでもないことに気付いてきた。君が裕紀を早死にさせるような力は付与されてない。あれは、あいつなりの運命だったのだろう。両親もそうだったのかもしれない。だが、全面的に許す気も不思議だけどない」
「当然です」
「しかし、叔母の一途な信念のようなものが、ぼくの足元を徐々に揺るがせてきた」
「ぼくと裕紀のことをいつも、一番に信頼してくれました」
「そうだね。それに、誰かを憎んだりして自分の後半生を生きることも厭になった」
「まだ、若いのに」
「娘たちに自分の妹のことを訊かれる。彼女は誰かと結婚していたのか? とかね。その時、ぼくは相手の彼のことを恨んで仕方がないとも言えずにいる。死者には平和な境地が訪れるべきなんだよ」
「そうあってほしいですね」

「君にも見せるよ」彼は、財布から写真を撮り出す。「驚くだろう?」
「ええ」ぼくは絶句というものを生まれてはじめて味わったような気がした。
「あのときの裕紀と同じ顔をしている」
「そうですね。瓜二つ」
「ぼくは、娘の顔を見るたび、裕紀から君を責めるのをやめて欲しいと言われているような気がする」
「そうでしたか」
「まあ、急に君と密接な関係も作れない。それに、ぼくらの関係は現在のところ他人であり、これまでも今後もそれが変わることはない」

「ぼくらを結び付ける当事者がいないから」
「そうだ。それに、君も結婚したんだろう? それは叔母からきいた」
「ええ、してます」
「子どもは?」
「妻にひとりの娘がいます」
「じゃあ、なんとなくぼくの気持ちは分かるわけだ」
「そうですね、彼女に対して恥ずかしくないような生き方を選びたい」ぼくは普段どこかで思っていたかもしれない言葉が不意に口に出た。

「ぼくも、死んだ妹の元旦那を憎んでいるなんて、口が裂けてもいいたくない。ひとには思いやりをもてとか、優しく接するようにとか教えているのに。ごめん、長く話しすぎた。君と話したがっているひとが待っている」彼はメモになにか書きつけ、手渡した。「裕紀は、ここにいる。もちろん、それで君のこころが慰められるわけでもないだろうけど、いつか、墓参りでもしてやってくれ。それぐらいがいまのぼくの優しさの限度だ」

「ありがとう、ございます」ぼくはそれを握り、上着のポケットにしまった。

「近藤さん、あの仕事の件ですけど・・・」直ぐに顔見知りの男性が声をかけてきた。ぼくは、いままでの数分が夢のなかの話のような気がしていた。彼はそれでもぼくを恨んでいる。ぼくはその罪過を甘んじて受けることによって、自分は正しい生き方をしているという変な理解の仕方をしていた。彼女は、とにかく三十六歳で死んだのだ。何があっても、そんなことはあってはならなかったのだ。ぼくは、その知人と話し続けながらも、裕紀の兄が見せてくれた娘の写真の印象から離れられずにいた。似ていて当然なわけだが、裕紀のもっていた純粋な優しさは彼女独自のものだと不思議と思い続けたかった。あの少女にそれは受け継がれるべきものでもないのだと思いたかった。「じゃあ、決まり次第、連絡くださいね」と、言って彼は離れた。

 それは、あるパーティーの会場だった。裕紀の兄のまわりにもたくさんのひとがいた。ぼくと彼の関係を知っているひとはいないようだった。ぼくはグラスの中味を飲み干し、新たなグラスを制服を着た女性から貰った。
「ごめんなさい、広美ちゃんの?」
「ああ、君」それは広美のバスケット・ボール部の先輩だった。もう卒業してこのホテルに就職したのだろう。うちにも何度か来てくれた子だった。
「ごめんなさい、仕事中なのに」
「いいよ」
「広美は元気ですか?」
「うん、相変わらず。また、来ると、いいよ」
「はい」と言って彼女はアルコールを望んでいるひとのために銀のトレイを持ち軽やかに歩いて行った。ぼくはこの今日のことを誰かと話したいと思いながらひとりで新たなグラスに口をつけた。それに相応しいのはなぜだか裕紀のような気がしている。君の兄は、君の優しさと同じものを持っているのかもしれない。ぼくには、義理の娘ができてね、その子の友人がぼくのことに気付いた。それは、君がいたらなかった未来だけど、とても悲しいけど、しかし、行き続けるって結局はこういうことなんだろうとも思っているんだ、と独り言のように頭のなかでこだまさせていた。意図的に。答えはなくても。
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(3)

2012年05月25日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(3)

「パパ、仕事どう? わたし、お腹空いた」と、短いTシャツのお腹の部分をさすりながら由美が言った。

「じゃあ、出掛けることにするか。ご飯食べたら、お昼寝して宿題もしよう!」と宣言し、ぼくはノートブックを閉じる。カギを閉め、悲しげに鳴く愛犬のジョンの喉元の音を玄関の向こうに聴く。

「この前、友だちと喧嘩した。普通はネクタイして新聞を持って、カバンをもって、朝に会社へ行くのが父親の役目だって言われたから」
「それで、何て答えたの?」
「それは、ママの役目。少なくても、うちでは、って」
「まあ、人生いろいろだから」
「ママとどこで最初に会ったか、もう一回話して、パパ」

 ぼくはあの頃を思い出す。ケンは授業を受ける場所に戸惑いながらもやっと見つける。額の汗を拭いながらも、緊張のためかいつまでもそれは止まなかった。そこに、いま生まれたばかりの新鮮な果実を思わせる女性が斜め右に座っているのを発見する。あれは、誰なんだ? と教室を探しあぐねたことを忘れ、彼女の名前やさまざまなことを知りたくなる。かといって、まだ友人もいない状況では、共通の友人も当然のこといないわけで、その模索と回答に至る最短の距離を知る方法を考えながら講義を受ける。

 間もなく、近くのファミリー・レストランに着いた。注文も終え、ぼくはのんびりと炭酸入りのジュースを飲んでいる。シフトの時間が変わるタイミングなのか聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「先生、お嬢さんがいたんですか?」
 そこのウェイトレスが水の入った容器を手にして、声をかけてきた。彼女が先生というのには意味がある。ぼくの高校時代の同級生が役所に勤め、予算の配分の関係で文化的なことにも力を注がなければならなかった。ぼくの本が地元の本屋の片隅に2冊並ぶと、彼は電話をかけてきた。「オレを助けると思って」と言い、文章の書き方を教えるという講座を地区のセンターで開くことになった。「まあ、一年の話だから」と安易に提案を出され、妻も、「役に立つことって、とにかく良いことよ、いまでもボランティアみたいな稼ぎしかないわけだから」ということで賛同し、そこに行って教えることになった。ウェイトレスである彼女の母は自分の半生を書くことを望んでいたが、ひとりでいくことを躊躇い、娘の彼女がついて来た。そもそも、文章のことなど興味もないことなので彼女は直ぐに横のパソコン教室に鞍替えした。その数回の出会いで彼女はぼくのことを先生と呼んだ。四月に出会い、ぼくに娘が居ることも知らないのも当然だった。いつも、午後、ぼくはそこで昼ご飯と創作のイメージ・トレーニングをしていた。

「お名前は?」
「由美です」と娘は言う。そして、誰に教えられたのか分からないようなとびっきりの笑顔を見せた。誰に?
 時間が経ち、料理が運ばれる。
「はい、由美ちゃん、こちら、ハンバーグになります。熱いから気をつけてね。先生は、もう少し待って」
 ハンバーグになる? ピノキオはおじいさんの愛に包まれ人間になった。人間のこころを持つようになった。いや、高慢になったピノキオの気持ちが彼の鼻を伸ばせることにならせた。努力して手にまめを作り素振りを繰り返した結果、彼をホームラン・バッターにならせた。
「おいしそう」由美が言う。
「先生、なにかありました。注文と違うとか、なにか入っていたとか?」
「いいえ、別に」

「変な先生」彼女は首を傾げ背中を見せて新たな調理をされたものを取りに行った。
「はい、ホウレン草のソテー。もっと栄養のあるしっかりとしたものを食べた方がいいんじゃないですか?」
「そうかな。そうだ、お母さんはあれから半生を書いている?」
「原稿用紙と万年筆を買って思案中。形から入るタイプだから。先生も高価な万年筆を?」
「いや、ぼくにはキーボードがあるし、十本の指がある」
「ささくれの出来た指もある。きれいな指の男性ってセクシーですよ」
「セクシーってなに?」と、由美が訊く。

「魅力的ってこと。また、頼むものがあったら言ってくださいね。わたしが直ぐに来るから」彼女は車の保険のような言葉を残し、ほかの席に向かった。ケンは大学の図書館で借りようと思っていた本が棚にことごとくないことに気付く。あきらめて奥の自習室に向かうと、それらがうずたかく並べられているのが見えた。でも、その席には誰もいなかった。後ろ髪をひかれるように、うらめしく眺めているとそこにある女性があらわれた。

「どうかしました?」
「これ」と、ケンはその本たちを指差す。
「これ?」
「全部、読めるの?」
「意気込みとしては。でも、実際には読めない」
「数冊、ぼくが借りたいと思っていたのが含まれている」
「どうぞ」
「ありがとう。読み終わって、メモを取ったら直ぐに返す。名前は?」
「マーガレット」
「ぼくは、ケン」
 一先ずは、名前だけは手に入れた。名前の数文字こそがそのひとを表すのだ。
「パパ、プリン食べてもいい?」
「こちら、プリンになります」ぼくは独り言のようにつぶやいた。
「え? なに、パパ」
 ぼくは児玉さんを探す。彼女の社交的な性格がウェイトレスを生き甲斐と感じさせるまでにならせた。
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壊れゆくブレイン(66)

2012年05月25日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(66)

 そして、ゆり江の両親の家は建ちはじめる。ぼくは仕事の途中にも、車でそこを通りかかるたびに寄った。または、そうする時間がないときは窓を開けて眺めた。それは壊れゆくものではなく、築き上げられ、命を与えられるものの象徴だった。いずれ、ゆり江もそこに住むと言った。彼女には夫と子どもがおり、両親はそこで世代が代わりつつあることを知る。ぼくもそれを知りながらも、彼女がまだ10代で無垢だった時代を記念のメダルのように大切に胸の奥にしまっている。無垢の記念碑。

 その建設が70パーセント近く過ぎたときに差し入れをもちながら、ぼくはそこに出向く。高いところに登り、作業をしている職人たち。彼らの献身的で無欲な感じが伝わってくる。目の前の問題だけに取り組んでいるストイックな表情。ぼくは無心にラグビーボールを前にすすめることだけを考えていた自分をそうしたときに思い出すのだ。実際は野望があり、名声への拘りがあったり、つまらない見栄に包まれていたとしても、普段はそういう無形のものと親友だったとしても、ここだけは違うという信念らしきものが感じられた。多分、考えすぎなのだろうか。そして、ある晴れた日にすべてが完成した。

 ぼくは、その日、カギを持ちそこを開ける。後ろには、ゆり江の両親ともちろんゆり江がいる。簡単に家の中を説明し、納得いただきカギを手渡す。彼らは家具を用意し、その業者が家の前で運ぶのを待ち構えていた。ぼくはそのひとりと話し、大体の構造のあらましを言い、あとの設置は任せた。

 そこにゆり江がでてきた。
「ありがとう、素敵な家になった」
「ぼくの力はほぼないけど、でも、その言葉、嬉しいね」
「両親も喜んでた」
「そう。裕紀にもこういう家を建てて上げたかったなと、いましみじみ思った。ゆり江ちゃんだから言うけど」
「その気持ちは分かるよ。家庭的だったしね」
 ぼくらは外からその家を眺める。空は快晴で、少しだけある雲がベランダの横を通りかかる。
「親が段々とこわいものでなくなった寂しさがあるね。いつまでも、自分を叱ってくれるものだと思っていた」
「まだ、元気じゃない」

「でもね、そうだ、記念になにかこの家に向いているものをプレゼントしてくれない」
「ぼくから?」ぼくはなぜか一瞬ためらった。でも、考え直して「ああ、いいよ。なにがいいんだろう」と、付け加えた。
「それは大事なひとだと思って、考えてよ」

 ぼくは車に乗り込み、仕事がひとつ片付いた安堵と、ゆり江が提案した条件に合うものを探した。片方では空白になった脳と、もう片方では思考を繰り返す頭脳があった。それを心地の良いものとそのときは考えていた。ぼくは近かったのでその帰りに実家に寄った。両親は午前中ののんびりとした時間を空虚のようにテレビを見ていた。ぼくはゆり江が接する両親を見て、自分もなにか暖かな言葉をかけたりしたかったが、自分の口からはなにも出てこなかった。ふたりはもう仕事をリタイアして父の店があった商店街の一角は、若者向けの飲食店に化けていた。

「お昼ご飯でも食べていく?」と母が言った。
「そうだね」ぼくは上着をハンガーにかけ、同じようにテレビの画面を見た。母は立ち上がり、台所で手際よくつくりはじめた。

 するとテーブルには料理が並べられた。ぼくは雪代との生活がこのふたりのような期間も続いていくのだろうかとご飯を噛みながら考えている。それに比べると自分は短い時間しかもてないことを知る。互いに二人目の結婚相手であるぼくらは、時間は短いがそれなりに濃密な時間があることも知っていた。それは、ただこのようなテレビを見ていた穏やかさとはまた違っていたようだった。

「そうだ、まだあの絵、まだあったんだっけ?」
 母はそれが何を指すのか知っていた。
「あんたの部屋にあるよ」

 それはぼくがもらった裕紀に似た子の絵だった。ぼくは東京の家を去るときにそれを梱包しいっしょにもってきた。いつのまにか家の倉庫から誰かが引っ張り出し、ぼくが暮らした実家の部屋に飾っていた。それを見た広美の友だちは不審がり、雪代の絵を描いて展覧会に出した。それはいまでもぼくの部屋に飾ってある。
「あれ、貰うよ」
「貰うも、なにも、最初からあなたのじゃない」

「そうか」ぼくは丈夫な紙とガムテープでそれをまたくるんだ。昼も終わり、上着を来て、それを助手席にのせた。ぼくは裕紀とドライブした過去の一日を懐かしく思い出している。
 また、さっきの家のベルを鳴らす。急いでゆり江が駆けつけた。
「なんだ、ガス屋さんかと思った。ひろし君だったの」
「まだ、来てないの?」
「予定の時間は過ぎているのに。どうしたの? 忘れ物」
「いや、こんなものがあって、これを持っているひとはもうぼくじゃない気がする。気に入ったら、家に飾って」
 ゆり江はそれを開ける。
「女のひとの肖像画だ。どこか、裕紀ちゃんに似ている」
「みんな、そういう」
「将来、子どもの部屋になる部屋に飾っておく」
「これ以外にも、なにかプレゼントは別に探すよ」
「いいよ、充分、これだけで」
 話していると、ぼくの後ろでバイクが止まった。「お待たせしました」とヘルメットを脱ぎながら制服を着た男性が現れた。
「じゃあ、これで」ぼくは、代わりに引き上げる。ぼくは裕紀につながる思い出や品物を手放したかったのだろうか? いや、まったくの逆だ。彼女の痕跡を誰かに押し付け、覚え続けていることを無意識に強要しているのだろう。それから、職場にもどり通常の営みにもどった。
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(2)

2012年05月22日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(2)

 公園から戻り、喉の渇きを潤して、机に向かう。

「パパは仕事をするから、絵本を読むか、ディズニーの映画でも見ていて」
「絵本は寝る前にパパに読んでもらう。あれって、ほかのひとに読んでもらうものだよ」そう娘は自分の考えを主張し、テレビのリモコンを操作する。まあとにかく、午前の時間を有効に使う必要がある。遊びつかれたのか、ジョンもぼくの足元に寝そべって、この地上での物事の関心をなくしていた。

 マーガレットも海岸からのんびりと戻り、りんごのジュースを飲み、鏡の前で風に吹かれた髪の毛を梳かして、また外にでた。マーケットできょうの食材を買うためだ。これは避暑地でのいつもの日程だった。その日程を狂わされたのは何日か前の話だった。

 朝から開いているバーで近所の職人さんたちはコーヒーを飲み、パンをつまみ一日に備えていた。これから始まるという予感が感じられる雰囲気である。そこに一日を終えたという表情の男性がいた。マーガレットもコーヒーを飲み、その男性の様子を目の端で失礼にならないように窺った。服装はいささか乱れ、袖口は絵の具らしきもので汚れていた。目は充血し、どこか体内に興奮が貯蔵されその捌け口を探しているようだった。そして、皆とは違い、目の前のグラスに入っているのは赤ワインのようだった。

 ひとびとは足早に自分の職場という持分に向かい、暇を持て余すマーガレットとその男性と店員だけがそこに残る形になった。
「パパ、映画が急に映らなくなった。なおして」
 ぼくは思考をお預けにして、その場に向かった。何回か電源を入れなおすと、また再びアニメのキャラクターが歌い出した。
「お嬢さん、お名前は?」
「マーガレット」
「ぼくは、レナード。暑い場所を避け、ここで絵のモチーフを探しています。一日中、部屋にこもって描いていたものだから話し相手が欲しくなって、眠らずにこんな場所にいる。しかし、これからみんな働くんだよね」
 マーガレットは頷く。興味が湧くが、画家に対してどのような質問があり、相応しい返答というものがどういうものなのかマーガレットには見当がつかなかった。
「どんな絵を?」
「いまは静物を描いている。ここの名産のりんご」
 マーガレットもそれを搾ったものを毎朝飲むことにしている。それについて更に言葉を加えたいが何も思い浮かばなかった。

「パパ、ココアが飲みたい」
 ぼくは席を立ち、冷蔵庫から牛乳を取り出す。
「由美、学校ではもうちょっと自分のことを我慢させることを学んでいるだろう? パパは、大切な仕事の最中だから」
「分かった。でも、ここ学校じゃないよ。うちだよ。それに、ママがたくさん稼いでくれるから」ぼくはカップを由美の前に差し出す。「お昼、なに食べるの?」
「パパは、休憩のときに近くのファミリー・レストランに行くから、由美もいっしょにそこに行こう」
「お腹すいた」
「もうちょっと待ってね」

 マーガレットはいつの間にか、静物画を描くことに飽きてきた画家の絵のモデルにならないかと頼まれている。その場所に行くのが恐いので自分の家で描くことを了承してくれるのならという提案を出し、簡単にレナードはそれをのんだ。
「2つ描いて、ひとつわたしにください」

「じゃあ、違った服装と髪形をしてもらうことになる」レナードは最後のグラスを飲み干し、約束の握手をしてその場を離れようとする。マーガレットは自分の家の住所を書き、そのメモを手渡す。そして、温くなったコーヒーを飲んで、マーケットに向かった。写真がまだ一般的になる前のことだった。自分の姿を半永久的にとどめておくのにそれは効果的な申し出であった。その受諾により、マーガレットの若さは残る。まだ、顔は顔として存在するピカソとその後継者の出現の前の時代だった。

「パパ、映画終わったよ」
「午後に宿題をするから、その準備のものをランドセルから出しておいて」
 午前中、水沼さんは「ランドセルの語源て知ってます?」と質問した。「いいえ」とぼくが答えると、「明日までの宿題です」と笑って言った。その宿題をぼくは思い出していた。「語源? カステラ。南蛮」とひとりごとを言いながらぼくはマーガレットの買い物に付き合っている。ぶら提げたカゴには新鮮な野菜が顔をのぞかせている。しかし、昨日とは違い、買い物に身が入らない。マーガレットは自分のクローゼットのなかのことを考え、自分の髪型の変化なるものを思案していた。ふと、電車のなかで化粧をしている女性のことをぼくは考えている。ぼくが通勤をしていた時代にも多く見かけた。男性が車内で髭を剃り、アフターシェーブローションを擦り込んでいる姿をぼくは見かけたことがなかった。由美もいずれするのだろうか?

 マーガレットはある店の窓ガラスに自分の肢体を反射させ、その様子を眺めた。自分が誰かの視線を一心に受け、それがキャンバスに乗り移り、収められるという希望に胸がときめいていた。大学の同級生のケンはそういう視線を自分に向けてきたことがあるのだろうかと、その瞳を通しての思いというものをマーガレットは比較していた。
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壊れゆくブレイン(65)

2012年05月22日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(65)

 ぼくは職場に戻る。同僚はもう図面に手をかけはじめている。ぼくが部屋に入った様子が分かったのか、こちらも見ずに話しかけてきた。
「きれいなひとでしたね?」
「誰が?」
「誰がって、若い奥さんのほうですよ」彼は当然というような表情をして、はじめてこちらを向いた。ぼくは即答せずにコーヒーのカップを黒い液体で満たした。残っている分を彼のそばまで持っていき、彼のカップにも注いだ。「知り合いだったんですか? 以前から」
「ああ、知ってた。前の妻と幼馴染みだったからね」
「すいません」

「いや、謝ることないよ」彼の予測は当たっていた。ぼくらにはそれ以上の関係があったのだ。
「でも、そういう繋がりって、まだ生きてるんですね?」

 ぼくはそのことについてしばし考える。裕紀がのこした遺産というものがあるとしたら、いくつかの人間関係の源流としての意味合いがあるのかもしれない。だが、ぼくとゆり江の関係は、もしかしたら、裕紀にはなにも負っていないのかもしれない。ゆり江は好きだったお姉さんをふった男性を許せなかった。それによってぼくに近付く。だが、ぼくにとってそのことは関係がなかった。関係がないというのは表現として適切ではない。ぼくのこころが進みゆく動機としては影響がなかった。ぼくはその可愛らしい女性のことをただ好きになったのだ。また雪代が入り込まない女性関係というもうひとつの枠組みを必要としていたのだろう。それぐらい、雪代というのはぼくを根底から決定してしまった女性だった。あとは、亜流なのだ。すべてが。

 だからといって亜流が魅力をもっていないわけでもない。美しさもある。その美化された思い出をぼくは人生の道中でいくつも拾い、それを長年大事にあたためてきた。その彼女のお願いであれば、ぼくは望んで引き受けるべく待ち構えるのだった。

「前の妻がいなくなっても、ぼくらだけの接木したような関係もあるんだろうね」
「そうですよね」という頼りない返答を彼はした。それは仕事に集中しているときの彼の癖だった。だからそれ以降、ぼくも口をつぐみ自分の仕事に手をつけはじめた。しかし、横の女性はいままでの会話に関心をもってしまったようで、その人間関係の支流のような話を自分の友だちのエピソードに変えて話しはじめた。

 その友人は離婚した。だが、どういう成り行きだか分からないが、元の夫の母とそれからも親しく交友をつづけ、旅行に行ったり、ちかくに食べ歩いたりするときは必ずその義理の母と行動するそうである。家の電話にかけて元夫が出て自分の母にそれを取り次ぐ。夫婦であったふたりはそこで知らない者同士のように世間話をする。そもそも、自分たちには熱い関係が不向きだったのだと悟るように。
「そういうひといます? 近藤さんにも」自分の話に飽きたのか彼女は最後をそう締めくくった。
「ぼくも、東京に出張に行くと、彼女の叔母に会いに行く。だけど、それは互いの傷を嘗めあうような具合だね。ふたりとも遭難して無人島にたどりついてしまった見知らぬふたりのような表情と戸惑いを浮かべて」
「まだ、愛してる?」
「職場に似合わない言葉だよ。ただ、引き出しの探し物が見つからないだけかも」ぼくは実際にはさみを探していた。「鋏、ある?」

「使っていいですよ、これ」彼女は自分のお腹の部分の引き出しから愛用のものを出した。ぼくは借りてものを切り、10秒後にはもう返していた。
「近藤さん、ぼくが帰ったあとに、なんか家の要望出ましたか?」同僚がまた声をかけた。ぼくは、自分の仕事を一切していないが、またこれも仕事の一部だとあきらめている。
「とくには、なにも」
「何通りか、作りますか?」
「そうしてもらうと、喜ぶと思うよ」

「そうします」彼はまた口を閉じ、指を動かしている。ぼくもそのような業務に憧れをもった過去があったが、実際はたくさんのひとと会い、たまに感謝の言葉をもらい、失望や非難の声をきいた。その狭間にいることが自分の役目のようだった。だが、ゆり江や家族からがっかりしたことが分かるそのような言葉をもらいたくないのは当然だった。しかし、同僚の頑張りも前面に出ることはなく、その甘い言葉という利益はぼくが存分に受ける立場にあった。

 その一日も終わりに近づく。みな、その分だけの疲労が蓄積された顔をしながらも、これからの週末を楽しむべく余力があった。若い女性社員は喜びというものがみなぎっている表情で会社をあとにした。ぼくは誰もいなくなった室内の照明のスイッチを全部消し、そこを出た。

 新しい家ができる。そこに住み、歴史を築き上げることができる人々。裕紀にはそのような楽しみはもうない。ゆり江やその子どもにはまだたくさんの未来があった。そのための新しい家の完成を望んで暮らすこと。ぼくはその力を頼ることになっている同僚の週末のことも考えてみるが、彼が普段なにをして過ごしているのかほとんどしらないことに気付く。ただ、数時間会社で顔を合わせ、時折り冗談を交わし、たまに昼ごはんをいっしょに食べたりした。そういうひとが多くいることを知る。それに加え、ぼくに多大な影響を与え続けるひとびとも少なからずいた。ゆり江はどちらの範疇に属する人間なのか考えてみる。もちろん、後者だ。ぼくの若いころの思い出のいくつかに彼女は入り込む。少なくない数に。そして、裕紀を忘れるためにぼくは彼女の身体にある日おぼれた。それは代用だったとしても、きちんと血液が流れ、意思をもった身体だった。たまに付き合う程度の人間とは根底的に違う。その彼女の今後の幸福のことを考えているうちに家に着いた。
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壊れゆくブレイン(64)

2012年05月16日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(64)

 保留にされた電話を取ると、聞き覚えのある声が聞こえた。

「近藤さんは、こういう仕事も扱っているのですかね。うちの両親が家を建て直すことになったの。それで、頼りになるひとを探している」その声はゆり江のものだった。
「そういう部署もあるよ。新築か、リフォームにするか。それに見合った設計図を作って、納得いただいて、ゴーサインを出す。その間に住む家も探してあげられる」
「家は、わたしのところに数ヶ月住めるからいい」
「説明にいくよ。というか大体のプランを訊きに行く」
「ひろし君が?」
「別のものが担当するけど、ぼくが行ってもいい」
「頼りになる」

 ぼくは約束の日時にそこに向かう。ぼくは話を訊き、概要を説明し、実際の実務を担当するものを同行した。部屋にはゆり江の両親と、もちろんゆり江がいた。土地があり、いささか古びた家があった。いずれ、ゆり江もそこに住むことになるだろうと言った。横には、子どもが寝ていた。一時間弱で話はトントン拍子に進み、次回に希望の部屋と間取りを作って、もう一度説明に来る。そのために同僚は先に帰った。早速、戻って仕事に取り掛かる。

「こういう仕事もするんだ?」ゆり江は、興味深そうにたずねた。ぼくらは、その家から離れ、子どもの面倒を見る両親を置き、近くの喫茶店で話していた。

「社長が亡くなって、方向が定まらなくなった。段々と何でもする会社に変更したんだ」
「そう、あの社長が」彼女は悲しそうな表情をする。ぼくは途切れ途切れに20年以上もその表情を見ることになった。「裕紀さんの家族は、相変わらず?」
「ぼくは蚊帳の外。居なかった人間」
「まだ、思い出す?」
「たまにね」ぼくは裕紀の思い出を語れるひとをいまだに探していた。「そうだ、うちの娘にあったんだってね。なんかの遠足とかで」
「ああ、そうだ。会った。可愛い子だった」
「君のことも広美はそう言ってた」
「わたし?」

「そう、いつまでも可愛さのあるひとだって」
「お父さんは言わないのに?」彼女は微笑む。その笑顔もぼくは20数年間忘れることができなかった。
「言えなかった事情がたくさんある」
「責めてないよ」しかし、表情は無いに等しかった。「お父さんの役目はなれた?」
「お父さんらしいことは、なにひとつしてない。ただ、いっしょに暮らすたまに失敗をするお兄さん」
「それで良かったんでしょう?」
「良かった」
「奥さんは優しい?」

「まあ望める程度には優しいよ。ぼくをある時期、救ってくれたし。若いころのぼくのことも知ってるし」
「わたしも知ってる。でも、今日はありがとう。うちの両親、なんだか猜疑心が強くなって、誰かを信頼することを忘れてたみたいだけど、きょうは違ってた」
「そういう安心感のために、ぼくは給料をもらってる」
「わたしもむかし、その安心感にしがみついたっけ」
「いや。裕紀が亡くなったとき、ゆり江ちゃんにも助けてもらった」
「わたしは、裕紀ちゃんを捨てた男の人生を狂わせるはずだったのに、結局は、いまここで感謝されている。この身体も提供して」彼女は笑う。「なんだか下品だね」
「いや、その通り。ぼくは生きている身体や息遣いが必要だった。そこに君がいた」

「あれから何年?」
「7、8年かな」
「家が建つまでまたわたしと関わりができちゃったね」
「嬉しいよ」
「ほんと?」
「うん、最高の仕事にする。君も子どもも将来あそこに住むんだろう?」
「うん、ずっと住む。あの最初のアパート覚えてる?」
「覚えてる」ゆり江が働き出して最初に借りたアパート。その窓から見えた風景をぼくは手に取るように覚えている。彼女の生活がそこにあり、ぼくもそこで時間を過ごした。しかし、ぼくらには確かな未来がなかった。ぼくには雪代との土台のしっかりとした生活が別にあった。そのことに関してゆり江は恨むがましいことを一切口にしなかった。それゆえにぼくはいまだに良心の呵責を感じ、またそれゆえに甘美な思い出ともなっていた。過去の失敗や行き止まりは美しいものであり続けるのだ。
「たまに、あそこの夢を見る。わたしはあの年齢のままなんだけど、子どもがいて、ふたり心細く暮らしている。誰かの帰りをずっと待っているの。童話のなかの主人公のように。目を覚ますと、もちろん夫も子どももいて、わたしもおばさんになったけど、そのことで安心する」

「ぼくの責任みたいだね」
「全然ちがうよ。あの頃の思い出がなかったら、わたしの人生、潤いがなかったなって思うもん。ひろし君の一部もまだあそこにあるのかなと思ったり。でも、本当は、雪代さんのもので、思い出の大半は裕紀ちゃんが占有しているけど」
「でも、ごめんね」
「わたしはたまにこうして確証させる必要があるみたい。あの男性はちょっとでもわたしのことを好きでいてくれたんだろうかなって」

「ちょっとどころじゃない。だいぶ」
「ありがとう。でも、誰にも話せない。近藤ひろしはわたしのことが好きでした、とか」彼女は壁にかかっている時計を見た。「そろそろ、両親も子どもの面倒を億劫がる。あの子やんちゃだから、手に負えない。良いうち作ってね」
「そうするよ」
「そこを通るたびにひろし君はわたしのことを思い出すんだから」

「家がなくったって、思い出すよ」それは本当のことでもあり、また彼女は常に先頭にならないことも知っていた。ぼくは雪代がもっていないものを彼女に見つけ、裕紀を忘れるためにその肉体を利用した。それは代用でもあり、ごまかしでもあった。彼女個人の存在だけを愛してこなかったのかもしれない。しかし、言い訳だがぼくの前に雪代も裕紀もいない世界というものが存在するならば、ぼくはもう少し違った性格を身に着け、その伴侶としてはゆり江がいちばん相応しいのだとも思っていた。
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(1)

2012年05月16日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(1)

 今日も暑くなりそうな予感がする朝のひととき。テーブルの横にコーヒーのカップを置き、10本の指をコンピューターのキーボードに乗せている。ある一定の年齢を超えてからの独学なので、その10本の指を全部うまく連携して使いこなすこともできない。しかし、スピードだけが命の問題でもないのだ。空想の物語をその指を通して保存し、世界にアプローチするのだ。ナイス・ショット。保存の失敗だけが、時間の後戻りとなる。トリプル・ボギー。

 主人公であるマーガレットは海辺を歩いている。同じような初夏の朝。マーガレットのワンピースは海のうえを通り抜けた風の力で揺れている。その揺れ方に規則性はない。潮風を感じ、それが同時に運ぶ海の匂いをマーガレットは喜ばしいものと感じている。

「朝ごはん、納豆でいい?」妻がキッチンの方から叫ぶ。マーガレットの運んでくれた潮風の匂いは庶民の朝の匂いに変貌する。
「それで、いいよ」
 マーガレットは靴を脱ぎ、乾いた砂の感触を足の裏に感じていた。指と指の間に砂の粒子が入り込み、また、ひかりの粒子がマーガレットの青い目を攻撃しようとしていた。
「パパ、抱っこして」今日から夏休みになった娘が突然、膝のうえに乗る。その様子を追いかけるように愛犬のジョンがぼくの肩に前足を乗せる。

「行儀悪いな、ジョン」上書き保存。マーガレットは砂の上で足を停めた。
「みんな、ご飯だよ。はい、ジョンも」ジョンのために赤い皿が用意され、床に置かれた。マーガレットの真紅のスカーフが風で飛ばされそうになっているが、細いマーガレットの指はその前に首元を押さえつけてそれを事前に避けた。

「はじめての夏休み。遊んで、宿題して、お昼寝もして」妻は娘に言い聞かせる。自分は仕事のため、化粧をして外出用の格好をしていた。「パパの言うことをよく聞いてね。ね?」最後のねは、ぼくに向かって言ったらしい。妻は外で仕事をして、夫は家で空想の旅をつづける。マーガレットは首元を抑え停まったままだ。

「朝は公園。ジョンの散歩。ご飯を食べて、お昼寝」と由美は言う。由美は娘の名前だ。
「いつ、お勉強?」
「お昼寝がすんでから」
「パパに教えてもらってね、分からないことがあったら」そう言って、妻はバックを掴み、ハイヒールを履き、家を出て行った。いつもなら娘の学校に行く時間に合わせいっしょに出掛けたが、その用がないため、少しだけ早く家を出た。早朝のオフィス。
「ジョンの散歩」その言葉が分かるかのように犬は耳を傾けてこちらを見た。

「ご飯を食べ終わった皿を洗ってから」ぼくは皿を重ね、台所に運ぶ。水はぬるく、流していると次第に冷たくなった。マーガレットの手の先に海水がある。それを手の平ですくい、指からこぼれるままにした。足元には流木があり、乾かない手でそれを拾い上げ、遠くに投げた。

「ジョン、ひろって」娘がボールを投げ、ジョンはそれに向かって走って行った。
「洗い終わったから散歩に行こう」娘は犬の首にリードをつけている。靴を履き、玄関を開けた。ぼくはカギをしめ後を追った。
「おはよう、由美ちゃん」となりの女子高生は娘に声をかけ、犬の頭を撫でた。そして、ぼくの姿を見ると、ていねいに「おはようございます」と言って頭を下げた。
「きょうも水泳?」
「はい。これから行って来ます」スイミングの得意な子で、この前も何かの大会で賞を取ったということだ。
「疲れたら、お昼寝するんだよ」と、娘はその子に言った。彼女は日に焼けた頬を見せ笑った。

「じゃあ、頑張って」とぼくは犬の後を追いながら、その子に言う。彼女は玄関から自転車を出し、それに乗って反対側に向かった。スカートは揺れ、見る見るうちにその後ろ姿は小さくなった。

 マーガレットは思案をしている。つい先日、ふたりの男性に恋の告白をされた。ふたりとも魅力的で彼女は選びかねている。
「パパ、ひろって」由美は犬の後ろを指差している。ジョンは生きていた。生きるということが摂取と排泄の繰り返しならば、たしかに生きていた。「公園で遊んでいい?」

「いいよ」信号を渡ると、小さな公園があった。小さいながらも季節によって色とりどりの花々が咲き、老若男女がその場に足を運んだ。娘は先ずは滑り台の階段を登り、うえから手を振った。ぼくはベンチに座り、同じように手を振り替えした。ジョンはその横で疲れたのか寝そべっていた。

「こんにちは、由美ちゃん元気ね」と近所の主婦がぼくに声をかける。彼女も自分の息子と公園に来ていた。「お仕事、はかどってますか?」
「まあまあです」水沼さんはぼくの仕事を知っていた。由美が彼女の息子にぼくの仕事を告げ、それを彼女に話したらしい。その前は、無職の男性でも見るような嫌な視線を送ってきたが、ある日から変わった。輝ける芸術家の夫。「いまも構想中です」

 そのひとの息子と由美はなにかの拍子に怒鳴り合っていた。順番かなにかの問題だろう。彼女は息子の名を呼び、「男の子なんだから譲ってあげなさい」と言った。それで一先ず収拾はついた。

 マーガレットは避暑の前に自分の母親と言い争っていた。大学の年度が変わる前に男性から手紙をもらった。将来が約束されている家柄も良い男性からの。その手紙に返事を書かない。また郵便で手紙が届いたが、封もあけずに自分のテーブルの上に置いたままだった。

「失礼になるから、近況でもなんでも良いから、とにかく返事を出しなさい」
「わたしの人生だから」そういうことをマーガレットは母に言う。
「あなたの幸せは、わたしの幸せでもある」と母はマーガレットに言う。そして、冷たい言葉の応酬ということになった。
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壊れゆくブレイン(63)

2012年05月15日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(63)

 広美は父を亡くして10数年を経過し、その半分ぐらいの年数にまがいものの父がいた。父というより母の愛したひとだった。だが、本物と偽者の差などいったいどこにあるのだろう。継続すべきものが本物であり、中断するものが偽者である。そう定義するなら、ぼくは、また同じ理由で裕紀の思い出の一部を失い続けていくのだろう。

 ぼくらは、根本的に大切なものを失ったグループの一員だった。もちろん、雪代もそうだった。そういう儀式を済ませるため、ふたりは出かけていた。島本さんもいなければ、彼の母もこの世にいない。まゆみの生まれてきた子どもの代わりに、いなくなるひとも多くなった。ぼくの会社の社長も亡くなり、もちろん、誰よりも大切な存在であった裕紀もいなかった。

 外は雨が降っている。窓は閉めてあったが、湿気は室内にいても感じられた。その重たい雨の気配が過去へとぼくを導くようだった。過去は人間の順番待ちの行列のようにぼくの向こうに並んでいた。生きているひとも死んでいるひとも自分のことを思い出してもらいたがっているように、そこに整然と並んでいた。

 最初にいるのは、病院のベッドで横たわる裕紀。まだ回復が見込まれていた時期だ。ぼくは、直ったらしてあげられそうなことをたくさん発見する。自分の指の指紋のかたちを改めて見つめたように。仕事と仕事の合間に見舞いに行った短い間だったが、それをはっきりと思い出している。その後、ぼくを見送るようになった叔母と連れ添って歩いた。

「ある朝、あるお店で、ひろしさんを発見する」
「なんのことですか?」
「さっき、裕紀ちゃんに聞いたのよ。東京に居るはずのないひとが目の前にいた」
「ああ、ぼくらの出会い。いや、再会ですね」
「そのひとは自分に気付かない。なにかに意識を集中しているようだった」
「東京での生活にも慣れていない時期だったんです。会社もまだ自分に馴染んでいなかった。それで周りのものに関心をもてなかったのかもしれない」

「合図を送ろうとしたかったけど、実際はしなかった。なにかが躊躇させた」
「ぼくは、裕紀を裏切ったことがあるから」
「でも、彼女は結婚すべきひとは、このひとだと思ったんだとか」
「ぼくもです。いや、そうかな? 東京で味方を見つけられたと思ったのかな」
「妻が味方なんて一番じゃない」叔母は微笑んでそう言う。「その再会が、こんな形になってしまったのを彼女は悔いている。慰めてあげたんだけど」
「直ぐ治りますよ。これは一時的な試練だから。ぼくらの一時的な」
「じゃあ、そういうことを言ってあげて」
「言ってますよ」
「じゃあ、もっと言ってあげて。優しい言葉が一番の治療になるから」

 そこで、ぼくは病院の外に出る。タクシーを拾い、次の約束の場所を運転手に告げた。
「お見舞いですか?」
「妻が病気で」
「それは、大変ですね。仕事にも身が入らないでしょう・・・」それから、彼は自分の体験談を話す。病気の妻を自分のタクシーで病院に連れて行ったこと。何よりもそのときの運転が注意とスピードのバランスを保てたこと。「いま、乗ってるお客さんに話すようなことじゃないんですけどね。今日も安全運転ですよ」

 彼にも思い出がある。ぼくは語るべき優しさが含まれている言葉を見つけようとしている。

「うちで働かないか?」

 社長は、そうぼくを誘った。宇宙のはじまりのようにまだ完全なる形となっていなかった会社。ぼくはラグビーで夢を叶えられず、大学の勉強の成果を実際の仕事に向けることができなかった。投げ槍でもなかったが、このひとも魅力のためにいっしょに働いて、形あるものにしたいとも思っていた。それは確かにそうなり、いくつかの支店もできた。ビルやマンションはひとびとを集め、生活をよりよいものにしようという幻想をいくつかは実現した。ぼくは、そのビルのひとつにいる。東京で画廊を営む女性。彼女に向かって賃貸の契約書を取り出す。彼女はそれに同意した。壁には裕紀に似た少女の絵が飾られている。いまは、ぼくの実家になぜだかあった。

「ただいま、疲れた」
 雪代と広美が入ってくる。彼女たちは黒い服装をしている。
「こんな写真があったよ。パパとひろし君がいっしょに写っている」

 広美はぼくに何枚かある写真の一枚を手渡した。そこには10人ほどの男性がラグビーのユニフォームを着て写っていた。まだ10代の半ばのぼくたち。それが、どのようなときに写されたのかはもう覚えていなかった。だが、ぼくらは確かにそのなかにいた。

「覚えてないな。でも、なんかの試合か練習のときだったろうね。みんな、若さに溢れている」
「ママのふたりの結婚相手」
「たまたま同時にそこにいた。普通は大好きになって、別れて、違う場所で新しい恋人を見つけるのに」雪代は自分のもっている恋のイメージを披露する。

「そんなことないよ。広美だって」ぼくは余計な口を挟む。「でも、こんな写真があったんだ」
「わたしもこのふたりから影響を受けた。健康さと、あと、なんだろう?」
 広美はぼくに視線を向ける。ぼくは、その10代をいっしょに暮らした少女にいったい何を示してこれたのだろう? 耐えること。失ったものを一時的に忘れて笑い続けること。それならば、彼女もしてきた。そばにいるものへの愛着。いないものへの憧憬。ぼくは裕紀を失った試練と同等のものを抱えているひとりの女性になりつつ存在を見つけていたのか?
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壊れゆくブレイン(62)

2012年05月11日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(62)

 ぼくは甥っ子のサッカーの試合を見ている。雪代がとなりにいた。彼女は陽を遮るように大きな縁のある帽子を被っていた。横で歓声をあげたり、その合間にコーヒーを飲んでいた。試合は、どこかピリッとしたものに欠け、甥のチームは格下の相手に実力を出せないでいた。

 ぼくらと離れているが左側の前方には広美がいた。横には男性が同じように座っていた。ここからでは背中だけしか見えない。
「あれが、新しいボーイフレンドなんだ?」ぼくは、試合に興味を失いかけ、そう雪代に訊いた。
「そうみたい。最近、長電話している」
「前の子は?」
「さあ」
「さあって?」
「別れたんでしょう。二股とかするような器用な子じゃないので。誰かみたいに・・・」
 ぼくはそれに返事をしないでいる。了承とも呼べそうな、無言の抵抗とでもいうようなタイプの沈黙だった。
「ふたりが並んでいるのを見て、似合っているなとか、なんで、とか、あれ、どういう感じなんだろうね」
「それで、あのふたりは?」
「背中だけだと、やっぱりね。評価に難しい」

「そのひとの友だちの評判もあるし。わたしは、ひろし君のお友達から評判が悪かった」
「むかしの話だよ。それに非難したのは、ぼくの行動に対してだから」
 そうしていると前半が終わった。ゴールを奪えるシーンは何度かあったが、それでも両チームとも無得点のまま時間が過ぎただけだった。広美の横にいる青年が、階段をのぼってきた。最初からここにいることを知らされていたのか、こちらに軽く会釈した。それで、ぼくと雪代も同じように振舞った。
「ハンサム」雪代がただその四語をかみ締めるように言った。
「親子とも外見を重視する」

「どこが?」と雪代は笑いながら言った。すると、両手に紙のコップを持って、先程の青年が階段を降りている。その背中に視線が集中していることを理解している様子があった。雪代はある面では、娘をたまたまいっしょに住んでいる女の子とでも思っているような節があった。それは、途中でぼくがその家族に割り込んだ所為かもしれず、そのまま二人で暮らしつづけていたら、もっと密接な濃度の濃い親子関係が築かれていたかもしれない。反対にもっともっと淡い関係が生まれていたのかもしれない。だが、今の状態が双方にとって居心地の良いものらしく、ときに喧嘩をするにせよ、普段は年の離れた友人のように何事も屈託なく話し合った。

 目の前では後半の試合がはじまった。なにかいままで用事があったのか、それとも、大きくなりすぎた息子の試合など関心がなくなったのか、ぼくの妹がやっととなりに座った。

 妹と雪代は視線だけで簡単な挨拶をした。妹は直ぐに試合に注目することをやめ、周りをざっと見回していた。
「あれ、広美ちゃん?」彼女は、前方を指差した。
「そうだよ」
「となりに男の子がいる」
「いるね」
「似合っている」
「背中だけで分かる?」
「それは、分かるよ」

 そう言うととなりで悲鳴を上げる雪代の声があった。待ち続けた念願のゴールが入った。それを決めたのは甥だった。ぼくと妹はその大切な瞬間を見逃していた。その大きな声に驚いたのか広美がはじめて振り返った。親の声は直ぐに分かるらしい。そこには怪訝さが含まれていた。新しいボーイフレンドを意識してなのか、それともたた単純に恥ずかしかったからなのかは分からない。

「やっと、入った。これを守りきれば」と妹は言う。だが、時間的に守りを固めるには早過ぎた。その考えを知られたのか直ぐに同点になった。遠くで今度は広美が嘆きの声をあげた。親子はどうも似ているらしい。

 そのまま試合は終わってしまった。簡単に勝てそうな相手にもたつき、逆に強そうな相手に最高の実力を見せる。世の中はままならないようにできているらしい。

 そこに広美が歩いてきた。

「ママ、うるさいよ。あ、おばさん、こんにちは。そう、今日、夕飯いらないから。その変わり、ちょっと食事代ちょうだい」
「男の子に出してもらえば?」そう言いながらも雪代は財布を開いている。
「たくさん、稼ぐようになったら、出してもらう。ありがとう」そして、背中を見せて歩いて行った。
「かずや君には、誰か好きな子が?」雪代は財布をしまいながら言う。

「いるんでしょうけど、馬鹿みたいにサッカーばっかりしている。お兄ちゃんとは大違い。そうだ、たまにはうちに来る。あの子、なんだか料理が好きになって」と、姪のことを妹は話した。ぼくらには予定はなく、ちょっと寄り道をしてから行くと伝えた。仕事を離れ外気にあたるのは心地の良いものだった。ぼくは湿ったような空気の匂いを嗅ぎ、むかし、同じように走り回ったころのことを思い出している。それは、広美の背中を見た所為かもしれず、不甲斐ない試合をしたやるせない気持ちを抱いているスポーツに明け暮れる青年たちをみた所為かもしれない。若さは走馬灯のように去り、ぼくは徐々にひろがり根を張っていく人間関係を感じている。幼かった女の子は自分の手で料理を作り始め、それを誰かに披露したいと思っていた。そういうことが生きている証のようだった。ぼくらは雪代の店のそばの評判の良いケーキ屋さんに入り、いくつかチョイスして妹の家に向かった。
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壊れゆくブレイン(61)

2012年05月08日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(61)

 広美はまゆみの家に遊びに行き、帰ってきた。まゆみは夫の仕事の関係上、京都で暮らしていた。まゆみを幼少のころから知り、その無鉄砲さと率直さは、ぼくが抱く京都のイメージとは不釣合いだったが、彼女も大人になり母になり、それらしく変わっていくのだろう。

「まゆみちゃんの子ども、どうだった?」と雪代は関心を隠し切れない態度で訊いた。
「大きくなって、可愛くなってた」
「あなたもお母さんになりたくなった?」
「お母さん?」急に問われた質問に怪訝な様子を示しながら広美は返答する。「まだ、先だよ。順番を踏んでから」
「弟か妹を欲しくなった?」
「なに、急に、気持ち悪いな」

「まあ、可能性の話よ」雪代はそこで口を閉じる。彼女の体内に宿って育つ可能性は確かに減っていた。だが、ぼくは敢えて、そういうものを深いところでは望んでいないのかもしれない。ぼくは、裕紀に与えられなかったものを、今更、誰かと共有して楽しもうという気持ちなど芽生えてこなかった。しかし、結果としてそうなれば、また違った気持ちも生まれてきたのかもしれないが。「ひろし君は自分の遺伝子を残していないから」
「急に難しい話になったね」ぼくは、話題を反らすようにそう言う。それから、まゆみがベビーカーに子どもを乗せ、それを押しながら京都の町を広美といっしょに観光した話を聞く。彼女は中学のときにも修学旅行で行ったはずだが、その印象が今回の旅行ですっかり入れ替わったそうだ。

 広美はバックの中から衣類を取り出し、洗濯機に放り込みスイッチを入れた。それから風呂に入り、早目に自分の部屋に引き上げた。

「ごめん、眠いから干しておいて」と、母に言葉を残した。
 ぼくと雪代はテーブルに向かって座っている。
「京都か」ぼくは溜息混じりに言う。
「あんまり、そっち方面行かないね?」
「関西方面は仕事のテリトリーじゃなかったから」
「建っていくビルやマンション」
「そう、だから無関心だった」
「でも、広美はいっぱいいろいろなところに友だちを作って欲しい」
「仕事でもするようになれば、若い女性も飛び回るような世の中になるよ」
「銀色のスタイリッシュなバックを小脇に抱え」雪代は笑う。「ひろし君は、子どもいいの?」まじめな顔付きで雪代は問いかける。

「いいも、なにも出来ないよ」
「なんで?」
「誰かがそう決めたんだろう」
「そう」
「雪代も、そんなに若くない」
「あら、最近の医学をなめている。でも、広美を育ててるとき、大変だったけど、楽しかったな」
「ぼくは知らない」
「でも、ふたりで楽しい生活があったんでしょう?」
「あった」
「見返りがいらないほど・・・」

「まあ、でも、もうぼくの物語はそこにはないから」そういう言葉を語ったが、実際は別だったかもしれない。ぼくの一部は裕紀との生活をまだ続けているのかもしれなかった。その小さな失われた可能性にスポットを当て、いろいろな角度から思考し、模索していた。結局、答えはないのだが、ぼくは人生の逃避の一部として、そこに逃げ込む時間が確かにあった。

「わたしは、あのひとのこと思い出さない、全然」と、残念そうに雪代は言った。彼の前の夫である島本さんはその言葉を聞いたら、どういう感情を抱くのだろう? 彼なら、「清々する」とでも言いそうだった。ラグビーのユニフォームの襟を立て、そのままどこかに走って消え去りそうだった。「なんでだろう?」

「前向きにできているんだろう」
「ひろし君はときどき後ろ向き」
「失敗から学ぶから」
「違うよ。失敗を愛おしいと思っている。今だから言うけど、全国大会に行けない自分が好きだったでしょう?」
「そんなことないよ。あそこで活躍してそこそこの名声を得て、だいぶ、ちやほやされる」
「わたしが、あんなに愛したのに?」
「まあ、充分だったけど」
「もう、寝る?」
「洗濯物は?」
「あ、そうだ」
「ぼくも手伝うよ」
「じゃあ、このお皿洗って」ぼくは皿を重ね、シンクのなかに入れ、水を出した。スポンジはいささかくたびれ、交代要員を探していた。雪代は窓を開け、ベランダの下部に衣類を干した。風が気持ちよく、夜の匂いを運んできた。それが終わるとまた窓が閉まった。

「スポンジ、古びてる」
「そうだ、買ってあるのよ。明日、出す」
 ぼくは手を拭き、寝室に入る。ベッドに潜り込むと、横に雪代が入って来た。彼女の匂いがぼくを安心させた気持ちにする。
「弟か、妹を広美に造ってあげないと」と、雪代はふざけた口調で口にする。ぼくらは出会い、別れた。そして、お互いの再婚相手としてまた見つけた。その期間がどこかでずれていたら、ぼくは自分の子どもを抱く雪代の姿が見られたのかもしれなかった。ぼくらは若さゆえの強情さと、なにかを撥ね退けたい力とで運命を狂わせた。しかし、ぼくはこの夜に隣に彼女がいることが自分にとってどれほど大切かということに気付かされたのだ。あのときは知らなかった。26歳のぼくは彼女と別れ、ある意味ではその状態に立ち向かおうとしていたのだろう。実際にその力はぼくの内部にきっちりと内包されていたが、その力を失ったぼくの安楽な気持ちは彼女の腰の丸味がいかに魅力的かということにも気付いていたのだ。このベッドで。
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壊れゆくブレイン(60)

2012年05月01日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(60)

 社長がいなくなった会社はどこか別物だった。そして、いなくなったひとの全体像をぼくらはいかに知らないかという実感もまた覚えるのだ。それから、あのひとの残した些細な言葉の真の意味合いを覚ったり、再度発見したりもした。それで、またうろたえた。誰かがいないということだけで。

 ぼくは松田と会う。彼とは幼いころからの友人だったが、ぼくからとは違うルートで彼の会社に仕事を依頼していた。そこには社長が大きく関与し、彼の会社の利益の多くはそこから派生していた。それだけではないが彼も悲しんでいるひとりだった。

「ひろしのことも良く話していたぞ」
 ぼくが知らないところで、自分が話題のうえにあげられていた。ぼくは目上のひとから言われたかった言葉を友人経由で手に入れる。だが、実際に当人から直接言われたら数倍も嬉しかっただろうという内容だった。ぼくらは言葉や感謝を控えすぎているのだろうか? 遠慮しすぎているのだろうか? ぼくも社長に言うべき必要のある言葉が多々あった。それは山脈のように、またはネックレスのように連なっていて消えなかった。

「それで、後釜の担当は?」
 彼は名前を言って、名刺を取り出した。頼りになる女性だった。ぼくは彼女の特徴や好みを伝えた。特徴や趣味? そういったもので人間は構成されているのだろうか?
「ひろしは会社に不満はない?」
「ないこともないけど、そう特別には」
「転職とかは?」
「考えてもいない」

「最近は人材を買うとか買わないとかでオレのところにも何人か来た」
「そうなんだ。引っ張りだこ?」
「ただの調査だよ。これでも、自分の会社を軌道に乗せてるから、それをどっかで役立てないかとか。ひろしにも声がかかっても良さそうだなと思って」
「ぼくは、社長がいちばん評価してくれてたから」
「実感があるんだ?」
「もう20年も付き合ってきた。学生のバイトをしたときも加算すればそれ以上。妻より長い」
「2人の妻。ごめん、酔ってきた」

「ぜんぜん。2人の妻より長い。事実だよ」それから、ぼくは彼の家族の話をきく。彼の妻は洋服やバックを作り、店の片隅に置いたものが売れ出して、それを主婦たちに教える日常が舞い込んできた。彼女は高校生のときに妊娠してひとりの息子を産んだ。学生時代の少なかった彼女が大人になり、また共同してなにかを始めるという生活に入ったことがぼくは嬉しかった。その息子も20代の半ばになり、交際相手を家に連れてきている。そう急かさずに自分の人生や未来を決めるようにと松田はアドバイスする。自分には誰かがしてくれなかったことだったとしても。

「仕事がいやになったら、これでもコネがあるから、お前をどこかに紹介してやるよ」と、帰り際に酔った松田はそう言った。その言葉をお土産にして、ぼくは帰り道を一人歩いている。10分ほどの帰り道の途中で娘に会った。

「お酒を飲んでたの?」
「学生からの友人とひさびさに会った」ぼくは彼のことをかいつまんで話す。それを誰か第三者に伝えるという経過を通して、そのひとが具体的に生きている形として再発見された。
「ママもその友だちを知ってる?」
「知ってるよ。まだ広美が存在するずっと前。そこの子どもがとても可愛かった。でも、もう20代も半ばになるんだって」
「大人だね」
「大人だよ。嬉しくもあり、すこし気持ちの行き場が気持ち悪い」
「どうして?」
「膝に乗って眠ったあの子のままでいて欲しかったなとか」
「無理だよ」
「そう、無理だよ。大人になって、いつか大人も越えてしまう」

「おじいさんやお婆さんにならないひともいる」
「君のパパや裕紀みたいにね」
「でも、年取ったほうがいい?」
「思い出も増えるし、誰かの成長を見守ることもできる」
「今度の休み、まゆみちゃんの家に泊まりに行くよ」
「そう。大きくなったかな?」それは彼女の子どもを指して使った言葉ということを互いに知っていた。
「見てくる」
「抱いてくる。そう言えば、ぼくが広美を抱いたということを記憶として留めてるって・・・」
「言った。分からないけどある」
「その子も、覚えてくれるかな?」
「さあ、バスケットボールぐらいの重さかな」彼女は日頃、触りなれているものと比較して語った。そのまま、大して話すこともできず家に着いた。

「なんだ、いっしょだったの?」雪代が振り返り言う。料理の仕度をしていた。
「そこで、いっしょになった。ひろし君もうお酒を飲んでるよ。友だちと会ったって」
「そう、誰と?」
「松田と。転職するなら、どこかに紹介してあげるだって」
「するの?」
「しないよ。ただ、路線変更をしたときをイメージしてみただけ」
「社長もいなくなったし」
「松田も世話になったと言ってた」
「奥さん、地区センターでバックなんかを作っているよ」
「なんだ、知ってたの?」
「小さな街だよ」雪代はそう言って作り終えたらしい料理を皿に盛り付け、テーブルに並べた。ぼくはビールを冷蔵庫から取り出し、つまみとしてそれらを食した。
「広美、まゆみちゃんに会いに行くって」ぼくは彼女らのいまの映像ではなく、数年前の印象をあたまに浮かべていた。誰かがそばに寄り沿い、頑なに守る必要がある存在としての。
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