償いの書(130)
ぼくは、職場で仕事をしている。段々と前の軌道を取り戻そうしている。スランプのゴルフ選手がさまざまなアドバイスをトライし、スイングの試行錯誤を経たあとで、いままさに立ち直る過程のように。そこに、電話がかかってきた。
「近藤さん、社長からです」
「はい、近藤です」ぼくは、受話器をつかむ。会議には、早い。かといって、大きな仕事、社長が進展を心配するようなものもいまの自分は扱っていない。
「最近、どうだ?」
「まあ、なんとか持ち応えたようです。心配をおかけしました」
「そうか、良かった。ちょっと長くなるけど大丈夫か?」
「いいですよ」
「オレがいくつになったか、お前、知ってるか?」
「親父とそう変わらない年齢なので、60か、ちょっと過ぎですか?」
「いや、64だよ。それで、まあ将来を考えるわけだよ。会社もまあまあ倒れるようなこともないし、そこそこ従業員も増えたし」
「そうですね。ぼくが入社したときは、みなが正しい選択をしたとも思ってくれなかったですから」
「正直、そうだった。ありがとう。無理に東京に行けとかも言ってしまったし」
「それは、それで良かったです」ぼくは、話の決着がどこにあるのか、この辺で探していた。
「それで、東京支店も大きくなった。近藤の10年も無駄にならなかった」
ぼくは、その言葉の皮肉さを考える。裕紀を失ったことは、どう考えてもぼくには余分なものであり、入り込んでほしくないものだった。しかし、返答は反対のものになる。
「そう言ってもらえたら、率直に嬉しいですね」
「それでだ、男が64にもなると、いろいろ考える。妻にしわ寄せがあったとか、そろそろ旅行したり、楽しませてやるのも悪くないなとか」ぼくは、裕紀にそうしているところを想像しようとした。だが、どうやってもそれは失敗に終わった。
「いい案ですね。悪くないと思いますよ」
「で、また無理を言う。こっちに戻ってこないか。そこそこのポストはあるんだ」
ぼくは、正直にいうと東京で行き詰っていた。あまりにも思い出は多過ぎ、痛手もかなり深かった。知られないようになぜかしてしまったが、その言葉を首から手が出るほど望んでいたのかもしれない。
「考えてみますけど、それも前向きにです。悪くない提案ですからね」
「東京も、お前の力を充分、吸い取った。会社はお前を見本として若い従業員も育った」最近は、でも、ぼくは見本となりえていない。そういう自分がまたある面では歯痒かった。自分は、ラグビーでみなを引っ張って来たではないか。そういう気持ちも強かった。
「返事は来週ぐらいまでにもらえるとありがたい。もう、自分の裁量だけで決められない。もろもろの判断が必要になってくる。あのスタートを切ったばかりの会社のころは良かったな」
それは質問なのか、それとも、感慨にふけっているのかは分からなかった。だから、ぼくは、曖昧な相槌をする。
「そうします」ぼくは、電話を切り、トイレに立った。窓から見える東京の景色。これも、見納めになるときが来るのだろうか? それから、休憩室に入り、コーヒーを買った。ほのかな湯気が安っぽい味を帳消しにするほどの香ばしい匂いを発していた。
「なんか、重要な話だったんですか? さっき」同僚が暇をもてあましたような顔で尋ねる。
「なんで?」
「そんな顔つきでしたよ」
「まあ、いろいろ決断することが人間には多いよ。始めるのも難しいなら、終わらせるのも難しい」
「哲学的ですね」と言って、彼は紙コップを握りつぶしそこを出た。
結局、何晩か寝て、最終的には地元の本社に戻ることに決める。やはり、新たな場所で再出発をした方が良さそうだった。ぼくは、東京で右も左も分からず業務に励み、たまにはまい進し、ときには戸惑ったりもした。だが、裕紀と思いがけなく再会して、彼女が常に支えになってくれた。それも、ここ10年の間。彼女は、もういない。その代わりとしてぼくは無数の女性を抱いた。それは、誰かを傷つける行為でもあり、ぼくはなるべくそんなことはしたくもなかった。傷を受けているのは、自分ひとりで充分だった。ほかのひとにも失う感情を与えてはならない。
ぼくは、公衆電話から電話をかける。何分か待って取り次いだ電話に社長が出る。
「この前の提案に乗ることにしました」
「それは、良かった。オレも、リタイアすることができる。安心して」
「でも、まだ働く気なんですよね?」
「そうだよ、セミ・リタイアぐらいだよ。だが、頑張りすぎて、いろいろなところにガタがきている。近藤も手が抜けるところがあったら抜けよ」
「そうします」
「誰かに支えてもらえ」
「そうします」
ぼくは、残された期間、生き返ったように仕事をした。だが、夜にひとりになれば、自分は孤独であり、むなしい気持ちが消えないことも知っていた。ぼくのことは、支店長の口から発表され、送別会もあった。東京での最後の日、ぼくは自分のパソコンの電源をおとす。そして、定時に名残惜しそうな別れのことばを手に入れ、職場をあとにすることになった。ここでの生活も終わりだ。
ぼくは、ビルから外に出る。長かったような短かった10年。楽しく辛かった10年。そして、東京をついに去ることになった。職場から地下鉄の駅に向かう。その際に意識もせずに振り向くと、東京タワーがぼくの背中にあった。それは、10年前とまったく変わっていないような姿で威風堂々としていたが、優しく見守っている姿にも見えた。そっと、後ろから。
(完)2011.11.27
ぼくは、職場で仕事をしている。段々と前の軌道を取り戻そうしている。スランプのゴルフ選手がさまざまなアドバイスをトライし、スイングの試行錯誤を経たあとで、いままさに立ち直る過程のように。そこに、電話がかかってきた。
「近藤さん、社長からです」
「はい、近藤です」ぼくは、受話器をつかむ。会議には、早い。かといって、大きな仕事、社長が進展を心配するようなものもいまの自分は扱っていない。
「最近、どうだ?」
「まあ、なんとか持ち応えたようです。心配をおかけしました」
「そうか、良かった。ちょっと長くなるけど大丈夫か?」
「いいですよ」
「オレがいくつになったか、お前、知ってるか?」
「親父とそう変わらない年齢なので、60か、ちょっと過ぎですか?」
「いや、64だよ。それで、まあ将来を考えるわけだよ。会社もまあまあ倒れるようなこともないし、そこそこ従業員も増えたし」
「そうですね。ぼくが入社したときは、みなが正しい選択をしたとも思ってくれなかったですから」
「正直、そうだった。ありがとう。無理に東京に行けとかも言ってしまったし」
「それは、それで良かったです」ぼくは、話の決着がどこにあるのか、この辺で探していた。
「それで、東京支店も大きくなった。近藤の10年も無駄にならなかった」
ぼくは、その言葉の皮肉さを考える。裕紀を失ったことは、どう考えてもぼくには余分なものであり、入り込んでほしくないものだった。しかし、返答は反対のものになる。
「そう言ってもらえたら、率直に嬉しいですね」
「それでだ、男が64にもなると、いろいろ考える。妻にしわ寄せがあったとか、そろそろ旅行したり、楽しませてやるのも悪くないなとか」ぼくは、裕紀にそうしているところを想像しようとした。だが、どうやってもそれは失敗に終わった。
「いい案ですね。悪くないと思いますよ」
「で、また無理を言う。こっちに戻ってこないか。そこそこのポストはあるんだ」
ぼくは、正直にいうと東京で行き詰っていた。あまりにも思い出は多過ぎ、痛手もかなり深かった。知られないようになぜかしてしまったが、その言葉を首から手が出るほど望んでいたのかもしれない。
「考えてみますけど、それも前向きにです。悪くない提案ですからね」
「東京も、お前の力を充分、吸い取った。会社はお前を見本として若い従業員も育った」最近は、でも、ぼくは見本となりえていない。そういう自分がまたある面では歯痒かった。自分は、ラグビーでみなを引っ張って来たではないか。そういう気持ちも強かった。
「返事は来週ぐらいまでにもらえるとありがたい。もう、自分の裁量だけで決められない。もろもろの判断が必要になってくる。あのスタートを切ったばかりの会社のころは良かったな」
それは質問なのか、それとも、感慨にふけっているのかは分からなかった。だから、ぼくは、曖昧な相槌をする。
「そうします」ぼくは、電話を切り、トイレに立った。窓から見える東京の景色。これも、見納めになるときが来るのだろうか? それから、休憩室に入り、コーヒーを買った。ほのかな湯気が安っぽい味を帳消しにするほどの香ばしい匂いを発していた。
「なんか、重要な話だったんですか? さっき」同僚が暇をもてあましたような顔で尋ねる。
「なんで?」
「そんな顔つきでしたよ」
「まあ、いろいろ決断することが人間には多いよ。始めるのも難しいなら、終わらせるのも難しい」
「哲学的ですね」と言って、彼は紙コップを握りつぶしそこを出た。
結局、何晩か寝て、最終的には地元の本社に戻ることに決める。やはり、新たな場所で再出発をした方が良さそうだった。ぼくは、東京で右も左も分からず業務に励み、たまにはまい進し、ときには戸惑ったりもした。だが、裕紀と思いがけなく再会して、彼女が常に支えになってくれた。それも、ここ10年の間。彼女は、もういない。その代わりとしてぼくは無数の女性を抱いた。それは、誰かを傷つける行為でもあり、ぼくはなるべくそんなことはしたくもなかった。傷を受けているのは、自分ひとりで充分だった。ほかのひとにも失う感情を与えてはならない。
ぼくは、公衆電話から電話をかける。何分か待って取り次いだ電話に社長が出る。
「この前の提案に乗ることにしました」
「それは、良かった。オレも、リタイアすることができる。安心して」
「でも、まだ働く気なんですよね?」
「そうだよ、セミ・リタイアぐらいだよ。だが、頑張りすぎて、いろいろなところにガタがきている。近藤も手が抜けるところがあったら抜けよ」
「そうします」
「誰かに支えてもらえ」
「そうします」
ぼくは、残された期間、生き返ったように仕事をした。だが、夜にひとりになれば、自分は孤独であり、むなしい気持ちが消えないことも知っていた。ぼくのことは、支店長の口から発表され、送別会もあった。東京での最後の日、ぼくは自分のパソコンの電源をおとす。そして、定時に名残惜しそうな別れのことばを手に入れ、職場をあとにすることになった。ここでの生活も終わりだ。
ぼくは、ビルから外に出る。長かったような短かった10年。楽しく辛かった10年。そして、東京をついに去ることになった。職場から地下鉄の駅に向かう。その際に意識もせずに振り向くと、東京タワーがぼくの背中にあった。それは、10年前とまったく変わっていないような姿で威風堂々としていたが、優しく見守っている姿にも見えた。そっと、後ろから。
(完)2011.11.27