爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

償いの書(130)

2011年11月27日 | 償いの書
償いの書(130)

 ぼくは、職場で仕事をしている。段々と前の軌道を取り戻そうしている。スランプのゴルフ選手がさまざまなアドバイスをトライし、スイングの試行錯誤を経たあとで、いままさに立ち直る過程のように。そこに、電話がかかってきた。

「近藤さん、社長からです」
「はい、近藤です」ぼくは、受話器をつかむ。会議には、早い。かといって、大きな仕事、社長が進展を心配するようなものもいまの自分は扱っていない。
「最近、どうだ?」
「まあ、なんとか持ち応えたようです。心配をおかけしました」
「そうか、良かった。ちょっと長くなるけど大丈夫か?」
「いいですよ」
「オレがいくつになったか、お前、知ってるか?」

「親父とそう変わらない年齢なので、60か、ちょっと過ぎですか?」
「いや、64だよ。それで、まあ将来を考えるわけだよ。会社もまあまあ倒れるようなこともないし、そこそこ従業員も増えたし」
「そうですね。ぼくが入社したときは、みなが正しい選択をしたとも思ってくれなかったですから」
「正直、そうだった。ありがとう。無理に東京に行けとかも言ってしまったし」
「それは、それで良かったです」ぼくは、話の決着がどこにあるのか、この辺で探していた。
「それで、東京支店も大きくなった。近藤の10年も無駄にならなかった」

 ぼくは、その言葉の皮肉さを考える。裕紀を失ったことは、どう考えてもぼくには余分なものであり、入り込んでほしくないものだった。しかし、返答は反対のものになる。

「そう言ってもらえたら、率直に嬉しいですね」
「それでだ、男が64にもなると、いろいろ考える。妻にしわ寄せがあったとか、そろそろ旅行したり、楽しませてやるのも悪くないなとか」ぼくは、裕紀にそうしているところを想像しようとした。だが、どうやってもそれは失敗に終わった。
「いい案ですね。悪くないと思いますよ」
「で、また無理を言う。こっちに戻ってこないか。そこそこのポストはあるんだ」

 ぼくは、正直にいうと東京で行き詰っていた。あまりにも思い出は多過ぎ、痛手もかなり深かった。知られないようになぜかしてしまったが、その言葉を首から手が出るほど望んでいたのかもしれない。
「考えてみますけど、それも前向きにです。悪くない提案ですからね」
「東京も、お前の力を充分、吸い取った。会社はお前を見本として若い従業員も育った」最近は、でも、ぼくは見本となりえていない。そういう自分がまたある面では歯痒かった。自分は、ラグビーでみなを引っ張って来たではないか。そういう気持ちも強かった。

「返事は来週ぐらいまでにもらえるとありがたい。もう、自分の裁量だけで決められない。もろもろの判断が必要になってくる。あのスタートを切ったばかりの会社のころは良かったな」

 それは質問なのか、それとも、感慨にふけっているのかは分からなかった。だから、ぼくは、曖昧な相槌をする。
「そうします」ぼくは、電話を切り、トイレに立った。窓から見える東京の景色。これも、見納めになるときが来るのだろうか? それから、休憩室に入り、コーヒーを買った。ほのかな湯気が安っぽい味を帳消しにするほどの香ばしい匂いを発していた。
「なんか、重要な話だったんですか? さっき」同僚が暇をもてあましたような顔で尋ねる。
「なんで?」
「そんな顔つきでしたよ」

「まあ、いろいろ決断することが人間には多いよ。始めるのも難しいなら、終わらせるのも難しい」
「哲学的ですね」と言って、彼は紙コップを握りつぶしそこを出た。

 結局、何晩か寝て、最終的には地元の本社に戻ることに決める。やはり、新たな場所で再出発をした方が良さそうだった。ぼくは、東京で右も左も分からず業務に励み、たまにはまい進し、ときには戸惑ったりもした。だが、裕紀と思いがけなく再会して、彼女が常に支えになってくれた。それも、ここ10年の間。彼女は、もういない。その代わりとしてぼくは無数の女性を抱いた。それは、誰かを傷つける行為でもあり、ぼくはなるべくそんなことはしたくもなかった。傷を受けているのは、自分ひとりで充分だった。ほかのひとにも失う感情を与えてはならない。

 ぼくは、公衆電話から電話をかける。何分か待って取り次いだ電話に社長が出る。
「この前の提案に乗ることにしました」
「それは、良かった。オレも、リタイアすることができる。安心して」
「でも、まだ働く気なんですよね?」
「そうだよ、セミ・リタイアぐらいだよ。だが、頑張りすぎて、いろいろなところにガタがきている。近藤も手が抜けるところがあったら抜けよ」
「そうします」
「誰かに支えてもらえ」
「そうします」

 ぼくは、残された期間、生き返ったように仕事をした。だが、夜にひとりになれば、自分は孤独であり、むなしい気持ちが消えないことも知っていた。ぼくのことは、支店長の口から発表され、送別会もあった。東京での最後の日、ぼくは自分のパソコンの電源をおとす。そして、定時に名残惜しそうな別れのことばを手に入れ、職場をあとにすることになった。ここでの生活も終わりだ。

 ぼくは、ビルから外に出る。長かったような短かった10年。楽しく辛かった10年。そして、東京をついに去ることになった。職場から地下鉄の駅に向かう。その際に意識もせずに振り向くと、東京タワーがぼくの背中にあった。それは、10年前とまったく変わっていないような姿で威風堂々としていたが、優しく見守っている姿にも見えた。そっと、後ろから。


(完)2011.11.27
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

償いの書(129)

2011年11月26日 | 償いの書
償いの書(129)

 何人かから電話をもらい、別の何人かから哀悼の手紙をもらい、そして、何人もから慰められた。言葉のもつ威力を感じ、また、同じように言葉のむなしさを知った。結局は、裕紀は戻ってこないという事実は覆されることがなく、ただ、自分のこころのなかで色褪せさせるしかないのだ。忘れてしまおう、とか、次の段階があるのだと思うように。

 身の入らない仕事をつづけ、良き模範にもならなかった。そろそろ甘えも効かない時期になり、ぼくの陰口がささやかれる。ひとは、不幸に対しても、やはり冷たいものなのだ。それで、外回りを繰り返し、無為に時間を潰した。裕紀のいない世界では無為に時間を過ごすしか、方法はなかった。

 ある日、昨日や明日と同じように会社を出た。夕方には早く、昼ごはんがお腹に残っている時間でもなかった。ぼくが知っている犬がいて、ぼくの方に近付いてきた。その犬が愛らしい鳴き声を出し、ぼくは見返りとして撫でる。誰かが自分の意思に応えてくれる。それが、単純に素晴らしいものだと思っていた。

「大変だった?」犬の飼い主の女性がぼくにささやく。
「何がです?」
「奥さんのこと」
「誰かから聞きました」ぼくは、ふと、思い出す。彼女は、未来のいくつかの断片を読み取れるのだ。「あ、そうか。もしかしたら、最初から、こうなることを知ってました?」
「うん」彼女は優雅に、だが自然にこっくりと頷く。
「なんで、前もって教えてくれなかったんです?」ぼくは、犬を撫でながらも、視線を変え、詰問調に彼女に問うた。
「言ったからって、どうなったの?」
「もっと違うやり方がもてたかもしれない。もっと、優しくしたし、もっと時間を割いた。もっと、喜ばすことをたくさんした」
「普通に働いていて、そんなことは無理よ。それに、あなたは、充分にした。自分でも、こころの奥では認めている」
「だけど、10年は短い。あまりにも短いよ」
「あの子にとっては、長いかもしれない」

「ぼくは、ひどいことを彼女にいっぱいした」
「してない。彼女はよい思い出をたくさん貯金した」
「なんで、分かる?」
「分かるから。そのぐらい怒って、怒りを誰かにぶつけなさい」
「すいません、失礼な言い方をした」
「いいのよ。わたしもいろいろなひとの未来を告げ、厭な思いをさせ、たくさんの怒りを買った。もうしないつもりだったけど、勝手に戻ってきた。あなたの場合は」
「じゃあ、ぼくのこれからは、何か見えます?」彼女は少し思案する。
「これは、未来か過去かも分からない。ただ、小学生ぐらいの女の子の手を引いている後ろ姿が見える。あなたはその対象に愛情を感じ、その子もあなたをしっかりと尊敬している。だけど、その子は、小さくなったり、大きくなったりしている。ときには、高校生のようにも見えるし、あなたの子どものようにも見える。ただ、それだけ」
「ぼくの子ども? それは、裕紀がいないから無理だよ」

「じゃあ、その情景を思い出せる?」
「妹かもしれない。一緒に学校から帰ったとき。高校生なら若い裕紀。いや、その子は、バイト先の店長の娘だ。思い出した。小学生になるとき、文房具をいっしょに買いに行った。ぼくに、とてもなついていた」
「過去か、未来かは、わたし、はっきりと分からないと言った」
「そうですね。でも、それがぼくを表す情景なのか」
「ただ、未来はあるのよ。忘れないで、疲れすぎないで、憑かれすぎないで。違い分かる?」
「まあ、なんとなく。じゃあ、仕事に行きます」ぼくは、名残惜しく犬の頭をなでた。もしかしたら、この行為が媒体となって彼女にぼくの気持ちを読み取られてしまうのだろうか、という疑問をもった。もちろん、そんなことはないのだろうが。

 ぼくは、駐車場から車を出す。念のため、その前に携帯を取り出して、履歴を見た。そこには、裕紀の番号もあった。彼女には、どうやっても、どんな道具を使ってもつながらないのだ。ぼくは番号を消そうかどうかを迷っている。そして、最終的にはそのままにした。

 駐車場から歩道へ、そして道路へと車をゆっくりと出した。考えることもなく、先程の交わされた会話を反すうしている。ぼくの子ども? それは、ありえないことだった。また、同じように誰かと出会い、裕紀以上に愛せる自信などなかった。また、それをしたくもなかった。

 すると、手を握った感触が蘇ってくるような気持ちにもなった。あれは、ぼくが大学生でスポーツ・ショップでバイトをしていた。ラグビーで一時代を築いたお兄さんのような役割。そこで後輩たちに新品のスパイクを売り、店長のひとり娘と遊んだ。彼女の小さな手。まゆみちゃん。その前に裕紀を失い、ぼくは別の女性と待ち合わせて、バイトの後で食事をした。路上シンガーが歌い、彼女はそれにつられて身体を揺すった。みな、年をとりさまざまなものを失う。「でも、未来はあるのだ」と、告げられた。その未来をぼくは愛せるのだろうかと悩んでいる。でも、ささやかなものから始めようと小さな力も湧いてきた。これから、会う相手に先ずは優しく接しようと誓う。もしかしたら、裕紀と同じように、もう会うことができなくなってしまうかもしれないのだ。ぼくの最後の印象は、良きものであってもらいたい。いま、裕紀は振り返って、ぼくをどう思っているのだろう? つまらない男。話をきかなかった男。自分勝手な男。ぼくは自分に低い評価をした。しかし、良い思い出をたくさん貯金した、とさっき言われた。できれば、そうであってほしいと願い、また、裕紀以外の人間にもそうであってほしいと思っていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

償いの書(128)

2011年11月23日 | 償いの書
償いの書(128)

「あの絵が助けになっている」ぼくの前には筒井という女性が座っている。彼女は画廊を経営して、そこに飾られてあった裕紀と似ている少女の絵画を、ぼくは以前に譲り受けた。その店舗が入っているビルは、ぼくの会社が管理を任されているものだった。
「あなたのところに、行く必要があった」
「そうかもしれないね。実在のものは、もうこの世の中にないんだから。代理で我慢しないと」
「そうして、代理の女性を抱く。代わりでなくなる可能性もあるかもしれないのに」
「ならないよ」
「何で、分かるの?」
「分からないけど」
「島本君もいなくなった。あなたの妻もいなくなった」

 ぼくは、自分の喪失感のために、島本さんのことも、誰かを失ったひとびとのことも忘れていた。また、忘れて当然だとも思っていた。思いやりもなく、愛情の発露や心配もなかった。ただ、ぼくはその日を生き残ることだけに対して真剣であり、その見返りとして、また代償として裕紀の代理になるものを探して、身をまかせた。

「みな、早過ぎるけど」
「あなた、これからどうするの?」
「今日ですか?」
「もっと、未来の話」
「さあ、見当もつかない」
「もっと、近い話は?」
「なんの予定もない。裕紀のいない家があり、言葉を口から出しても、誰も返答しない」
「あなたは、慣れていない?」
「普通のひとは突然の変化についていけないものだよ」
「じゃあ、ここを閉めたら、ご飯でも食べに行く」
「じゃあ、会社に戻らないことを連絡する。あとで」

 ぼくは、携帯電話を耳にあて、馴染んだ番号を押した。同僚たちは、ぼくの行動に対して甘くなりがちで、成績のことや管理のことから一時的に退散する身分を許していた。だが、ぼくの本心では自分のことをまったく許していなかった。ぼくは、こうじゃなかった。不幸に押しつぶされる人間ではなかった。だが、この場合は押しつぶされるほうが妥当だとも思っていた。ぼくは、そのひとつの愛情に賭け、結果としては紙屑同然に霧散したのだとも考えていた。

 ぼくは成り行き任せで日々を過ごし、ただ一日だけがぼくに加算される仕組みになっていた。でも、ふたたび夜明けが来て、いちにちの格闘がはじまった。今日も裕紀はいない。彼女があのときに、こうした、あの日はこういう振る舞いだったということがネクタイについた消えないシミのようにぼくの首にぶら下がっていた。

「待った?」
「考えることが、いっぱいある」
「あんまり考えすぎない方がいいかもよ。無理を承知の上で言ってるだけだけど」

 筒井さんは、ぼくの腕に自分の腕を通した。誰に見咎められても、もう責められる心配もないが、ぼくは誰かに見つけられ叱責されることも同時に望んでいた。それは裕紀の兄でもあり(あいつは、やっぱり見下げた男だった)、裕紀の叔母でもよかった。そこで、なじられ、ぼくの身の変わりの早さを追求されるのだ。それについて、ぼくは反論も弁護もせず、「生き残るためですよ」と、悪びれて言う。しかし、本心では、裕紀のことをちっとも忘れることができず、過去の一瞬一瞬をポケットの奥のようなところから見つけ、引っ張り出してロウソクの炎を頼りにじっと見つめているのだ。それが、その日のぼくだった。

「ここでいいでしょう?」
 ぼくはただ頷く。誰かといられる時間があるだけで、ぼくは安全であったのだ。少なくとも、ぼくは裕紀の亡霊を追い求めることを深くしないという意味で。

「若くして亡くなってしまったひとたちに」と、言って筒井さんはグラスを差し出した。裕紀よ、ゆっくり病気もない世界で休んでいてくれ、とぼくは願った。痛みもない。苦しみもない、それが最上だ。それでも、自分の胸のなかの苦しみこそが生きているという実態でもあり、証だった。それゆえ、ぼくはこの辛さに甘んじようとも思っている。

「島本君とわたしは恋をしていた。お互い、大切なひとはいたけど、大切なものってときに窮屈にさせる。その窮屈さを手放したくもないけど、ちょっとだけ後ろに置いておきたくなる。それで、あなたのもうひとりの愛する人を苦しめたかもしれない。ごめんなさい。多分、賢いあなたは言わなくても知っていたでしょうけど」
「知ってたかもしれないけど、ぼくも君と関係があるんだから同罪だよ。それに愛したひとだよ」
「いまでも、忘れてないでしょう」
「ぼくは裕紀と再会して、彼女を思い出さないように努力した」
「努力しないと、忘れられない?」
「さあ。いいよ、飲もう」ぼくは、その問題を深く追求することをしたくなかった。それに第三者が足を踏み入れてもほしくなかった。

 その後、ぼくは彼女のマンションに寄る。自分の家に帰ることを恐れていた。そして、この事実を裕紀が知って、口汚くののしってくれればいいとも考えていた。ぼくを嫌いになり、そして、別れるのだ。彼女はぼくとは会わないけど、どこかで生きているのだ。その方がよっぽどましだった。死んでしまうより、どこかで、ぼくを恨みながらも生きていて欲しい。しかし、それはシアトルに留学していた彼女を思っているときと同じことだった。ぼくに成長などまったくないのかもしれない。

 そう思いながらも肉体としての筒井さんの温かさはぼくにとって貴重だった。ぼくは、こうして何人かの女性の身体を引き金として生き延びる方法を模索していた。利用したという言い方は適切ではないのかもしれないが、結果としては、どちらも同じだった。そして、このことを繰り返すかぎり、ぼくはその日を過ぎ行かせるということを安堵と焦燥とともに感じていたのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

償いの書(127)

2011年11月20日 | 償いの書
償いの書(127)

 ぼくは、それでも会社に行かなければならない。何日か休んだ後、通常の業務にまた、はまっていく生活を送らなければならない。同僚たちは、ぼくとの距離をどう取っていいものやら思案しているらしい。いつも通り、ふざけあったりする態度は失礼にあたるかとか、彼は落ちこんでいることだし何とか慰めてあげたいというスタンスのひともいたが、それが簡単には表に出せないようだった。それを、ぼくは健気な気持ちだとは思ったが、できればそっとしておいてほしいというのが率直な感想で、本音だった。

 さらには、葬式をすることもできなかった男性というレッテルを貼られているのかもしれない。彼らの何人かは、黒い服を着て、列席するのが常識だろうが、その場に夫がいない限り、それを行うこともできなかった。彼らは儀式を経過しない以上、態度を決められなかったのかもしれない。

 仕事のアポイントを破ったせいで、また約束を取り付け、何人かと会った。彼らは、昨日と同じ延長線上に今日があった。それが、自分には不思議だった。誰も大切な人間を失っていない。無くす可能性もないようだった。自分は、自分のそうなってしまった運命を呪った。

「大変でしたね。ひとりでいるのは、こうした場合、とっても良くないです。いっしょにご飯を食べましょう」
 と、笠原さんから連絡があった。ぼくは、自分の未来に無頓着になり、身だしなみさえ気に掛けることが少なくなった。それでも、約束の時間が迫れば、Yシャツの汚れ具合やネクタイの緩みが気になった。こういうことが、もしかしたら生きるということなのだろうかと考えている。そして、髪型を鏡にうつし、それに合格点を与えた。

「わたしが、いっぱい楽しませてあげます。精一杯」笠原さんは緊張しながらも、練習してきたかのようにそう言った。
「笑う気分でもないよ」
「もし、彼女がどこかで見ていたら、裕紀さんの憧れの存在のままでいてください。当然、わたしたちから見た周りの人間に対しても」
「どういうことかな?」
「元気で、颯爽とした近藤さんでいて下さい。もし、再会したら、離れていてもったいなかったなとか思わせるような」
「君は、映画の見過ぎだよ。ラブ・ストーリーの」
「こういう場合は、ファンタジーでも、希望をもった方がいいです」
「じゃあ、君が与えてくれよ」ぼくは、自分以上に不幸な立場にいないひとたちに残酷になった。つまりは、ほぼすべての人間に。

「どうすればいいです?」
「朝まで、ぼくのそばにいて慰めてくれるとか。冗談だよ、できないよ、そんなこと」
「いや、します」
「笠原さんは、ばかだよ」
「ののしるぐらい元気がでた」彼女は、じっとグラスを見つめる。「遠いむかし、わたしが失恋から立ち直る機会を近藤さんは与えてくれた。つまらない長い話を飽きもせずに聞いてくれた。わたしには、その借りがひとつある」
「もっと、あるよ」
「ほんと?」
「嘘だよ」
「なんだ。つまり、あのぐらいのことはできないと、わたしの女としての価値も値打ちもない」
「なんか間違っていると思うけど、ありがとう」

「近藤さんは、裕紀さんが入院したとき、泣いた。優しい行為をわたしはうらやましかったけど、恥ずかしかったので、ちゃかしてしまった。すいません」
「あのときは、あれで仕方がないよ」
「そうですか?」

 そういう言葉をめぐる堂々巡りをしていて、時間は過ぎていった。彼女は、さすがに使命感に燃え、緊張していたのだろう、かなり酔っ払った。ぼくは、酔う気持ちにはなりたくなかったが、さすがにトイレに立つと足がふらついた。ここ数週間あまり酒を飲まなかったせいかもしれない。

「酔った。お金も払った。君を送る」
「家まで」彼女の目はうつろで潤んでいた。
「家の前までタクシーには乗せるけど、ぼくは、そこから先に行くので、高井君に迎えに来てもらえよ、下まで」
「彼、いないんです」
「どっか行ったの?」
「仕事の何かを仕入れるんだって」
「そう、じゃあ、玄関に置いていく」
「荷物みたいに」

 タクシーを手を上げて停め、ぼくらは後部座席に乗る。彼女は頭をぼくの肩にもたせかけた。ぼくには、浮気という概念がなくなった。妻はいない。生きた誰かの肉体を、ぼくは感じ触れる必要があった。病院に横たわる裕紀。その印象がぼくを苦しめていた。そこから、ただ無邪気に開放されたかった。美しい女性は死ぬべきではないのだという風に。

「着いたよ。降りなよ」
「無理。もう無理。家まで送りなよ」
「なんで、命令口調なんだよ」
「近藤を元気にするんだよ。わたし」彼女はぼくのネクタイをつかんだ。それで、一瞬、息ができないぐらい苦しくなった。
「お客さん。ごめん。無線がはいった」

 ぼくは仕方なく、いっしょに降りる。いや、こういう状態を望んでいたのかもしれない。ぼくは、彼女のバッグを探り、鍵を手の平に乗せた。そして、玄関を開け、彼女をソファに放り投げた。そのつもりだったが、ぼくも同時に転がってしまった。

「イジイジしないって誓いなさい」彼女は、そう言ってぼくの唇に自分の唇を押し付けた。そこにはアルコールの匂いがあった。
「笠原さんは、酒乱の一面があるのか」ぼくは、離れながらそう言ったが、あとはやけくそだった。そういう投げやりな態度で女性に接するべきではないのかもしれない。そして、ぼくは妹を思うような気持ちで、彼女と付き合ってきた。そこに、肉体的な関係を持ち込むべきではないが、生きた女性の温かい身体が、そのときのぼくにはどうしても必要だった。忘れなければならない。あの冷たく横たわる裕紀の存在を。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

償いの書(126)

2011年11月19日 | 償いの書
償いの書(126)

「お葬式に行った帰り」家のチャイムが鳴り、のぞくとゆり江という女性が立っていた。
「そうだね、今日だ」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫な人間に見える?」
「全然。なにか作りましょうか? ご飯も食べてないみたいな顔ですよ」
「ああ、どうぞ」

 ぼくは、横に身体をずらせ、ゆり江をなかに通した。ある女性が動いているということだけで、ぼくは驚いている。あの日の裕紀は、もう動かなかった。

「冷蔵庫、開けてもいい?」
「うん、どうぞ」彼女は黒い服を着ている。「着替えれば、汚れると大変だよ。女物の服は、たくさんある」
「大丈夫です。でも、エプロンだけ借りる」ぼくは、以前、雪代と交際しながらもゆり江という存在を手に入れ、簡単に手放すことができなかった。そのときにも、ぼくは料理を作ってもらった。彼女は、その後結婚して、いまは別の誰かがそれを食べている。その時間の移り変わりが、ぼくにとっては、うっとうしかった。その時間の経過のゆえに、裕紀はいなくなったのだ。

「古くなった食材もあったので、これぐらい。ビールでも飲みます。たくさん、もう缶が空いてるみたいだけど」
「ゆり江ちゃんも飲みなよ。葬式のあとはみんな、なぜか酒を飲む」
「でも、ひどすぎません? ひろし君に対しての態度」
「いいんだよ。ぼくは、見送るという立場に立つことを拒否したいし」

「未練?」
「そうだね、未練。お互い、嫌いになって別れたとかそういうことでもないし、突然だから」
「まだ、生きているような気がする?」
「当然。買い物に行っただけかもしれない。ばかばかしいと思うだろうけど」
「そんなこともないです。わたしのアイドルでもあった。追いかけるべき見本。それが行き過ぎて、ひろし君のことも好きになった」

「そうだ、ぼくらのむかしのことを言わないでくれてありがとう。今更ながらだけど」
「ずるいけど、こうなるなら、私も結婚を控えていればよかった。でも、それは裕紀さんがどこかにいなくなることを望んでいたことにもなって、そんな、自分が嫌いになる」
「そんなことないよ。だけど、ゆり江ちゃんは、いまのひとと結婚することになっている」ぼくはゆり江の顔をじっと見た。
「どうかした?」
「いや、おいしい。ぼくは、これからどうすればいいのだろうかね。まともにご飯も作れないし、誰も、ぼくのことを心配してくれなくなる。でも、身勝手な意見だね」
「みんな、心配してますよ。少なくとも、わたしは」ぼくの左手に、彼女はそっと右手を置いた。ぼくの指輪はどれほど効力をもつのだろう。この永続の関係のしるしは、いまは、もう何の力も有していなかった。「あの絵、素敵ですね。裕紀さんにそっくり」

「みんな、そう言うんだ。ぼくに残されたのは、あれだけ。そのためにあれを譲り受けたような気もしている。いつか、いなくなる日のために」
「そんなに、好きだった?」
「まあね。ああ、そうだ。彼女のアクセサリー、ゆり江ちゃん、持っていって。ぼくには、必要ないものだから」
「え、そんなに早く手放すの?」

「ぼくは裕紀を見送ることもできないし、彼女との関係も断ち切られた。ここにあるものだけが裕紀のすべてだけど、彼女は君のことが好きだった。ゆり江ちゃんも彼女を好きだった。契約は成立だよ」
「わたしは単純に裕紀さんみたいになりたかった。小さな女の子のときから」
「買ってから、まだ袖を通していない服もある。着てみてよ。背丈もいっしょぐらいだろう」彼女は裕紀のクローゼットがある部屋に消えた。ぼくは、現実も過去もひとつのぬかるみの中に放り込もうとしていた。未来に裕紀はいなく、過去にだけ存在した。その過去にはゆり江もいて、ぼくは彼女のことも本気で好きな時期があった。自分のはっきりとしない性格に嫌悪感をもったが、いまはそのぬかるみにまどろむことが心地良かった。
 彼女は引き戸を開け、青い洋服を着てでてきた。裕紀が着なかった洋服。
「こんなに似合うとは思ってもみなかった。ごめん、失礼だね」
「いいえ、嬉しいよ」

 彼女はぼくのそばに近付いてきた。ぼくは女性の髪のにおいを嗅ぎ、それは新鮮な行為ともなっていたが、むかし、ぼくらが抱擁した事実もよみがえってきた。ぼくは彼女の頬にさわり、その柔らかい唇に指でふれた。そして、ぼくはそれに自分の唇を押し付けた。

「代わりでもなんでもいい。今日のひろし君、あまりにも可哀想」
 こうして、ぼくは女性の身体におぼれた。誰かを忘れるために誰かの身体を利用した。生きている女性の身体がぼくには必要であり、ゆり江を愛したことは、雪代がいたために間違いでもありながら、結果としては間違いではなかったことを再確認した。
「何度も言うけど、わたしは裕紀さんをふった人間を許せなかった。その間抜けな人間の人生を駄目にしてしまおうと目論んだ。10代後半の少女が目論むという言葉をつかっても限度があるね。でも、同じように、裕紀さんと同じように、その間抜けを愛してしまった。彼は、それでも、それなりに応えてくれたけど、全部は手に入れられなかった。それが、いまは駄目にしてしまおうと誓ったはずなのに、立ち直ってもらえるように寝てしまった。また、次があるかもしれないかとも思っている。同情かしら。むかしの愛の再燃かしら」

「ずるいけど、君は別れないよ。素敵な旦那さんだと裕紀は言っていたから。裕紀が間違っているとは思いたくない」
「また、逃げる?」
「逃げないよ。裕紀はなぜか再婚するなら、ゆりちゃんと事ある毎に言い続けた。今日みたいな日が来ることを予感でもしていたのだろうか」
 ぼくは、ゆり江の肩を軽く噛む。その痕跡が身体に残る。ぼくは、裕紀にもうなにも残せない。それは、すべて終わったことなのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

償いの書(125)

2011年11月19日 | 償いの書
償いの書(125)

 あるひとの存在がなくなる。だが、物体としてはまだそこにあった。息をすることもなく病院のベッドで静かに寝ていた。いや実際には眠っていない。意識もなく横たわっていた。医師はここ数時間で何度かの手術を繰り返したが、その生命の根源的な糸はもどってくることはなかった。

 ぼくは、その事実を簡単に受け止めることができない。ある女性の人生はたったの36年間で潰えた。ぼくは、後半の10年をともに過ごし、その前の学生だった若い頃、2、3年をいっしょに楽しんだ。そして、別の魅力的な女性がいたために、その関係を意図的に終わらせ、今度は、意図せずに終わってしまった。悲しさよりも無力感があり、やり切れなさがあった。彼女は、もうぼくを見つめることはなく、ぼくは彼女を笑わすこともできない。表情の変化や感情の揺れを楽しむこともできない。

 叔母は、彼女のベッドの足元にひれ伏し、号泣していた。ハンカチが何枚あってもその涙は枯れることはなかった。ぼくは、ある面でそのように泣ける彼女をうらやましいと思った。ぼくのこころは凍りつき、冷え切ってしまっていた。もう、何事もぼくを暖めることはないだろうという恐れがあった。しかし、それは恐れでもなかった。ぼくは裕紀がいない世界を許すこともできず、そこから心地よさや快楽を取り入れることなどないだろうと決意した。それは裏切りであり、身勝手だと判断した。

「叔母さん、ごめんね。ぼくは、裕紀をこんな目に合わせてしまった」

「ひろしさんの所為じゃないのよ。ゆうちゃんは、このぐらいしか生きられないようになっていたのよ」
「そう言ってもらえるのは、ありがたいけど、やっぱり責任がある」
 不意にその部屋のドアが開き、思いがけない人間が入って来た。その人物は何度か見かけた裕紀の兄だった。
「近藤さん、お久しぶりです。こういう風には会いたくなかった。もしかしたらだけど、いずれ和解する可能性もあった」
「すいません。こんな状態になってしまって」
「正直な話、君と接するとうちの家族は、みな命を縮め、不幸になる。裕紀もその順番に追加された」
 その言葉は、ぼくのこころを打ちのめしてしまうほど、れっきとした事実でもあった。ある意味、裕紀の死はこの言葉で決定的なものになり、確定されたのだ。
「そんな言い方はないわよ」
「叔母さんも、ほんとうはそう思っている。言わないだけで」

「ゆうちゃんは彼と暮らせて、とても、幸せだった。わたしは、この目で見たけど、あなたたちは知ろうともしなかった」
「知る必要もない」もしかしたら、この兄は自分のもろいこころを隠すためにわざと冷淡にしているのだろうかという冷静な判断を、ぼくはしている。しかし、ぼくの傷が徐々にひろがっていくのも実感できた。血のような形状の傷がぼくから生まれる。それは足元にしたたり落ち、この部屋の狭さを越え、廊下にも出てしまうようだった。

「すいません。紛れもない事実です」
「裕紀のことは、ぼくらが引き受ける。葬式もぼくがして、ぼくらの墓に埋める。君に口出しをさせない。それでいいだろう?」
「それは、ないんじゃない。ひろしさんは夫なのよ」
「叔母さん、いいんです。そうして下さい。ぼくは、なんらかのことで裕紀の命を縮めさせたのかもしれない。お任せします」

 ぼくは、そこで卑怯な人間になった。ぼくは、裕紀と無関係であるような形を取り、これ以上、関わることを辞めた。それは、18歳のときに裕紀を捨てたときと寸分変わらない自分の卑劣さの積み重ねがあった。だが、許されるとすれば、裕紀を弔ったり、葬ったりする行為は、それほど裕紀を愛していない人間がするべきなのだ。誰よりも愛していた自分には逆にその資格もなく、またそれに耐えられなかっただろう。

 ぼくは、あきらめた気持ちで頭を幾分下げ、その部屋をあとにする。ラグビーの決勝でぼくらのチームが負けたことをぼくは自分に起こった不幸として最前列に置いていた。だが、このときのぼくは、それ以上のものがあることを痛烈に知った。

 ぼくは、そのあとどの道をどう通って帰ったのだろう。裕紀の兄の声がぼくに響き、叔母の悲痛な鳴き声が耳の奥でこだました。すれ違う男女の表情を見ることもできず、裕紀との10年の思い出が細切れに思い出された。それは連続した映像になり、いつの間にかストップする。観終わってしまった映画のように、新しいストーリーはもう生み出されないのだ。もう一度、同じ映画をなぞるしかぼくらの関連性をつなぐ方法はない。

 気付くと、ぼくは自宅のソファに座っていた。電気もつけずにいたが暗くなっていたことも忘れていた。裕紀のいない未来の時間などぼくには毛頭なく、過去の時間のしがらみの中だけに生きようとしていた。ソファの横のライトをつけると、いつか貰った壁の絵が照らされた。それは裕紀の少女時代に不思議と似ていた。ぼくは、生きた裕紀をふたたび見ることができなかった。その絵を見ながら、ぼくはあらためてその悲しさの深い入口に立っていることを怖がり、同時に打ちのめされていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Untrue Love(2)

2011年11月15日 | Untrue Love
Untrue Love(2)

「咲子って子、覚えているか? 田舎に帰った時にいた」親父がテレビを見て、若いタレントの顔を見て思い出したのか、そう言った。ぼくは実家に寄っている。ぼくは漠然と名前を思い出し、その逆にしっかりと映像としての顔を思い浮かべた。ぼくは当時、その咲子という女の子と数語だけ話を交わしたはずだ。「この日を忘れてしまうのだろうか?」といような大人びたセリフを彼女は吐いた。その反対に、あどけない表情だったことも思い出す。ぼくは、予言通りそのときのことを忘れてしまっていたと思っていたが、父に質問されれば簡単に思い浮かべられるほど、あの日々のことは脳裏に鮮明にのこっていた。

「また、急にどうしたの?」ぼくも同じ若いタレントをテレビで見ていた。箱の中にいる女性。同じようにぼくの頭の思い出の箱の中に住んでいる少女。

「東京の大学に受かった。受験のときにはオレも会った。会社のそばで飯をおごった。きれいな女の子に変身していたぞ」
「変身ね。その変化じゃ見ても分からないかな」
「分かるだろう。お前も、もっと勉強しろよ、遊んでばっかりいないで」
「それは、話の論題がすり替っているよ」
「田舎の弟が、心配なのかお前を頼るようにお願いしてくれとオレにも言ってきた」その弟の妻の親類が咲子だった。
「それで?」
「任せとけと答えておいたよ」
「ぼくの意見は?」
「紳士たるもの、女性を助けるもんだよ」

「ご飯、たまにはうちで食べていくんでしょう。紳士の息子さん。先日、この話をわたしもしたはずだよ。あんたは頷いていた」母が料理を盛り付けた皿を両手に、テーブルの前に持ってきた。

「そうかな。食べていくよ。あのときの話と一緒だったのか。でも、親父が面倒を押し付けたけどね。いま、さっき」
「だからこの前も頼んだじゃない。上の空ね。まじめな女の子もいるんだからね。あんたの周りにいるような浮ついた女性ばかりじゃないのよ。気をつけてね」

 それは3月が終わろうとするある夜だった。春が終わるようなぬるい空気が外にはただよっていた。ぼくは大学の2年目を迎える時期だ。その咲子という女性は、4月から東京で暮らして大学に通うらしい。世間知らずを恐れ、ぼくの実家のそばのアパートに住むことになった。面倒をみるという行為が好きな母は、単純にそのことを喜んでいた。一人っ子の自分が家の外に出ることになって落胆したが、その空白は1年で解消されることになる。

「バイトはどう? 何か買ってくれないの? デパートでいっぱいきれいなもの見てるんでしょう」
「いつも言うけど、裏方で荷物を担いでいるだけだよ」
「きれいな店員さんに色目を使って」
「お前、そうなのか?」父は、驚いた表情をする。
「これでも、まじめに働いてるよ。それに、色目を使うなんて言葉づかい、いまはもう誰もしないよ」
「言葉は古くなっても、やってることは同じ」

「たまに帰って来てるんだから、静かにめしを食べさせてくれよ」かといって、自分だけの食事より食欲がすすんでいるのは否めなかった。ぼくは、大学に入ってからバイトで、デパートで働いていた。重い梱包された荷物を運び、閉店後、雑用をして回った。汗をかき、その代価としてお金を手に入れた。食堂で安い食事をして、何人かと親しくなる。それはバイト仲間であったり、女子社員だったりもした。彼女らの外見はどれも洗練されていて、いま、東京に出てきたばかりの女性と自然と比較することになった。しかし、ぼくが持っている情報は古く、その比較が正しいものか分からないが、ただ相手にもならないぐらいに勝負は決定的なものだった。だから、父と母から同じ要件を請け負ったが、実際に自分の時間を使って、知り合いの女性に便宜をすることなど考えてもいなかった。それは、父や母がするべきことであり、ぼくの時間が無駄に消耗されることは許されなかった。

 ぼくは満腹になり、そのまま横になった。すると、バイトの疲れが出たのか少しだけ居眠りをしてしまった。熟睡していないため、両親の声はところどころで聞こえた。息子である自分を甘やかしたことを彼らは自己採点して低い点数をつけ、ひとの人生の世話を引き受けることに必要以上に力んでいた。

「もう起きた方がいいんじゃないのか。風邪ひくぞ」父の低い声がきこえた。
 ぼくは目を開け、顔を洗って、上着を羽おった。玄関で靴を履き、母のおくる声をきいた。外に出ると先ほどまでの暖かな空気は消え、また冬が戻ってきたような冷気がぼくの頬を覆った。ぼくは、突然に小さなくしゃみをして、首もとの布を両手で引き締めた。

 歩きながら咲子という子が住むことになるアパートの前を通った。こんな近さだったら、両親の家に間借りした方が良さそうだったが、それでは田舎のおじの面子が立たないのだろう。それに、若い女性にとっては自由も少なからず奪われるのだろう。ぼくは通り過ぎ、駅まで歩く。駅ビルも閉まり、無雑作に段ボールが回収されるのを待って置かれていた。ぼくは、それを見て自分のバイトのことを思い出していた。今日は休みだったが、明日もぼくは無心に重い荷物を運ぶ。その空の段ボールを見ながら、ぼくは入っていた中身の重さを空想する。靴ならこれぐらい、セーターならこれぐらいというように。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

償いの書(124)

2011年11月13日 | 償いの書
償いの書(124)

 その日は、普通にはじまる。昨日と変わらない、多分、明日もこのような平凡な朝があるのだろうという予感のような日。記憶にも残らないような日常の営みをつづける朝。

 ひげを剃り、首もとにはネクタイをしめ、この柄や色だけは、昨日と違う。愛用の角に傷みがあるカバンを持ち、裕紀に見送られる。「今日の夕ご飯、なにが食べたい?」と訊かれ、なにか答えたような気がするも、もう覚えていない。彼女は、ときには、質問や注文に答えないぼくにちょっと不服そうな顔をしたが、キッチンの横にレシピの本が数冊あり、またそれを開くのだろうというぼくにとっての安心感もあった。

 午前中の初めは電話をして過ごし、10時過ぎには外出した。名刺を渡し、名刺をもらう。裏にその際の情報をメモした。ぼくは、自分の人生でいったい、何人と会い、話を交わし、何人を覚えているのだろう、という数値の不確かさを考え、そこを後にする。そして、自分にとって、掛け替えのない人間は何人ぐらいなのだとも考えた。

 昼ごはんは、以前、仕事で関係のあったひとと待ち合わせて、外で食べた。彼は、裕紀のことも知っていた。それで、
「奥さん、大病したんだろう? 大変だったな」と心配そうな表情で言ってくれた。
「もう過去のことだし、忘れる段階に入ってきているよ」と気楽にぼくは答えた。そうなのだ、あれは過去の出来事として封印されるべきものなのだ。

「なら、いいよ。今度、時間ができたら一緒に会おう。うちのチビも大きくなった。裕紀ちゃんにとてもなついていた」
「あいつになつかない子どもって、いないみたいです」その彼女には子どもができなかった。その事実をぼくは可哀想なことであると認識し、不憫にも思っている。

 彼と別れ、職場にもどった。コーヒーを飲み、怠惰な時間を過ごす。次回の会議の資料をとなりの女性に頼み、その出来栄えを点検する。それは、直ぐに合格点だと分かったが、ぼくは数回見直した。

 それから、1週間でたまった資料を整理して先程もらった名刺を、名刺をストックするためのバインダーに収めた。見当たるその中の何人かの顔はもう思い出せず、何人かはまた連絡をする必要があることを知る。その何枚かを取り出し、今週中に連絡をすることを決めた。

 もう夕方になりかけていたのだろうか、ぼくは、ちらっと裕紀のことを思い出し、今日の夕飯に何を告げたかふたたび考えたが、何かの用で直ぐに忘れてしまった。しかし、ある電話でぼくは、また裕紀のことを思い出すことになった。
 携帯電話が鳴る。それは、裕紀の叔母からだった。
「どうか、されました?」
「きょう、いまさっき、家に遊びに行ったら、裕紀ちゃんが倒れて、救急車で病院に向かった」
「叔母さんは?」
「いま、一緒にいる。ひろしさんも来れる?」
「直ぐに、行きます。裕紀は、大丈夫ですか?」
「洗面所で血を吐いた」

 それは、大丈夫かという質問の答えではなかった。しかし、その言葉から想像できる映像は、重大なものであった。ぼくは、自分の机の前に戻り、となりの女性に「妻が倒れたので、病院に行く」と告げ、同じ内容のメモを書き、不在の上司の机の上に置いた。

 ぼくは、タクシーをつかまえ、数ヶ月前と同じようにその病院に向かった。その建物の色や、夕日が反射する窓や、廊下の薄暗さや、その匂いを思い出していた。また、裕紀があそこにいる。ぼくに絶望などなかったのだが、このときだけは、絶望という言葉の深い真実の意味を知った。

 あっという間にそこに着き、ぼくは料金を払い、入り口に向かった。直ぐに叔母の顔を見つけ、ぼくは裕紀の容態をたずねる。
「緊急で治療をしている。ゆうちゃん、大丈夫かしら?」

 と、ぼくが持ってもいない情報を彼女は訊いた。ぼくは、ただ自分に言い聞かせるために「大丈夫でしょう」と小さな声で呟いた。本当に大丈夫なのだろうか? 普通の人間は救急車などで運ばれない。まだ、彼女は30代の半ばなのだ。ぼくと永続する未来があるはずなのだ。ぼくは不安で、またこのような仕打ちをする世界に怒りをもった。それだが、誰にあたるわけにもいかず、また逆に叔母の気持ちをなだめる必要もあった。ぼくは缶ジュースを2つ買い、ひとつを叔母に渡した。ぼくは、その自動販売機を蹴飛ばしたくて仕方がなかった。あたるに相応しい形状をそれはもっていた。だが、ぼくは、それも出来ず、叔母の横にすわった。彼女は、その缶が命の象徴でもあるように、ぎゅっと力強く握った。ぼくは、また外に出て、大きな声でなにかを叫んだ。もしかしたら、音としてそれは生まれなかったのかもしれないが、ぼくの耳には大音量で聞こえていた。

 何時間も経ったのだろう。そとは夕暮れをとっくに過ぎ、夜の暗さに覆われていた。治療を終えた通院患者もいなくなり、入院のお見舞いにきていたひとびとも消えた。病院は夜の病院らしい雰囲気を見せ始めた。どこか、陰気で湿っぽかった。

 それから、ぼくらは医師の説明を受け、今日は一先ず安静の状態になったので、帰ってもらって結構ですと告げられた。また、明日以降、きちんと病状を説明するとも言われた。叔母は泣き、ぼくはズボンの布をきつく掴んでいた自分に気付いた。そこはしわになり、裕紀と歩きながらクリーニング屋に洋服を引き取りにいった何でもない時間を、ぼくは見ながら思い出していた。また、あのような普通の日々が戻るのだろうか?

 叔母をタクシーに乗せて見送った。ぼくは何か食べなければと思い、病院のそばの定食屋にはいったが、頼んだものはほとんどのどを通らなかった。

 家に着くと、流し台や洗面所に裕紀が吐いたらしい血が消えないまま付着していた。彼女にどんな痛みがあり、またどんな戦いがあったのか、それは証明していた。ぼくは、スポンジでそこを洗い、疲れてソファに座り込む。普通の一日としてはじまった今日は、普通ではなくなってしまった。それが悲しく、ぼくは涙を流した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

償いの書(123)

2011年11月12日 | 償いの書
償いの書(123)

「人間のピークって、いったいいつ頃なのだろうね?」裕紀はCDのジャケットを眺めている。
「どうしたの、急に?」スピーカーからは、フルートのふくよかな音色が流れている。
「シューベルトっていうひとは、31才で亡くなったんだって」
「長生きのひともいるんだろう?」

「まあ、ロック・シンガーじゃないからね。ひろし君は自分のピークって、いつだと思う?」
 ぼくは、少し思案する。自分がエネルギーを最大限に向けたのは、やはり、ラグビーのキャプテンを任されていた時代だった。自分の目標を果たさなければならなかったし、そのために全身で打ち込んだ。それを、答えようか悩んでいる。あんな前が自分のピークなのか?

「悲しいけど、ラグビー時代かな」
「輝いていたもんね。女の子からも人気があったし」
「裕紀は?」
「もういまでもないけど、ひろし君がラグビーに向けた情熱ほど、わたしは何かに打ち込んでこなかったかもしれない。すこし、心残り」
「これから、探せばいいじゃん」
「そうだね。プッチーニ」
「なにが? どうしたの?」

「長生きしたの。最後まで作曲していたって。未完のものが残るって、どういう気持ちかな」
「それは、最後まで自分の力量だけで成し遂げたいだろうね」
「山下君は、成し遂げたかな?」それは、ぼくの後輩でもあり、義理の弟でもあった。彼は、それを職業にして、いまは母校で教えている。コーチとしても優秀らしく、今度また全国大会に出ることが決まった。
「それは、思い通りだろうね」
「2人、子どももいる」
「可愛い子たちだよ」
「ひろし君を応援していた女の子たちも、もうお母さんなのよね」

「時期的にいえばそうだろうね。ぼくのことなんか、既にとっくのむかしに忘れてるよ。おむつを洗ってる、いまごろ」
 彼女は怪訝な顔をする。「もう、今は捨てるだけ」

 スピーカーから流れている音楽は終わった。変わりに鳥の声が聞こえた。彼らは、音楽を聴いて、それに合わせていたようだった。シューベルトの音楽と似ていた。
「昼ごはん、どっか外で食べる?」
「そうしましょうか。そう叔母さん退院したんだって、昨日」
「良かったじゃん。おめでとう」

 ぼくらは陽光のしたに出る。ぼくは自分の生命体のピークについていまだに考えていた。蝉なんかにはそんな思想はなく、ただ自分の命を駆け抜けるだけなのだろう。ぼくらは、60年や70年を生きる。そのために財産を管理し、老後の心配もする。ある種の保険を掛け、家を手に入れ、なんらかのメンテナンスをする。裕紀は10年前とたしかに違う。ぼくも変化した。だが、愛情は錆びることもなく、輝きを残していた。それは手を掛けてきたからなのか、それとも、自然とぼくらはしっくりといく関係だったのか、その辺りは分からなかった。

「考え事?」
「うん、ぼくは少なくとも、あと25年ぐらいは働くし、やることは変わるかもしれないけど、うまくできるだろうかとか、でも、家に帰れば、裕紀がいるんだしと思えば大丈夫だよ」
「凄い信頼だね」彼女は単純に笑った。すると、横にある公園から野球のボールがぼくらの前に転がってきた。裕紀はそれを拾い、ぼくに、「投げて」と言って、手渡した。それで、ぼくは樹木の向こうにいるグローブ片手の少年にそれを投げ返した。受け取った彼は、帽子を脱ぎ、頭をちいさく下げた。「わたし、運動するの苦手だった。笑われてないか、心配だった」

「違う長所もたくさんあるよ」
「全部言って!」
「直ぐ終わっちゃっても?」彼女は、ぼくの腕を叩く。それから、よく利用するレストランに入った。彼女はグラタン。ぼくはビールに魚のムニエルを注文した。だが、裕紀の気分が変わり、頼んだ反対のものを食べた。ぼくは焦げたチーズの旨さを楽しみ、彼女は魚をほぐした。

 その後、何の計画もなかったが、電車に乗り、裕紀の叔母の家に向かった。そこは静かな場所だった。歩いている人たちも、高級そうな服を着て、賢そうな犬を散歩させているひともいた。裕紀はそのうちの一匹の犬を撫で、連れているひとと話した。

 ぼくは、こうした普通であり過ぎる休日を愛していた。ドラマチックでもなく、エキセントリックでもなかった。日々の疲れを修復するような時間だった。そこには、裕紀が必ずいて、彼女の叔母の家の優雅な家具もその背景のひとつになる。その前に階段があり、そこに着くと、裕紀は決まっているかのようにぼくの手を握った。叔母はいつかそれを窓越しに見て、「甘えん坊」と裕紀を評した。彼女の夫はむかしのタイプの人間なのか、人前で絶対そんな振る舞いはさせなかったらしい。裕紀は見咎められたことに頓着せずに、それ以降も必ずそうした。ぼくも、いまではその階段の前に来ると、自然と手を差し伸べるようになってしまった。条件反射だ。その手の表情で、彼女の感情の起伏を知り、楽しさや悲しみを知った。この日は、落ち着いた楽しさというようなものがあり、それとは別に、叔母の体調の心配もあるのか、握った指先にちょっと力が込められていたような気もした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

償いの書(122)

2011年11月06日 | 償いの書
償いの書(122)

 昨日のつづきを繰り返して、今日がまたやってくる。いままで、それを怠惰の象徴のように考えていたが、ぼくは逆に健全な生活としてそれをいまは受け止めていた。

 もう、病院に見舞いにいくこともなく、ベッドの横で付き添うこともなかった。しかし、いままでの心労がたたったのか、裕紀の叔母が入院することになった。驚きとともに多少の罪悪感があった。優しい叔母は裕紀のためにこころも身体も疲労していったのだろう。しかし、そうする対象もない人生も、もしかしたら淋しいものかもしれないと、ぼくは思っていた。その疲れは、ぼくにも確かにあったのだ。

 ぼくは、勝手に見舞いに行くこともできなかった。裕紀の家族はあいかわらず、ぼくのことを良く思っていないので鉢合わせになる可能性を避けた。それで、あらかじめ決められた日時にぼくは裕紀といっしょに病院に行った。

 そのような曖昧な立場にいる自分だが、叔母は誰が来るより、ぼくが来たことを喜んでくれ、同時に憐れんでいた。
「裕紀ちゃんのことで、あんなに心配かけたのに、今度はわたしのことでも心配させて」
「なに言ってるんですか。裕紀の面倒をあんなに見てくれたのに・・・」
「そうよ、叔母さんもよく休んで。わたしだって、こんなに元気になれたんだから」

 裕紀は晴れ着を着せられた子どものように両手を拡げた。それを見て、最愛のものに接するような叔母の慈しむ目があった。
 ぼくらは長居をすると、かえって疲れさせてしまうと心配して、そこそこに病院をあとにした。そこは裕紀が入院していた場所でもあり、ぼくはあの当時のことを思い出さないわけにはいかなかった。ただ、周りの景色は変わっていて、この現在のときは秋の気配と匂いが濃厚に感じられていた。裕紀も秋の色の洋服を着ていた。

「ごめんね。ひとのために心配するって、とても大変なことなんだね。ひろし君は会社にも行ってたのに」
「だが、いまはこうして銀杏の下を裕紀と歩けている」
「え、ひろし君、この匂い好きだったの?」
「好きでもないけど、ラグビーの秋の大会で、勝っても、負けてもこの匂いを嗅いだ。勝利者のときは誇らしい気持ちで、敗者のときはみじめな気持ちでね。思い出とつながっている」
「いまは?」
「いまは勝利者だよ。明日の新聞の見出しには、近藤裕紀、奇跡の退院とか書かれているはず」
「大げさ」
「まあ、大げさだね」ぼくは両手をひろげ、その匂いを嗅ぐように深呼吸した。それから、むせった。

「あ、お兄ちゃん」裕紀は突然、小さな音だが金属的な声を発した。驚くひとに共通した音色。ぼくは、横にいる裕紀を見て、前方にまた目を向けた。病院のもうひとつある入り口に向かって曲がりかけているひとがいた。ぼくは、小さな会釈をそのシルエットにした。彼も同じように、どうしても挨拶を介在しなければならないひとと間違って会ってしまったように、同じような小さ過ぎる会釈をした。

「彼もお見舞い」
「そうでしょう。根は優しいひと。いつか、仲良くなれればいいのに、ふたりとも」
「彼の気持ちも分かる」
「分かってあげなくてもいいよ。ひろし君は、ライバルの島本さんを分かっていなくても認めていた。でも、仲良くなれなかった。ある女性がいたために。それと、同じ。私がいる限り、ふたりは仲良くなれないかもしれない。でも、いつかなるかもしれない」

「そうだね、そう考えておく」ぼくは冷静にこたえたが、内面はひどく狼狽して、かつ動揺していた。このような場所ではなく、叔母の前だったら、どのように振舞ったか考えられなかった。ぼくは捨て身ですべてのことを謝るのか。その反対に、あなたは間違っていると行いのひとつひとつを糾弾したのだろうか。どちらにしろ、裕紀の悲しむ顔だけは見たくなかった。それが最善の願いだった。叔母も同じなのだろう。

「笠原さんが見舞いに来たとき、いっしょに帰った。思いがけなく彼女の前で泣いてしまった。誰の前でもしなかったのに。いまでもからかわれているんだ」話の方向を転換させるために、ぼくはそのような過去の事実を告げた。
「彼女なりの優しさでしょう。でも、泣いて浄化できるなにかがある」
「そうだけどね、あまり見られたくもなかった」
「彼女が見なかったら、ひろし君の優しさの一部は記録されなかった。わたしのために無心に泣いてくれた男性。その映像って悪くないと思うけど」

 彼女はぼくの指に自分の指を絡ませた。彼女の短いコートの質感もこちらに伝わってきた。ぼくは銀杏の匂いのためか、むかしに戻った錯覚を抱いている。ぼくはラグビーの試合に勝ち、応援してくれた裕紀のことをスタンドの外で探した。彼女は顔を紅潮させ、すこし嗄らせた声で熱心にぼくやチームの頑張りを語ってくれた。その言葉がぼくの誇らしい気持ちを増長させ、次回も同じように言ってもらいたい気持ちを作った。

 しかし、あれから20年近くも経っていた。彼女は、あんなにも感激することはないのかもしれないし、ぼくも同様に明日のこともなく無心に熱中するという作業を減らしてきたのかもしれない。だが、そうした思い出だけはぼくから去らずにいつまでもあった。裕紀のなかにもあの熱情は眠りつつけていることなのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

償いの書(121)

2011年11月03日 | 償いの書
償いの書(121)

「ずっと、ひろし君に秘密にしていたことがある。黙っているのが、もういやになった」
「どんなこと?」ぼくも、裕紀にはなるべくなら隠しごとも少なく暮らしていきたいと思っていたが、すべてを開けっ広げにできて来た訳でもない。話せないこともあった
「わたしは、アメリカにいた。ゆり江ちゃんとたまに手紙のやり取りをしていた。ひろし君が、どんな大学生活を送っているか、教えてもらいたかった」

「それで?」
「教えてもらった」
「それが、秘密?」
「そう」
「それだけ?」
「それだけ。嫌いになる?」

「全然。ゆり江ちゃんとは友だちだった。いや、妹の友だち」
「ゆり江ちゃんに、そんな若い子にそんな役目をしてもらうべきじゃない。もっと素直な時代を与えるべきだった」
「いまでも、素直な子じゃない」裕紀は、ぼくとゆり江の本質的な確信を知らないのだろう。
「そうだけど、無邪気な少女のある一日を偵察みたいなことをさせたことについて、いまでも罪悪感をもっている」
「気にしすぎだよ」

「ひろし君は、わたしにはある? もし、今日が最後の日だったら胸の奥のものを告白してくれる?」
「基本的にはないけど、最後の日だったら、2、3話して置かなければならないことを見つけておく」
 だが、なにがあってもぼくは話さないだろう。それが愛情だった。ぼくと、ゆり江は一時的だが、本気で愛し合った。ぼくらには、拘束されているものが多く、それを振り切る勇気もなかった。努力もしなかった。だが、その結果の積み重ねが今日につながっていることを、大人になったぼくは知っていた。

「ぼくの大学時代の報告は? どうだったリサーチの雇い主として」どうしても、話をそらす必要があった。
「あんなに好きだったラグビーをやめてしまった。その打ち込んでいた気持ちを、どこに割り当てるのだろう、彼は、と心配した。それで、休日にはサッカーを子どもたちに教えるお兄さんになった。ゆり江ちゃんの弟さんもそこにいた。だが、運動神経が発達していたのに、それは優秀すぎる彼にとって、もったいない気もした」

「その当時、ラグビーを辞めたことをなんども訊かれた。その度に、ぼくは過去の人間になったような気がして、厭だった。思い出したよ」
「素敵な彼女がいて、建築を学んでいる。知りえたのは、でも、それだけ」
「裕紀にもボーイ・フレンドがいたんだろう」
「いたよ。でも、あまり訊かないね」
「嫉妬に狂える鬼にでもなった方がいい?」
「別に。でも、自分に自信があるんでしょう? それで訊かない」

「このぼくが? 東京のコンビニで迷子のように心細かったぼくを見つけたくせに」裕紀は、笑った。彼女にとって、秘密というのは、そういう無邪気なものらしい。誰も傷つかなければ、憎しみもこの世に持ち込まない類いのものだった。

 しかし、彼女の放ったどんな言葉も質問も、ぼくは記憶していこうと思っていた。そして、なるべくなら誠実にすべてを答え、嘘やごまかしが入り込まないようにしたかった。それは、裕紀に対してだけではないが、とくに永続的な関係を保つ彼女にとっては大切で必要でもあった。

 彼女は飲み終わったコーヒーのカップを洗った。それを横のステンレスのかごに裏返しにして置いた。ぼくは、空想する。ゆり江は手紙を書いている。彼女の小さな部屋。ぼくは、なんどかそこを訪れる。彼女がぼくの態度を文字にすることによって、それは普遍的なものに変わり、海を越え、向かいの大陸にいるある女性が封を開け、その文字を読む。しかし、それがぼくの何を表し、どれほどの実態の証明になるのかは分からなかった。その文字をある意味で信じるしかなく、またある意味では目の前にいないものを信じることなどできないのだという圧倒的な事実を知る。そして、会いたいとか思ったり、憎もうという決意が芽生えるかもしれなかった。ぼくは、ずっと裕紀に憎まれているという恐れのもと暮らしてきた。そうされることを当人がしたわけでもあるし、また正当なことでもあった。裕紀にとって。だが、ゆり江は教えてくれなかった。裕紀は、ぼくのことを知りたいと思っていることや、憎しみなど微塵ももっていないことなどを。それを、教えるには自分に対しての愛情が減ることにつながるのかもしれない。ぼくは、雪代と交際して、それで二番目の立場にゆり江を置いていた。敢えて、三番目になる必要などもなかった。ぼくは、彼女の幼いこころを苦しめ、これが秘密であるということも覚った。いつか、口に出すのか? 決して、そのようなことはしないのだろう。

「その時の、手紙は?」テーブルの前に戻ってきた裕紀にたずねた。
「日本に戻ってくるときに処分した。そういう行為も好きになれなかったし、日本にいれば、自分の目でその少年の成長を確かめられるかもしれないという単純な信念のもと」
「悪くない? その成長は」
「どうなんでしょう」彼女は笑った。「今度、ゆり江ちゃんに会ったときにでも訊いてみれば。第三者の判断が正確なものかもしれない。いつでも」

「ぼくについて、そんなに興味ももってないよ。どうでもいい他人」
「なおさら、客観的」今度は、まじめな顔になった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする