Untrue Love(18)
ぼくは駅でユミを待っている。そばには横浜の大きな野球場があった。野球のシーズンはもう終わり、いまはどのようにそこが使用されているのか、それとも、使われていないのか考えていた。座るひともいない、いくつものシート。そこには屋根がなく、いまは太陽が上空にあった。白い雲も一部を覆っていたが、雨はまったく降りそうもなかった。ぼくはさらに待ちながら、それは数分にも満たないが、過去の野球選手の名前を頭のなかで羅列している。感動を与えられた事実も思い出そうとしたが、それは無理で、ぼくは名前を浮かべることがやっとだった。すると、ユミがあらわれた。彼女はもちろん名前だけではなく、実体をともなっている。何もない地味な改札口だが、そこはユミがいることによって華やかなものになった。ぼくは、彼女をいつか思い出すときに名だけではなく、この瞬間も思い出せることを知ったのだ。そして、希望していた。
「電車、間違えそうになった。待ってる間、何してた?」
「野球選手のことを考えていた。ほら、あっち」ぼくは球場を指差す。だが、視野をさえぎる樹木や信号があった。少し歩くと目の前に全貌をあらわす。
「好き? 野球」
「普通に見るよ。子どものときは親父がテレビで見てたし」
「女の子は歌番組を見たいんだけど。最近も観に行った?」
「この前、行ったね。ルール分かる? 野球の」
「なんとなく。ぼんやりと。ソフト・ボールは学校でやったから」
「そうか。大きなボール」ぼくは手の平でその形状を示した。「いま、海の方まで歩いているんだ、説明すると」
「太平洋?」
「そういう風に考えたことはなかったけど。ただ、広い海。船が浮かんで」
「赤いレンガの建物もあるんでしょう?」
「あるよ。あとで見に行こうか・・・」彼女は頷く。昼のユミ。彼女は雑踏の路上にいる。最近は見かけないこともあった。ビルのなかで誰かの頭を洗っているのかもしれない。ひとびとはきれいになることを求め、髪型を模索した。ぼくはあらためて自分の髪を触った。無雑作という文字でしか表現できないような気がした。
ぼくらは通りを渡り、海を目の前にする。五感は潮の匂いを嗅ぐ。顔にぶつかる冷たい空気も感じる。ユミはくしゃみをした。
「寒い?」
「ううん」彼女は首を左右に振る。「いつもいるとこより、空気がきれい過ぎるのかも。最初のデートって、こういうところに来るんだ」彼女はそのまま首をまわして辺りを眺める。目の大きさが一回り増したような印象だった。何事も見逃さないという視線でもあった。
「誰に教えられるわけでもないけど。違うかな、それはどこかでこんなものだろうと真似しているのかもしれないね」
「真似でも、楽しそうだからいいよ。楽しいからいいよ」ぼくらはそれからベンチに座る。前に来た数年前のときは銀杏の黄色が路面にあったようにも思うが、いまはすべて吹き飛ばされていた。間もなく一年も終わる。ぼくは高校生から大学生になった。親元から離れ自由の範囲とその適用をさがしていた。それで、いまはとなりにユミがいる。そして、今度はぼくがくしゃみをする。
「寒いの?」
「少しね。歩こうか?」ぼくらはレンガの建物の方まで歩く。ユミは歓声をあげる。ぼくらはそれぞれ二十年ぐらいしか自分たちの歴史がなかった。しかし、ここに立っていると波乱があった歴史の一部をくぐりぬけたような錯覚をいだいた。もうずっと前から互いを知っていたような誤解があり、もしかして、最初のデートの相手も彼女に似ていたかもしれないという誤りも含んでいた。
「ユミちゃんは、どういうところでデートをしてきたの?」
「さあ。こういうところはないね。ただ、川の横を学校帰りに歩いたり」
「純真。そのときから、いまみたいな仕事に就きたかった?」
「多分、思ってた。もっと、ずっとちっちゃいときからかもね」そこで、彼女はぼくの目を見つめる。「東京にも来たかったし。でも、お腹も空いてきた」
ぼくらはいま歩いてきた道を戻りはじめた。カモメが鳴き、風景に彩りを添えた。汽笛も鳴った。乾いた空気のためかぼくの耳に新鮮に音が届いた。ぼくはユミの耳を見る。そこには大きなイヤリングかピアスがあった。女性のそうしたアクセサリーを確認したことなど、いままでのぼくはなかったような気がした。そのような装飾が無意味なものではないことも知る。風景にも美的な建物があるならば、彼女にも観念以外の美しさがあってもよかった。そして、そのまだ大人になり切れていない、直前の輝きのようなものが彼女にはあった。ぼくは別の女性のことも考えていた。彼女たちは直前という段階ではなかったのかもしれない。スタートは切られており、いまは走っている。だが、ぼくの若さでは女性のゴールなどどこに設定されているのか分からなかった。結婚などはいくつもの山を越えた遠い向う側にあり、ましてや三十代や四十代などのことを考えるのも無理なことだった。
ぼくらは中華街にはいる。耳慣れない不思議な音楽が路上に流れている。店の雰囲気も色合いもそこだけは周囲と隔たっていた。だが、意外なことに、いや当然のことかもしれないが、ユミがそこにたたずんでいると不思議と調和がとれていた。彼女はどこにいても自分の側に引き寄せる何かを発しているのかもしれない。
ぼくは駅でユミを待っている。そばには横浜の大きな野球場があった。野球のシーズンはもう終わり、いまはどのようにそこが使用されているのか、それとも、使われていないのか考えていた。座るひともいない、いくつものシート。そこには屋根がなく、いまは太陽が上空にあった。白い雲も一部を覆っていたが、雨はまったく降りそうもなかった。ぼくはさらに待ちながら、それは数分にも満たないが、過去の野球選手の名前を頭のなかで羅列している。感動を与えられた事実も思い出そうとしたが、それは無理で、ぼくは名前を浮かべることがやっとだった。すると、ユミがあらわれた。彼女はもちろん名前だけではなく、実体をともなっている。何もない地味な改札口だが、そこはユミがいることによって華やかなものになった。ぼくは、彼女をいつか思い出すときに名だけではなく、この瞬間も思い出せることを知ったのだ。そして、希望していた。
「電車、間違えそうになった。待ってる間、何してた?」
「野球選手のことを考えていた。ほら、あっち」ぼくは球場を指差す。だが、視野をさえぎる樹木や信号があった。少し歩くと目の前に全貌をあらわす。
「好き? 野球」
「普通に見るよ。子どものときは親父がテレビで見てたし」
「女の子は歌番組を見たいんだけど。最近も観に行った?」
「この前、行ったね。ルール分かる? 野球の」
「なんとなく。ぼんやりと。ソフト・ボールは学校でやったから」
「そうか。大きなボール」ぼくは手の平でその形状を示した。「いま、海の方まで歩いているんだ、説明すると」
「太平洋?」
「そういう風に考えたことはなかったけど。ただ、広い海。船が浮かんで」
「赤いレンガの建物もあるんでしょう?」
「あるよ。あとで見に行こうか・・・」彼女は頷く。昼のユミ。彼女は雑踏の路上にいる。最近は見かけないこともあった。ビルのなかで誰かの頭を洗っているのかもしれない。ひとびとはきれいになることを求め、髪型を模索した。ぼくはあらためて自分の髪を触った。無雑作という文字でしか表現できないような気がした。
ぼくらは通りを渡り、海を目の前にする。五感は潮の匂いを嗅ぐ。顔にぶつかる冷たい空気も感じる。ユミはくしゃみをした。
「寒い?」
「ううん」彼女は首を左右に振る。「いつもいるとこより、空気がきれい過ぎるのかも。最初のデートって、こういうところに来るんだ」彼女はそのまま首をまわして辺りを眺める。目の大きさが一回り増したような印象だった。何事も見逃さないという視線でもあった。
「誰に教えられるわけでもないけど。違うかな、それはどこかでこんなものだろうと真似しているのかもしれないね」
「真似でも、楽しそうだからいいよ。楽しいからいいよ」ぼくらはそれからベンチに座る。前に来た数年前のときは銀杏の黄色が路面にあったようにも思うが、いまはすべて吹き飛ばされていた。間もなく一年も終わる。ぼくは高校生から大学生になった。親元から離れ自由の範囲とその適用をさがしていた。それで、いまはとなりにユミがいる。そして、今度はぼくがくしゃみをする。
「寒いの?」
「少しね。歩こうか?」ぼくらはレンガの建物の方まで歩く。ユミは歓声をあげる。ぼくらはそれぞれ二十年ぐらいしか自分たちの歴史がなかった。しかし、ここに立っていると波乱があった歴史の一部をくぐりぬけたような錯覚をいだいた。もうずっと前から互いを知っていたような誤解があり、もしかして、最初のデートの相手も彼女に似ていたかもしれないという誤りも含んでいた。
「ユミちゃんは、どういうところでデートをしてきたの?」
「さあ。こういうところはないね。ただ、川の横を学校帰りに歩いたり」
「純真。そのときから、いまみたいな仕事に就きたかった?」
「多分、思ってた。もっと、ずっとちっちゃいときからかもね」そこで、彼女はぼくの目を見つめる。「東京にも来たかったし。でも、お腹も空いてきた」
ぼくらはいま歩いてきた道を戻りはじめた。カモメが鳴き、風景に彩りを添えた。汽笛も鳴った。乾いた空気のためかぼくの耳に新鮮に音が届いた。ぼくはユミの耳を見る。そこには大きなイヤリングかピアスがあった。女性のそうしたアクセサリーを確認したことなど、いままでのぼくはなかったような気がした。そのような装飾が無意味なものではないことも知る。風景にも美的な建物があるならば、彼女にも観念以外の美しさがあってもよかった。そして、そのまだ大人になり切れていない、直前の輝きのようなものが彼女にはあった。ぼくは別の女性のことも考えていた。彼女たちは直前という段階ではなかったのかもしれない。スタートは切られており、いまは走っている。だが、ぼくの若さでは女性のゴールなどどこに設定されているのか分からなかった。結婚などはいくつもの山を越えた遠い向う側にあり、ましてや三十代や四十代などのことを考えるのも無理なことだった。
ぼくらは中華街にはいる。耳慣れない不思議な音楽が路上に流れている。店の雰囲気も色合いもそこだけは周囲と隔たっていた。だが、意外なことに、いや当然のことかもしれないが、ユミがそこにたたずんでいると不思議と調和がとれていた。彼女はどこにいても自分の側に引き寄せる何かを発しているのかもしれない。