壊れゆくブレイン(68)
広美は自分の将来の方向を決めかねている。まだ10代の半ばの女性に完全なる答えを求めるのは酷かもしれなかった。自由と干渉の狭間に子どもはいる。ぼくと雪代は自由の多いほうに広美を置いた。それが彼女にとって幸福であるのか不幸であるのかぼくらには分からなかった。選択の幅が広ければ可能性も深まっていくように思えたが、その数え切れない選択が方向性を見誤せるのかもしれない。
ぼくらはただの一直線の道を進んでいるわけではないことを改めて知る。ぼくは、まゆみという女性のことを考えている。彼女はバイト先の店長の娘としてぼくの前にあらわれる。幼少期の彼女をぼくは可愛がった。青春期にスポーツ選手になり地元の新聞を賑わせた。それから、大学生になった彼女は酔ったぼくの前にあらわれる。ぼくは裕紀を失った痛手から立ち直れずにいた。あの小さな女の子だった彼女がぼくの悲しみを労わってくれた。そこで、自由に育ちすぎていた広美の面倒を見るために、彼女は広美に勉強を教え、友人にもなった。大人として旅立つ前に彼女は身ごもった。その運命を無にする可能性だってあったかもしれないが、ぼくは誰かを失うことを許しはしなかった。それで、彼女はいま母になっている。ぼくは、そのことを知っておりタイム・マシーンでもあれば、あのバイト先の少女に教えてあげたいとも思う。いくつかのことに注意するように。また、避けようと思っても別のなにかが彼女に与えられ、奪っていくのだろうとも教えたかった。
ぼくにも大切なものがあったが、いくつかは取り除かれた。また大事なものも腕のなかに放り込まれた。それを抱え込むのも、落としてしまうのも自分の問題だった。だが、今後はより一層落として失わないように注意を払うのだろう。それが大人になることのようだった。もう大人を何十年と過ごしてきたが。
でも、まじめ過ぎるのもあきらめ、いや戒め、ぼくと広美はスポーツ・バーで座っている。
「この前、ホテルでパーティーがあって、前の先輩に会ったよ」
「電話できいた」
「そう。仕事、楽しいって?」
「覚えることがあって、大変だって。でも、前に会ったときに顔付きが変わっていた」
「どんな風に?」
「きりっとしてた。世間の風に揉まれた感じ」
「広美は大学に?」
「東京に行ってもいいかな」
「いいよ。雪代は知ってるの?」
「まだ、言ってない。許してくれるかな」
「雪代が反対するわけないじゃない」
「ただ、言ってみただけ。ひろし君との甘い生活が待っているママには」
「4年間だろう?」
「当面は」
「なんでも応援するよ。雪代もぼくも」ぼくはモニターから視線をはずして彼女の方に向いた。「恋をして、勉強して、思い出をたくさん作って」
「うん」
「失恋して、泣いて、思い出をつくって」
「馬鹿みたいだよ。ひろし君もした?」
「あいにく上手くいったけど、もっと大きな痛手もあったしね」
「前の奥さん?」
「それもあるし、ぼくと雪代は別れて、また島本さんと彼女は縒りをもどしたこともあるしね」
「その結晶がわたしだから。それは恨まないで」
「恨んでないよ。ただ、失恋もしておくべきだよ」
「おじさんくさい」
「おじさんだもん」
ぼくらはまたぼんやりと映像を眺める。アメリカン・フットボールの大事な決勝の試合があった。大柄な男性たちがぶつかりあっている。その大きな鈍い音と衝撃が画面やスピーカーを通してあらわれた。
「近藤さんと広美ちゃんも、なにかおかわり持ってきます?」
店員の男性が訊いた。
「同じもの」と、広美は華奢な指でグラスを指差した。「わたし、大学に落ちたら、ここで雇ってくれます?」
「大歓迎ですよ。広美ちゃんみたいに可愛くて、しっかりしていれば。危ないときは、お客さんのなかにボディー・ガードもいるし」
「ぼくのこと?」ぼくは、自分の鼻先に指で触れた。
「さあ」と言ってその店員は背中で笑いながら二つの空いたグラスを持ち去った。
モニターの映像は大柄な男性から躍動感が伝わるミニスカートの女性たちに代わった。彼女たちは踊り、練習の成果を見せていた。だが、彼女たちがいったいどのような10年後を迎えるのか、まったくもって分からなかった。
「はい、就職祝いの手付金」さっきの店員は二つのグラスを満たして持ってきた。だが、無駄口はそこで終わり入り口からはいってきた若い男女を目敏く見つけ、そのひとたちの応対に追われた。
また画面では大男たちの疾走する姿に変わっていた。その前にすすむという行為はなかなか捗らず一進一退を繰り返していた。
「ひとは自分に向いていることをするべきだね」広美がぽつりという。「彼が、机の前にすわって帳簿を見ている姿が想像できない」
「店長だから、裏ではもちろんそういうこともしているだろう」
「そうなのかな」
「雪代だって、家でしているじゃないか。税金の時期にはとくに」
「そうか」
「そうだよ」
「そろそろ、帰る?」壁にも時計があったが、広美は自分の左の手首を見た。「スーパーに寄って。わたしが今日作るよ」
「そう、じゃあ後で雪代に電話しておく」
「荷物ももってよ」
ぼくらは外に出た。彼女の大学の受験は多分、来年のいまごろになるのだろう。あの少女が大きくなり東京でひとりで暮らす時期が来るのかもしれない。こっちに残るのかもしれない。どんな未来だって、彼女は乗り越えるだろうというおかしな信念がぼくにはあった。その母も20年も前に同じようにひとりで東京にいた。時間の疾走感にぼくは呑み込まれて窒息するような息苦しさと高揚を覚えていた。
広美は自分の将来の方向を決めかねている。まだ10代の半ばの女性に完全なる答えを求めるのは酷かもしれなかった。自由と干渉の狭間に子どもはいる。ぼくと雪代は自由の多いほうに広美を置いた。それが彼女にとって幸福であるのか不幸であるのかぼくらには分からなかった。選択の幅が広ければ可能性も深まっていくように思えたが、その数え切れない選択が方向性を見誤せるのかもしれない。
ぼくらはただの一直線の道を進んでいるわけではないことを改めて知る。ぼくは、まゆみという女性のことを考えている。彼女はバイト先の店長の娘としてぼくの前にあらわれる。幼少期の彼女をぼくは可愛がった。青春期にスポーツ選手になり地元の新聞を賑わせた。それから、大学生になった彼女は酔ったぼくの前にあらわれる。ぼくは裕紀を失った痛手から立ち直れずにいた。あの小さな女の子だった彼女がぼくの悲しみを労わってくれた。そこで、自由に育ちすぎていた広美の面倒を見るために、彼女は広美に勉強を教え、友人にもなった。大人として旅立つ前に彼女は身ごもった。その運命を無にする可能性だってあったかもしれないが、ぼくは誰かを失うことを許しはしなかった。それで、彼女はいま母になっている。ぼくは、そのことを知っておりタイム・マシーンでもあれば、あのバイト先の少女に教えてあげたいとも思う。いくつかのことに注意するように。また、避けようと思っても別のなにかが彼女に与えられ、奪っていくのだろうとも教えたかった。
ぼくにも大切なものがあったが、いくつかは取り除かれた。また大事なものも腕のなかに放り込まれた。それを抱え込むのも、落としてしまうのも自分の問題だった。だが、今後はより一層落として失わないように注意を払うのだろう。それが大人になることのようだった。もう大人を何十年と過ごしてきたが。
でも、まじめ過ぎるのもあきらめ、いや戒め、ぼくと広美はスポーツ・バーで座っている。
「この前、ホテルでパーティーがあって、前の先輩に会ったよ」
「電話できいた」
「そう。仕事、楽しいって?」
「覚えることがあって、大変だって。でも、前に会ったときに顔付きが変わっていた」
「どんな風に?」
「きりっとしてた。世間の風に揉まれた感じ」
「広美は大学に?」
「東京に行ってもいいかな」
「いいよ。雪代は知ってるの?」
「まだ、言ってない。許してくれるかな」
「雪代が反対するわけないじゃない」
「ただ、言ってみただけ。ひろし君との甘い生活が待っているママには」
「4年間だろう?」
「当面は」
「なんでも応援するよ。雪代もぼくも」ぼくはモニターから視線をはずして彼女の方に向いた。「恋をして、勉強して、思い出をたくさん作って」
「うん」
「失恋して、泣いて、思い出をつくって」
「馬鹿みたいだよ。ひろし君もした?」
「あいにく上手くいったけど、もっと大きな痛手もあったしね」
「前の奥さん?」
「それもあるし、ぼくと雪代は別れて、また島本さんと彼女は縒りをもどしたこともあるしね」
「その結晶がわたしだから。それは恨まないで」
「恨んでないよ。ただ、失恋もしておくべきだよ」
「おじさんくさい」
「おじさんだもん」
ぼくらはまたぼんやりと映像を眺める。アメリカン・フットボールの大事な決勝の試合があった。大柄な男性たちがぶつかりあっている。その大きな鈍い音と衝撃が画面やスピーカーを通してあらわれた。
「近藤さんと広美ちゃんも、なにかおかわり持ってきます?」
店員の男性が訊いた。
「同じもの」と、広美は華奢な指でグラスを指差した。「わたし、大学に落ちたら、ここで雇ってくれます?」
「大歓迎ですよ。広美ちゃんみたいに可愛くて、しっかりしていれば。危ないときは、お客さんのなかにボディー・ガードもいるし」
「ぼくのこと?」ぼくは、自分の鼻先に指で触れた。
「さあ」と言ってその店員は背中で笑いながら二つの空いたグラスを持ち去った。
モニターの映像は大柄な男性から躍動感が伝わるミニスカートの女性たちに代わった。彼女たちは踊り、練習の成果を見せていた。だが、彼女たちがいったいどのような10年後を迎えるのか、まったくもって分からなかった。
「はい、就職祝いの手付金」さっきの店員は二つのグラスを満たして持ってきた。だが、無駄口はそこで終わり入り口からはいってきた若い男女を目敏く見つけ、そのひとたちの応対に追われた。
また画面では大男たちの疾走する姿に変わっていた。その前にすすむという行為はなかなか捗らず一進一退を繰り返していた。
「ひとは自分に向いていることをするべきだね」広美がぽつりという。「彼が、机の前にすわって帳簿を見ている姿が想像できない」
「店長だから、裏ではもちろんそういうこともしているだろう」
「そうなのかな」
「雪代だって、家でしているじゃないか。税金の時期にはとくに」
「そうか」
「そうだよ」
「そろそろ、帰る?」壁にも時計があったが、広美は自分の左の手首を見た。「スーパーに寄って。わたしが今日作るよ」
「そう、じゃあ後で雪代に電話しておく」
「荷物ももってよ」
ぼくらは外に出た。彼女の大学の受験は多分、来年のいまごろになるのだろう。あの少女が大きくなり東京でひとりで暮らす時期が来るのかもしれない。こっちに残るのかもしれない。どんな未来だって、彼女は乗り越えるだろうというおかしな信念がぼくにはあった。その母も20年も前に同じようにひとりで東京にいた。時間の疾走感にぼくは呑み込まれて窒息するような息苦しさと高揚を覚えていた。