爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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Untrue Love(18)

2012年09月30日 | Untrue Love
Untrue Love(18)

 ぼくは駅でユミを待っている。そばには横浜の大きな野球場があった。野球のシーズンはもう終わり、いまはどのようにそこが使用されているのか、それとも、使われていないのか考えていた。座るひともいない、いくつものシート。そこには屋根がなく、いまは太陽が上空にあった。白い雲も一部を覆っていたが、雨はまったく降りそうもなかった。ぼくはさらに待ちながら、それは数分にも満たないが、過去の野球選手の名前を頭のなかで羅列している。感動を与えられた事実も思い出そうとしたが、それは無理で、ぼくは名前を浮かべることがやっとだった。すると、ユミがあらわれた。彼女はもちろん名前だけではなく、実体をともなっている。何もない地味な改札口だが、そこはユミがいることによって華やかなものになった。ぼくは、彼女をいつか思い出すときに名だけではなく、この瞬間も思い出せることを知ったのだ。そして、希望していた。

「電車、間違えそうになった。待ってる間、何してた?」
「野球選手のことを考えていた。ほら、あっち」ぼくは球場を指差す。だが、視野をさえぎる樹木や信号があった。少し歩くと目の前に全貌をあらわす。
「好き? 野球」
「普通に見るよ。子どものときは親父がテレビで見てたし」

「女の子は歌番組を見たいんだけど。最近も観に行った?」
「この前、行ったね。ルール分かる? 野球の」
「なんとなく。ぼんやりと。ソフト・ボールは学校でやったから」
「そうか。大きなボール」ぼくは手の平でその形状を示した。「いま、海の方まで歩いているんだ、説明すると」
「太平洋?」
「そういう風に考えたことはなかったけど。ただ、広い海。船が浮かんで」
「赤いレンガの建物もあるんでしょう?」

「あるよ。あとで見に行こうか・・・」彼女は頷く。昼のユミ。彼女は雑踏の路上にいる。最近は見かけないこともあった。ビルのなかで誰かの頭を洗っているのかもしれない。ひとびとはきれいになることを求め、髪型を模索した。ぼくはあらためて自分の髪を触った。無雑作という文字でしか表現できないような気がした。

 ぼくらは通りを渡り、海を目の前にする。五感は潮の匂いを嗅ぐ。顔にぶつかる冷たい空気も感じる。ユミはくしゃみをした。
「寒い?」
「ううん」彼女は首を左右に振る。「いつもいるとこより、空気がきれい過ぎるのかも。最初のデートって、こういうところに来るんだ」彼女はそのまま首をまわして辺りを眺める。目の大きさが一回り増したような印象だった。何事も見逃さないという視線でもあった。

「誰に教えられるわけでもないけど。違うかな、それはどこかでこんなものだろうと真似しているのかもしれないね」
「真似でも、楽しそうだからいいよ。楽しいからいいよ」ぼくらはそれからベンチに座る。前に来た数年前のときは銀杏の黄色が路面にあったようにも思うが、いまはすべて吹き飛ばされていた。間もなく一年も終わる。ぼくは高校生から大学生になった。親元から離れ自由の範囲とその適用をさがしていた。それで、いまはとなりにユミがいる。そして、今度はぼくがくしゃみをする。
「寒いの?」

「少しね。歩こうか?」ぼくらはレンガの建物の方まで歩く。ユミは歓声をあげる。ぼくらはそれぞれ二十年ぐらいしか自分たちの歴史がなかった。しかし、ここに立っていると波乱があった歴史の一部をくぐりぬけたような錯覚をいだいた。もうずっと前から互いを知っていたような誤解があり、もしかして、最初のデートの相手も彼女に似ていたかもしれないという誤りも含んでいた。

「ユミちゃんは、どういうところでデートをしてきたの?」
「さあ。こういうところはないね。ただ、川の横を学校帰りに歩いたり」
「純真。そのときから、いまみたいな仕事に就きたかった?」
「多分、思ってた。もっと、ずっとちっちゃいときからかもね」そこで、彼女はぼくの目を見つめる。「東京にも来たかったし。でも、お腹も空いてきた」

 ぼくらはいま歩いてきた道を戻りはじめた。カモメが鳴き、風景に彩りを添えた。汽笛も鳴った。乾いた空気のためかぼくの耳に新鮮に音が届いた。ぼくはユミの耳を見る。そこには大きなイヤリングかピアスがあった。女性のそうしたアクセサリーを確認したことなど、いままでのぼくはなかったような気がした。そのような装飾が無意味なものではないことも知る。風景にも美的な建物があるならば、彼女にも観念以外の美しさがあってもよかった。そして、そのまだ大人になり切れていない、直前の輝きのようなものが彼女にはあった。ぼくは別の女性のことも考えていた。彼女たちは直前という段階ではなかったのかもしれない。スタートは切られており、いまは走っている。だが、ぼくの若さでは女性のゴールなどどこに設定されているのか分からなかった。結婚などはいくつもの山を越えた遠い向う側にあり、ましてや三十代や四十代などのことを考えるのも無理なことだった。

 ぼくらは中華街にはいる。耳慣れない不思議な音楽が路上に流れている。店の雰囲気も色合いもそこだけは周囲と隔たっていた。だが、意外なことに、いや当然のことかもしれないが、ユミがそこにたたずんでいると不思議と調和がとれていた。彼女はどこにいても自分の側に引き寄せる何かを発しているのかもしれない。
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Untrue Love(17)

2012年09月29日 | Untrue Love
Untrue Love(17)

 今日もバイトを終える。従業員の通用口を出ると、いつみさんの店がある。実際には駅の方面にちょっとだけ歩くとある。普段、別のルートは使わないので大体は前を通った。彼女の姿が直ぐに見えることもあれば、お客さんの背中しか確認できないこともあった。そうすると、ぼくはまっすぐ前を見て歩いているわけでもなかった。横目で見て店内の様子をうかがう。誰かを自分の視線を通して確認したいということ。それが好意の最初の段階なのかもしれない。だが、すでに好意以上のものが内包されているのかもしれない。だが、自分自身を分析するということは、とても厄介だ。分析より当事者でいるほうが余程、楽しいものだ。だから、ぼくはできれば何事も当事者でいたいと願っていた。

 そのようなことを考えていると、いつみさんの視線がこちらに向けられていることに気付いた。彼女は微笑む。そして、手招きをする。彼女が外に出られる時間ではない。店に寄るひととしか交流ができない。

「帰っても寝るだけなんでしょう? ちょっと寄っていきなよ」彼女は断定的にそう言った。
「決めつけないでくださいよ」
「誰かから、電話が来るとか?」そう言いながらも彼女は空いている座席を示した。
「待ってないですけど」
「こんばんは、順平くん」奥から男性の声がきこえる。
「こんばんは。今日も忙しそうですね」ぼくは声が届いたか分からないがそう返事をした。しかし、きちんと伝わったらしい。

「それほどでも。いま、何か作ってあげるよ」彼がそう言うと、何人かがお会計のために立ち上がった。夜はこの付近の場所にある店と比較すると遅くまで開けていなかった。客も常連が多く、それぞれのしきたりを守っているようにも思えた。その規則を作ったのは彼らではなく、彼らの母だった。子どもが待っているため、それほど遅くまで開店させているわけにもいかなかったらしい。そこには小さな歴史があり、時間の積み重ねが良い方向に流れていた。

 彼らのためにいつみさんは清算をしている。小銭の音がする。そして、レジの機械が閉まる音がする。ぼくのバイトは直接、お金に関わってこない。そのため、お金についてのミスもない。多く貰いすぎることもなければ、お釣りを間違えることもなかった。その小さな数字の積み重ねもやはり店の歴史だった。

 ぼくの前に皿が出される。中味はピラフのようなものだった。
「順平くんは、好き嫌いはないんだろう?」すべてを把握しているような口調でキヨシさんが言った。
「とくにはないですね」ピーマンの緑色が多めにあった。切り過ぎたのかもしれない。
「良いことだよ。店にとってもありがたい。野菜の生産者にとってみれば、もっとありがたい。ところで野球はどうだった? いつみは、なにも話してくれない」

「うそばっかり。いままで、一回も訊かなかったくせに」
「弟は遠慮しているんだよ。姉が怒ると恐いからね」彼はタオルで手を拭き、それをまた腰にくくりつけた。
「楽しかったですよ。だけど、応援しているチームが別々だった」ぼくは率直な感想を語る。「それで、喧嘩になるようなことはなかったですけど」
「ちょっと、びっくりした」
「応援というのは難しいもんだよ。勝つのが分かりきっているチームを応援する意味がオレにも分からないしね」

 すると、最後のお客さんも消えた。高価なスーツを着込み、その上にコートがある。白が混じった髪をしていた。そういう相手をするときは、いつみさんはぼくとの対話のときより、きちんとした言葉遣いをした。ずっとここにいる訳でもないので本当のところは分からないが、そのかしこまった中にもくつろいだ関係があるようだった。その為に、その最後のお客さんも度々、通ってくるのだろう。ぼくも何度かその姿を見かけていた。

「そろそろ、時間だな。あとはグラスを洗ったり。いつみ、お金をまとめたら、先に帰ってもいいよ」
「ほんと?」
「だって、順平くんと同じ方角なんだろう? 送ってもらえよ」
 ぼくはピラフを食べ終え、ビールを飲み干した。口を拭い、散歩に連れて行かれるのを待つ犬のような気持ちになった。
 いつみさんは壁にある扉を開き上着をだした。それを着込み、最後の仕上げのように髪をゆすった。
「じゃあ、甘えて先に帰るよ」皿を洗っている音がする方にいつみさんは声をかけた。少し金属的な声。その所為かよく声が響いた。
「はい、どうぞ」

 ぼくらはふたりで外に出る。冷たい空気だが、新鮮さもあった。でも、山の空気のように澄んでもいない。そもそも、ぼくはそれがどういうものか深くは理解していない。木下さんなら適切な表現ができるのだろう。山の上に帽子のように積もっている雪たち。見てきたひとと、見てこなかったひとの違い。

「まだ、混んでるね」いつみさんはホームに着くと、目でひとを数えるように見回しながらそう表現した。
「いつもは、もう少し遅いんですか」
「これ、終電から、まだ2、3本前だよね。いつもは最後の電車」
「寝過ごしたりしないですか?」
「あまり、寝ないね」

 ホームに電車が着いた。何人かが乗り換えのためか急いで降り、我先に階段を駆けのぼる。その内のひとりの足が酔いのためかもつれて階段を踏み外す。事故にはならなかったが、少し危なかった。それを背にぼくらはその電車に乗り込んだ。ひとつだけ席が空いており、そこにいつみさんが座ったので、ぼくは吊り革を握り彼女を見下ろすような形になった。
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Untrue Love(16)

2012年09月28日 | Untrue Love
Untrue Love(16)

 その日は長時間、バイトをしていた。それで休憩時間もいつもより多くあった。社員も利用する食堂でぼくはそばを食べて、時間も余っていたのでぼんやりとしていた。少し離れた席に目を移すと、木下さんも座っていた。彼女の前にはコーヒーか紅茶のカップらしきものがあり、手には本が置かれて、それを読むためにうつむいていた。彼女の周りにはいつもながら静かな空気がただよっていた。

「木下さん、読書ですか?」ぼくは、黙っているのが苦痛になってきていた。それで、そばの器を戻した後に声をかけた。
「あ、順平くん」彼女は本を閉じる。その前にしおりを挟んだ。「順平くんも読書、好き?」
「まあ普通ですね。普通に読みます。父が本を集めるのが趣味みたいなひとなんで、家にはけっこう揃っているんですよ」
「そういうお仕事?」
「そういうお仕事みたいなもんです。売る方じゃないけど」
「なにか書くんだ?」

「書くみたいですね。名前は公表されないみたいだけど」
「そんな仕事あるんだ」彼女は飲み物を飲むタイミングか考えているような表情になった。でも、結局、口をつけなかった。「じゃあ、子どものときから親しんできた?」
「そうでもないですよ。ただ、家具の一部みたいに視野のなかに入っていただけだから。壁の時計といっしょです」
「このそばは大きな本屋さんがあっていいよね」
「たくさん並びすぎていると疲れません?」

「そう? わたしは未知なる土地に出向く探検家のような気持ちになるけど」彼女の外見からはその姿を想像すること自体が困難だった。どこかの城にでもいて、一歩も外に出ることを許されない女性と言われたほうが容易に思い浮かべやすかった。
「本を読むと、いろいろなところに行けますよね。肉体的じゃなく、精神的な領域で」

「分かってるんじゃない」
 しかし、ぼくの休憩時間はそこで終わった。ぼくは挨拶をして食堂を出る。出る前に木下さんの方へ振り返ると彼女はまたうつむいていた。その姿は探検家のようではなかった。どこかで隔離されている女性。

 ぼくはまた肉体を動かした。冬場は汗をかくことも少ない。その分だけ仕事は楽になる。楽になると意に反してミスをする。そのミスの原因を作っているのは、慣れはじめて安心したこころと、それに伴う自分の空想する力だった。ぼくは木下さんが古い城にでもいて、本を読んでいる姿を想像している。彼女は世の中の流れなど一切関係ない世界で暮らしているのだ。ぼくはその考えにとらわれてバイト仲間にミスを指摘される。それで、途中まですすんでいた作業をいちからやり直していた。

 そして、一日も終わりぼくは外に出た。さきほどの会話に影響されたのか本屋に寄った。店は閉店間際の時間だった。ぼくは何冊かぱらぱらとめくり、ほとんどのものをもとの棚にもどした。残った一冊をレジにもって行き、それにカバーをかけてもらった。

 帰りの地下鉄でぼくはその文庫を開く。文字の羅列だけで世界を構築する必要を感じているひとたちがいるのだ。ぼくは停車する電車のなかで窓にうつった自分の顔を見る。髪の毛を切ってもらい、そのスタイルで印象が変わる。それも世間とのかかわりの一部だった。靴を売る女性。その靴も世界とのかかわりでもあり、自分をアピールすることでもあった。ぼくは目の前にすわる男性のいかつい腕時計をみた。それも世界へのアピールのような気がした。段々と自分の考えていることが分からなくなり、文庫を閉じて目をつぶった。情報があまりにも自分に流れ込みすぎた不安のようなものがあった。それをどこかで遮らなければならない。それがいまなのだ。

 ぼくは目をつぶったまま、流れ込む女性のイメージを少しずつ入れた。本を読む木下さんの姿。ユミの電話を通した声。彼女のはつらつとした印象は電話ではうまく伝わってこなかった。なぜ、誰かの声を聞きたいと思うのだろう。ぼくらが好意をもつのは、その実体を通してではないのだろうか。声などに実体はどれほど含まれているのだろう。そう考えていると駅に停まった。ぼくは流れに押され扉の外にでた。

 駅からアパートまでの距離はもう何も考えることなく歩いている。いままで知らなかった土地が自分の一部になっている。考えないといいながらも、ぼくは実家に並んだ本を数えていた。それは手付かずの宝かもしれないし、征服を待つ城塞の内部にあるものかもしれない。それが木下さんの姿と重なる。かんぬきが扉に挟まれ、開かれることを拒んでいた。いや、拒んでもいない。ぼくは今度、実家に帰ったときにでも父から数冊を借り受けることを願っていた。彼のアドバイスはどういうものだろう? 多くを語らないかもしれない。それは手の平のなかで開かれることを待っているのだ。ぼくが歩み寄らないとなにも教えてくれない。それも、木下さんと似ているような気がした。自分からはたくさんのことを教えてくれない。だが、垣根を越えれば彼女の優しさも美もそこでは開花をまっているだけなのかもしれなかった。
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Untrue Love(15)

2012年09月27日 | Untrue Love
Untrue Love(15)

「ユミだけど・・・」家でくつろいでいるとアパートの電話が鳴った。ぼくは、そんなには電話番号を周りのひとたちに教えていない。それで、ぼくは鳴ったことによって、あらためて部屋に電話を設置していたことを思い出したぐらいだ。「勉強でもしてた?」
「ううん、とくには。バイトをして、シャワー浴びて、ぼんやりしてた。どうかした?」
「なんだか、誰かとしゃべりたくなって。家族とかでもなく、親友とかでもなく」
「ある程度、距離がある関係みたいなひととだね」
「まあ話していると親しくなるきっかけも生まれてくると思うけどね。自然に」
「仕事場でいっしょにいるひととは無理なんだ?」
「なんとなくね。順くんは、バイト先とか学校の友だちとは親しい?」
「バイトのときは終わったらみんな早くに帰っちゃうし、学校では早くバイトに行かなければとか考えてるかな」
「忙しいんだね」彼女は話が途切れたことを嫌うように笑った。「今度、どっか行かない? また」
「いいよ、どこにしよう」

「わたし、ほんとのところ、こっちあんまり知らないんだ。順くんは、はじめてデートしたときは、どこに行った?」
「ぼくたちは、大体、電車に乗って横浜をぶらぶらするんだ。港に出て、もう少し大人になったら中華でも食べると思うけど」
「今度、連れてってよ」
「満足するかな?」ユミは満足するであろう理由をいくつも並べた。ぼくは電話を通してそれを確認する。しかし、それは実行しないと正解かは分からない。それで、ふたりで確かめようという話になった。それから、電話を切り、彼女の無邪気さがぼくに伝染したことを知る。疲れていたのに、ベッドに横になってもいつまでも眠れなかった。それで、ぼくはまた電気を点灯させ本を開いた。すると、眠りは直ぐにやってきた。

「順平、服買った? なんか最近、ちょっとおしゃれに目覚めたとか?」
 翌日、大学に行くと友人が声をかけてきた。早間雄太郎。となりには彼女もいた。
「ほんと。誰かに見せるため?」その女性も意見に同調した。
「いや、そんな気はないよ。ただ、バイト代が入ったからね」
「じゃあ、今度、それでおごってくれよ」しかし、彼はバイトをする必要もないほど小遣いをもっていた。それに稼ぐという行為にも無関係でいられるほど裕福そうだった。

「そこまではない。安い時給だから直ぐに底がつくよ」
「そうか。じゃ、またな」彼らはふたりで消えた。ぼくはその関係をうらやましいとも思っていた。普通に横にいる関係がそこにはあった。ぼくは、自分で働いているひととしか最近、関わっていない。それゆえに時間のやりくりも不都合が見え隠れし、夜通し遊ぶという学生にとっての日常も皆無だった。しかし、正直にいえばうらやましくもないとも言えた。ぼくが最近、会っている数人は自分自身で好悪を判断できるひとたちだった。それを他人任せにしない意地のようなものもあった。だからこそ、ぼくは彼女たちとの時間を楽しみ、少ない時間ながらもそれを見出していたのだ。その影響でぼくも自分に必要なものが何なのか探すようになったのかもしれない。

 でも、歩きながら負け惜しみの理由をいくつも並べ立てているようにも思えてきた。せっかちに考えをまとめても仕方がないので、ぼくは横浜のことや最初のデートのことも考えていた。いまより女性に対して圧倒的にシャイだった。いつみさんと接しているときのような気楽さはどこにもなかった。それに、となりにいる女性がなにに興味があるのかまったく分からない。分からないならば質問をするとか、問い尋ねればよかったが、なぜか敬遠した。それで、彼女にとってみれば、つまらないひと時に付き合わせてしまったという懺悔のような気持ちが残った。でも、あれはあれで、ぼくなりに楽しかったのだから、彼女も楽しかったのかもしれない。しかし、回答はどこにいってもない。その事実を払拭するように、ただユミとの次の機会を楽しめばよいのだと自分自身を納得させる戦法を考えていた。

 大学から駅まで歩き、時間があったので駅ビル内の本屋にいると早間の彼女がひとりでいた。手持ち無沙汰のように雑誌をめくっていた。
「まだ、帰らなかったんだ?」
「ああ、順平くん」彼女は雑誌をもとにあった場所に重ねて置いた。栗田紗枝。
「あいつは、どこ?」
「もう、帰ったよ」
「なんだ、いっしょじゃないんだ」

「なんか用事があるとか言ってた。最近、どっか冷たいんだ」それは最近にはじまったことではないことをぼくは知っていたが、言う必要もなかった。それにその冷たさを知りつつも彼のことをそれなりに認めている自分もいたのだ。
「そんなことないでしょう! 紗枝ちゃんみたいなひとには」彼女は返事をしない。
「今日もバイト?」
「そう、地道に稼ぐ」
「偉いね。わたしも雄太郎もそこそこ遊んで暮らせるからね」
「悪くないよ」ぼくも脛をかじることに関してはそれほど遠い距離にはいない。家から通える範囲だがひとりで住ましてもらっている。親孝行など念頭に浮かんだこともまだない。車の免許の資金ももらった。彼らの方が、ちょっとだけ余分にもらっているに過ぎないのだ。それにバイトを通してぼくは新たな関係を構築できているという喜びもあった。それに、横浜にも行ける。「さてと、ぼくはそろそろ地道な作業に向かうよ。また、明日にでも」

 紗枝は雑誌をさっきまで握っていた手をふった。真っ白な手。生活感のない手。目を移すと前に置かれた雑誌も生活とは呼べそうもない表紙であるように思えた。
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Untrue Love(14)

2012年09月26日 | Untrue Love
Untrue Love(14)

 ぼくは何日かしてから野球を観ている。となりには、いつみさんがいた。秋空を目の当たりにすることはなく、白い屋根が天井を覆っていた。人工芝の緑はそれでも神々しく、そこで動いている選手たちを華やかなものにしていた。

「ところでですけど、いつみさんは、野球のルールって分かります? 細かい部分とかは抜きにしてでも」
「分かるよ。最低限のことは。誰も三塁の方には走らない。ボクシングみたいに両手にグローブもはめない。サッカーも分かるし、オフサイドも分かる」彼女は満足な答えでしょう! という顔をした。

「難しいのかな、難しくないのかな、それって」
「男性のテリトリーじゃないよ、別に。じゃあ、順平くんは、女性がすることのなにを知ってる? 化粧の順番とかに詳しい?」
「まったく。それに知りたくもない」
「あ、ビール売ってる。いま飲んだら、仕事のときには抜けているかな?」
 ぼくは売り子の後ろ姿を見る。指の間にはお札が器用に挟まっていた。
「どうでしょうね、いつみさんなら大丈夫じゃないですか」
「でも、止しとくか。あれで、キヨシが妬くといけないから。いまごろ、せっせと仕度もしているからね」ぼくに同意を求めるように彼女は言った。

「子どものときって、仲良かったんですか?」ぼくは、ふたりの関係がいまだによく理解しきれずにいた。そもそも、誰かを理解し尽くすなど到底不可能かもしれないが、それでも興味があるひとのことは知りたいという気持ちが膨らむのは嘘のない本音だった。
「どうだろうね。わたしは、相談とかもできずに勝手にぱっとすすんで後悔するほうだけど、いや、後悔もしないな。弟は、なんだか律儀にいろいろ母親にも相談していたよ。お父さんもいなかったからね」
「まじめですね」
「そう。まじめな弟に事後報告の姉のコンビ」
「でも、いまでは上手くやっている。あ、打った」ぼくは打球の進路を追う。それはぎりぎり線を越えファールになった。「惜しい」

「え、こっちを応援してたの?」いつみさんは、いままさに裏切られたという表情をした。
「違うんですか?」
「やだな、順平くん。違うよ」彼女は軽蔑に似た視線を向ける。「やだな」
「ほんとですか」ぼくは間違って敵に加担していたスパイのような気持ちになる。「だって・・・」
「いいよ、どっちでも。こうしていられるだけで、楽しいし、ね」

「なんか、買ってきますね」ぼくは、階段を登り、トイレに入った。それから売店に行き、焼きそばとホット・ドッグを買った。ぼくはリサーチというものが足りないと考えている。好きなスポーツのチームを知る。それは最低限、入手すべき情報なのだろうか。そうでもないだろう。じゃあ、ぼくはいったい自分以外のひとを判断するときなにをもってしていたのだろうか。高校時代の交際相手のことを思い出した。すると、ぼくは彼女が示した好悪の感情をまったく知らないことに自分自身で驚いた。それゆえに彼女は不服であり、ぼくに対して不満だったのだろう。大人に近付くというのは、なかなか難しいものだ。

「順平くんのチーム、点を入れられそうだよ」事態は逆転し、塁上には攻撃側の選手がいた。
「ほんとだ。買ってきましたよ。これから熱を入れて応援しないと」
「ダメ。わたしの応援を届けるから」彼女はそれから大声を出した。結局は、ぼくらはそれぞれのチームを応援することになる。ぼくの座っているのは内野のぼく側のチーム。いつみさんが絶叫するたびに周りは怪訝な顔をする。そんなことには頓着なしに、彼女は自分の意思を通す。これまでも。そして、これからも。

 次の打者はヒットを放ち、ランナーは生還する。いつみさんはぼくの腕をバンバンと叩く。もう裏切られたという表情はなかった。ただ快活であり、仕事を離れたすがすがしい午後だけがあった。その表情を見られたことはぼくの喜びにつながった。しかし、彼女が身を入れて応援しているのは野球の選手だ。その声が耳に届いているのか分からない。ぼくは、横にいてその声を聞いている。いつものあの店に座っている彼女と違う。ある環境とは別の場所で誰かの本当の姿が分かるのだ。すると、新宿の街の路上にいないユミのことも、靴を売っていない木下さんのことも気にかかる。だが、それは後で思いついたことで、このときは、ぼくはいつみさんのすべてを知りたいと思っていた。

 最後には逆転してぼくの応援しているチームが勝った。彼女はすこしふくれる。それが演技だとしたら見事な可愛さだった。ぼくらはその白い屋根の球場をあとにして駅まで向かっている。橋を渡り、改札に入る。ぼくらはそれぞれ仕事があった。いまから行けば、ふたりともまだ間に合いそうだった。

「ありがとう、今日は誘ってくれて。借りができた」
「いつみさんは、いつもそう言いますね。椅子を運んだときも、飲みに来いって言ったし」
「なんだか関係を終わらせることが恐いのかねも。貸しとか借りがあると、関係って、永遠につづくと思わない?」
「なくても、つづくときは、つづきますよ。きっちりと」
 ぼくらはいっしょに駅を抜けた。彼女は自分の店へ。そこで別れてぼくは自分のバイト先に向かった。借りがあるなら、ぼくこそが父に借りがあった。それをどのように返済すればよいのかバイトがはじまっても考えていたが、次第に疲労とともにそれも忘れた。
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Untrue Love(13)

2012年09月25日 | Untrue Love
Untrue Love(13)

 数日間だけだが木下さんの姿がなかった。店内に飾られている靴たちもいくらか淋しそうに見えた。いちばんの理解者を手放してしまったように。彼女を通して靴はお客さんとの接点を見つける。雑に履かれるのもいやだろうし、サイズが違う場所にも行きたくない。靴ずれを生じさせることは木下さんにとっても誰にとっても悪徳なのだ。そのようなことを留守中のぼくは考えていた。

 そして、何日か経って彼女の姿がいつもの場所にある。靴は自分たちのかかとを鳴らして歓声をあげる。だが、そんなことはまったく起こらない。彼らは寡黙にじっと待っている。だが、ぼくには思ったことを告げる口があった。

 それで、仕事が終わりお茶を飲みながらぼくは考えたことを木下さんに伝えた。
「順平くんはアニメが好きなの? そういう映画があったら楽しそうね」そして、笑った。
「でも、なんで休んでいたんですか?」
「友人が結婚したのよ、それに出席するため。田舎に帰っていたんだ」
「そうなんですか。そうだ、田舎って、どこですか?」
「あんまり遠くもないんだけど、長野」

 ぼくにその場所の情報はあまりない。本州の真ん中あたり。ボクサーなら狙われたくないところ。静かそうな場所なのだろうか? 避暑に行くぐらいだから、そうだろう。
「なんだか、木下さんに合っていそうですね。静かで、雪が積もっていて」
「順平くんが育ったところは雪は積もらない?」
「降っても、年に1、2回。パラパラと降っておしまい。気まぐれに終わります」
「そう。わたしのところはずっと積もっていた。なんだか、面倒になって学校にも行きたくないようなときがあったけど、そういうわけにもいかないからね。理不尽だなとか思っていた」
「じゃあ、いまは暖かいところの方が好きですか? 沖縄とかハワイのようなイメージのところ」快晴の青い空。
「全然。日焼けも嫌だし、汗が顔を伝わるとかもっときらい」

 ぼくは笑う。彼女がそういう状態にあるところをイメージできなかったからだ。でも、木陰で長いストローで飲み物を吸い、ふんわりとした柔らかな素材の洋服を着ていることは想像できた。これは口にしなかったが。
「それで、どうでした、友人の結婚は?」
「あのひとたちは、わたしが学生のときからずっと付き合っていたからね。大きな問題がなければ、結婚するとも思っていた。それに、大きな問題を起こすようなひとたちでもないから」

「そうなんだ。お似合いのふたり。久代さんは、そういうひとはいなかったんですか?」
「いたよ」
「自分のなにもかも知ってくれているような?」
「そういうことって、わたしにはありえないような」
「どうしてですか?」
「秘密主義というか、ひとりでいる時間も取っておきたいような」
「べったりとしない?」
「うん、しない」
「なにをしていたひとなんですか?」この質問が中途半端なことを口に出してから気付く。学生以外のひとではないだろう。
「同じ年の野球をしていたひと」

 みんなが、ここ最近、過去に野球をしていたひとたちばかりが、ぼくの耳に集まってきているようだ。
「人気があった?」
「それほどでも。打順も後ろのほう。セカンドを守っていて、それはかなりうまかった」
「ルールとか、じゃあ、久代さんは分かるんだ?」
「偏見ね。女性は野球のルールが分からないとでも?」
「そんなこともないけど。そのひとは、帰ったときに会ったりしない?」
「どこか、別の場所に住んでるみたいだけど。関西の方ね」
「会いたい?」
「特には。もう終わったことだからね。雪が積もる場所にもあまり未練もないし、むかしの関係も大事にしないみたいだから。なんだか、冷たい人間にきこえる?」彼女は自分自身の性格に驚いたようにすこし目を剥いた。
「いや、まったく」

「そろそろ、帰ろうか」木下さんは窓の外を見た。冷たそうな風が戸外に吹いているのか、チラシのようなものが道路のうえを転がっていた。それはどこまでも進みつづけるようだった。木下さんはバッグにハンカチを入れた。木下さんらしい清楚な柄だった。ぼくは彼女の過去のひとときを想像する。彼女はセーラー服を着て、冷気のためか少し頬を紅くしている。雪が静かに降っている。その雪のかたまりが周りの音を消す。彼女は手袋をはめ、両足をゆっくりと交互にすすめる。転ばないように。足元はどのような靴を履いているのだろう。それほど、洗練されたものは履かない。だが、実用一本やりも彼女に合っていない。「どうしたの?」と彼女は言ってぼくが立ち上がるように促した。

「外、風が強そうですね」
「地下鉄の駅まで直ぐそこじゃない」
「セカンドゴロのアウトから逃げるようにダッシュしますか?」
「やだ、おいてかないで」と言って、彼女はバッグを握った。ぼくは店の前で足を止め、振り返って彼女を見た。そこが雪国だったら情景として美しいのにな、といくらか残念な気持ちになった。出入り口の横には、仕事が終わったトラックが斜めに停まり、通行をほんのわずかだが妨げていた。しかし、ぼくは長野の一都市にどれほど雪が積もるのか知らなかった。けれども、かまくらから顔を出した少女時代の木下さんのことも想像していた。いつか、そのような場所にも行ってみたいと単純にだが思った。
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Untrue Love(12)

2012年09月24日 | Untrue Love
Untrue Love(12)

 父の仕事の帰りに、ぼくらは外で会った。父はある洋食屋を指定した。通りから店内をのぞくと父の横顔が見えた。普段、なかなか見られない顔だ。仕事をしているときの様子は知らない。家でくつろいでいるときは、当然のこともっと和んだ表情だった。窓のなかの父はよそよそしくもあり、また対世間のときに着ける仮面のようなものかもしれない。

「ごめん、待たせて」父は無言で向かいの座席を指した。ぼくはそこに座る。すると水を持ってきたウェイターがそのまま注文を待った。
「オレは、ハンバーグとライス。それにビールをジョッキで。お前は?」
「じゃあ、グラタンとオレンジ・ジュースを」店員は、厳かに頷き、そこから去った。
「今日もバイトか?」
「そう、これでなかなか人手不足らしいので」

「そうか。まあ、頑張るんだな。ほら、これ」父はカバンから封筒を出した。この前、お願いした野球のチケットが入っていた。ぼくは、その中味を点検する。まだ、それは行くかどうか確約されていなかった。でも、多分、無駄にならないだろうという予感があった。物事を悲観的に考えられないぐらいにぼくは若かった。
「ありがとう。感謝します」
「こういうときだけだな。お前がそう言うのは」
「こころでは、思ってるよ」父は少しだけ笑った。父がそういう表情をすると誰もが降伏するような気持ちになるかもしれない。無抵抗の征服者。武器のいらない交渉術。しかし、その笑みこそが、ささやかな武器なのだ。ぼくも、同じように受け継ぎ、身につけているのかもしれない。
「誰と行くんだ? 少しは話せよ」
「まだ、2、3回しか会っていないからよく分からない。もう少し親しくなったら話せると思うよ」

「お母さんもあれで、心配するからな。男の子は、どこかで女の子を泣かせてしまう。お前のことも小学生のときにいっしょに謝りに行っただろう?」母とぼくはある少女の家まで謝りに行った。ぼくはその少女がなにについて悲しんでいるのか最後まで分からなかった。母には分かるらしく道中、ずっと説教された。小言は耳に痛く、二度とこのような立場になるまいと誓った。その女の子は翌日からぼくに親しみを覚えたらしく声をかけてきたが、ぼくのこころは関わることを躊躇した。まるで可愛がっていた犬に噛まれでもしたようによそよそしい関係は最後までつづいた。

「よく覚えてるね、そんなこと」ぼくの前にはグラタンが出された。直ぐに食べられないほど、それは熱を発していた。表面のチーズは焦げ、中味を防御している。いや、ぼくを火傷させるよう素知らぬフリをしているのか。

 再度、お礼を言い、父と別れたぼくはバイト先まで地下鉄に乗った。

 バイトが終わると、いつみさんの店に寄った。その日は、忙しいらしく飲み物を持ってきてもらった後はなにも話せないでいた。彼女の目のすみにもぼくは入っていないようだった。それでぼくは母と謝りに行った夕暮れのことについてまた思い出していた。あの心細さと、理解できない生物がいるのだという気持ち。理解できないなら殴りあうという簡単な解決が男同士にはあった。実力が劣っていれば、降参するし、また陰で努力をすればいい。その範疇にいない生物をおそれた。恐れてはいない、不可解だった。その不可解さにいまは逆にどうしてだか魅かれていた。

「ごめんね、無視したみたいになってしまって」店も空くと、いつみさんがぼくのそばに寄った。
「いいえ、全然。ぼくが勝手に来たんだし・・・」彼女は自分のために炭酸入りの飲み物をつくった。
「この前は、ありがとう。でも、タクシー、遠回りしたような気がしている」
「でも、あの道だったら、真っ直ぐでしょう?」
「それが、わたしが近道だと言って口を挟んだら、なんだか余計時間がかかった」
「それならば、運転手さんにはあんまり責任がないみたいだけど」
「そうだね」いつみさんは腑に落ちない顔をしている。「なに、この封筒?」ぼくは忘れないようにテーブルに出していた。
「知り合いから野球のチケットを貰った。この前、観たいって言ってたから」店は、お会計をすませた男女が一組のこっているだけだった。その最後のレジ打ちをいつみさんの弟のキヨシさんがして、ぼくのとなりに座った。もう調理はおしまい。一日も終わりという雰囲気だった。

「野球か、いいな。これ3枚あるって訳じゃないよな」彼は残念そうに言う。
「行きたかったですか?」
「でも、順平くんはいつみを誘っている。いつみは最近デートもしていない。それにデーゲームで仕事に支障もない。完璧じゃないか」

「わたしの意見もきいてよ」彼女はそれを手に取り、羽根でも生えているようにひらひらさせた。「あ、ありがとうございます。また、来てくださいね」店のドアが開くのに気付き首を下げ、最後のお客を見送った。そして、こちらの話しにまた加わった。「行くよ。可愛い服着て、可愛い化粧をする。大学生に負けないように」
「そんなに、気張らないで。そうだ、オレも野球をしてたんだ。日曜日にはユニフォームを着て、自転車にバットを乗っけて」ぼくは彼の身体の小さいサイズを想像しようとしたが、それはかなり困難だった。腕は丸太のようであり、胸板はぼくが見たなかでいちばん厚みがあった。それに比べるといつみさんの腕は細く、身体も華奢に感じた。だが、それを立証するためにぼくは野球のスタジアムで再度、確認する必要がありそうだった。再来週。予定が、バイト以外の予定があるのは良いことだった。
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Untrue Love(11)

2012年09月23日 | Untrue Love
Untrue Love(11)

 大学も休みでバイトもない日に実家に帰った。いまのアパートからもそれほど離れていない。うまく乗り継げば40分ほどの距離だった。その40分でささやかな自由が手に入れられた。

 父親は大きな会社に勤めており、その関係の副産物として多くの友人がいた。もちろん、ぼくにその状態の素晴らしさを引き継いで欲しいようだが、反対に多くも望んでいないようだった。どこかで煩わしさを感じているのかもしれない。また期待をかけることを躊躇させるなにかがぼくにあるのかもしれない。

「あの野球の試合のチケット、手に入らないかな?」ぼくは、それとなくお願いしてみる。秋も終わりに近づき、さまざまな試合がシーズン終了後に行われる予定だった。
「デートか?」
「まあ、そんなようなもんだよ」

「知り合いにお願いしてみるよ。もしあったら、電話をするから仕事帰りにでもどっかで会って渡そう」父にはそういう自然な面倒見の良さがあった。それで誰かに利用されないのかと心配もするが、これといってトラブルのない人生らしかった。ぼくは、それだけで実家に来た目的を果たした。当面の用事が終われば直ぐにでも帰ってかまわないが、それではあまりにも現金なので、ぼくは母といらぬ話をしている。

「デートする相手なんかいるんだ?」
「もう大人だからね」
「可愛い同級生や後輩とか?」
「ちょっと違うけど」
「騙されないでよ」母は同性に温かい目を持っているのか、冷たい判断をしているのか分からなかった。
「騙すより、騙されたほうがいいぞ、オレみたいに」父はそう言った。母はそれにたいして無視を決め込んだ。
「じゃあ、騙されてみる」

 母はシチューを作っている。父はそれをつまみに酒を飲んでいる。ほかに緑色を多く含んだサラダがあった。実家にいることがはっきりと分かる料理だった。そして、ぼくはコップにビールを貰った。
「バイトどう?」
「もう運動を辞めたから体力を使うのにちょうどいいよ」
「お金を稼ぐのって、大変だろう?」父が質問をする。
「まだはじめたばかりなんで分からないね。ずっと、でもこれを継続するのは大変だよ。毎日、毎日」
「だから、好きなものを見つければいいんだよ。じゃないとつづかないぞ」
「そうだね」

「わたし、料理するの好きじゃないけど、つづけている」母がぼそっと言う。
「好きでもないことでも毎日していれば、ものになるっていうのも正解だな」と、父が言った。彼は外食をあまり好んでいない。仕事柄、そういう機会も多々あったが、家でくつろいで晩御飯を食べることを喜んでいた。ぼくは、そうでもなかった。最近も、女性たちと外食ばかりしていた。これは誰の遺伝だろうかと考えている。どこかに自分に似たひとがいるのだろう。

「いつか、デートをする子を連れてきなさいよ」と母が言った。ぼくは家に呼べるようなひとと付き合っていない。まだ、誰とも確定した仲でもない。ぼくの前には三人がいた。ひとりは小さな飲食店を経営している。ひとりはデパートで靴を売っていた。もうひとりは、ぼくの髪を切ってくれた。古い音楽を愛していることも知った。ぼくは彼女の家でそのメローな音楽を聴く。

「気が向いたらね。でも、採点しないでくれよ。減点方式はひとのやる気を殺ぐもんだから」
「うちの若い社員との付き合い方も変えた方がいいのかな。お前を見ていると」
「どうして?」
「自分の個性とか、なんだかそういう意見が好きだろう?」
「そうだね」ぼくはユミという女性の服装のことが思い浮かんだ。彼女は、あれを着込んで彼女になる。いや、あの洋服がなくても彼女はやはり彼女以外ではないことを証明するような気もした。
「個性なんてやつは、押し殺しても、どうしても表面にでてきてしまうものが個性だろう。踏みつけても、それに負けない、消滅しないものが自分だよ」
「頑固おやじに聞こえるね。そういう意見」

「それでもいいよ。これ、お前も飲むか?」父は戸棚からちょっと高目のお酒を用意した。断る理由はまったくない。ぼくは黙ってコップが満たされるのを眺めていた。いまの自分は、断ることがなにに対しても見つからないようだ。木下さんと遅い時間に映画を見た。誘われるがままに。いつみさんと野球を観戦する約束をした。ユミと路上で会って話す。最近、大学の同じ年頃の女性が、なんだか別次元の生き物に思えている。彼らは、ぼくが見ている生きた女性たちの範疇の外にいた。輝きが一段階低かった。もちろん美しかったし、それなりに着飾った外見をしていた。だが、ぼくは求めていない。どうしてだろう。求めるなら自分のことを知っていて、いや、知らなすぎるほど無頓着で、無防備なのかもしれない。その垣根やフェンスの低さをぼくは感じ取り、その低さを利用して首を突っ込み、彼女たちとの時間をもちたいと願っているのだろう。しかし、明日は早くから講義があった。机のうえでの学問もそれなりに重要なのだ。同世代の友人も必要だ。敢えて避けることもない。母と父の会話が遠くに感じる。酔ってしまうまえにぼくは自分の住処に戻ろうと思っていた。ささやかな自由がある住処に。
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Untrue Love(10)

2012年09月22日 | Untrue Love
Untrue Love(10)

 ぼくはバイトを終えてアパートのある駅まで戻った。今日はそのまま帰らずに矢口いつみという名の女性が待っている店まで歩いた。その店は普段使う駅の出口とは反対側にあった。だから、ぼくもその場所にあまり馴染みがなかった。彼女はよくきくと隣駅に住んでいた。彼女の仕事は休みで、仕事と関係ない場所でゆっくりと飲みたいと言った。ひとりでも。もしくはそれほど騒がしくない男性か女性と。

「おごるから、来なよ」と前日に言われた。彼女が放っているものを感じる。ワイルドで、このひとは世界のどこにいても何とかやっていけるのだという自信のようなものが窺えた。だからといってガサツではない。細やかなところもある。大いにある。その細やかな優しさを覆い隠すようにわざと粗雑に見せているのかもしれない。

 店に入ると、彼女はひとりでカウンターに座っている。カウンターのなかで働いている女性と楽しそうに話していた。
「こんばんは、いつみさん」
「お、やっと来た。待ってたよ」彼女はこちらに向かって手を振った。「さっき話してた子だよ。バイトばっかりしてるんだ」今度は店のひとに向かって説明していた。
「よく来るんですか?」
「なんで? はじめてだよ」
「そうなんだ。あまりにも親しそうだったから」

 ぼくは目の前に置かれたビールの美しい泡を眺めた。それは一瞬にして壊れるものだが、それでも美しいものでなければならない。求められているものは、海辺にある砂の城。一瞬の貴さなのだろう。横にいるいつみさんもそう見えた。

「じゃあ」彼女は自分のグラスをささげる。「疲れた?」
「もう、それほどでも」
「そうか、逞しいな」彼女はぼくの肩のあたりをぐっと掴む。「お客さんという立場は楽しいな、ね」
「大変ですか、毎日?」
「わたし?」彼女は小皿に盛られたピクルスを指すのに手間取っていた。
「ええ」何回か突き刺すのを試し、成功すると彼女は自分の口にもっていった。「はい、いつみさんが」
「大変そうに見えてる?」やっと、こちらを向いた。
「そうは見えないですね。でも、店を一軒切り盛りしているぐらいだから」

「あそこは料理も弟がしているし、その仕入れも彼の担当。楽なもんだよ」彼女は笑う。近くで見ないと気付かないのだが、目尻に傷があることが笑うと分かる。それが美しさを損なうのかといわれれば、まったくの逆だった。アクセントの役目をその小さな裂け目は担っているようだった。「いま、ここ、見てたでしょう?」彼女はその部分を小指で指差した。
「気になるほどでもないんですが・・・」

「これね、わたし、順平くんぐらいの年齢のときに方々を旅していた。親からちゃっかりお金を貰って。トルコとかモロッコとか。ある日、店で喧嘩がはじまって飲み物の瓶が割れた。その欠けらがここに当たったんだ」いつみさんはもう一度そこに触れた。「いま、振り返ると、そのときの旅の思い出になっている。パスポートにスタンプを押されたみたいに」
「だからですかね、いつみさんは、どこに行っても、なんだか生活できそうな匂いがしている」
「よく言われるけどね。甘えるのを拒否されているような気もするので、あまり好きじゃない意見」その甘えを誰に試そうとしたのかをぼくは考えた。だが、ぼくに答えはない。すると突然、いつみさんは別の提案をだした。「今度、野球でも観に行かない。もう、シーズンも終わるけど」

「好きなんですか?」
「あれで、弟がずっとしていたんだ」
「キヨシさんが・・・」
「そう。打てば見事にヒット。投げるのも得意。だから、女の子にももてた。だけどね、結局は彼は女の子にまったく興味がない。あの女の子たちが応援してた気持ちってどうなるんだろうね。まったくの無駄。時間の浪費」
「幼いうちから宣言するわけにもいかないですしね」

「それが正しいのか、正直な胸のうちか本人にも分からないからね」
「いまでも野球をするんですか?」
「身体を鍛えるのに手っ取り早い方法があるみたいだから。その弟の野球を観に行った。母は、遅くまで酔っ払いを相手にしていたのに、早起きしてわたしを連れて、土手にあるグラウンドに行った。ああいうところで食べるお弁当って、なんで、おいしいんだろうね」
「母親のお手製?」
「そう。おかずはちょっと子どもが好きな味覚とずれてるんだけど」

 ぼくは、いつみさんのいくつかの情報を手にする。それによって彼女が立体的になる。ぼくは子どものころに作ったプラモデルを思い出していた。ただの箱に平面として納められている部品たち。そのひとつひとつをもぎ取り組み立てていくと、パッケージと同じものになる。いつみさんが見知らぬ土地を旅している。着飾っているわけでもない。野球のグラウンドで弟を応援しているが、母との関係は密接というわけでもない。だが、どちらの側も愛情を示したいと思っている。それは、いまのぼくの気持ちにも似ているようだった。それから、何杯かずつお酒を飲み、いっしょに店を出た。彼女は通りがかったタクシーを停め、ひとりであっという間に乗り込んだ。

「じゃあ、野球のこと忘れないでね」と言ってから運転手がドアを閉めた。ぼくは深夜、ひとりでそこに立ち尽くす。ぼくは行ったこともない北アフリカや大陸の最果ての一都市に紛れ込んだかのような不安があった。だからといってその不安を解消させるべく話しかけられるひとも見渡す限り誰もいなかった。
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Untrue Love(9)

2012年09月21日 | Untrue Love
Untrue Love(9)

 明日が休みになるという前々日に木下さんに話しかけられた。一週間、がんばったご褒美に遅くまで遊びたいということだった。それに付き合いなさいという趣旨の言葉が交わされたのだ。ぼくは彼女の周りにただよう上品な空気がとても好きだった。ユミの奔放さとはまったく違う気高き雰囲気。それは友情を求めず、愛する感情や相手をも遠ざけてしまうようなもろさがあった。もろさ? だが、それはぼくが勝手に解釈しただけであり、彼女には冷たさなど微塵もなかった。ただ、それに気付かない鈍感さが世間にあるようだった。

「閉店前のパンを買ってきたから、これでもお腹につめて」映画館のレイト・ショーを見るべくロビーにいるとバックから木下さんがパンを出した。映画を見て、食事でもしてという順番だったが、その時間までぼくの空腹が耐えられないという心配からの優しさだった。同時に彼女もひとつ食べた。ぼくは立ち上がり、ジュースを2つ買った。彼女は無心にストローを吸っている。この瞬間しかぼくは彼女のことを知らないのだ、という焦燥があった。それは後から考えてそう意味をくっつけているのかもしれない。多分、その瞬間の彼女を独占して知っているという満足も確かにあったのだ。しかし、数年前の彼女や学生のときのことなども訊いてみたかった。だが、徐々にその情報や新鮮な驚きを増し加えていけばよいのだろう。明日やあさってに終わる関係でもないのだ。そもそも、なにも具体的にはじまっている訳でもないのだが。

 ぼくは暗闇にいる。となりには木下さんがいる。もぞもぞとお尻を動かすようなこともなく、じっとしていた。彼女の靴はきれいに磨かれていた。ぼくは先ほど見たその映像を暗いなかで思い出している。反対に、ぼくの薄汚れたスニーカー。もちろん、行っている仕事がまったく違っていた。彼女はお客さんに靴を販売して、ぼくは裏方として誰にも見られずに物を運んでいた。だが、なぜ、彼女はぼくになど興味をもつのだろう。

 そんなことばかり考えていたら、映画の内容自体がすんなりと頭に入って来なかった。だが、もう一度見たい内容でもなかったのでそれでよしとした。彼女と過ごせるという時間以上に重要なものは、いまはそれほどなかったのだ。

 映画館を出ると小雨が降っていた。服の色が変わってしまうほどの強さもなく、ただ目の前のライトがぼんやりとにじむようなかすかな雨だった。ぼくらは近くの店に入る。夜通し営業しているような店だった。ぼくはその店のなかで目の前にすわる木下さんをあらためて見つめる。

「どうしたの、そんなに見つめて」
「木下さんは、友だちも恋人も必要じゃない気がするなって」
「そんなひといる? それって、淋しくない」
「まあ、そうですね。ただ、なんとなく完結しているような、ひとりで」
「遠回しに、誘われたことを迷惑がっているようにきこえるよ」
「それは、全然。とても、嬉しいですから」
「順平くんは仲間たちと、たむろして話しているのがとても楽しそうね」
「たまに、主任におこられます」
「そうでしょうね。評判が大切な仕事だからね」

 木下さんは言い終わるとメニューに視線を移した。聞き慣れない料理名がある。ぼくはユミが作ってくれた素朴なサンドイッチの味をすでに懐かしいものと考えていた。また、女性と男性という2つのグループに属するそれぞれのひとたちのなかでも、彼女らは両極端にいるような感じがしていた。南国のフルーツのような女性と、雪のしたに眠る小さな可憐な花のような女性。そのどちらと自分の相性が良いのかまだまだ自分には分からない。それを掴むことは可能なのかという心配もあった。

 店員さんは木下さんの声に耳を傾ける。それを真剣なビジネス的な表情で書き写していた。それから、低音の声で同じ内容を繰り返した。ぼくが友人たちといく居酒屋の大きな声での復唱とはかなり隔たっていた。それが、また木下さんと合っていた。

「けっこうな量を頼みましたね?」
「余ったら、順平くんが全部、食べてね」
 店員がスパークリング・ワインを運ぶ。2つの背の高いグラスに気泡が浮かぶ。その一連の過程をぼくらは押し黙って見ていた。店員は自分の動作に満足したように靴音も立てずに消えた。
「今日は、付き合ってくれてありがとう」木下さんが小さな声でささやく。
「ぼくの方が誘ってもらって、うれしいから、感謝しています」
「彼女はいないの? 唐突でごめんね」
「いまのところは・・・」
「いたら、来なかった?」
「さあ、仮定の質問に仮定で答えるのも、なんですね」

 彼女は防御を解くように笑った。そんなにも大笑いをする彼女を見たことはなかった。その原因をつくっていることに満足し、彼女が笑うなら永遠の道化でいようという決意も考えていた。

 一時近くなってぼくらは路上にいる。雨は止んだが路面が濡れ、反射する街のあかりが美しかった。彼女は片手を上げる。すると、タクシーが停まる。ぼくらは乗り込み、彼女が行き先を告げる。それは彼女のアパートがある場所だった。ぼくは、どこに連れて行かれるのかを考えていた。彼女の頭がぼくの肩にある。重くはない。ただ幸福な負荷だった。ぼくはタクシーの車内の足元を見る。雨のあとの道を歩いたことをまったく感じさせない木下さんの靴があった。彼女と同じように無垢な姿であった。
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Untrue Love(8)

2012年09月20日 | Untrue Love
Untrue Love(8)

「その髪型似合ってるじゃん。なんだか、落ち着いてきたら」
「そうですか。良かった」ぼくはそこにあることを確かめるように髪を右手でいじった。
「誰が切ったんだろうね、いったい。腕のあるテクニシャンは」ユミはふざけたように言う。今日も奇抜な格好で美容院のチラシを配っている。ぼくにその紙切れを差し出す必要はもうなくなっていた。
「誰だろうね」ぼくもとぼけた愛想のない返事をしてバイト先に向かった。

 次の日も会う。
「その洋服、まじめすぎない?」
「そうかな」ぼくは自分の服を引っ張るようにして眺めた。「これから遊びに出かける訳でもないし、ただの重労働をするだけだから」
「じゃあ、今度、服でも見に行こうよ」
「うん、いいけど・・・」
「そういう煮え切らない態度は未来の約束につながらない。いま、決めちゃおう!」彼女は日にちを提案する。妥協案がなんどか示され、そこまでされると断るのは困難だった。ぼくらはふたりが暇な時間を見つける。「じゃあ、待ってるからね」と言ってそのことを既に忘れてしまったかのように街のひとりに戻った。

 その日は彼女が休みだった。ぼくらは昼に代々木公園で待ち合わせをした。ユミをいつもの場所と違うところで見るのは新鮮だった。彼女は待っているといいながらも少し遅れてやって来た。そして、意外なことに少し見慣れない態度ではにかんでいた。
「こんなの作ってきたよ」公園のなかを散策しているとユミが言った。ベンチに座ると袋をひろげ、なかを見せた。「わたし、料理が得意なんだ。それを食べて証明してくれない?」

 なかにはサンドイッチがある。母が作るような実用的なものではなく、両脇にはカラフルなピンが刺され、見た目にも華やかなものだった。
「うまそうじゃん」
「おいしいから、食べてみなって」

 ぼくはそっと指でつまんで取り出す。彼女も横から同じものを取り上げた。しかし、直ぐには口にしない。ぼくが食べるのを横で見ていた。
「おいしいじゃん。でも、そんなに横でじろじろ見られると、食べづらいよ」
「そうでしょう。わたし、何やらせても器用なんだ」と、もうひとつの意見にはお構いなしに自分のことを述べた。「さ、もうひとつ食べて」ぼくの手が空になると、彼女は楽しげにすすめた。

 食べ終わると、ぼくらは公園のなかを歩いた。秋が終わる時期だったが、その日の太陽は元気だった。そういう場所にいるとユミは自分のステージに立つかのように目立っていた。ぼくは約束をないがしろにしなかったことで、この楽しい日を迎えられた。それに、女性からにしか与えてもらうことのできない喜びが確かに存在することも実感していた。ぼくは高校時代の交際相手を簡単に忘れてしまった。その女性がぼくにのこした些細な痛みもいつのまにか取り除かれてしまったようだった。

「これから、洋服見て、わたしCDを買いたいから付き合って」とユミは言い、通りに向かって歩き出した。同じような若者がたくさん通りにいたが、彼女のような個性をもつひとをぼくは見出せそうになかった。それは世間とのずれとも違う。ただ作為のない無邪気さとしかぼくは呼べない。檻とか柵とかに固定できない無邪気さだった。

「よく来るんだ?」ぼくは普通のデートがどういうものか定義ができていないのかもしれない。日常のそういう行いをまだそれほどはしてこなかった。
「順平くんは?」
「大学に行って、バイトして、それから寝て、大学行って」
「つまんないね。順平くんの恋の話でもしてよ」
「まだなにもない。真っ白なTシャツみたいに、真っ白」
「じゃあ、何をしても新鮮で喜んでくれるね」
「今日のサンドイッチだけで充分、満たされた」
「簡単すぎる。もっと、大人の女性は恐い一面もあるんだよ。わたしには、ないけど。だから、気をつけて」とユミは言うが、彼女がどれほど正しいことを知っているのかは謎だった。

 ぼくらは洋服屋の隙間のある陳列を見て、彼女が猫を撫でるのを眺め、すれ違う男女の印象を話し合い、最後に渋谷に抜けて、CD屋へはいった。
「家でどういう音楽を聴いてるの? そうだ、ひとりで住んでるの?」
「うん、ひとり」
「じゃあ、あとで連絡先教えて。それに、どんな音楽が好き?」ぼくはこれといって好きな音楽が思いつかなかった。
「ラジオで普通にかかっているような。ユミさんは?」

「こういうのだよ」彼女が手にとってかざすのはぼくが見たこともないようなジャケットだった。「これ、欲しかったので買って来る。待ってて」彼女はレジに並び、ぼくはその後ろ姿と目の前の棚を交互に見た。この数坪の土地だけでも、自分の知らないものがたくさんあるということに単純な驚きをもった。すると、彼女は黄色い袋に変わったものを手に提げ、こちらに歩いてきた。
「用事は済んだ・・・」
「今日、バイトないんでしょう。これ、うちに聴きに来なよ」
「いいの?」
「いいよ、もちろん。誰が来ても歓迎。でも、まだこっちにあまり友だちもいないんだけどね」彼女はぼくの手を握る。ぼくはその手に髪の毛を切ってもらったことを思い出す。加えて、サンドイッチもつくることのできる手でもあり、縄跳びでもまわして、ぼくを号令とともにくぐらすこともできそうな手の平の力だった。
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壊れゆくブレイン(130)

2012年09月19日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(130)

 暮れも押し迫ってきた。一年が終わり、新たな一年がはじまる。だが、来年のことを考えられる余裕もなかった。仕事は忙しく、雪代の店もセールで大忙しだった。

 広美は東京の友人と旅行に行くとかでもういなかった。あと数年で働くようになれば、それほどの自由は与えられない。自分の使いたい時間は細切れに探さなければならなくなる。その前に楽しんでおくことは正しいことだった。ぼくらはその細切れの時間を継ぎ足した。しかし、あと数日もすれば休みも待っていた。

「休み、どうする? どっか行く、ねえ」と雪代が訊いた。
「どうしたい?」
「といいながらも、これといってないのよね。なんだかエネルギーが不足している」

 ぼくらは予定も決められずに、夕飯をいっしょに食べていた。テレビ番組も普段のものとは違うのを放送していた。それがまた世の中を慌ただしいものへと変化させているようだった。それで、食事も済むとぼくはテレビを消して、静かな音楽を流した。片づけが終わり、雪代もとなりに座った。また今年の一日がこのような形で減る。あと2時間もすれば翌日だった。そして、今年の残りも一週間ほどになっていく。

「一年もあっという間だね」
「一年も、二年も、十年も、二十年も」
「大げさだけど」
「早くない?」ぼくは当然のこととして質問した。
「それは、早いよ。自分にも広美のように責任のない時代があった。お風呂はいれば?」
「うん」

 ぼくは湯船に浸かる。身体を伸ばし、体内の疲れを取り除こうとした。一晩眠れば、すべてが十年前の体力に回復され、戻っているというかすかな願いがあった。だが、それは願いから一歩も出てくれないことも知っている。それで、髪や身体を洗い、またリビングに戻った。雪代はうとうとしているようだった。

「風邪ひくよ」
「うん。わたしもお風呂入る。布団暖めて」

 冬の冷気が寝室を覆っている。ぼくは冷たいものを飲み、寝室のドアを開けた。そこは1、2度温度が低いようだった。リビングの暖かさが名残惜しいが、寝ないわけにもいかない。雪代も風呂から上がり、化粧水をつけ、髪をドライヤーで乾かした。その姿をぼくはずっと見てきたのだとあらためて思った。何気ない瞬間の積み重ねが生活になり、さらにふたりの歴史になった。その歴史は誰の目にも触れない。ただ、ぼくらが互いを必要としていることを確認する際に思い出すだけだった。

「寒い。そっち入ってもいい?」と雪代が訊いた。
「いいけど。子どもかよ」

 彼女は無言で布団をめくり、ぼくの領域に入ってきた。ぼくは腕を伸ばし、彼女の首をそこに載せる。その流れに言葉は必要とせず、彼女も黙って頭の後ろにくぼみをつくってから自然に下ろした。
「あと何年こうしていられるんだろうね・・・」
「二十年も三十年も」
「わたしと知り合って良かった?」
「もう知り合わなかった自分なんか考えられないよ」
「良かったかどうか」
「悪かったら、こんな風に重い頭を受け止めてないよ」
「良かったかと訊いているのに。そういう返事はないと思うよ」
「良かったよ。ぼくの若いころも美しいものにしてくれたし、これからの人生だって、雪代との生活しか考えてないから」
「よかった。ありがとう」彼女は小さく笑う。「きょうはここでこのまま寝るよ。腕がしびれるけど我慢して」
「うん。我慢する」

 しかし、次に気付いたときはもう朝になっていた。となりのベッドのうえの布団はきれいなままだった。腕はしびれていることもなく、となりに雪代もいなかった。その代わり、となりの部屋で音がきこえた。
「なんだ、もう起きているんだ」
「あ、おはよう。そうなのよ、今日は早目にでて、いろいろお店の整理をしたり、仕入れたものをチェックしたりで忙しいから。そう、帰りも少し遅くなりそう」
「そう、大変だ」
「ひろし君は?」
「もう峠は越したから、あとはちょっとお得意さんまわりみたいなことをする」

「そこで、あんまり飲みすぎないでね」
「うん」
「もうふたりきりなんだから」
「分かってるよ。どうしたの急に?」
「となりで寝ているひろし君が、もう若くないんだなと思ったら心配になった」
「いいよ、面倒見てもらうから」
「わたしの方がちょっと年上だよ。それに小さなお婆さんには、どうやってもいまから成れない」
「無口な大人しいお婆さんにもなれない」
「ばかみたい」しかし、彼女は笑っていた。
「大根の匂いがする」
「ひろし君が好きなものをつくったのって、わたしがいちばん長くなると思うよ」
「そうだね。ありがとうございます」
「わたし、来年、いくつになると思う? もう五十だよ。五十歳。早いね」

「まだ、そんな年齢には見えないよ」雪代がぼくの目の前にあらわれたのは十九ぐらいだった。あれから三十年も彼女を見つづけてきた。ときには、自分だけのものであり、また何年間かはぼくと離れて過ごした。しかし、いまはこのような朝を迎える関係になった。それはぼくが最も望んだことなのだろう。だが、同時に三十六年という短さで命を燃焼させてしまった女性もいた。ぼくは、彼女の三十七歳のときも、三十八のときも、四十という年齢を越えた時期も知りたかった。それは不可能であり、不平等な人生だった。何が不平等なのかと問われれば、ぼくがこうして自分の好きなものを、好きなひとにつくってもらえる朝を漠然と迎えられることかもしれない。しかし、どれもこれも夢か、もしくは、夢のつづきなのかもしれない。

(完)2012.9.19
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壊れゆくブレイン(129)

2012年09月18日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(129)

 12月になり大学が休みになった広美が戻ってきた。およそ一年半ほど大学に通い、東京での生活もすっかり慣れたようだ。しかし、家に帰ると大人びた様子を捨て去った。朝早く起きることも止め、朝食時にいないことも多かった。だが、そういう場所があるということは本人にとっても良いことなのだろう。

 ぼくらは雪代がいないときには、またスポーツ・バーに通う。大きなサッカーの大会が年末に行われていて、ぼくらはそこで鑑賞する。

「広美ちゃんは、もうお酒を飲めるようになったんだっけ?」そこの店長が彼女との時間が開いたことに対するためらいもなしに質問をした。
「年齢的には来年から。もう少し」
「残念だね。うちでパーティーをしてあげるよ。請求はひろしさんに回すけど」
「いいよ」ぼくは普通の表情で返事をする。

「もっと喜ぶとか、感激とかないんですかね」と店長はがっかりした表情で奥に消えた。
「ママ、最近どう?」
「どうって、いつも通りだよ。あの通り」
「そう」
「なんかある? 変わったところとか」
「とくにないけど、本人に訊くより正確かなと思って」
「毎日のように会っていると分からないよ。それより、間があいているひとの方がよく分かると思うけど」
「じゃあ、変わってないね」

 広美にジュースが運ばれ、ぼくにはビールが出された。来年にでもなればいっしょにお酒が飲める。その事実にやはり少しだけ驚いている。驚愕という大きなものではないが戸惑うという表現がより近いのだろう。普通の父親なら、病院で母の隣に寝ている娘というものがはじめての対面だろうが、ぼくらは違かった。ぼくは、小学生の彼女を、運動会で走る姿を見たのが最初だ。実際は、彼女の幼少期に一度だけ会った。ぼくはその小さな子を抱いた。いずれ、彼女の未来に対して責任ある立場になるとも思っていなかった。以前の交際相手が子どもを産んだ。ぼくは客観的にその子に接する。それっきりで済むはずだった。

 テレビではサッカーの決勝が行われる。店内は興奮した雰囲気が徐々に満ち始める。ぼくはトイレに行き、手を洗いながら鏡で自分の顔を見た。40代半ばの顔。20才前の娘がいっしょに出歩くことを拒否しないぐらいにはまともで、その時期の自分の思い出はもう遠くにあるぐらいのことは認められる年齢だった。そう悪いものでもない。

 席に戻ると試合ははじまった。一喜一憂があり、店内は盛り上がりを見せていく。会場の興奮が伝染し、ぼくらにも乗り移ったようだった。家でひとりで見ているより体内の血液が行き巡っていることが本能的に理解できた。冷静ではいられず、また大騒ぎするにはもったいないほどの良くできすぎた試合だった。

 前半が終わる。試合はどちらもゴールを決められず、引き分けだった。ぼくは白ワインを飲みはじめている。

「ちょっと飲んでいい?」ぼくが返事をする前に広美がそれに口をつけた。「おいしいね」と彼女はぼそりと言う。
「見つけましたよ。補導してもらわないと。親子ともども」と店長は言い、新たなジュースを広美の前に置いた。このハーフタイムの時間は忙しく、彼は店内を慌ただしく歩き回り、注文を取り、皿やグラスを運び、使い終わった皿を調理場にもっていった。
「来年に帰ってきたときは、ゆっくりと飲もう」

 普通であれば、父親はそのときまでに20年間をいっしょに過ごしたことになる。それはある意味、重い関係に思えた。ぼくは10年ほどの期間を有している。それも重いことには変わらなかった。ぼくは最初の妻になるひとと東京で再会してから死別するまでの時間も10年しかなかった。それが重いならば、娘との10年も等しく重かった。

 後半がはじまる。試合はなかなか動かない。だが、どちらかが点を多く入れないと試合は終わらない。その単純さが限りなく美しく感じられた。遠慮もなく、自分の最大限の力を発揮するのだ。それが不可能だと思っているひとは、ひとりもここに来られないのだろう。

 後半も半ばを過ぎたころ、イングランドのチームの選手が点を入れる。その1点で試合は決まったかもしれず、また逆転をする可能性もまだまだ残っていた。

「いつか、大人になったら訊こうと思っていたんだけど・・・」と、広美が突然、言った。
「どうしたの? そんな、まじめな顔して」試合はまだ数分だけ残っている。まじめと言われたことに抵抗するように彼女は急にへらへらと笑い出した。
「いやね。わたしも誰かを好きになってきたけど、何人かそれもいる」
「そうだろうね」
「うまくいったり、別れたり・・・」彼女は自分のジュースを飲んだ。「ひろし君は2回、結婚したでしょう。うちのママと裕紀さんというひとと」
「そうだね」広美はなにを言い出すのだろう?
「本当はママとそのひととどっちが好きだった?」

 これはずっと自分に問いかけるべき質問としてどこかに存在していた。ぼくは、だがそれを目にも耳にも入れてこなかった。だが、この年の暮れのサッカーの決勝の日に質問される。それも義理の娘から。ぼくは、どう返答したらいいのだろう。

 ぼくは大きな画面を見る。赤い悪魔といわれたチームの赤ら顔の監督が勝利をもぎとった瞬間が映し出されていた。彼にとってどちらの選手の方がより大事なのだろう。スターがそこにはふたりいた。ウェイン・ルーニーというボクサーのような体型の人物か、それとも、クリスティアーノ・ロナウドというファッション紙で香水でも振り撒いている広告が似合いそうな人物か。彼にとってみたら、どちらも大切なことは当然で、優劣などつけられないだろう。ぼくは返事を躊躇する。世界中が知っているひとと比べてみても仕方がない。だが、ぼくにとってはふたりとも輝けるヒロインであった。そして、ただ画面を一心に見ることによって答えの代わりにしようとしていた。
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壊れゆくブレイン(128)

2012年09月17日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(128)

「また、わたしお母さんになった。今度は失敗しないから」電話の向こうでゆり江という女性が言った。彼女は一度、幼い子どもを事故で亡くしていた。いつまでも愛らしさを失わない彼女が再び母になったことを遅いとも思わず、またあのあどけない彼女が母になるという事実にもあいかわらずぼくは驚いている。

「失敗なんてことはないよ。でも、おめでとう。自分のことのように嬉しいよ」電話ででもなければ、ぼくはしっかりと彼女の肩を抱き、喜びを分かち合いたかった。だが、その役目はぼくに与えられてはいなかった。

 ぼくは過去に彼女を愛した。ぼくに印象を強く残したのは、はっきりといえばふたりで、裕紀と雪代だった。ぼくが普段、着慣れているスーツに例えれば、彼女たちは上着とズボンのようだった。どちらも大事であり服として重要な部分だった。それでは、ゆり江は何かと問われれば、デザインの凝ったボタンのようなものかもしれない。誰もが注目するわけでもなく、そこが洋服のいちばんのポイントになるわけでもない。だが、ボタンのないスーツなど皆無であろう。それに、糸は切れやすく、そのボタンは簡単に失う危険もあった。それと同様にぼくはゆり江という女性のことを貴重なものだと認識していなかったかもしれなかった。だが、こうして、電話で話していると、ぼくはその大切なものを軽んじすぎていたことをつき付けられているのだ。

「喜んでくれてありがとう」
「当然だよ」
「いつか、見せてあげるね。そして、抱っこしてちょうだい」ぼくは、なぜか女性にそう言われることが多かった。それを腕におさめることがそれほど大事なことか自分には分からなかった。
「うん、そうするよ」
「それと、前の子が亡くなったとき、わたしといっしょに過ごしてくれてありがとう」

「それはお互い様だよ。ぼくが裕紀を失ったとき、ゆり江もそうしてくれた。君ぐらい優しい子はいなかった」それは言い過ぎなのだろうか。ぼくは不謹慎にも数名と同じような関係をもった。自分の生存の意味をたずねるように、他者の身体を利用した。女性の温かい皮膚が、その日を生き延びた証しとなった。それでも、忘れられないときは大量のアルコールを自分に注ぎ込んだ。その肌を通した実体と、麻痺という観念のどちらかにぼくは毎日、毎時、揺れていた。答えも得られず、どちらも目的に到達しないということを証明するだけだったのだが。

「あのとき、安物のように自分を与えてしまったかもね。もっと、焦らせばよかった。そうすれば、再婚の相手はわたしになってたかもしれないから。だけど、ひろし君は、わたしを宝物のように扱ってくれた。なんだ、かんだいつでも好きなんだろうね」しかし、それは裕紀がいないことの代わりに違いなかった。いくら貴重なものでも代用がきくボタンぐらいなのだろうか、やはり、彼女は。さらに、ゆり江がそのような計算をして行動することはなかった。溺れた猫を助けようか助けまいか迷ったりしないように。

 それほどまでに几帳面に彼女を定義する必要もない。ある女性がまた母になり、その報告をしてくれたのだ。ぼくはそのことで喜びの感情が満ち、未来を見通す力のようなものを与えられる。その子は彼女の一部かもっと多くの良い部分を受け継ぎ、この世の中を素晴らしいものにしてくれる。過去に彼女がぼくに示してくれた愛情のように。

 でも、そのこと自体をボタンぐらいの価値と考えているやましさもあった。なぜ、ぼくは彼女を選ばなかったのだろう。当然、そうしてもよかった理由も無数にあり信念もあった。しかし、生きる上での選択や、愛するひとを前にしての感情の揺さぶりは、理性や理由で判断するものでもなかった。そこにはもっと動物的な衝動みたいなものも内在されているのだろう。そして、あの優しい女性を愛する男性は多くいるし、それに相応しい男性の先頭に自分が立っているとも思えなかった。それ以上に、ぼくは裕紀や雪代を幸せにしたかった。それはそんなに能動的なものではなく、受動的に彼女らと生活して幸せにしてほしかったし、かつ、その状態を存分に楽しみたかった。ぼくは自分の過去に対して弁護を繰り返すように、ゆり江を選ばない理由を探しつづけた。それはぼくのずるさを並びつづることと同義で自分をやり切れなくさせた。悲しいほど自分は愚かなのかもしれない。これほど、自分の感情は彼女と電話で接しただけで動揺してしまうのだ。やはり、そこに多くの愛が眠っているのだ。

 しかし、彼女の未来はこれからも作られていく。ぼくはその全部を知ることは当然できない。いっしょに過ごすことのできない犠牲として、ぼくは彼女の喜びに加わることができない。それにつながったのはぼくのむかしの選択であり、なにが最善であるかを理性で判断しない結果でもあった。自分はするといまの生活に不満を感じているのだろうか。多分、そうではない。彼女のある種の弱々しさがぼくの体内の感情のどこかをくすぐる。それは焦燥や後悔に結びつき、ぼく自身への反省を促した。

 だが、単純に今日は喜ぼうと思う。最近、といっても長い期間になったが、ぼくらは不幸のときに互いを必要としてきた。そのような負の感情はいつか手放すべきなのだ。また、それを手放さない理由もない。ぼくはボタンが取れた服をイメージする。誰かが、もしくはぼくがそれを縫い付ければいい。糸もあり、思い出を通した針もある。そして洋服の一部として再び、機能する。
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壊れゆくブレイン(127)

2012年09月16日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(127)

 雪代は東京で仕事の用事ができ、そのついでに数日遊んでくるということで広美の家に泊まることになった。彼女たちがふたりきりで会うのは久し振りだった。親子でどういう会話がなされるのか分からなかった。帰ってきてから、雪代は報告してくれるのだろう。言葉はそれほどいらないのかもしれず、反対に時間を惜しむほど話しつづけるのかもしれない。

 それで、ぼくは数日だけひとりになった。会社の仲間と外食してその後、ひとりで飲みなおしている。カウンターには女性がいて、ぼくは何年もその店に座ってきたことになる。妻がいないことを話し、戻った家で話し相手がいないことに最初は戸惑うが、こういうことにも直ぐに慣れるのだろうかという漠然とした質問をしている。彼女は夫と大分前に別れ、息子は別のところに住んでいる。

「彼は結婚しないのかね?」ぼくはその息子のことも知っていた。
「さあ、どうなんでしょう。結婚って、いいもんですかね? わたしが悪い前例を見せちゃったから」
「悪いこともないでしょう。相性の合わないひとといつまでも居つづけても仕方ないし」
「だったら、最初に気付くべきじゃない。結婚する前に」
「そうすると、彼がいないことになる」
「そうね」と言って彼女は笑った。そして、ぼくの前に大根の煮たものが出された。それは年輪を刻んだ木の断面を思わせた。その層にはいったい何が保存されているのだろう。

「おいしいですね」それを合図に最後の一杯を飲み干し、店を後にする。しばらく歩いて振り返ると店の電気が消えていた。彼女の今日の最後の会話の相手は、ぼくだったのだろうか。ぼくも、彼女と交わしたいくつかの言葉が最後になるのだった。

 ぼくは家までの帰途、年輪のことを考えている。木が一年一年太さを増し加え、いつか切り倒され、建築物の材料になったりする。その物である樹木自体はどこの段階がいちばん気にいっているのだろう。太陽をさんさんと浴び、真っ直ぐに伸びていく林のなか。突然の雨に驚く旅のひとをふところで優しく守る。風が通るたびに、すずしげな音を発する。強風のときは倒れないように根を張って踏ん張っている。

 ぼくの十代。親の庇護のもと、勉強をしてラグビーに明け暮れた。女性との最初の肉低的接触。ぼくは相手をタックルして倒すために自分の身体をつかった。それとはまったく別の喜びがあることを知った。その女性の外見だけではなく精神のすべてをも自分は把握したいと思ったのだ。それは別個の生命体である以上、無理だった。その無理ということはいまの大人の自分が知っていることで、当時はその隙間をいくらかでも埋めようとして苦しんだ。

 二十代になり、雪代と別れ、生まれ育った場所とも別れた。東京であらたな自分になるよう仕事でも頑張り、結婚をした。裕紀がそのときに断っていたらどうなっていたのだろうか。当初は傷ついたかもしれないが、いつか立ち直ったのだろうか。結果として彼女は早くに亡くなり、ぼくは傷ついた。無力である存在という自分からなかなか抜け出ることはなかった。もし、年輪ならその際になんらかの歪みを刻み付けているのだろう。

 三十代に再婚した。救いを与えてくれたのは雪代と娘の広美だった。ぼくは家族との会話を欲していた。自分の言葉が誰かに反響し会話となった。それは喧嘩となる場合だってあったが、ひとりで生きているのではないという確実な証しになった。子どもの成長は早く、それにつられてぼくの若さも徐々に奪われていく。それは子どもが大人になるという喜びを含んだもので、決して悲観的なものだけで成り立っているわけではなかった。娘の着られなくなった洋服は、その時間を象徴していた。

 四十代になり娘は東京に行った。大学で友人やこれからの未来への足がかりを作るのだろう。ぼくと雪代はまたふたりになった。まだ若い頃、ぼくらは同棲していた。あの頃、ぼくらに今日みたいな日々が訪れることなどまったく理解していなかった。それは当然だ。別の命ある生き物を生み出す媒体に雪代がなり得ることをぼくは知らず、大切なひとが死んでいく状態を止められなかった無念さも知らなかった。ただ良き希望だけがぼくらのなかに貯蔵されており、長い期間苦しめることを誘発するなにかが身近にあるという事実に目を向けなかった。その若さは貴重なものだった。

「ぼくの年輪」とぼくは玄関のドアのカギを開けながら独り言を口にした。今日の分もどこかに加算されていく。雪代と広美はどういう会話を付け足すのだろう。20年も前に生まれた女の子は、母のことを考え、対等な立場で心配することもできる。また逆にもっと心配をかける女性になったかもしれなかった。そのふたりの中間ぐらいの年齢で裕紀は死んだのだ。ぼくは雪代と広美が並んで寝ている姿を想像しながらも、その間で裕紀が横たわり、まどろんでいる姿の想像をやめることができなかった。彼女の年輪は中断されたが、もしかしたらそれは再利用され、どこかの建物の一部になっているのかもしれない。また残りの一部はぼくに接ぎ木され、ぼく自身の年輪と同化し風雨にたえた月日を増し加えているのかもしれない。それは可能だろうか、とぼくは考える。確かに可能なのだ。ぼくの腕にのこっている傷跡。それは坂道で転がりそうになった裕紀を助け、塀に擦りつけたときにできた痕だった。いまのぼくはそれを勲章のように考えていた。それぐらいしか自慢できないのも、なんだか情けないことだった。そして、部屋の電気をつけ、その腕の部分を指でさすった。
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